雲ひとつない晴天。眩しいほどの秋晴れの中、私は駅の改札口で楓先輩を待っていた。

 同じ高校に通っているとはいえ、私と先輩では自宅の最寄駅の路線が違うため、合流地点であるターミナル駅で待ち合わせをすることにしたのだ。

 待ち合わせの時刻まであと十五分。緊張でそわそわと落ち着かず、鼓動がどんどん速まっていく。

 日曜日の朝九時十五分。平日の登校時間とは違い、サラリーマンや制服姿の学生などはほぼいない。

 地元の駅とは違い、たくさんの人が行き交っているけれど、ひとりの人も連れ立って歩いている人も、この駅にいる誰も彼もが都会的で洗練されているように見えた。

 私は自分を見下ろし、今日の服装を改めてチェックする。

 ビックカラーの白いブラウスに、今日のために買った形の綺麗な膝上の台形スカートを合わせた。ブラウンのチェック柄が秋らしく、少し短いけれど中がパンツになっているので安心感がある。

 上に羽織ったオフホワイトのカーディガンはショート丈で袖にボリュームがあるタイプで、これを着るだけで可愛い雰囲気になるからお気に入りの一着。

 歩きやすいように足元はエンジニアブーツにして、バッグは財布とスマホなど最低限のものが入るショルダーバッグを選んだ。

 雑誌で秋のトレンドやおしゃれに見える着こなしなどを参考にしてコーディネートを組んだけど、本当に正解かどうかはわからない。

 髪も京ちゃんに教えてもらった通りに緩くサイドを捻って止め、黒髪でも重く感じず垢抜けた印象を目指した。

 この街に馴染むとまではいかなくても、浮いてないといいなと願う。そうでないと、一緒に歩く楓先輩に恥ずかしい思いをさせてしまうから。

 スタイリング剤で束感を出し、鏡の前で必死に作った前髪をいじりながら無駄に速まっている鼓動を落ち着かせていると、改札の奥に楓先輩を見つけた。

 私との距離はおよそ二十メートル。人混みの中、彼はバッグから定期を取り出そうとしていて横顔しか見えなかったのに、それでも先輩だとすぐにわかった。

 だって私の目には、楓先輩だけがキラキラと輝いて見えるから。

 改札を抜け、周囲を見回した先輩が、壁際で立ち呆けている私に気が付いて片手を上げた。

 白いTシャツに黒のスキニーパンツ、オーバーサイズのミリタリーシャツというシンプルな格好だけど、長身でスタイル抜群なおかげで、ファッション誌から飛び出してきたモデルさながらの出で立ちだ。

 学校のダサい体操服だって着こなしてしまうんだから私服姿の破壊力たるや抜群で、まだ挨拶すら交わしていないというのに、私の心臓は限界まで速いリズムを刻んでいる。

 手を振り返すこともできないまま、先輩が目の前までやってきた。

「おはよう。早いな。待たせた?」
「おはようございます。いえ、全然」

 なんとか平常心を心がけて挨拶を返し、首を横に振る。

 まだ約束の時間の十分前。私が早く来すぎてしまっただけで、先輩が遅れたわけじゃない。

 待ち合わせのお決まりのやり取りをしていると、近くを通り過ぎる人がちらちらこっちを見ていることに気がついた。

 ほとんどが楓先輩のカッコよさに思わず見惚れているハートマークがついた矢のような視線だけど、中には隣に立つ私を値踏みする鋭いものもある。

 これほどイケメンでスタイルのいい先輩の隣にいるのが平凡な私だから、どういう関係なのか気になって見てしまうんだろう。

 これまでの私なら卑屈になってしまいそうなところだけど、お守りにしている言葉を頭の中で再生する。

 『〝なんか〟呼ばわりするなんて、菜々本人でも許せない。菜々を貶めるのは、菜々を大好きだって思ってる私のことも貶めてるのと一緒だよ』

 京ちゃんが伝えてくれた思いが、私を少し強くしてくれる。

 四方から感じる視線をシャットアウトして、意識して背筋を伸ばした。

 せっかくふたりで出かけられるんだから。緊張しすぎたり卑屈になったりしていたらもったいない。

 それに今日は勉強を教えてくれた先輩にお礼をしたいと思ってるんだから、ひとりで空回ってないでちゃんとしないと。

 夕方まで一日中一緒だから、話題も考えておかないと話が尽きてしまうかもしれない。先輩を退屈させないように、少しでも楽しいと思ってもらえるように。

 昨夜、何度もシミュレーションしたんだから大丈夫。下調べもバッチリだ。

「じゃあ、早速行くか」
「はい」

 図書館で並んで勉強していたのが定着して、一緒にいると私の右側が先輩の定位置になっている。

 なんとなく右手をそわそわさせながら、隣に並んで歩き出した。


 待ち合わせした駅からふたつ先で降り、構内を歩いて長いエスカレーターを上ると、左手に大きな観覧車が見えた。

「わぁ、久しぶりに近くで見るとめちゃくちゃ大きい」
「何回見てもでかいよな。ここ来るの久しぶり?」
「たぶん小学校の遠足以来です」
「そんなに? じゃあ結構変わってるんじゃない? 巨大迷路とかARシューティングのアトラクションとかなかったし」
「先輩は……詳しいですね」

 目的地である遊園地は入園料がかからず、アトラクションごとに料金を払うシステムになっていて、子供から大人まで一日中楽しめる。

 きのうネットで調べた情報によると、巨大迷路ができたのはたしか三年くらい前だけど、ARシューティングのアトラクションはまだ一年も経っていない。

 もしかして、彼女とデートで来てたから詳しいの……?

 胸にモヤモヤとした感情が湧き起こり、ネガティブな感情に自分でも驚いた。

 確認したわけじゃないけど、テスト週間中に毎日一緒に勉強したり、こうしてふたりだけで休日にでかけたりしているんだから、今現在楓先輩に彼女はいないと思う。

 だけどこれだけカッコいいんだから、これまでに彼女のひとりやふたりいたっておかしくない。

 わかっているのに、想像するだけでジリジリと胸が焦げ付く。

 気になるけど、せっかく初めてのお出かけの日に元カノの話なんて聞きたくなくて、歯切れの悪い返しになってしまった。

 付き合ってもいないのにヤキモチを妬くなんてお門違いだし、面倒くさいと思われたくない。

 なんとか笑顔で乗り切ろうと無理やり口角を上げると、先輩が長身を屈めて私の顔を覗き込んでくる。

「な、なんですか?」
「どんな顔してるのか、見てみたくて」
「え?」
「変な心配しなくても、友達とだよ。中三になったばっかりの頃、受験が本格化する前に遊び尽くそうって毎週末ここに来てたんだ。だから俺も二年ぶり。菜々、俺がここに誰と来てたか気になってたんだろ」

 図星をつかれ、ぶわっと体温が上がる。身体中の血液が顔に向かって上がっていくような錯覚に陥り、思わず両手で頬を押さえた。

「ははっ、真っ赤」
「か、からかわないでくださいっ」

 以前は寡黙でクールな人だと思っていたのに、こうしてよく話すようになってからは、意地悪な少年みたいな顔もするんだと知った。

 恥ずかしくてたまらないのに、それがいやじゃないから困ってしまう。

 新しくできたアトラクションを知ってるのは、調べてくれたってこと? 先輩も私と同じくらい今日を待ち遠しく感じていたの?

「からかってない。嬉しいって思っただけ」
「……嬉しい?」

 私が首をかしげると、楓先輩は小さく肩を竦める。

「ほら、行くぞ。久しぶりなら、まずは一周回るか? それとも気になるやつに片っ端から乗ってく?」

 はぐらかされた気がするけど、今は遊園地を目一杯楽しもうと気持ちを切り替えることにした。

「乗っていきましょう。先輩は絶叫系、平気ですか?」
「うん。菜々は?」
「あんまり乗ったことなくて。でも楽しそうだから乗ってみたいです。高いところも好きだし」
「じゃあ徐々にレベル上げてく感じにするか」
「楓先輩は物足りなくないですか?」

 私に合わせて先輩が楽しめなかったら意味がない。そう思って尋ねると、先輩は当然と言わんばかりに言い切った。

「全然。菜々が楽しんでくれるなら、それでいい」

 せっかく平常心を取り戻せたところなのに、またこうやってドキドキすることを言われると、どう返していいかわからなくて、私は小さく頷くしかできなかった。

 わからないといえば、どうして先輩が私を誘ってくれたのかも聞けていない。それも四人じゃなく、ふたりで。

 どうして私を誘ってくれたのか、その理由を考えれば考えるほど、心が勝手に期待してしまう。

 私を見て優しく微笑むその瞳の奥に、後輩に対する思い以上のものが宿っているんじゃないかと探してしまう。

 だけどその自惚れが勘違いじゃないという保証もない。

 先輩になにか言われたわけじゃないし、手を繋いだりするわけでもない。

 だから私からは聞けないまま。せめて今日だけは、甘い期待をしたまま楽しみたい。


 まず私たちはジェットコースターや観覧車のあるアミューズゾーンへ向かい、比較的緩やかなジェットコースターから順に乗っていった。

 フリーパスチケットもないので、お得なセットチケットを購入し、その都度必要な枚数をちぎってスタッフに渡していく。

「絶叫系、平気そうだな」
「はい! 落ちる時のあのふわっとする感覚が怖いけど楽しいです!」
「じゃあ、次はあれ乗るか」

 先輩が指さしたのは、大きな観覧車の周りを高速で走る水中突入型のジェットコースター。

 観覧車の次に人気と言われるアトラクションで多少並んでいるけど、朝イチで入場したおかげでそこまで混んでいないし、有名な夢の国のように数時間待ちなんてことはないので、先輩としゃべっているとあっという間に順番が回ってきた。

 ライドに乗り込み、肩を覆う安全ベルトをつける。カタカタと独特の音を立ててのぼってくと、ビルや駅、そして歩道を歩いている人の姿も見える。

「わぁ、高い……!」
「菜々、怖い?」
「ううん、すごく楽しいです!」
「よかった」

 都市型遊園地という日常の中にある場所柄か、見慣れた景色の中でジェットコースターに乗っているというのが、とても不思議な気分。

 高い位置から落ちるスリルと、隣には嬉しそうに笑う楓先輩がいるという高揚感で、私の心臓は忙しなく速いリズムを刻んでいる。

 大きな音と自分や周囲の楽しそうな叫び声と一緒に急降下し、身体に強烈な重力を感じながら園内を駆け抜けた。


 それから三つほど乗ったところでお腹が空いてきたので、フードコートでホットドッグを買って早めのランチを取ることにした。

「ポテトはデカいの買ってシェアする?」
「いいですね。そうしましょう。ランチ代は私に出させてくださいね」

 財布を出してふたり分の会計をしようとすると、楓先輩が怪訝な顔をした。

「なんで」
「勉強を教えてもらったお礼です」
「いらない。そんなつもりで誘ったわけじゃないし」

 奢る気満々だったのに、すげなく断られてしまった。

 でも、きっと今このタイミングが、さりげなく話の流れで聞けるチャンスだ。

 『じゃあ、先輩はどういうつもりで誘ってくれたんですか?』

 そう聞けば、もしかしたら望んでいる答えが返ってくるかもしれない。ずっと心の中で燻っている淡い期待が一気に花開く時を待ちわびている。

 それなのに。

「……じゃあ、せめて他になにかお礼がしたいです」

 意気地なしの私は、違う話題を振ってしまった。どうしてもストレートに聞く勇気が持てなかった。

「私、小テスト含めても数学で八十点取ったの初めてです。それは間違いなく教えてくれた先輩のおかげだから」
「たしかに解くコツを教えたけど、頑張ったのは菜々だろ」
「でも」
「いいから。礼をもらったら、今度から勉強教えにくい。それ目当てみたいに思われんのも嫌だし」

 結局各自で支払いを済ませ、先輩は注文したホットドックとポテトのセットがのったトレイを持って、店の外へと歩き出す。

 私はそのうしろをついていきながら、今の楓先輩の言葉を反芻する。

 『礼をもらったら、今度から勉強教えにくい』

 今回のテストで先輩から勉強を教えてもらったのは、互いに想い合っているだろう京ちゃんと日野先輩のためになにかしたいと私が零したのを、楓先輩が四人で勉強会をしようと提案してくれたおかげ。いわば、私は京ちゃんのおこぼれをもらった形だ。

 私と先輩の思惑どおり、あのふたりの距離はかなり縮まり、付き合い出すのは時間の問題な気がしている。

 もう私のおせっかいなんて必要ないだろうし、テストも終わったのだから、一緒に勉強する機会だってないものと思っていた。

 それなのに、楓先輩はとてもナチュラルに今後も私の勉強を見てくれると言った。

 それが私にとってどれだけ嬉しいか、先輩はわかってるのかな。

 空いているベンチに並んで座り、ふたりの間にトレイを置いた。トレイの上にはホットドッグとドリンクがふたつずつと、大きなポテトがひとつ。

 ニヤけそうになるのを隠すため、私は自分側に置かれたレモンティーを取り、ストローでちびちびと飲んで誤魔化した。

 先輩はなにも気にしていない様子でホットドッグの包み紙を剥いて食べ始める。

「そういえば、橘さんは無事に種目代わってくれる子、見つかったんだな」
「はい。なので午前中はうちのクラスの試合以外はずっとグランドにいる気だって言ってました」
「日野はサッカーも上手いから応援しがいがあるよ、きっと。菜々はバスケだっけ? 球技得意?」
「得意ではないですけど、今放課後にクラスのバスケチームのみんなで練習してるんです。いい感じに団結してるので、うまく勝ち上がれるかもって思ってます」

 京ちゃんはバスケチームからいなくなってしまったけど、率先して練習して盛り上げてくれる美穂ちゃんや沙羅ちゃんのおかげで、かなり士気が上がっている。

「へぇ。見たかったな、菜々がバスケするとこ。俺も今からでもバスケチームにしようかな」
「み、見なくていいです! 上手いわけじゃないですからっ!」
「そんなに拒否んなくてもいいだろ」

 慌てて顔の前で手をブンブン振ると、先輩が可笑しそうに笑った。

 その表情で単なる冗談だとわかり、私はむうっと口を尖らせる。

「もう、先輩がそんないじわるなんて知りませんでした」

 ついそんな軽口をたたいてしまったが、先輩は気分を害した風もなく、さらに笑みを深めた。

 目を細めたその表情が、まるで大切なものを見るかのように優しくて、柔らかくて、きゅんと胸を締めつけられる。

 じっと見られると、からかわれたことに怒っているフリすら続けられない。ふくれっ面はすぐに頬まで赤く染まっていき、私は視線を彷徨わせた。

「そう? 俺は元々こんなやつだけど。逆に菜々は俺をどんな男だと思ってたの」

 クスッと笑いながら問われ、私は楓先輩と初めて出会った時のことを思い出した。

 見ず知らずの私を身を挺して助けてくれた優しさや、真冬の冷たい地面にしゃがみ込んで泣く私に寄り添ってくれた温かさは、きっと一生忘れられない。

 本当ならあまり人に言いたくない話だし、先輩にも、あの時の中学生が私だと知られたくない。

 だけど、あの日私はお礼も言わずに走り去ってしまった。

 事故になりそうなところを助けてもらって、おまけに泣き続ける私のそばにずっといてくれた優しさに対し、失礼極まりない態度だ。

 やっぱり、あの時の彼が楓先輩だと気付いた以上、きちんとお礼をするべきだよね。

 私は勇気を振り絞って先輩の質問に答える。

「先輩はクールに見えて……赤信号に気付かず轢かれそうになった子を助けたり、その子が泣き出したらずっと手を握ってあげたりする、優しい人です」

 先輩は私を見て驚いた顔をしている。

「今年の二月、高校の近くの横断歩道で車に轢かれそうな中学生の女の子を助けましたよね。あれ……実は私なんです。ずっとお礼を言えなくて、ごめんなさい」

 高校の合格発表の翌日、お父さんから紹介したい女性がいると言われた。

 一年ほどお付き合いをしていて、再婚を考えている。入籍したら、ここを引っ越して三人で暮らしたいという話を聞き、私の頭の中は真っ白になった。

 相手は仕事で知り合った女性で、妻を亡くし、中学生の娘がいるのも承知した上でプロポーズに頷いてくれたのだとか。

 『人はいつどうなるかわからない。後悔しない人生を送りたいと考えて出した結論なんだ』

 お父さんが真剣に語っていたけれど、どこか別の世界の言葉のように聞こえた。

 再婚? どういうこと? お母さんはどうなるの?

 真っ先に浮かんだのは、亡くなったお母さんのこと。

 嫌いになったり、お互いに話し合って納得して離婚したのなら、他に好きな人を作って再婚するのもわかる。

 だけど、お父さんはそうじゃない。

 大好きだったお母さんは病気で死んじゃったけど、ずっと大切に思い続けるんだと当たり前のように思ってた。

 それなのに、別の女の人と結婚?

 お父さんが照れくさそうに『優しい人だから、菜々も仲良くしてくれると嬉しい』と頭を掻きながら笑ったのを見て、私はなにも言えなかった。

 ひと言『……そう。わかった』とだけ呟いて、私は家を出た。お父さんの顔を見ていたくなかった。

「あの日は……色々あって気持ちがぐちゃぐちゃで、そこに事故に遭いそうになって、もうパニックだったんです。それであんなに泣いて、我に返ったら恥ずかしくなっちゃって。お礼も言わずに逃げてすみませんでした」

 ベンチに手をついて深々と頭を下げる。

 大げさじゃなく、先輩が助けてくれなかったら、今頃私は天国のお母さんと一緒にいたかもしれないのだ。

 そのくらい、あの日の私はぼーっとしていたし、自暴自棄になりかけていた。

「楓先輩。助けてくれて、ずっと手を握っていてくれて、ありがとうございました」

 ようやく言えた。

 ホッとして顔を上げると、楓先輩は真剣な顔をして私をじっと見つめている。

「……知ってた」
「えっ……?」
「あの日、泣きやむまでずっとそばにいたのは、菜々だったからだよ」

 その熱のこもった声は、ずっと私の頭の中で響き続けた。



「そろそろ時間だし、あれに並ぶか」

 先輩が向けた視線の先を見ると、観覧車が知らせる時刻はもう午後五時を回っている。

 ランチを終えたあとはストリートゾーンに移動して巨大迷路にチャレンジしたり、ゲームコーナーで対決したり、マイナス三十度の世界を体験できる館に入ってみたりと、目一杯楽しんだ。

 途中、アイスを買って食べたり、小腹が空いたとクレープを食べたり、意外と先輩が甘党なことも知った。

 ここに来る前は、一日中一緒にいて話題が尽きてしまわないか心配だった。遊園地の待ち時間に気まずい空気になって、デートが台無しになるなんて話をよく聞くから。

 だけど、そんな心配は杞憂だった。

 お互いの友達の話、先輩の部活のこと、新しくオープンしたスイーツ店の情報など、話は尽きなかった。

 楽しい時間はあっという間で、ずっと時計を見ることなく夕方になった。真っ青だった空はオレンジ色と紫色の二層に染まり、太陽は海の向こう側に隠れようとしている。

 あぁ、一日が終わってしまう。なんだか無性にさみしくて、私は思いっきりはしゃいだ声で答えた。

「そうですね。観覧車がメインなので、乗らずには帰れません」

 二十分待ちと書かれた看板脇の階段を上り、列の最後尾に並ぶ。ふと、この前調べた時に目に入ったジンクスが浮かんだ。

「何色のゴンドラかな……」
「菜々、紫狙ってる?」

 私の小さな呟きに楓先輩が反応したので、驚いた。

「え、知ってたんですか?」
「ここ調べた時に、チラッと書いてあったから」

 大観覧車のゴンドラは全部で六十個あり、虹色のようなグラデーションになっている。その中でたったひとつだけ紫色のゴンドラがあり、それに乗ると幸せになれると言われているのだ。

「紫に乗りたい?」
「んー、乗れたらラッキーとは思いますけど、狙ってるわけじゃないです」
「そうなの? 女子はこういうの好きだと思ってた」

 虚を突かれたような先輩に、私は心の中で反論する。

 ゴンドラが何色だろうと楓先輩と一緒に観覧車に乗れるんだから、幸せじゃないはずがないんですよ。

 とはいえ、そのままの気持ちを先輩に伝えるには勇気が足りなさすぎる。私がどう答えようか迷っていると、後方の列からわぁっと歓声が上がった。

 どうやら観覧車のイルミネーションが点灯されたらしい。見上げると、この街のシンボルが眩しいほどに光を放っていた。

「わっ、すごい……!」

 辺りが暗くなり始めたところに、色とりどりの光がキラキラと輝いている。

 くるくると回って流れるように色が変わるイルミネーションは、まるで巨大な万華鏡みたい。真下にいるから首を直角に見上げないといけないけれど、それでも見続けていられるほど綺麗だった。

 そうやってイルミネーションに気を取られていたせいで、自分たちの順番が迫っていることに気付けなかった。

「菜々、次だよ」
「えっ、あ、もう?」

 私は慌ててゴンドラに近寄り、スタッフの人の誘導に従って乗り込んだ。いってらっしゃいという声とともに扉が閉められる。ガシャンという音がやけに耳に響いた。

 ゴンドラの中は空調が効いているみたいで、暑くも寒くもない。窓際にタッチパネルがついていて、景観に合わせて街をナビゲーションしてくれる機能がついているらしい。

 腰を落ち着けて窓の外を眺めたいところだけど、私は立ったまま固まってしまった。

 ……意外と狭い。

 いや、ゴンドラなんだから、このくらいの広さが一般的なのは理解している。むしろ大観覧車と謳うだけあって、広い方だと思う。だけどこれから一周回る十五分の間、楓先輩とこの密室空間にふたりきりだと自覚すると、心臓がバクバクと騒ぎ出す。

「どっち側に座る?」

 乗り込んだまま動かない私を不思議そうに見た先輩が、タッチパネルを弄りながら尋ねた。

「あの、じゃあ、こっちに……」

 なんとなく右側のシートに座ると、楓先輩は私の向かい側ではなく、隣に座った。

「えっ!」
「え?」

 思わず大きな声を出してしまったけど、先輩は平然としている。

 あれ? ふたりで乗る時に、向かい合わせじゃなくて隣同士に座るのは普通なの? そういうのって、付き合ってるカップルとかがするものだと思ってたんだけど。

「菜々。窓の外見て」

 鼓動は限界まで速まり、頭は色々考えすぎてショートしたようで、私はロボットのようにぎこちない動きで身体ごと窓の方を向いた。

 私たちを乗せたゴンドラが、ゆっくりと地上から離れていく。

 夜になりきる前のライトアップされた街並みはとても幻想的で、一瞬で心を奪われた。

 沈んでいく太陽とは反対に、頂上を目指して上がっていくゴンドラからは、三百六十度すべてを見渡せる大パノラマが広がっている。

 密室の気まずさなど忘れて、目の前の美しい景観に見惚れた私は感嘆のため息をついた。

「きれい……」

 それしか言葉がでないほど、光輝く景色に圧倒された。

 隣で同じように窓の外の景色を眺めていた楓先輩が、スッと身体を引いてシートに座りなおしたのを気配で感じた。

「菜々に、聞いてほしい話があるんだ」

 真剣な声音に、私の意識は景色から先輩へと移る。静かな口調だけど、いつもの雰囲気とはまるで違う。ドクン、と身体中を震わすほど心臓が大きく鼓動した。

 私が緊張気味に彼の言葉を待つ中、先輩は一度大きく深呼吸をすると、意を決したように口を開く。

「俺、触れた人の心が読めるんだ」

 人の心が、読める……?

 一瞬、なにを言っているのかわからなかった。

 現実味のない話に、私はただ先輩を見つめた。

「なんでそんなことができるのか、俺自身にもわからない。たぶん生まれつきだと思う。相手に触れると、その人が心の中で思ってることがわかる」

 彼の膝の上の手は強く握られ、拳には血管が浮いている。どれだけ緊張して話しているのかが伝わってきて、私は息をのんだ。

 嘘じゃない。そう思った。

 小学校入学前にはこの能力が、自分が、普通ではないと気付いたと先輩は語った。

 物心ついて以降、両親から抱き締められた記憶がないとも。

「この力のせいで親からは疎まれてきたし、今も最低限の会話しかしない。自分の力が特殊で、あまり受け入れられないものだと理解してからは、誰にも知られないように必死だった。それでもうっかり触ってしまうと、知りたくない本音ばかり流れ込んでくる。口ではいいように言ってても腹の中では違うことを考えてる、そんなのばっかり聞こえてきて、うんざりしてた」
「先輩が人に触れないようにしてるのは……」
「うん、この力のせい。ごめん、やっぱり菜々も気付いてたよな」

 苦しそうな顔で笑う楓先輩になんと言えばいいかわからなくて、私は唇を噛み締めたまま小さく頷いた。

 どうしてそんな大きな秘密を私に打ち明けてくれたんだろう。その疑問は、すぐに解消された。

「あの事故の日、女の子の腕を引っ張って助けた時に、その子がなにを悩んでるのかが聞こえてきた。事故のショック以外にも、悲しい、再婚なんて信じられない、お母さんはどうなるのって、悲痛な叫びだった」
「あっ……」

 あの日、お父さんから再婚の意思を聞かされた。きっと私の心の中はぐちゃぐちゃで、醜い感情だらけだったはずだ。

 お父さんには幸せになってほしい反面、お母さんのことを考えたら再婚に賛成なんてできない。だけど、そんなことを口に出せば困らせてしまうのもわかってた。

 辛くて、悲しくて、もどかしくて、絶望していた。

 結婚は永遠の愛を誓うものだと思っていたのに、それは相手が亡くなったら途切れてしまう程度の気持ちだったのかと、お父さんに失望してしまった。

 けれどそれと同時に、私自身もお母さんを思い出す日が減っているのに気がついた。

 亡くなった当初はあんなにも悲しくて、世界が終わったかのように感じて、毎日泣いていたのに。大好きだったお母さんを忘れるなんて、あってはならないのに。

 だから再婚にも、なにも言えなかった。ただこれからは、絶対にお母さんのことを忘れないようにしないと、と強く思った。一種の罪悪感にも似た感情だ。

 お父さんにも、親友の京ちゃんにも打ち明けられなかったこの気持ちを、まさか楓先輩に知られていただなんて。

 私は絶句したまま先輩の瞳を見続ける。

 家族の幸せを素直に祝えない私を、お母さんを亡くした悲しみを忘れかけていた薄情な私をどう思ったのか、不安で仕方がない。


「……ごめん。勝手に心の中を覗かれるなんて、嫌に決まってるよな。ほんとにごめん」

 私の表情をどう受け取ったのか、先輩は懺悔するように頭を下げた。

「ちっ違います! 謝らないでください! 嫌だなんて思ってないです!」
「嫌じゃないわけないだろ。橘さんにも言えなかったのって、お父さんの話じゃないのか」
「そうですけど……でもそうじゃなくて!」

 私は必死に思考を巡らせる。

 先輩は物心ついた頃から触れた人の心が読める能力を持っていると言った。幼い頃から他人の本心が聞こえてしまうなんて、一体どれだけの苦痛があったんだろう。両親から抱きしめられた記憶すらないと淡々と話した先輩の横顔は切なくて、胸が締めつけられた。

 どうしてそんな力が先輩に備わっているのかはわからないけれど、それは決して先輩のせいではないし、私の心の中を読んだことについては、トラックから助けてくれた時に起こったアクシデントで、先輩にとっては不可抗力だ。

「あの日、私は本当にショックで……きっとあのままひとりにされていたら、ちゃんと家に帰れなかったかもしれない。先輩が私の心を読んでそばにいてくれたから、私は少しだけ冷静になれたんです」

 あんなぐちゃぐちゃな感情なんて聞きたくなかったに違いないのに、それでも先輩は手を振り払うことなく、私が泣き止むまでずっと寄り添ってくれていた。

 それは間違いなく彼の優しさだ。

 他人に触れないように一線を引いているのも、四人でテスト勉強していたファミレスで触れそうになった指を咄嗟に引いたのも、勝手に心の中を読んでしまわないようにという先輩の配慮と優しさに違いない。

 それなのに先輩が謝るなんて。そんなの必要ないのに。

「あの日、菜々はかなり動揺してたみたいだったから、まさか一緒にいたのが俺だって気付いてるとは思わなかった。この力を知ってるのは両親と日野だけだし、今後誰かに言うつもりもなかった。でも、『ずっと手を握っていてくれて、ありがとうございました』って、さっき菜々が言ってくれたから……黙ってその感謝の気持ちを受け取るなんてできなかった。あの繋いだ手から、俺には菜々の感情が全部聞こえてたんだ。そんなの不気味だし、気持ち悪いだろ。感謝なんて、しなくていいんだ」

 もう一度「ごめん」と頭を下げた先輩を見て、軋むように胸が痛んだ。もしかしたら、ご両親からそんな風に言われたりしたんだろうか。

 どうしたら嫌じゃないと伝えられるだろう。たしかに心の中を読まれたのは単純に恥ずかしいし、あのぐちゃぐちゃな感情をどう思われたのか不安はある。けれどそれを不気味だとも気持ち悪いとも思わない。

 口下手な私がどう頑張って言葉にしたら、先輩に本当の気持ちが伝わるだろうか。

 そう逡巡して、ふと気付いた。

 窓の外は日が沈み、空は紺色の夜が訪れ、海面には太陽のオレンジ色が溶けて広がっている。それを観覧車の頂上に近い場所から見下ろしながら、私はある提案をした。

「あの、先輩。手を……繋ぎませんか?」

 定位置である私の右側に座る先輩に右手を差し出すと、楓先輩は驚きに目を瞠った。

「菜々、なに言って……」
「先輩も知っての通り、私は言葉でうまく伝えるのが苦手なので……これなら、わかってもらえるんじゃないかなって」

 過去に心の中を読まれたのを嫌がっていないのも、先輩を不気味とも気持ち悪いとも思っていないのも、あの日のように繋いだ手から伝わればいい。

 すると、先輩がグッと唇を噛み締め、私から顔を背けてしまった。

「せ、先輩……?」

 どうしよう。なにか失礼だったかな。やっぱり自分から人の心の中を読むなんてしたくないのかな。

 きっとこれまでたくさんの人の感情を浴びてきて、中には素敵な本音や嬉しい言葉もあっただろうけど、そればかりじゃないはずだ。

 さっき先輩もうんざりしてると言っていたのに。あぁ、どうしよう。失敗した!

「ご、ごめんなさい。嫌ですよね。違うんです、忘れてくだ――――」

 焦って差し出した手を顔の前でブンブン振り、直前の発言を訂正しようとした。その時。

 楓先輩が私の手首を掴み、滑らせるように手を包み込んだ。ひんやりとした手は、私よりひとまわり大きい。

 突然のことにハッと息を詰めていた私は、なんとか浅い呼吸を繰り返す。触れ合う指先から、徐々に熱が広がっていく気がした。

「……本当は、他人に触るのが怖いんだ」

 私と繋いでいる反対の手で自分の顔を覆いながら、先輩がぽつりと弱音を零す。

「菜々には『本音と建前って、みんなあると思う』なんて言っておきながら、俺が一番それを怖がってた」

 その声の頼りなさに胸が締め付けられた。今までどれだけ悩んできたんだろう。

「少なくとも私は、先輩が私の心を読んでくれたおかげで救われました。きっと聞くに堪えない感情だったはずなのに、先輩はずっと手を繋いでいてくれた。やっぱり私は、先輩に対してありがとうって気持ちしかないです」
「俺は別になにもしてない。菜々の悩みを解消できたわけでもない」
「それでも、私にとっては嬉しかったんです」

 心の中を読まれたのは恥ずかしいけれど、そばにいてくれた優しさに救われたのも事実なのだから。

 先輩に苦しんでほしくない。うまく伝えられないのがもどかしくて、私の心を全部明け渡すように、握られた手をきゅっと握り返した。すると、先輩の手が驚いたようにビクッと跳ねた。

「……もう誰にも失望したくないし、勝手に本音を覗く罪悪感に押し潰されたくない。でも、菜々はいつも俺の心を軽くしてくれる」

 先輩が顔を覆う指の間から、必死で言い募る私を横目で見た。その熱い眼差しに、胸の奥がぎゅうっと甘く痺れる。

「菜々に触れたい。手を繋ぎたいし、抱きしめたい。ずっとそう思ってた」

 鼓膜を震わす先輩の言葉が、現実のものとは思えなかった。

 本当に? それはどういう意味?

 だって楓先輩は文武両道で、学校の人気者で、優しくて思いやりのある素敵な人。そんな先輩が、私に触れたいって、だ、抱きしめたいって思うのはどうして?

 これまで何度も掠めた期待が再び頭をもたげてくる。

 私が言葉を返せないでいると、繋いだ手はそのまま、先輩は自分の顔を覆っていた手を私の頬に伸ばし、ぷにっと摘んだ。

「どういう意味もなにも、菜々が好きだから触りたいってことだよ。わかるだろ」

 呆れたような、怒ったようなぶっきらぼうな言い方だった。

 けれど先輩の耳はうっすら赤く染まっていて、その言葉が本心なのだと伝えてくれる。きっと私も同じか、それ以上に赤くなっているに違いない。

 嬉しくて、恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくてたまらない。

 わかるだろって言われたけど、これはどう答えるべきだろう。『わかります』って言うの? それとも『私も好きです』って言えばいい?

 告白なんてしたことないし、告白されたのもこれが初めて。ドキドキしすぎて心臓が痛い。普段楓先輩の前でどう振る舞っていたのかさえわからなくなってきた。

 先輩への恋心を自覚して間もないのに、急展開すぎて夢みたい。

 こんなつもりじゃなかったにしろ、よく自分から手を繋ぐ提案なんてできたなと思う。

 きちんと気持ちは伝わっただろうか。先輩に心を読まれるのは嫌じゃないし、気持ち悪いと思ってもいないこと。誰かに失望したり、罪悪感を覚える必要もない。だって先輩は、なにも悪くないんだから。

 ……あれ、待って。そもそも今も手を繋いでるんだから、今私が楓先輩のことが好きで心臓がーって思ってるのも、全部伝わってるんじゃない?

 今更な事実にハッとして目の前の先輩を見ると、再び手で顔を覆って項垂れている。

「か、楓先輩……?」
「……菜々、勘弁して。可愛すぎる」

 そう呟いた楓先輩も、全部の心の声を聞かれていたと気付いた私も、たぶん同じくらい真っ赤だ。

 だけど、繋いだ手は離さないまま。

「ジンクスって、当たるんだな」
「え?」
「気付いてた? このゴンドラ、紫だったの」
「えっ! そうだったんですか?」

 ライトアップに夢中になっていて慌てて乗り込んだから、結局何色のゴンドラだったのか見るのを忘れていた。だけど、まさかひとつしかない紫色に当たっていたなんて。

「俺、今めちゃくちゃ幸せ」
「……私も、すごく幸せです」

 微笑み合い、ふたりとも自然と窓の外に視線を向ける。

 街中のオフィスビルが点灯してきらびやかな光を放ち、先程まで遊んでいた遊園地や、海を行き来する船、ベイブリッジも負けじとイルミネーションが輝いている。それらが水面に反射し、さらに眩しく夜景に彩りを添えていた。

 きっと何年経ってもこの景色は忘れない。今日この日を忘れたくない。

 そう心に誓うと、楓先輩は優しく微笑んで、「俺も」と繋いだ手をぎゅっと握ってくれた。