部屋に戻り、ベッドに転がっていたイルカを抱っこしながらスマホを確認する。

 すると、ラインの通知がきていることに気がついた。

「京ちゃんかな? 誰かバレーの子と代われたって報告とか?」

 緑のアイコンをタップすると、そこには思いがけない人物からのメッセージがあった。

「さ、佐々木先輩っ?」

 あ、違う、楓先輩。いまだに呼び慣れない。

 それにしても、まさか今日の今日で連絡がくるなんて。

【日野に確認したら、めちゃくちゃ喜んでた】
【テスト週間入る初日から四人で一緒に勉強する?】

 絵文字もスタンプもない、シンプルなメッセージ。それが楓先輩らしいような気がして、脳内で勝手に先輩の声で再生される。

 どうしよう、本当に一緒に勉強するんだ。どこで? どうやって? 先輩は理系だし、数学を教えてもらったりするのかな。

 あぁ、もう。舞い上がってる場合じゃない。私も早く京ちゃんに確認しなくちゃ。

 急いで京ちゃんに電話して今日あったことを説明すると、もちろんオッケーの返事がもらえた。

『ってか、菜々ってば! 私が先に戻った後、佐々木先輩と連絡先交換までしたの?』
「うん、なんか、流れで……」
『凄すぎるよ! ねぇ、やっぱり菜々は佐々木先輩が好きなんじゃないの? 今日だって、めちゃくちゃ挙動不審だったし。声かけられてドキドキしちゃったんでしょ?』
「え? 違うよ、そうじゃなくて……」

 ドキドキしていたのはたしかだけど、実は入学前にあまりよくない出会い方をしていたのがバレたんじゃないかと緊張していたのだ。

 それだけじゃなくて、図書室でじっと見ていたのに気付かれていたのではと思って挙動不審だったんだけど、どちらも京ちゃんに話していないので説明しようがない。

 別に隠したいわけじゃないけど、それを説明すると、どうしてそんな事故に巻き込まれそうになったのか、どうして毎日図書室にいるのかを話さなくてはならなくなる。

 父親の再婚を不満に思っていて、家にいるのが息苦しいだなんて、友達になって半年の相手からそんな重たい話をされれば、きっと困らせてしまうに違いない。父子家庭だと話すと、みんなどう返事をしていいのかわからないという顔をするのは、もう何度も経験済みだ。

 それに大好きな京ちゃんだけど、父親の再婚の話をして、仮に「お父さんが幸せならいいんじゃない?」なんて明るく言われてしまったらと思うと怖くて話せない。

 悲劇のヒロインぶる気はないけど、そんな簡単なことじゃない。きっと私の気持ちは伝わらない。自分ですら、どうしたらいいのかわからないんだから。

『……私には、言いたくない?』
「えっ?」

 まさか私の心の声が電話越しに伝わっているはずはないのに、京ちゃんの硬い声にドキッとした。

『菜々はなんていうか、秘密主義だよね。私は日野先輩を好きになった時、いちばんに菜々に話した。初恋だったし、どうしたらいいかわかんなくて、でも菜々なら笑わないで聞いてくれるって思ったから』
「京ちゃん……」
『でも、菜々は違うの? それとも、本当に佐々木先輩のことを好きっていうのは私の勘違い?』

 あ、そっちのことか、とホッとしかけて、慌てて京ちゃんに伝えようと言葉を選ぶ。

 噓はつきたくないけれど、だからって全部を正直に打ち明けるのは難しい。私を信頼してなんでも話してくれる京ちゃんに、どうしたらうまく伝わるだろう。

「あのね、たしかに楓先輩のこと気になってはいるけど、まだ恋愛っていう意味じゃなくて。だって私は京ちゃんみたいに美人でもスタイルがいいわけでもないし、私なんかが楓先輩を好きになっても、その、叶わないっていうか……」

 先輩を好きじゃない理由を並べてみる。声に出すと、なんて卑屈なんだろう。好きになっても報われないから、好きにならないようにしているなんて。

 だけど、実際に恋をするのに恐怖を感じているのも本心だ。それは楓先輩に対してだけじゃなく、恋愛そのものに対する不信感みたいなもの。

 両親はあれだけ仲がよかったのに、お母さんが死んで七年経った今、お父さんはもう別の人と結婚している。

 嫌いになったわけじゃなく、今も毎日お母さんの仏壇に手を合わせながら、そのあとすぐにあの人の作った朝ごはんを笑顔で食べている。

 私は耳にあてたスマホをぎゅっと握りしめ、机に置いてある家族写真に視線を向けた。

 どれだけ好きになっても、もしも恋が叶ったとしても、永遠に続く想いなんてないと、私はどこかで諦めているのかもしれない。

 それなら遠くでこっそり眺めているだけでいい。そうすれば、誰も傷つかない。

 気持ちが変わってしまったのを責めたり、永遠を信じて裏切られたりしない。

 だけど、そんな私の拗らせた思考回路を、初恋に頬を染める京ちゃんに話せるわけがない。

 そんな風に思っている一方で、京ちゃんの想いが実ればいいと願っているのも本音なんだから。

「あの、だからね、この前言ったみたいに、推しは遠くで――――」
「もういい」

 微妙な空気になりそうなのを察して、なんとか冗談にして流そうとした私の言葉を、京ちゃんの鋭い声音が遮った。

「話したくないなら、もういい」
「あっ」
「ごめん、今日は切るね」

 ポロン、と通話終了の情けない音が鳴る。

 どうしよう……。私がうまく説明できなかったせいで、京ちゃんを怒らせてしまった。

 日野先輩を好きになったと聞いた時、初恋でどうしたらいいかわからないと耳まで真っ赤に染めて相談してきた京ちゃんを見て、応援したい気持ちでいっぱいになった。

 私に話してくれたのも嬉しかったし、日野先輩が移動教室で一階の通路を通るたびに教室の窓から見下ろして、今日もカッコいいとはしゃぐのを可愛いと思った。

 京ちゃんはそういう感情を共有したいと思ってくれたのかもしれないのに、私はただ卑屈な言葉を並べて、彼女を拒絶したみたいになってしまった。

 違うのに。そうじゃないのに。

 バカだ、私。せっかく楓先輩がふたりの恋を応援するのを手伝ってくれようとしているのに、私がそれを壊してどうするの。

 京ちゃんとの通話が終わったスマホの画面を、楓先輩とのトーク画面に切り替える。どう返事しようか迷って、正直に話すことにした。

【京ちゃんを怒らせてしまったので、まだ日程の確認ができていません】
【ごめんなさい、もう少し待ってください】

 情けなさに涙が出そうになる。けれどあまり深刻な雰囲気にならないように、汗の絵文字と、パンダが可愛らしくごめんねのポーズをしているスタンプも一緒に送った。

 メッセージはすぐに既読がついた。もしかしたら呆れられたかも。そう考えるとどんどん気持ちが沈んでいく。

 すると、手の中のスマホが着信を知らせる。反射で通話をタップすると、「もしもし、菜々?」と低くて甘い、芯のある声が耳に届いた。

「楓、先輩……?」
『今、家?』

 唐突な電話と質問に、ドキドキする間もないまま答える。

「はい」
『家、どの辺?』
「えっ? えっと」

 私が最寄り駅を伝え、近くに親水公園があると告げると、先輩は納得したように『あぁ、あの辺か。今から行く』と言った。

「えぇっ?」
『公園ついたら連絡する。たぶん十五分くらいで行けると思う。出てこれるか?』

 わけもわからないまま約束をして電話を切り、十五分後。

 楓先輩は本当に私の家の近くの公園までやってきた。

 白いTシャツにデニムというシンプルな格好がモデルのように様になっていて、初めて見る私服姿にドキドキする。鮮やかなブルーのクロスバイクは驚くほどサドルが高くて、先輩って身長の半分は脚なのかもと、どうでもいいことを考えた。

「悪い、待たせた?」
「いえ、全然。あの、どうして……」

 長い脚を回して自転車から下りる先輩に問いかける。

 電話をくれたのはどうして? わざわざ家の近くまで来てくれたのは、どうして?

「俺のせいかなって、気になって」
「え?」
「テスト勉強、一緒にっていうの。もしかして余計なことするなって怒られた?」

 楓先輩は眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。

「それなら、俺が言い出したことだって言いに行く。俺が悪いんだし、ふたりがケンカすることないだろ」
「ちっ違う! 違います!」

 楓先輩の言いたいことを理解した瞬間、私は首がちぎれるほど横に振った。

 先輩はなにも悪くない。むしろ、ふたりの恋を応援する手助けをしようと提案してくれたんだから感謝しかない。テスト勉強を一緒にする話をした時の京ちゃんの声は、間違いなく嬉しそうだった。

「そうじゃなくて……」
「うん」

 口下手な私が話し出すのを、先輩は辛抱強く待ってくれた。

「……私がうまく話せなかったから、京ちゃんを怒らせちゃったんです」
「初めて菜々と話した俺でも、菜々が友達思いな子だって伝わったけど。怒らせる要素なんてある?」

 慰めているというより、本気でそう思って言っているんだと感じた。

「あの、今も……うまく話せないかも、しれないんですけど」
「うん。ゆっくりでいい」

 その真剣な眼差しに誘われるように、私は心の内にあった思いをぽつりぽつりと零していく。

「京ちゃんを……信頼してないわけじゃないのに、話せていないことがあるんです。言ったらどう思われるかな、とか、こんな話聞きたくないかもな、とか。考えたら上手に伝えられなくて」

 午後八時。陽が完全に落ちた薄暗い周辺を、大きな満月が照らしている。日中はまだ暑い日もあるけど、この時間になると心地よい風が肌を撫でていく。

 月明かりの下、向かい合って立ったまま、先を促す先輩の優しさに甘えて私は弱音を口にしていた。

「恋をしている京ちゃんを応援したいのは本当なのに、私は……自分の気持ちに嘘をついて、本音を話せなかった。京ちゃんは聞こうとしてくれたのに、それに応えられなかった。その噓がきっと、京ちゃんを傷つけちゃったんです」

 そう。嘘だ。私は嘘をついた。認めたくないだけで、口にしたらもう歯止めが効かなくなりそうで、京ちゃんにすら本当の気持ちを言えなかった。きっとそれを彼女は見抜いていたんだ。

 私は……。

 じっと話に耳を傾けていた先輩が、ゆっくりと口を開く。