私は俯いて必死に考えた。
もしかして迷惑だったのかな? 教室に入っていいと言ったのは先輩だけど、やっぱり本人のいないところで出場種目を調べるなんて非常識だと思われてる?
それとも、学校のアイドルと言われる日野先輩のことだから、もしかして今日何度もこの話題を聞かれてうんざりしてるとか?
だとしても、やっぱり私は京ちゃんの恋を応援するために、日野先輩がどちらに出るのかを知りたい。
おそるおそる視線を上げ、長身の佐々木先輩を上目遣いに見上げると、彼はキュッと唇を引き結び、バツの悪そうな顔でボソリと呟いた。
「……ちなみに、今日野に聞いたらサッカー希望だって」
「えっ!」
佐々木先輩の言葉に反応した京ちゃんが、慌てた様子で彼に問いかける。
「本当ですか?」
「え? あ、ああ。今連絡したら、そう返信がきた」
「どうしよう、急がなきゃ」
京ちゃんは慌てた様子で佐々木先輩に「ありがとうございます。助かりました」と頭を下げた。
「ごめん、菜々。先に行く! あとよろしく!」
「……えっ!?」
私が一拍遅れて京ちゃんの言葉を理解した頃には、彼女はもう廊下をひた走り、階段の方まで進んでいた。
すぐに追いかけて行かなかったせいでタイミングを逃した私は、ぽつんと黒板前に取り残されてしまった。それも、目の前には佐々木先輩がいるままで。
一体この状況をどうしろって言うの、京ちゃん!
いくら心の中で文句を叫んでも、もう本人は教室に戻り、バレーを選んだ子に交代してくれないかと頼んでいるだろう。
もちろん彼女の恋を応援したいから、それは全然構わない。京ちゃんが、サッカーで活躍する日野先輩を目一杯応援できたらいいなと思うけど。
だからって私を置いていくことはないんじゃないかな!
「……なんだ、あの子の方か」
「えっ?」
京ちゃんの背中を見送っていると、後ろから笑い混じりの声がした。
「いや、なんでもない。パワフルだな」
振り返ると、先輩は先程とは打って変わって小さく微笑んでいる。なんだかホッとしているように見える柔らかな表情に、私の目は釘付けになった。
「もしかしてあの子、美化委員?」
「あっ、はい。そうです。橘京香ちゃん」
「日野が言ってた。同じ委員会の一年の子に可愛い子がいるって」
「え! それって京ちゃんのことですか?」
思いがけない情報をゲットして、つい身を乗り出すように聞いた。
「名前までは知らないけど、最近よく日野から話聞くよ。すごい美人で大人っぽいけど、中身が可愛いんだって」
一年女子の美化委員は八人いるけど、京ちゃんのことだと思いたい。もしかして、日野先輩も京ちゃんを好きだったりするのかな?
学校のアイドル的な存在である日野先輩の周りには、いつもたくさんの女子がいる。誰かと付き合っているという噂は聞かないけど、京ちゃんも言っていた通り、きっとライバルは多いに違いない。
彼女の初恋が実ってほしいと思っているけど、日野先輩はちゃんと誠実な人なのかな。京ちゃんが悲しむようなことだけは絶対に避けたい。なんて、モテる日野先輩に対する偏見はよくないけど。
「日野は、真面目だしいい奴だよ」
私の不安を見越したように、佐々木先輩が日野先輩について話してくれた。
「愛想がいいからチャラそうに見えるかもしんないけど、勝手に周りが騒いでるだけで本人は遊んでるとか全然ないし、誰かを悪く言っているのも聞いたことない。本当に……めちゃくちゃいい奴だよ」
佐々木先輩の言葉には実感が籠もっていて妙な説得力があり、本心から日野先輩の人柄を信頼しているのがわかった。
私が京ちゃんのおかげで高校生活を楽しめているように、もしかしたら佐々木先輩も日野先輩に助けられた経験があるのかもしれない。
先程まで感じていた気まずさなんて吹き飛び、私も負けじと京ちゃんを猛プッシュする。
「あの……京ちゃんも、日野先輩が言ってた通り、めちゃくちゃ可愛いですよ。サバサバしててしっかり者だし、美人だけど気取ってないし、本当にいい子なんです!」
両手でこぶしを握りしめて力説すると、佐々木先輩がまた小さくフッと笑った。
「なんか、俺らなにしてんだろうな。お互い友達のいいところアピールしたりして」
きゅうっと胸を締めつけられながらも、その笑顔につられて私まで笑ってしまった。
あの事故のことや図書室の話題も出ないし、きっと先輩は気付いていないんだろう。ホッとして少しだけ肩の力が抜けた。
「ほんとですね」
「君らがここに来た目的を考えれば、ふたりがうまくいくのは時間の問題だって言ってあげたいんだけど」
「……違うんですか?」
「さっき言った通り、周りが囃し立ててるだけで、日野はめちゃくちゃ奥手だと思う。可愛い子がいるって話、最初に聞いたの五月だぞ」
「京ちゃんも、委員会でたまに話すだけで精一杯って言ってました」
もう九月が終わろうとしている。クラスには夏休み前に告白して彼氏や彼女ができたとはしゃぐ子の姿もあったというのに、ふたりは互いに想いを秘めたまま進展する気配はない。
しかも、京ちゃんにとってこれが初恋。きっと彼女から積極的にアプローチするのは難しいと思う。
「……なにか私にできること、ないかなぁ」
京ちゃんは話を聞いてくれるだけでありがたいなんて言ってくれるけど、恋愛経験のない私ではアドバイスなんてできないし、本当にただ聞いているだけ。人形相手にしゃべっているのと変わらない。
もっと実のある応援をしたいけれど、なにをしたらいいのかも皆目検討がつかない。
「友達思いなんだな」
ぽつりと零した私の呟きを聞いた佐々木先輩が、しげしげとこちらを見つめてくる。あまり見られると、勝手に顔が赤くなってしまうからやめてほしい。その願いを口には出せないけど。
「そう……ですか?」
「そうだろ。日野の参加種目を聞きに、ここまで一緒に来たんだし。あ、名前」
「え?」
「橘さんの名前は聞いたけど、君の名前聞いてなかった」
今日たまたま偶然会っただけで、きっともう話すこともないだろうし、まさか名前を聞かれるとは思わなかった。私は動揺と照れくささが入り混じった気持ちで自己紹介をした。
「実は、先輩と名字一緒で……佐々木菜々です」
「俺の名前、知ってたの」
「うちの学校で、佐々木先輩と日野先輩を知らない女子はいない気がします」
「日野はともかく、俺は違うだろ」
肩を竦める仕草すらカッコいいのに、違うわけがない。これも、もちろん口には出せないので心の中にとどめておく。
「……テスト勉強とか、どう?」
「え?」
「テスト期間中は部活もないし、一緒に勉強するとか。日野とさっきの橘さん、俺と菜々の四人で」
いいですね!と返事しかけて、ふと気付く。
今……菜々って呼んだ?
女の子の友達に呼ばれることはあっても、男子に下の名前で呼び捨てされるなんて、小学生の頃以来だ。
じわじわと頬が熱くなっていくのを自覚しながら佐々木先輩を見つめると、「なに、だめ?」と問いかけられた。
それはテスト勉強の話? それとも呼び方?
どちらも嫌ではないから、ふるふると首を横に振る。
「じゃあ、ライン聞いていい? 俺と日野の予定がわかったら連絡する」
どうしよう、展開が早すぎてついていけない。
ずっと遠くから眺めてるだけの佐々木先輩に遭遇しただけでも心臓が壊れそうだったのに、その彼としゃべって、名前を呼ばれて、連絡先まで交換するなんて。
あれ、これ、夢かな?
なんだかふわふわと雲の上を歩いている気分のまま、スマホを取り出してIDを交換する。
〝ともだち〟の欄に『佐々木楓』が加わった。
アイコンは風景写真で、緑と紅の葉っぱが入り混じった大きな楓の木。とてもおしゃれで、自分のイルカのぬいぐるみのアイコンがとても子供っぽく感じて恥ずかしい。
それでも、自分のスマホに佐々木先輩の名前があるだけで、とても幸せな気分になる。
いや、違う違う。そうじゃない。舞い上がりそうな気分を慌てて押し止めた。
これは京ちゃんのため。京ちゃんと日野先輩の恋を応援するために、佐々木先輩が力を貸してくれているんだから。
「あの、佐々木先輩。ありがとうございます、協力してくれて」
私が、なにかできることないかな、と彼の前で呟いてしまったから、優しい先輩は協力を申し出てくれたに違いない。怖そうな雰囲気とか、クールな印象があるけれど、やっぱりとても優しくて素敵な人だ。
「楓」
「え?」
「名字同じだと、呼んでて変な感じだろ。楓でいい」
ぶっきらぼうな言い草だけど、見上げた先輩の耳が少し赤くなっているのに気付いてしまった。
やばい。心臓が壊れる。
尋常じゃないほど鼓動が速くて、きゅうっと絞られるような、くすぐったいような、とにかくじっと立っているのが難しくて、叫びながらごろごろ転がり回りたい気分だった。
「……か、楓、先輩?」
あまりの恥ずかしさに、めちゃくちゃ小声になった。それすらも恥ずかしい。
だけど、私の呼びかけに、楓先輩は頷いて小さな微笑みを返してくれた。