「締め切りは十月二十日だぞー。保護者に必ず記入してもらって提出するようになー。それから今日からテスト週間ってことで、職員室や教科準備室への立ち入りは禁止なるから気をつけて。どうしても用事がある場合は、近くの先生を呼んで対応してもらえよー」

 担任の橋本先生の緩い声でSHRが終わり、教室内がガヤガヤと騒がしくなる。

「菜々ちゃん、次のバスケの練習、テスト明けの月曜日からでいいかな?」

 前の席に座る美穂ちゃんが振り向いて尋ねてきた。

「うん。大丈夫」
「オッケー! みんなにも伝えるね」
「美穂ちゃんが教えてくれたおかげで、みんなかなりうまくなったよね。きっと一位狙えるよ」
「うん、やる気あるチームでよかったよね。身長高い京香ちゃんが抜けたのは痛いけど、りっちゃん足速いしね。あー、早く試合したい!」
「その前にテストだね」
「うへー、聞きたくないー」

 あれだけ球技大会に燃えているのに、テストはまるでやる気のなさそうな美穂ちゃんが可笑しい。

「じゃあ、また明日ねー」
「うん、バイバイ」

 帰る支度の済んだ美穂ちゃんに手を振ると、私はたった今配られたばかりのプリントに視線を落とし、大きくため息をついた。

【三者面談のお知らせ】

 そう書かれたB5の紙切れ一枚でここまで憂鬱な気分になっているのは、たぶん私ひとりに違いない。

 これまで学校の行事などは、すべてお父さんが仕事を休んで参加していた。運動会や親子遠足はもちろん、作品展や授業参観も他のお母さん達に混じって来てくれたのは、私にお母さんがいない寂しさを感じさせないようにというお父さんの優しさだとありがたく感じる。

 その反面、かなり無理をしていたように思う。お母さんを亡くし失意の中、男手ひとつで娘の私を育てるだけでも大変なのに、学校行事にまで気を配ってくれていた。どれだけ大変か、小学生だった頃の私よりは理解できているつもりだ。

 高校に入れば保護者が参加する行事も減るし、あまり負担をかけないだろうと思っていたけれど、その考えは甘かったらしい。

 やっと高校受験が終わったと思ったら、もうどこの大学に行きたいかと進路希望調査が行われ、二学期末にテスト結果を見ながらの三者面談が控えているなんて。

 これまでと同じように、このプリントをお父さんに渡すべきか。

 でもそれだと、専業主婦として家にいる真央さんを無視しているみたいじゃない?

 もしもお母さんが生きていれば、わざわざ仕事を休まなくてはならないお父さんじゃなくて、家にいるお母さんにプリントを渡しているはずだ。じゃあやっぱり、真央さんに渡すべき?

 でも渡されたところで、あの人だって困るんじゃないかな。血の繋がらない娘の三者面談なんて、気まずいに決まってる。

 そもそも私の進路なんて興味はないだろうし、面談で学校での態度や成績を知ったところでどうしようもないんじゃないかな。

 そこまで考えて、私はひとりよがりな被害妄想にストップをかけた。

 ……ううん、そんな風に思う人じゃない。きっとお願いすれば来てくれる。「私でいいの?」と、優しい微笑みを湛えて。

 でも真央さんと一緒に三者面談に行ったら、お母さんの立場は?

 もう死んじゃってこの世にいないんだから、現実的に来られないことくらいわかってる。

 だからって本来ならお母さんがいたはずの場所に、他の人をすげ替えるみたいな真似をしたくない。そんなの、お母さんを忘れていないと言いながら再婚したお父さんと同じみたいで、考えるだけで息が苦しい。

 私はプリントを二つ折りにしてさっさとバッグにしまい込み、息を大きく吸い込んだ。

 いつもそう。お父さんの再婚のことを考え出すと、自分でも感情の制御が難しくて、心臓が引き攣るように痛んで苦しくなる。

「菜々」

 胸に手を当てて何度も深呼吸をしていると、後ろからスクールバッグを持った京ちゃんに声をかけられた。

「もう放課後になっちゃったね。私もドキドキしてるけど、菜々も深呼吸しなくちゃいけないほど緊張してるの? 約束の時間まであと一時間だもんね」

 本当は三者面談について考えていただけだけど、京ちゃんはこのあとの一大イベントのせいで緊張しているように見えたらしい。私は曖昧に微笑んで頷いた。

 実際、先輩たちとの約束まであと一時間と聞いたら、徐々に胸の鼓動がバクバクと速さを増していく。

「どうする? 先に行って席取っておくべきかな?」
「あんまり人はいないし大丈夫だとは思うけど、ここで待ってる必要もないしね。先に図書室行ってようか」
「あ、ちょっと待って! 髪変じゃない? リップ塗り直していこうかな」
「ふふ。いつも通り京ちゃんは抜群に美人だよ。気になるならトイレに寄っていこ」
「あ、じゃあ菜々の髪も私にやらせてくれる? 佐々木先輩が見惚れちゃうくらい可愛くしてあげる」
「えっ、いいの? やったー」

 先週、京ちゃんと仲直りしてすぐに楓先輩に連絡をした。

 話を聞いてもらったおかげできちんと伝えられたこと、それについてのお礼、そしてテスト週間初日の放課後から一緒に勉強したいと書き連ねたら、なかなかの長文になってしまった。

 それに対しての返事が【了解】だけだったのに少しだけ落ち込んだのもつかの間、続けて【よかったな】と追加の吹き出しがポコンと現れた。

 文字だけ見るとそっけないように感じるけど、楓先輩の優しさを知っているから、たった五文字のひらがなに温かいぬくもりを感じられる。

 今日がテスト週間の初日で、私たち一年生は六時間目までだけど、二年生は火曜日と水曜日は七時間目まであるらしい。

 今朝、楓先輩から【四時半に図書室で】とラインが届いてからというもの、私も京ちゃんもずっとそわそわしっぱなしだった。

 ふたりでトイレに寄り、京ちゃんがバッグから携帯用のコテを取り出す。いつもの高い位置で結んだポニーテールの毛先を巻き直し、後れ毛もふんわりと癖づけてスタイリング剤を馴染ませていく。

 自分の支度が終わると、次は私の髪を巻いてくれる。

「菜々の髪、サラサラで真っ直ぐだね」
「でも真っ黒だし、太いし、せっかく巻いてくれてもすぐに戻っちゃうかも。京ちゃんのゆるふわに憧れる」
「じゃあ緩く編み込んじゃうよ。ちゃんとゆるふわにしてあげるから任せて」

 全体をふんわりと巻き終わると、スタイリング剤を揉み込んでサイドの髪から手際よく編み込みゴムで止める。それを何度か繰り返し、後ろでねじり、ピンをいろんな角度から何本も刺していく。

 まるで本物の美容師のように手際よく進めていく鏡の中の京ちゃんをじっと見つめていると、照れくさそうに笑った。

「私、美容師になるのが夢なんだよね。こうやって女の子を可愛く変身させられる仕事に、子供の頃からずっと憧れてたの」
「ぴったりだと思う。京ちゃんおしゃれだし、今も本物の美容師さんみたいって思ってたの」

 顔まわりの髪の毛までくるくると巻きながら、京ちゃんが苦笑する。

「ありがと。道は険しいけどね。うちの父親、役所で働いてる公務員だからさ。本当は専門学校に行きたいけど、大学に行けって反対してきそう。今度の三者面談が憂鬱だよ」

 三者面談というワードに、思わず肩に力が入る。けれど「よし、できたよ」と京ちゃんが私の背中をたたき、会話が途切れた。

「うん、可愛い。菜々はいつも髪をおろしてるから、かなり新鮮だね」

 鏡越しに目を合わせていた京ちゃんから、正面の自分へと視線を移す。

「わぁ……! 可愛い!」

 もちろん自分が、ではなく、髪型が。ルーズな編み込みをアップにした、ふわっとした印象のヘアスタイル。前髪や顔まわりもふんわりと巻いてくれたおかげで、いつもの直毛とは違って女の子らしい柔らかい雰囲気になった。

「ありがとう、京ちゃん」
「こっちこそ、日野先輩と一緒に勉強する機会を作ってくれてありがとう」

 お互いにお礼を言い合い、勉強も恋も頑張ろうと気合いを入れた。

 昇降口で靴を履き替えて南の別館へ向かう。図書室へ入ると、テスト週間だけあっていつもより多くの生徒がいたけれど、それでも机はぽつぽつと空いていた。

 私と京ちゃんは四人がけの机に並んでバッグを置き、それぞれ苦手な科目の問題集などをして過ごす。

 何度も時計を確認するなど、どことなく集中できないまま時間が流れる。四時半を少し過ぎた頃、図書室の扉が開き、楓先輩と日野先輩が入ってきた。やはりふたり揃うと、とても目立つ。周囲の視線が一斉にそちらに向かうのがわかった。

 日野先輩が先に私たちに気付き、そのあとについて楓先輩もこちらにやってくる。

「ごめんねー、少し遅くなった!」
「いえ、大丈夫です」

 日野先輩に答える京ちゃんの声がいつもより高くて、私は緩みそうになる頬を抑えるのに必死だった。

 日野先輩は京ちゃんの隣に座る私にも視線を向けて、律儀に挨拶してくれた。

「はじめまして、日野です」
「あっ、はじめまして。佐々木菜々です」

 学校のアイドルと名高い日野先輩のキラキラオーラは健在で、人懐っこい笑顔がとても素敵だ。

 でも楓先輩を前にした時の胸の高鳴りや、ぎゅっと苦しくなるような甘い痺れを感じることはなく、やっぱり私は初めて見た時から楓先輩に恋をしていたのだと再確認した。

 先輩たちが私たちの向かいに座り、スクールバッグから勉強道具を出す。

 楓先輩が私の手元をちらりとみて「数Aか」と呟く。もう三十分ほどやっているのに、まだ半分も終わっていなくて恥ずかしくなった。

「菜々、もしかして数学苦手?」
「う……はい、すみません」
「なんで謝るの。俺が教えられるし。どこからやる? 問三?」
「え、教えてくれるんですか?」
「なんで驚くの。そのつもりで来たけど?」
「だって……先輩もテスト勉強したいんじゃ」
「そんな切羽詰まってないから大丈夫」

 からかうようにクスッと笑われて、思わず先輩を凝視する。

 確かに、テスト勉強を一緒にしようと話が出た時、もしかしたら教えてもらっちゃったりするかな?なんて考えたけど。まさか本当に実現するなんて。

 すると、楓先輩が席を立つ。

「ごめん橘さん、席変わってもらってもいい?」
「え?」
「俺、菜々教えるから、日野は橘さんを見てあげれば?」

 そう言って京ちゃんと座る場所を交換し、日野先輩に向けてしたり顔を向けている。

 その意図を汲み取った日野先輩は、少し頬を赤くしながら隣に座った京ちゃんに話しかけた。

「じゃあ、橘さん。苦手な科目ある?」
「え、えっと、私は英語が苦手で……」
「じゃあ英語やろっか」
「いいんですか?」
「うん。俺、帰国子女だから、一応英語は得意」
「えっ! 帰国子女?」

 たどたどしく会話をしている様子を盗み見ていると、京ちゃんが驚きに大声を出して、咄嗟に自分で口を塞いでいる。

「ご、ごめんなさい。つい驚いて……」

 日野先輩や、周囲の机の人にもぺこぺこ頭を下げる京ちゃんが可愛くて、思わずふふっと笑みが溢れた。

「菜々」

 楓先輩に名前を呼ばれ、ハッと我に返る。

 そうだ、せっかく先輩が教えてくれるんだから、ちゃんと集中しないと。

「ごめんなさい。あの、じゃあこの問三の問題からいいですか? 確率が特にわからなくて……」

 プリントに視線を落として先輩の返事を待っていたけど、なかなか反応がない。不思議に思って顔を上げると、楓先輩がじっとこちらを見つめていた。

「……先輩?」
「雰囲気が違うなと思って。髪か」
「あ、はい。さっき京ちゃんがしてくれて」
「へぇ。可愛い」

 先輩のセリフを聞いた途端、バクン!と心臓が大太鼓のように重く響く音を立てた。

 そういうことをさらっと言わないでほしい。これから集中して勉強しようと思っていたのに、なにも頭に入ってきそうにない。

 それなのに私を盛大に照れさせた張本人は、素知らぬ顔でプリントを自分の方に引き寄せると、「あぁ、確率ね」と頷いてペンケースからシャーペンを取り出した。

「これ数Bでも出てくるから、基本を押さえとかないとついていけなくなるよ。まずこの場合、図にしてみるとわかりやすくて」

 そう言ってノートに図と数式をスラスラ書いていく。

 私は真っ赤に染まっているだろう顔をなんとか隠そうと、両頬を手のひらで覆いながら先輩の解説を必死に聞いていた。

 * * *

 テスト週間初日から、私たち四人は毎日図書室で勉強している。

 座り位置も定着して、私と楓先輩、京ちゃんと日野先輩が隣同士で並ぶのに違和感がなくなりつつあった。

 今日はいつもと気分を変えて外で勉強しようという話になり、学校から二駅離れたファミレスに来ている。

 ここでも位置は変わらず、私の隣には楓先輩が座っていた。

「もう来週からテストだね。私、こんなに勉強したの初めてかも」
「私も」

 京ちゃんの言葉に私が頷くと、日野先輩と楓先輩がそろって苦笑した。

「去年受験生だったでしょ」
「図書室にいるの、放課後の二時間だけだぞ」
「あー、今の感じで、なんでふたりが特進クラスなのかがわかった気がしますぅ」

 京ちゃんが、ふてくされたように口を尖らせる。そんな彼女をなだめるように、日野先輩が「あーほら、グラス空になってる。飲み物取りに行こう」と笑い、連れ立ってドリンクバーへ向かった。

 立ち上がる際にグラスを持ってあげる日野先輩と、その厚意を自然と受け取り、小さくお礼を言って微笑む京ちゃんは、誰が見ても美男美女でお似合い。騒がしいファミレスにいても映画のひと幕のように絵になる。

 そんなふたりの様子を見て、彼女の恋が着実に進展しているのを感じた。

 たった五日で、京ちゃんはあっという間に日野先輩と仲良くなった。連絡先も交換し、話し方もだいぶ砕けた感じになっていて、かなり距離が縮まっている。さすがのコミュ力だと尊敬してしまう。

 球技大会の種目も、バスケとバレーを代わってもいいと言ってくれる子が見つかったらしく、「サッカー、応援しますね!」としっかりアピールしていた。

 私はというと、相変わらず楓先輩と話すのはドキドキするけれど、先輩がフランクに接してくれるおかげで、以前よりは緊張しなくなった。

 放課後に一緒にいる楓先輩はクールで寡黙というイメージとは違い、普通にしゃべるし、笑顔を見せてくれる。

 それはきっと距離が縮まっているから……だと思いたい。

「菜々? どうした?」

 ぼうっと考え事をしていた私の顔を楓先輩が覗き込む。

「あ、いえ。京ちゃんと日野先輩、かなり仲良くなったなと思って」

 親しげな仕草に鼓動を高鳴らせながら答えた。

「そうだな。あれだけお互い好きだってわかりやすいんだから、あとは日野が男を見せれば解決だろ」

 楓先輩の言う通り、どうしてお互いに気が付かないんだろうと疑問に思うほど、ふたりは感情が顔に出ている。

 以前、学校のアイドルと呼ばれるほどモテる日野先輩が誠実な人なのか心配していた時期もあったけれど、この一週間一緒に過ごしてみると、京ちゃんのことがとても好きなんだと私にもわかるほど彼女に向ける視線は甘い。

 ふと、自分を顧みる。

 もしかして、私もあんな顔をして楓先輩を見ているんだろうか。

 京ちゃんだって、私が自分の気持ちを自覚する前から楓先輩を気になっていると言い当てていたし。どうしよう、私の気持ちがダダ漏れだったりする?

 慌てた私は先輩の言葉に曖昧に頷きながら、みんなで注文した山盛りポテトに手を伸ばす。このままでは心の奥に隠してある先輩への恋心を見透かされそうで恥ずかしい。それを誤魔化すつもりだった。

 私と同時に隣から同時に手が伸びてきて、指同士が触れそうになる。あっと思った、次の瞬間。ものすごい勢いで楓先輩の手が引っ込められた。

 まるで、絶対に私の指に触れたくないとでも言うように。

「……っと、悪い。同じポテト引っ張り合いするとこだった」

 ほんの一瞬、先輩の顔に動揺の色が見えた。

 冗談めかして笑っているけれど、私はそれが作り笑顔だということに気付いてしまった。

 この半年、ずっと遠くから楓先輩を見てきたからわかる。あの一線を引いたような硬質な笑み、絶対に触れたくないという明確な意志。

 以前から図書室で感じていた違和感を、今も同じようにつぶさに感じ取れ、胸がズキンと痛んだ。

 先輩はすぐに何事もなかったかのような態度で、「それより」と持っていたシャーペンでテーブルをコツコツとたたく。

「ここ。大事だから覚えて。二次関数は基本三つに分類されるから、問題文からどの条件に当てはまるかがわかれば簡単に解ける」

 楓先輩は初日からずっと数学を教えてくれる。

 公式を当てはめるだけじゃなく、どうしてそうなるのか、どう考えると理解できるのかを丁寧に説明してくれるから、苦手な数学の問題集がとても捗っている。

 けれど、私はさっきの出来事が頭から離れない。

 ずっと隣に座って勉強を教わっているけれど、目の前に座る京ちゃんと日野先輩のように、肩を寄せ合うことはない。

 声を潜めなくてはならない図書室でも、ガヤガヤと賑やかなファミレスでも、決して手や身体が触れないような距離で座り、明らかに一線を引かれている。

 以前は潔癖症かな?と思っていたけど、ここ数日の間に違うと確信を持った。除菌シートを持ち歩いているわけでもないし、頻繁に手を洗っているわけでもない。飲み物の回し飲みにも抵抗がなさそうだった。

 楓先輩は〝人に触れないようにしている〟と思う。それは私だけじゃなく誰に対しても、仲のいい日野先輩に対しても同じ。数ヵ月前の事故の時はたしかに寄り添って手を握ってくれたのだから、触れられないわけではないはずだ。

 なにか理由があるのだろうし、聞いていいのかもわからない。

 京ちゃんを怒らせてしまった日の夜、近くの公園まで来てくれた先輩の言葉を思い出す。

『誰だって隠したいことはあるし、言わなくていい事実だってあるはずだから』

 あの言葉は、もしかして先輩自身にも当てはまるものだった?

 触れそうになった時にあれだけあからさまに避けながら、先輩はなにも言わずに誤魔化した。だったら、私は気付かないふりをしたままの方がいい。

 そう納得させて結論を出した自分に気付き、ガッカリする。

 実際は納得なんてしていないのに。気遣うフリをして、本当は迷惑がられるのが怖いだけ。

 家でも同じ。再婚に納得したわけじゃないのに、声に出して反対する勇気を持てないまま、自分がどうしたいのかを完全に見失っている。

「こら。上の空だな」
「あっ、ごめんなさい」

 またしてもぼうっとしてしまい、楓先輩が困ったような顔をして笑う。

 いけない。こんな所でまで家のことを考えている場合じゃない。せっかく貴重な時間を割いて教えてもらっているんだから、ちゃんとしなくちゃ。

「詰め込みすぎた? こう毎日苦手な数学ばっかりじゃ、集中力も保たないか」
「いえ、とっても助かりました」

 今はつい考え事をしてしまったけれど、実際ひとりで机に向かうよりも遥かに勉強の質が上がった。

 公式を覚えるだけで必死だった苦手な数学も、なんとなく解くコツみたいなものがわかってきた気がする。

 そう感謝を伝えると、先輩がにやっと口の端を上げて笑う。

「じゃあ、テストの点、期待してるな」
「あぁっ、待ってください、それはプレッシャーが……!」
「自分でハードル上げたんだろ」

 可笑しそうに肩を竦めたあと、ふとなにかを思いついた先輩が、スマホを取り出して操作しだした。

「じゃあ、テスト頑張ったら、これ乗りに行こう」

 向けられたスマホ画面に映っていたのは、関東屈指の観光地にある遊園地の大観覧車。

 この辺りに住んでいれば小学校の遠足で訪れたという子は多いし、私も実際、家族で遊園地に行ったことがある。

 幼児向けのアトラクションから、大人も楽しめるジェットコースターまで揃っていて、近くにはショッピング施設があるため、一日かけて楽しめる場所だ。

「いいですね! みんなで打ち上げしたいです」

 賛同した私に対し、楓先輩がなにか言いたげな顔をした時、「ただいまー」とドリンクを持った京ちゃんと日野先輩が帰ってきた。

「菜々の分も持ってきちゃった。レモンティーでいい?」
「うん、ありがとう」
「楓はコーラでいいよな」
「あぁ。サンキュ」

 私はテーブルの横に立ったままの京ちゃんから、楓先輩は日野先輩からグラスを受け取る。

「そうだ、ねぇ京ちゃん」

 先輩が提案してくれたばかりの遊園地の話をしようと開きかけた私の唇を、隣から伸びてきた長く綺麗な人差し指が止める。

 触れるか触れないか、ギリギリのところでスッと引いていった指。これまでにない距離で楓先輩を感じて、たった一本の指でじわりと体温が上がった。

 驚きに思わず息を詰めて隣に座る楓先輩を見つめると、先輩もこちらをじっと見返してくる。

 スカートのプリーツを気にしながら座っていた京ちゃんは楓先輩の一連の動きを見ていなかったようで、腰を落ち着けて「なに?」といつもの笑顔で尋ねてきた。

「う、ううん、なんでもない……」

 ぎこちない笑顔で返すと、特に用はないと判断したのか、そのまま日野先輩とおしゃべりをしだした。

 その間も、先輩は微動だにせずにこちらを見つめたまま。心臓がお店中に響きそうなほど騒ぐ。目をそらしたいのにそらせない。

「楓、先輩……?」

 カラカラの喉で名前を呼べば、今日何度目かの呆れた顔で「自分のことには鈍いな」と笑う。

「みんなでじゃなくて、ふたりで行こう」

 潜めたせいで低く掠れた甘い声が、私の鼓膜を震わせる。まるで内緒話のような囁き声は、私の脳裏にライトアップされた美しい大観覧車を呼び起こす。

 この地域のシンボルとも言えるこの観覧車は、昼間はランドマークを一望でき、夜は輝く夜景とイルミネーションを堪能できる、デートスポットの定番中の定番だ。

 そこに、ふたりで?

 それって、どういう……?

 はてなマークだらけの脳内は、今にも思考停止してしまいそうなほど混乱している。

 いや、深い意味はないのかもしれない。

 先輩は遊園地ではしゃぐタイプではなさそうだし、大人数で遊園地に行くのが苦手なだけかもしれない。ただ観覧車に乗りたくなって、目の前にいたのが私だったってだけかもしれない。

 楓先輩ほどモテる先輩が、私を〝そういう意味〟で誘うわけがない。

 思いつく限りの期待しない言い訳を並べてみたけれど、そのどれも効果がなかった。

 だって、ふたりきりで遊園地の観覧車に乗りに行こうと誘われたら、それはもうデートだと思う。

 どれだけ傷つかないようにと予防線を張ったところで、心は勝手に期待してときめいている。

「……ふたり、だけで?」

 確認のように小声で問いかけると、「だめ?」と質問で返された。

 ずるいと思いつつ首を横に振ると、楓先輩はとても嬉しそうに笑った。

 * * *

 十月中旬。中間テストが無事に終わった。

 先輩に教えてもらったおかげで全体的に手応えがあったし、今日返ってきた数学のテストは今までで一番点数がよかった。

 それは京ちゃんの英語も同じだったらしく、嬉しそうに日野先輩に報告していた。

 私もこれなら楓先輩に報告できるとホッとしたのと同時に、ひとりで図書館に向かわなくてはならない寂しさを感じている。

 テストが終わったから放課後のバスケの練習も再開したけれど、今日はみんな部活優先の日なのでそれもない。

 先週はずっと中央の席に四人で座っていたのが、一番奥のすみでひとりぼっち。

 いつも以上に人が少なく、今までは快適だと感じていた静かな空間が急に虚しく思えて、私は珍しく下校時間よりも前に帰路についた。

 家に帰ると、まだ十八時前なのにお父さんの革靴がある。

 いつも通り「ただいま」と玄関をあけ、階段下にバッグを置こうとしてやめる。

 洗面所で手を洗ってからリビングに顔を出すと、ソファに座っているお父さん達が揃ってこちらに「おかえり」と笑顔を向けてきた。

 それに同じような笑顔を返すことはせず、「ただいま」と小さく頷くだけ。

 半年も経てば、こうしてお父さんの隣にお母さんではない人がいるのに慣れてくる。

 その〝慣れ〟がお母さんを裏切っているような気がして、この家では笑うどころか、息もうまく吸えない。

「……お父さん、今日は早いね」
「うん、たまにはね」
「ちょうどよかった。これ」

 私はスクールバッグの奥底から、提出日間近のプリントを取り出した。ずっとどちらに渡そうか悩んでいたけど、ふたり揃っているのならちょうどいい。

「あぁ、三者面談か。この前受験がおわったと思ったのに、もう進路を聞かれるのか。最近の子は大変だね」
「あの、ごめん。出すの忘れてて、明後日までに提出なんだけど……来れる?」

 どちらの顔も見ずに、誰が、とも言わず尋ねる。

 だって、お父さんに仕事を休ませるのは申し訳ないと思う一方で、真央さんに来てもらうのは気まずいと感じているから。

「十二月の頭から中旬までの間か。うん、大丈夫。仕事の調整がつくようにしておくから、どの日程でも大丈夫に丸つけて出していいよ」

 私の葛藤をよそに、プリントを見たのはお父さんだけで、隣に座る真央さんに相談することもなくそう言った。

「お父さんが……来るの?」
「そのつもりだけど。なんで?」
「ううん。学校の行事で仕事休んでもらうの、中学で終わりだと思ってたから。ごめんね」
「なに言ってるんだ。高校は授業参観もないし、体育祭とか文化祭にも来なくていいなんて言うから寂しいくらいだよ」

 私を気遣っているわけではなく、本気でそう思っているお父さんが大人気なく拗ねた口ぶりで抗議してくる。

 小学校の頃から、お父さんは学校行事に参加する際、どこまでも全力投球だ。

 小学二年の頃、親子競技の大玉転がしに参加したお父さんがひとり白熱し、私を置いてひとりでゴールして、お母さんにこっぴどく叱られていたのが忘れられない。

『洋ちゃんが全力で楽しんでどうするの!』
『だって、ついー』

 結局、叱られて泣きそうなお父さんの顔を見て私が笑って、お母さんが豪快に笑ってその場を締める。いつものパターンだった。

 五月にあった体育祭は父兄の見学が認められていたけど、ほとんど来る人はいないと聞いていたし、真央さんとふたりで来られたらどうしていいかわからなかったから、絶対に来ないよう釘を刺したのだ。

「親なんてほとんど来てなかったよ。来ても参加する競技もないし」
「菜々の勇姿を見に行きたかったんだよ。心配しなくても、三者面談ではしゃいだりしないから大丈夫」
「それは心配してないけど」
「それよりテストは? その結果を見て話すんでしょ?」
「うん。今回はたぶんできてると思う」

 先輩に勉強を教わった、とは言わないけれど。

 隣で会話を聞いていた真央さんが「夕食の準備しますね」と立ち上がってキッチンへ向かうと、その背中を見送ったお父さんが少し居住まいを正して「進路は考えてるの?」と尋ねた。

 あぁ、彼女は気を遣ってくれたのかと気付く。また私の心に罪悪感が根付き、ギュッと胸が苦しくなった。

 ふたりとも、私のことを考えてくれているのが痛いほど伝わってくる。

 それを見て見ぬふりをしながら、進路へ思考を切り替えた。

 京ちゃんは明確に美容師になりたいという夢を語っていたけれど、私にはなりたい職業や夢がない。

 お母さんを亡くし、日々の生活を送ることに必死だった私は、将来を夢見ることすらしていなかった。

「ううん。まだやりたいこととか考えたことなくて。ぼんやり大学には行くんだろうなって思ってるくらい」

 正直に答えると、お父さんは申し訳なさそうに頷いた。

「菜々には今までたくさん苦労かけたもんな。これから、いくらでも考える時間はある。お父さんは菜々がやってみたいと思うことなら反対はしないから、今は視野を狭めないで、いろんな選択肢を持てばいいよ」

 話を聞きながら、私は視界の端に映るキッチンへ意識を向けた。

 彼女はきっと親子水入らずで話せるように席を外してくれたんだ。三者面談に来たくないわけでも、私の進路をどうでもいいと思っているわけでもない。

 それは、料理をしながら優しい顔つきでこちらを見ている様子で伝わってくる。

 お父さんは、こんな気遣いのできるところに惹かれて再婚を決めたのかな。

 お母さんを亡くして七年。たくさん考えて、視野を狭めないで掴み取った選択肢が彼女との再婚だったのだろうか。

 それなら、私の視野は狭くていい。

 視野を広げることが大切な人への思いを薄めてしまうのなら、私は視野を広げたくなんてない。

「……着替えてくる」

 それだけ言って、私は二階へと上がった。

 自分の部屋に入り、真っ先に机の上の写真立てに「ただいま」と声をかける。

 ルームウェアのワンピースに着替え、スクールバッグからスマホを取り出すと、チカチカと緑のランプが点滅している。

 見ると、楓先輩からのメッセージだった。

【日曜、九時半でどう?】

 相変わらずの簡潔な文章。けれど鬱々としていた私の気分を一気に上昇させるには十分だ。

 ファミレスの帰り道、先輩は「テストが終わる週の日曜、あいてる?」と尋ねてきた。なにも予定のなかった私は頷き、日にちが近づいたら時間を決めようと言われ、それにも頷いた。

 テスト後も会う約束ができた嬉しさに加え、すぐ前を歩く京ちゃんと日野先輩に聞こえていないかドキドキしたし、ふたりだけの内緒話をしているのに胸が高鳴った。

【大丈夫です。めちゃくちゃ楽しみにしています!】

 そう入力して、送信する前に読み返し、首を捻ってバックスペースを連打する。

 ちょっと馴れ馴れしいかな。楽しみにしているのは本当だけど、どこまで正直に伝えていいのか迷ってしまう。

 そもそも、どうして楓先輩が私を遊園地に誘ってくれたのかもわからない。

『テストを頑張ったら』と言っていたから、きっと打ち上げみたいな意味だと思うけど、それならふたりよりも四人の方が自然な流れな気がする。

 だから、どうしてふたりで?と考え出すと、つい自惚れた思考が頭をもたげてくる。

 もしかしたら、楓先輩も私と同じ気持ちだったり……?

 いや、まさか。入学前に事故から間一髪で助けてくれたり、そのあと泣き崩れた私に優しく寄り添ってくれたりする優しさを知ってるから、私には彼を好きになる理由はある。

 でも楓先輩にとって、私はたった二週間前に初めて話しただけの後輩にすぎない。

 京ちゃんと話して以来、あまり自分を卑下しないようにしようとは思うけど、それでもこんな短期間で好きになってもらえる理由なんて浮かばなかった。

「あーもう、考えてもわかるはずないか」

 人の本当の気持ちなんて、いくら考えてもわかるはずがない。

 それよりも勉強を教えてもらって、おまけにテストの点も上がったんだから、きちんとお礼をしないと。

 私は再びスマホに文字を入力する。

【九時半、了解です。晴れるといいですね!】

 直接楽しみだと言わなくても、きっと気持ちは伝わるはず。

 ドキドキしながらメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

【うん。楽しみにしてる】

 絵文字もスタンプも使わない真っ直ぐな楓先輩本人の言葉が脳内で再生され、私はスマホを持ったまま、耳まで赤く染まっているであろう顔をベッドに埋めたのだった。