その日も十八時に図書室を出て、無駄にゆっくり歩いて帰宅した。

 本当は英語の課題をしようと思ったのに、楓先輩とのやりとりを思い返してはひとり悶えて、なにも手につかなかった。ずっと遠くで見ていただけの先輩と、連絡先を交換して、一緒にテスト勉強をする約束までしてしまったなんて。

 もちろんふたりきりじゃないし、目的は京ちゃんと日野先輩の距離を縮めるためだけど、それでもドキドキと胸が高鳴って仕方ない。どう頑張っても頬が緩み、つい舞い上がってしまいそう。

 けれど、家が近付いてくると徐々にその気持ちは萎んでいき、さっきまでとは違った意味で息苦しくなってくる。

「ただいま」

 玄関の扉を開けながらそう言うのは、幼い頃からの習慣。家に誰がいようがいまいが、必ず帰ってきたらただいまと言う。

 そのまま目の前の階段をのぼって二階に上がってしまえば、誰とも会わずに自分の部屋へ行けるけど、そんなことをするのは反抗期の子供っぽい気がして一度もしたことがない。

 階段の下にスクールバッグを置いて洗面所へ行き、手洗いとうがいをしてリビングに顔を出すと、栗色の柔らかそうな髪をシュシュで纏め、シンプルなエプロンをつけた女性がこちらを見て微笑んだ。

「おかえりなさい」

 彼女は真央さん。お父さんの再婚相手で、私の義理の母になった人。今年の三月、私の中学卒業と同時に再婚し、高校進学とともに引っ越して、この家で父と彼女と私の三人で暮らしている。

 実の母は、私が小学校三年生の頃に病気で亡くなった。膵臓がんと診断された頃には手遅れで、最終的には身体のいろんなところに転移し、手術もできないままに逝ってしまった。

 お母さんが亡くなった時の記憶は、正直ほとんどない。そのくらい悲しくて苦しくて、日常というよりは世界が崩れてしまったような感覚だった。

 喪失感よりも恐怖が先に立ち、もうこの世に大好きなお母さんがいないのだという現実を、小学校三年生の私は受け止めきれなかった。

 毎日声が枯れるまで泣き、帰ってきてほしいと必死に願った。誕生日プレゼントも、サンタさんからのプレゼントも、お年玉もいらない。ちゃんと宿題をするし、テストも百点取れるように頑張るし、家事のお手伝いだってする。誰よりもいい子になる。

 だから神様、お母さんを私に返して……!

 ひたすらにそう祈り続けたけれど、願いが聞き届けられることはなく、母は天国の住人となった。

 お母さんはハッキリ物を言うサバサバした性格で、儚げな美人顔に似合わず豪快な笑い方をする人だった。友達も多かったし、母の周りはいつも明るくて、まるで向日葵のような人だと思う。

 だからきっと、天国でもたくさんの人に囲まれて幸せに暮らしているに違いない。大好きだったコーヒーを飲みながら、きっと私たちを見守ってくれているはずだ。

「洋司さん、今日は遅くなるんだって。先に夕飯食べちゃおうか」
「……うん。カバン置いて着替えてきます」

 洋司さん、と鈴の鳴るような声で父を呼ぶ彼女がふわりと微笑む。なるべく直視しないようにして踵を返した。

 そして、すぐに罪悪感に胸が軋む。

 今の、感じ悪かったかな。ふたりきりの夕食だと知って、少し声が低くなってしまったかもしれない。

 リビングにはキッチンから漂うデミグラスソースのいい匂いが充満していて、否が応でも食欲をそそられる。

 彼女はとても料理上手で、なにを食べても美味しい。夕食はもちろん、毎日の朝食もお弁当も嫌な顔ひとつしないで手作りしてくれる。血の繋がらない連れ子の私を疎んだりしないし、それどころかいつもにこにこ笑って接してくれる。

 わかってる。悪い人じゃない。むしろとってもいい人だと思う。

 四十歳のお父さんより八つ年下の三十二歳と聞いているけれど、二十代と言われてもわからないほど若く、服装もとてもおしゃれ。いつも私より先に起きていて、朝からメイクもバッチリだし、髪もスタイリングされている。だらけた姿なんて見たことがない。

 きっと今の関係じゃなければ、理想の大人の女性として憧れを抱くほど、見た目も中身も素敵な人だと、心のどこかではちゃんと理解している。

 だけど、私は彼女を〝お母さん〟とは呼べないし、呼びたくない。いまだにお父さんとの再婚を素直に祝福できないままだ。

 幸せそうに『結婚を前提にお付き合いをしてるんだ』と彼女を紹介された時も、反対だと声を出せなかっただけで、賛成とは言わなかった。

 お母さんが亡くなって約七年。ずっとお父さんとふたりで生きてきた。寂しさも、悲しさも、やるせなさも、全部一緒に乗り越えてきた。

 家事が壊滅的に下手なお父さんのために、必死に料理を覚えたし、洗濯も掃除も頑張った。

 学校から帰ったらまず学校に行く前に干した洗濯物を取り込み、スーパーへ行く。夕飯と明日の朝ごはん用の材料を買い、夕食の下ごしらえをしてからお風呂洗い。

 お父さんが帰宅してから夕食の仕上げをして一緒に食べて、そのあとに宿題をする。

 寝る前にはお父さんのワイシャツのアイロンをかけたり、季節の変わり目にはスーツや制服をクリーニングに出したり、慣れない家事にてんてこ舞いになりながら生活していた。

 当然、友達と遊んだりする暇もなく、やるべきことに追われる日々。

 お父さんは「家事なんてほどほどでいいんだよ」なんて言っていたけど、外食やお弁当ばかりの食事は飽きるし、しわくちゃの制服を着るのも、埃っぽい部屋で暮らすのも嫌だった。

 だから家事を頑張って覚えたし、私を育てるためにお母さんを亡くした悲しみから立ち上がり、働いてくれているお父さんの役に立ちたかった。

 天国から見守っているお母さんを心配させないよう、頑張って一生懸命笑って生きてきたのに。

 お父さんがお母さんを想ってた気持ちはどこに行っちゃったの? もう好きじゃないの? どうして他の人と結婚するの……?

 胸の奥でグルグルと渦巻く感情を吐き出せないまま、ずっと持て余している。

 考えれば考えるほど苦しくて、お母さんを思うとやりきれない。

 子供心にも仲のいい両親だった。互いを「洋ちゃん」「亜紀ちゃん」と呼び、私の前でも平気でハグするような夫婦だった。そんなふたりが大好きで、私もハグをしてもらいにふたりに抱きつきにいったりして……。

 お母さんが亡くなった時のお父さんの憔悴ぶりは凄まじく、いつの間にか私のほうが励ます側に回ったりもしていたのに。

 どうして再婚なんてしたんだろう。お母さんを嫌いになったり、離婚したりしたわけじゃないのに……。

 鬱々とした気持ちを吐き出すように大きく深呼吸をして、スクールバッグを拾って階段をのぼる。自分の部屋に入るとようやくホッとした。

 帰ってくるたびに、真央さんやお父さんの顔を見るたびに、息が詰まる。

 引っ越してまだ半年しか経っていないこの家は、新築だけど他人の家の匂いがする。私の身体に馴染んでいない証拠だ。

 唯一自分の部屋だけは、これまで使っていたベッドや学習机を持ってきたおかげでリラックスできる空間だった。

 ベッドのカバーは生成りだけど、カーテンとラグは色を合わせて薄いピンク色を選んだから、シンプルだけど女の子らしくて可愛い部屋だと思う。

 ベッドにはお気に入りの漫画と、小学生の頃に買ってもらったイルカのぬいぐるみが転がっているくらいで、基本的にすっきり片付いている。

 必死に覚えたおかげで家事は一通りできる。この部屋に誰も入ってほしくなくて、常に綺麗に保つようにしていた。

 バッグを置いてクローゼットを開き、手早く制服を脱ぐ。プリーツスカートとリボンをハンガーにかけて、ベッドに置いてあったままのルームウェアに袖を通す。

 先月、夏休み中も遊ぼうと言ってくれた京ちゃんと渋谷まで買い物に行った時、お揃いで買ったお気に入りのワンピース。

 レーヨン素材だから肌触りがよくて、フレア袖に胸下で切り替えがついているAラインのワンピースは部屋着とは思えないほど可愛い。お値段はビックリするほど可愛くなかったけど、ふたりともめちゃくちゃ気に入って奮発した。

 家に帰るのが苦痛で、家族で過ごすのが息苦しい私は、この部屋着で少しでも気分が上がればいいと思って買ってみたものの、効果は芳しくない。

 もちろん着れば可愛いし、京ちゃんとお揃いなんだから嬉しくないはずがないけど、この服を着たところで、どうしても一階に下りる足取りは重い。

 机に置いてある写真立てに視線を移すと、若い頃のお父さんと、病気が発覚する前のお母さん、そして小学二年生になったばかりの私がイルカのぬいぐるみを抱いて、満面の笑みでこっちを見ている。

 水族館の大きな水槽をバックに撮られたこの写真が、三人で撮った最後の家族写真。お母さんを忘れたくなくて、一番目につく場所に置いてある。

 この数カ月後、健康診断で癌が見つかり、一年後には遺影のための写真を選ばなくてはならなかった。

「ただいま。ご飯食べてくるね」

 写真の中の母に声をかけ、脱いだ制服のシャツを持ってゆっくりした足取りで一階に降りる。シャツを洗濯物に出してから再びリビングへ向かった。

 そういえば、制服のシャツはいつもアイロンがピシッとかけてあるし、洗濯が間に合わなくてハンカチや靴下が足りなくなったことも、この半年で一度もない。

 再婚した時に、お父さんが言った。

『これからは家のことは真央に任せて、菜々は高校生活を楽しんでおいでね』

 私のためを思って言ってくれたとわかっている。だからその通りにしようと思った。

 家にいたくないし、顔を合わせたくないからと、これまで自分が担当していた家事を一切しなくなった私に代わって、真央さんが全部やってくれている。

 改めて実感すると、自分の態度の悪さに、また情けなさと申し訳なさが込み上げてくる。

 ため息を吐ききってリビングのドアを開けると、気付いた彼女が振り返って尋ねてきた。

「菜々ちゃん、お腹すいてる? ご飯どのくらい食べる?」
「あ、お茶碗半分くらいで」
「はーい」

 ダイニングテーブルにはデミグラスソースのハンバーグとミモザサラダがすでに用意されていて、キッチンでご飯をよそっている。せめて配膳の手伝いくらいはしようとお茶碗を受け取り、冷蔵庫から麦茶を出して二人分注いだ。

「ありがとう。食べよっか」

 たいした手伝いもしていない私に、お礼を言って笑ってくれる。

 部活をしていないのに夕食の時間まで帰らず、どう接していいか分からなくて無愛想な態度しかとれない自分が情けない。

 だけど、どうしても納得できなくて、向かい合ってご飯を食べている彼女を受け入れられない。

 再婚する人を否定しているわけではないし、子供のように父親をとられて寂しいと感じているわけでもない。彼女をいい人だと思ってるからこそ、なんで?と思ってしまう。

 どうして亡くなった奥さんがいる人を選んだの?

 お父さんは見た目こそ悪くないし優しいけれど、どこかぼんやりしていて男らしさからはかけ離れている。お茶目といえば聞こえはいいけれど、すっとぼけた性格だし、私だったら絶対に結婚したくないタイプだ。

 真央さんならお父さんみたいなおじさんじゃなくて、もっと若くてカッコいい人を選べるはずなのに。

 自分の中に降り積もる疑問と不満がお腹の中で徐々に膨らみ、今や息もできないほど身体中を圧迫している。

 幸せそうにしている人に対して不満を持つなんて、私はなんて心が狭いんだろう。

 だけど、お母さんだって病気になりたくてなったわけじゃないし、生きてお父さんとずっと一緒にいたかったはずなのに。

 お母さんの気持ちを代弁すればするほど、苦しくて身動きが取れなくなる。

 向かい合って食事を終えた後は、そのまま今日一日あったことを話すわけでも、リビングのソファでテレビを見るでもなく、すぐに部屋に戻る。

 それに対して思うことがあるだろうけど、彼女はなにも言わずに、でも少し寂しそうに微笑んで私を見送っていた。