その日も十八時に図書室を出て、無駄にゆっくり歩いて帰宅した。

 本当は英語の課題をしようと思ったのに、楓先輩とのやりとりを思い返してはひとり悶えて、なにも手につかなかった。ずっと遠くで見ていただけの先輩と、連絡先を交換して、一緒にテスト勉強をする約束までしてしまったなんて。

 もちろんふたりきりじゃないし、目的は京ちゃんと日野先輩の距離を縮めるためだけど、それでもドキドキと胸が高鳴って仕方ない。どう頑張っても頬が緩み、つい舞い上がってしまいそう。

 けれど、家が近付いてくると徐々にその気持ちは萎んでいき、さっきまでとは違った意味で息苦しくなってくる。

「ただいま」

 玄関の扉を開けながらそう言うのは、幼い頃からの習慣。家に誰がいようがいまいが、必ず帰ってきたらただいまと言う。

 そのまま目の前の階段をのぼって二階に上がってしまえば、誰とも会わずに自分の部屋へ行けるけど、そんなことをするのは反抗期の子供っぽい気がして一度もしたことがない。

 階段の下にスクールバッグを置いて洗面所へ行き、手洗いとうがいをしてリビングに顔を出すと、栗色の柔らかそうな髪をシュシュで纏め、シンプルなエプロンをつけた女性がこちらを見て微笑んだ。

「おかえりなさい」

 彼女は真央さん。お父さんの再婚相手で、私の義理の母になった人。今年の三月、私の中学卒業と同時に再婚し、高校進学とともに引っ越して、この家で父と彼女と私の三人で暮らしている。

 実の母は、私が小学校三年生の頃に病気で亡くなった。膵臓がんと診断された頃には手遅れで、最終的には身体のいろんなところに転移し、手術もできないままに逝ってしまった。

 お母さんが亡くなった時の記憶は、正直ほとんどない。そのくらい悲しくて苦しくて、日常というよりは世界が崩れてしまったような感覚だった。

 喪失感よりも恐怖が先に立ち、もうこの世に大好きなお母さんがいないのだという現実を、小学校三年生の私は受け止めきれなかった。

 毎日声が枯れるまで泣き、帰ってきてほしいと必死に願った。誕生日プレゼントも、サンタさんからのプレゼントも、お年玉もいらない。ちゃんと宿題をするし、テストも百点取れるように頑張るし、家事のお手伝いだってする。誰よりもいい子になる。

 だから神様、お母さんを私に返して……!

 ひたすらにそう祈り続けたけれど、願いが聞き届けられることはなく、母は天国の住人となった。

 お母さんはハッキリ物を言うサバサバした性格で、儚げな美人顔に似合わず豪快な笑い方をする人だった。友達も多かったし、母の周りはいつも明るくて、まるで向日葵のような人だと思う。

 だからきっと、天国でもたくさんの人に囲まれて幸せに暮らしているに違いない。大好きだったコーヒーを飲みながら、きっと私たちを見守ってくれているはずだ。

「洋司さん、今日は遅くなるんだって。先に夕飯食べちゃおうか」
「……うん。カバン置いて着替えてきます」

 洋司さん、と鈴の鳴るような声で父を呼ぶ彼女がふわりと微笑む。なるべく直視しないようにして踵を返した。

 そして、すぐに罪悪感に胸が軋む。

 今の、感じ悪かったかな。ふたりきりの夕食だと知って、少し声が低くなってしまったかもしれない。

 リビングにはキッチンから漂うデミグラスソースのいい匂いが充満していて、否が応でも食欲をそそられる。

 彼女はとても料理上手で、なにを食べても美味しい。夕食はもちろん、毎日の朝食もお弁当も嫌な顔ひとつしないで手作りしてくれる。血の繋がらない連れ子の私を疎んだりしないし、それどころかいつもにこにこ笑って接してくれる。

 わかってる。悪い人じゃない。むしろとってもいい人だと思う。

 四十歳のお父さんより八つ年下の三十二歳と聞いているけれど、二十代と言われてもわからないほど若く、服装もとてもおしゃれ。いつも私より先に起きていて、朝からメイクもバッチリだし、髪もスタイリングされている。だらけた姿なんて見たことがない。

 きっと今の関係じゃなければ、理想の大人の女性として憧れを抱くほど、見た目も中身も素敵な人だと、心のどこかではちゃんと理解している。

 だけど、私は彼女を〝お母さん〟とは呼べないし、呼びたくない。いまだにお父さんとの再婚を素直に祝福できないままだ。

 幸せそうに『結婚を前提にお付き合いをしてるんだ』と彼女を紹介された時も、反対だと声を出せなかっただけで、賛成とは言わなかった。

 お母さんが亡くなって約七年。ずっとお父さんとふたりで生きてきた。寂しさも、悲しさも、やるせなさも、全部一緒に乗り越えてきた。

 家事が壊滅的に下手なお父さんのために、必死に料理を覚えたし、洗濯も掃除も頑張った。

 学校から帰ったらまず学校に行く前に干した洗濯物を取り込み、スーパーへ行く。夕飯と明日の朝ごはん用の材料を買い、夕食の下ごしらえをしてからお風呂洗い。

 お父さんが帰宅してから夕食の仕上げをして一緒に食べて、そのあとに宿題をする。

 寝る前にはお父さんのワイシャツのアイロンをかけたり、季節の変わり目にはスーツや制服をクリーニングに出したり、慣れない家事にてんてこ舞いになりながら生活していた。

 当然、友達と遊んだりする暇もなく、やるべきことに追われる日々。

 お父さんは「家事なんてほどほどでいいんだよ」なんて言っていたけど、外食やお弁当ばかりの食事は飽きるし、しわくちゃの制服を着るのも、埃っぽい部屋で暮らすのも嫌だった。

 だから家事を頑張って覚えたし、私を育てるためにお母さんを亡くした悲しみから立ち上がり、働いてくれているお父さんの役に立ちたかった。

 天国から見守っているお母さんを心配させないよう、頑張って一生懸命笑って生きてきたのに。

 お父さんがお母さんを想ってた気持ちはどこに行っちゃったの? もう好きじゃないの? どうして他の人と結婚するの……?

 胸の奥でグルグルと渦巻く感情を吐き出せないまま、ずっと持て余している。

 考えれば考えるほど苦しくて、お母さんを思うとやりきれない。

 子供心にも仲のいい両親だった。互いを「洋ちゃん」「亜紀ちゃん」と呼び、私の前でも平気でハグするような夫婦だった。そんなふたりが大好きで、私もハグをしてもらいにふたりに抱きつきにいったりして……。

 お母さんが亡くなった時のお父さんの憔悴ぶりは凄まじく、いつの間にか私のほうが励ます側に回ったりもしていたのに。

 どうして再婚なんてしたんだろう。お母さんを嫌いになったり、離婚したりしたわけじゃないのに……。

 鬱々とした気持ちを吐き出すように大きく深呼吸をして、スクールバッグを拾って階段をのぼる。自分の部屋に入るとようやくホッとした。

 帰ってくるたびに、真央さんやお父さんの顔を見るたびに、息が詰まる。

 引っ越してまだ半年しか経っていないこの家は、新築だけど他人の家の匂いがする。私の身体に馴染んでいない証拠だ。

 唯一自分の部屋だけは、これまで使っていたベッドや学習机を持ってきたおかげでリラックスできる空間だった。

 ベッドのカバーは生成りだけど、カーテンとラグは色を合わせて薄いピンク色を選んだから、シンプルだけど女の子らしくて可愛い部屋だと思う。

 ベッドにはお気に入りの漫画と、小学生の頃に買ってもらったイルカのぬいぐるみが転がっているくらいで、基本的にすっきり片付いている。

 必死に覚えたおかげで家事は一通りできる。この部屋に誰も入ってほしくなくて、常に綺麗に保つようにしていた。

 バッグを置いてクローゼットを開き、手早く制服を脱ぐ。プリーツスカートとリボンをハンガーにかけて、ベッドに置いてあったままのルームウェアに袖を通す。

 先月、夏休み中も遊ぼうと言ってくれた京ちゃんと渋谷まで買い物に行った時、お揃いで買ったお気に入りのワンピース。

 レーヨン素材だから肌触りがよくて、フレア袖に胸下で切り替えがついているAラインのワンピースは部屋着とは思えないほど可愛い。お値段はビックリするほど可愛くなかったけど、ふたりともめちゃくちゃ気に入って奮発した。

 家に帰るのが苦痛で、家族で過ごすのが息苦しい私は、この部屋着で少しでも気分が上がればいいと思って買ってみたものの、効果は芳しくない。

 もちろん着れば可愛いし、京ちゃんとお揃いなんだから嬉しくないはずがないけど、この服を着たところで、どうしても一階に下りる足取りは重い。

 机に置いてある写真立てに視線を移すと、若い頃のお父さんと、病気が発覚する前のお母さん、そして小学二年生になったばかりの私がイルカのぬいぐるみを抱いて、満面の笑みでこっちを見ている。

 水族館の大きな水槽をバックに撮られたこの写真が、三人で撮った最後の家族写真。お母さんを忘れたくなくて、一番目につく場所に置いてある。

 この数カ月後、健康診断で癌が見つかり、一年後には遺影のための写真を選ばなくてはならなかった。

「ただいま。ご飯食べてくるね」

 写真の中の母に声をかけ、脱いだ制服のシャツを持ってゆっくりした足取りで一階に降りる。シャツを洗濯物に出してから再びリビングへ向かった。

 そういえば、制服のシャツはいつもアイロンがピシッとかけてあるし、洗濯が間に合わなくてハンカチや靴下が足りなくなったことも、この半年で一度もない。

 再婚した時に、お父さんが言った。

『これからは家のことは真央に任せて、菜々は高校生活を楽しんでおいでね』

 私のためを思って言ってくれたとわかっている。だからその通りにしようと思った。

 家にいたくないし、顔を合わせたくないからと、これまで自分が担当していた家事を一切しなくなった私に代わって、真央さんが全部やってくれている。

 改めて実感すると、自分の態度の悪さに、また情けなさと申し訳なさが込み上げてくる。

 ため息を吐ききってリビングのドアを開けると、気付いた彼女が振り返って尋ねてきた。

「菜々ちゃん、お腹すいてる? ご飯どのくらい食べる?」
「あ、お茶碗半分くらいで」
「はーい」

 ダイニングテーブルにはデミグラスソースのハンバーグとミモザサラダがすでに用意されていて、キッチンでご飯をよそっている。せめて配膳の手伝いくらいはしようとお茶碗を受け取り、冷蔵庫から麦茶を出して二人分注いだ。

「ありがとう。食べよっか」

 たいした手伝いもしていない私に、お礼を言って笑ってくれる。

 部活をしていないのに夕食の時間まで帰らず、どう接していいか分からなくて無愛想な態度しかとれない自分が情けない。

 だけど、どうしても納得できなくて、向かい合ってご飯を食べている彼女を受け入れられない。

 再婚する人を否定しているわけではないし、子供のように父親をとられて寂しいと感じているわけでもない。彼女をいい人だと思ってるからこそ、なんで?と思ってしまう。

 どうして亡くなった奥さんがいる人を選んだの?

 お父さんは見た目こそ悪くないし優しいけれど、どこかぼんやりしていて男らしさからはかけ離れている。お茶目といえば聞こえはいいけれど、すっとぼけた性格だし、私だったら絶対に結婚したくないタイプだ。

 真央さんならお父さんみたいなおじさんじゃなくて、もっと若くてカッコいい人を選べるはずなのに。

 自分の中に降り積もる疑問と不満がお腹の中で徐々に膨らみ、今や息もできないほど身体中を圧迫している。

 幸せそうにしている人に対して不満を持つなんて、私はなんて心が狭いんだろう。

 だけど、お母さんだって病気になりたくてなったわけじゃないし、生きてお父さんとずっと一緒にいたかったはずなのに。

 お母さんの気持ちを代弁すればするほど、苦しくて身動きが取れなくなる。

 向かい合って食事を終えた後は、そのまま今日一日あったことを話すわけでも、リビングのソファでテレビを見るでもなく、すぐに部屋に戻る。

 それに対して思うことがあるだろうけど、彼女はなにも言わずに、でも少し寂しそうに微笑んで私を見送っていた。


 部屋に戻り、ベッドに転がっていたイルカを抱っこしながらスマホを確認する。

 すると、ラインの通知がきていることに気がついた。

「京ちゃんかな? 誰かバレーの子と代われたって報告とか?」

 緑のアイコンをタップすると、そこには思いがけない人物からのメッセージがあった。

「さ、佐々木先輩っ?」

 あ、違う、楓先輩。いまだに呼び慣れない。

 それにしても、まさか今日の今日で連絡がくるなんて。

【日野に確認したら、めちゃくちゃ喜んでた】
【テスト週間入る初日から四人で一緒に勉強する?】

 絵文字もスタンプもない、シンプルなメッセージ。それが楓先輩らしいような気がして、脳内で勝手に先輩の声で再生される。

 どうしよう、本当に一緒に勉強するんだ。どこで? どうやって? 先輩は理系だし、数学を教えてもらったりするのかな。

 あぁ、もう。舞い上がってる場合じゃない。私も早く京ちゃんに確認しなくちゃ。

 急いで京ちゃんに電話して今日あったことを説明すると、もちろんオッケーの返事がもらえた。

『ってか、菜々ってば! 私が先に戻った後、佐々木先輩と連絡先交換までしたの?』
「うん、なんか、流れで……」
『凄すぎるよ! ねぇ、やっぱり菜々は佐々木先輩が好きなんじゃないの? 今日だって、めちゃくちゃ挙動不審だったし。声かけられてドキドキしちゃったんでしょ?』
「え? 違うよ、そうじゃなくて……」

 ドキドキしていたのはたしかだけど、実は入学前にあまりよくない出会い方をしていたのがバレたんじゃないかと緊張していたのだ。

 それだけじゃなくて、図書室でじっと見ていたのに気付かれていたのではと思って挙動不審だったんだけど、どちらも京ちゃんに話していないので説明しようがない。

 別に隠したいわけじゃないけど、それを説明すると、どうしてそんな事故に巻き込まれそうになったのか、どうして毎日図書室にいるのかを話さなくてはならなくなる。

 父親の再婚を不満に思っていて、家にいるのが息苦しいだなんて、友達になって半年の相手からそんな重たい話をされれば、きっと困らせてしまうに違いない。父子家庭だと話すと、みんなどう返事をしていいのかわからないという顔をするのは、もう何度も経験済みだ。

 それに大好きな京ちゃんだけど、父親の再婚の話をして、仮に「お父さんが幸せならいいんじゃない?」なんて明るく言われてしまったらと思うと怖くて話せない。

 悲劇のヒロインぶる気はないけど、そんな簡単なことじゃない。きっと私の気持ちは伝わらない。自分ですら、どうしたらいいのかわからないんだから。

『……私には、言いたくない?』
「えっ?」

 まさか私の心の声が電話越しに伝わっているはずはないのに、京ちゃんの硬い声にドキッとした。

『菜々はなんていうか、秘密主義だよね。私は日野先輩を好きになった時、いちばんに菜々に話した。初恋だったし、どうしたらいいかわかんなくて、でも菜々なら笑わないで聞いてくれるって思ったから』
「京ちゃん……」
『でも、菜々は違うの? それとも、本当に佐々木先輩のことを好きっていうのは私の勘違い?』

 あ、そっちのことか、とホッとしかけて、慌てて京ちゃんに伝えようと言葉を選ぶ。

 噓はつきたくないけれど、だからって全部を正直に打ち明けるのは難しい。私を信頼してなんでも話してくれる京ちゃんに、どうしたらうまく伝わるだろう。

「あのね、たしかに楓先輩のこと気になってはいるけど、まだ恋愛っていう意味じゃなくて。だって私は京ちゃんみたいに美人でもスタイルがいいわけでもないし、私なんかが楓先輩を好きになっても、その、叶わないっていうか……」

 先輩を好きじゃない理由を並べてみる。声に出すと、なんて卑屈なんだろう。好きになっても報われないから、好きにならないようにしているなんて。

 だけど、実際に恋をするのに恐怖を感じているのも本心だ。それは楓先輩に対してだけじゃなく、恋愛そのものに対する不信感みたいなもの。

 両親はあれだけ仲がよかったのに、お母さんが死んで七年経った今、お父さんはもう別の人と結婚している。

 嫌いになったわけじゃなく、今も毎日お母さんの仏壇に手を合わせながら、そのあとすぐにあの人の作った朝ごはんを笑顔で食べている。

 私は耳にあてたスマホをぎゅっと握りしめ、机に置いてある家族写真に視線を向けた。

 どれだけ好きになっても、もしも恋が叶ったとしても、永遠に続く想いなんてないと、私はどこかで諦めているのかもしれない。

 それなら遠くでこっそり眺めているだけでいい。そうすれば、誰も傷つかない。

 気持ちが変わってしまったのを責めたり、永遠を信じて裏切られたりしない。

 だけど、そんな私の拗らせた思考回路を、初恋に頬を染める京ちゃんに話せるわけがない。

 そんな風に思っている一方で、京ちゃんの想いが実ればいいと願っているのも本音なんだから。

「あの、だからね、この前言ったみたいに、推しは遠くで――――」
「もういい」

 微妙な空気になりそうなのを察して、なんとか冗談にして流そうとした私の言葉を、京ちゃんの鋭い声音が遮った。

「話したくないなら、もういい」
「あっ」
「ごめん、今日は切るね」

 ポロン、と通話終了の情けない音が鳴る。

 どうしよう……。私がうまく説明できなかったせいで、京ちゃんを怒らせてしまった。

 日野先輩を好きになったと聞いた時、初恋でどうしたらいいかわからないと耳まで真っ赤に染めて相談してきた京ちゃんを見て、応援したい気持ちでいっぱいになった。

 私に話してくれたのも嬉しかったし、日野先輩が移動教室で一階の通路を通るたびに教室の窓から見下ろして、今日もカッコいいとはしゃぐのを可愛いと思った。

 京ちゃんはそういう感情を共有したいと思ってくれたのかもしれないのに、私はただ卑屈な言葉を並べて、彼女を拒絶したみたいになってしまった。

 違うのに。そうじゃないのに。

 バカだ、私。せっかく楓先輩がふたりの恋を応援するのを手伝ってくれようとしているのに、私がそれを壊してどうするの。

 京ちゃんとの通話が終わったスマホの画面を、楓先輩とのトーク画面に切り替える。どう返事しようか迷って、正直に話すことにした。

【京ちゃんを怒らせてしまったので、まだ日程の確認ができていません】
【ごめんなさい、もう少し待ってください】

 情けなさに涙が出そうになる。けれどあまり深刻な雰囲気にならないように、汗の絵文字と、パンダが可愛らしくごめんねのポーズをしているスタンプも一緒に送った。

 メッセージはすぐに既読がついた。もしかしたら呆れられたかも。そう考えるとどんどん気持ちが沈んでいく。

 すると、手の中のスマホが着信を知らせる。反射で通話をタップすると、「もしもし、菜々?」と低くて甘い、芯のある声が耳に届いた。

「楓、先輩……?」
『今、家?』

 唐突な電話と質問に、ドキドキする間もないまま答える。

「はい」
『家、どの辺?』
「えっ? えっと」

 私が最寄り駅を伝え、近くに親水公園があると告げると、先輩は納得したように『あぁ、あの辺か。今から行く』と言った。

「えぇっ?」
『公園ついたら連絡する。たぶん十五分くらいで行けると思う。出てこれるか?』

 わけもわからないまま約束をして電話を切り、十五分後。

 楓先輩は本当に私の家の近くの公園までやってきた。

 白いTシャツにデニムというシンプルな格好がモデルのように様になっていて、初めて見る私服姿にドキドキする。鮮やかなブルーのクロスバイクは驚くほどサドルが高くて、先輩って身長の半分は脚なのかもと、どうでもいいことを考えた。

「悪い、待たせた?」
「いえ、全然。あの、どうして……」

 長い脚を回して自転車から下りる先輩に問いかける。

 電話をくれたのはどうして? わざわざ家の近くまで来てくれたのは、どうして?

「俺のせいかなって、気になって」
「え?」
「テスト勉強、一緒にっていうの。もしかして余計なことするなって怒られた?」

 楓先輩は眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。

「それなら、俺が言い出したことだって言いに行く。俺が悪いんだし、ふたりがケンカすることないだろ」
「ちっ違う! 違います!」

 楓先輩の言いたいことを理解した瞬間、私は首がちぎれるほど横に振った。

 先輩はなにも悪くない。むしろ、ふたりの恋を応援する手助けをしようと提案してくれたんだから感謝しかない。テスト勉強を一緒にする話をした時の京ちゃんの声は、間違いなく嬉しそうだった。

「そうじゃなくて……」
「うん」

 口下手な私が話し出すのを、先輩は辛抱強く待ってくれた。

「……私がうまく話せなかったから、京ちゃんを怒らせちゃったんです」
「初めて菜々と話した俺でも、菜々が友達思いな子だって伝わったけど。怒らせる要素なんてある?」

 慰めているというより、本気でそう思って言っているんだと感じた。

「あの、今も……うまく話せないかも、しれないんですけど」
「うん。ゆっくりでいい」

 その真剣な眼差しに誘われるように、私は心の内にあった思いをぽつりぽつりと零していく。

「京ちゃんを……信頼してないわけじゃないのに、話せていないことがあるんです。言ったらどう思われるかな、とか、こんな話聞きたくないかもな、とか。考えたら上手に伝えられなくて」

 午後八時。陽が完全に落ちた薄暗い周辺を、大きな満月が照らしている。日中はまだ暑い日もあるけど、この時間になると心地よい風が肌を撫でていく。

 月明かりの下、向かい合って立ったまま、先を促す先輩の優しさに甘えて私は弱音を口にしていた。

「恋をしている京ちゃんを応援したいのは本当なのに、私は……自分の気持ちに嘘をついて、本音を話せなかった。京ちゃんは聞こうとしてくれたのに、それに応えられなかった。その噓がきっと、京ちゃんを傷つけちゃったんです」

 そう。嘘だ。私は嘘をついた。認めたくないだけで、口にしたらもう歯止めが効かなくなりそうで、京ちゃんにすら本当の気持ちを言えなかった。きっとそれを彼女は見抜いていたんだ。

 私は……。

 じっと話に耳を傾けていた先輩が、ゆっくりと口を開く。


「本音と建前って、みんなあると思うんだ。本心ばかり口に出すわけじゃない。テキトーに誤魔化したり、噓をついたりする」

 支離滅裂な私の話を静かに聞いてくれた楓先輩の瞳に呆れの色はなく、ただ包み込むような優しさだけがある。ひとつひとつ、ゆっくりと言葉を選ぶようにして話す彼の瞳を、私はじっと見つめていた。

「でも、それが全部悪いとは思わない。誰だって隠したいことはあるし、言わなくていい事実だってあるはずだから。言いたくないことを無理に言う必要はないし、それを暴く権利なんて誰にもない」

 月明かりに照らされた先輩が、どこか辛そうな顔をしてそう言った。それに、と続ける。

「菜々は、相手を傷つけるような噓は言わないだろ」

 普段寡黙でクールと言われている楓先輩が、私のために真剣に考えてくれている。それだけじゃなく、今日初めて話したはずの先輩が、私のなにもかもを知っているように断定した。

どうしてだろう? そんなふうに言ってもらえるほど、私との接点があったわけじゃないはずなのに。

「話してみればいい。俺に話したように」
「……え?」
「言いたくないことまで言う必要はない。全部を話せなくて申し訳なく思ってることも、橘さんの恋を本気で応援したいと思ってることも、噓をついて後悔している気持ちも、今話しただけで、俺にはちゃんと伝わった。それを、橘さんにそのまま話せばいいんじゃないか?」

 そうなのかな。全部を打ち明けられなくても、言える範囲で話を聞いてもらうだけでもいいのかな。

 正解なんてなくて、なにを選んでも後悔することがあるかもしれない。だけど、京ちゃんのことが大好きだからこそ、嫌われたくなくて色々考えてしまう。

『話したくないなら、もういい』

 電話口の京ちゃんの硬い声が蘇り、俯いて唇を噛んだ。

「……上手に、伝えられるかな」
「相手に真剣に向き合えば、きちんと伝わると俺は思う。うまく話そうとしなくても、彼女ならわかってくれるんじゃないか? 『サバサバしてて、気取ってなくて、めちゃくちゃいい子』なんだろ?」

 からかうような声音に、思わず顔を上げた。

 それは、私が必死に京ちゃんをアピールしようと、昼間に私が言ったセリフ。

 口の端を上げて笑った楓先輩に背中を押された気がして、私は大きく頷いた。


 翌日。登校して真っ先に京ちゃんに謝りたいと探していると、彼女の方から「ごめん!」と頭を下げられた。

「菜々は私のために色々協力しようとしてくれたのに、あんな態度悪い感じで電話切るなんて最低だった。ほんとにごめん」

 てっきり私が誤魔化すような噓をついたのを怒っていると思っていたのに、まさか先に謝られてしまうなんて。

「ううん。私の方こそごめんね。京ちゃんは私を信頼して色々話してくれたのに、私は上手に話せなくて」
「菜々は謝ることないよ。友達だからって、なんでも話さなきゃいけないなんてことないもん」
「うん。自分でもまだ整理がついてなくて、誰にも言えないことがあって。京ちゃんを信頼してないとかじゃなくて、ただ、どうしても言葉にできなくて……」

 まだ父親の再婚についての葛藤を言葉にして伝えられる自信がないし、誰かに話す気になれないのが正直な気持ちだ。考えるだけで苦しくなって、息がうまく吸えなくなる。そんな情けない自分を晒け出すのも恥ずかしい。

 私の表情を見た京ちゃんが焦ったように首を振り、慰めるように肩に手を置いた。

「大丈夫だよ。無理に話さなくても」
「でもね、全部をうまく話せないかもしれないけど、京ちゃんに聞いてほしい話があるの。私、噓をついてた」

 楓先輩に対する気持ちを自分で認めた今、一番に京ちゃんに打ち明けたいと思った。大きく息を吸って、ゆっくり吐く。本人に告白するわけじゃないのに、緊張で手がじんわりと汗ばんだ。

「わ、私ね、楓先輩が……好き。ちゃんと、恋愛的な意味で、好き」

 好き。好き。言葉にしてしまったら、もう止められない。

 初めて出会った時のあの優しさと、学校でのクールな雰囲気のギャップが気になっていた。

 それから目で追うようになって、めちゃくちゃカッコいい外見も、近寄りがたいほど寡黙で凛とした立ち姿も、日野先輩と一緒にいる時の砕けた表情も、全部に惹きつけられた。

 自分じゃつり合わないとか、いつかは気持ちが変わってしまうとか、色々言い訳を並べて認めないようにしてきたけど、実際に彼と話してみたらもうダメだった。

 友人に対する信頼の厚さも、初対面の後輩に対する優しさも、名前を呼ぶ低くて甘い声も、決めたらすぐ動く行動力も、悩みを真剣に聞いてくれる真剣な眼差しも、全部が私の心臓を潰しにかかってくる。

 言うことやることすべてがカッコよく見える。これはもう、見て見ぬフリなんてできなかった。

 好き。好き。振り向いてもらえる可能性が宝くじの当選よりも低くても、好き。

 私がぽつりと零した本音を、京ちゃんは目を瞠って聞いている。

「本当は、たぶん初めて見たときからずっと好きだったの。でも、私なんかが楓先輩を好きなんて言えなくて……」
「ねぇ。昨日も思ったんだけど、〝私なんか〟ってなに?」
「え?」

 京ちゃんはネコのようなくりっとした目で私をじろりと睨む。

「菜々は私の大切な友達なの。高校で初めてできた親友なの。〝なんか〟呼ばわりするなんて、菜々本人でも許せない。菜々を貶めるのは、菜々を大好きだって思ってる私のことも貶めてるのと一緒だよ」
「京ちゃん……」
「菜々は変に目立つ私を特別扱いせずに接してくれた初めての友達だよ。優しくて可愛くて、私の自慢の親友なんだから。って、もー! 朝っぱらからこんな恥ずかしいこと言わせないでよ―!」

 両手を当てた頬はほんのり赤くなっていて、京ちゃんが照れながらも本心を伝えてくれたのだとわかる。

 そっか。私が自分に自信がないと、私を好きでいてくれる人を悲しくさせちゃうんだ。

 京ちゃんが言ってくれたみたいに、自分を優しくて可愛いだなんて思えない。

それでも、京ちゃんがそう思ってくれるなら、私はそういう自分になれるように頑張りたい。

 美人で、優しくて、可愛くて、京ちゃんと親友なのを自慢したいのは私の方。思わずぎゅうっと抱きつきにいく。

「ありがとう、京ちゃん」
「ふふ、なんか照れるね」
「うん。でも嬉しい」
「ねぇ、菜々。もうひとつ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「あっ、テスト勉強のことだよね?」

 抱きついていた腕を緩めて京ちゃんを見上げると、ぐっと顔が近づいてきた。美人はどれだけ近くで見ても美人だな、なんて感心していると。

「四人でテスト勉強するのも、もちろんめちゃくちゃ楽しみなんだけど。それとは別に、菜々はいつの間に佐々木先輩を『楓先輩』なんて呼んでるわけ?」
「えっ」
「なによ、もしかして……もう付き合ったりしてるの?」
「そっ、そんなわけないじゃん! 名字が一緒で呼びづらいから名前でいいよって言われたからで……」
「え? それは佐々木先輩から言ってくれたってこと?」
「うん」
「じゃあ、佐々木先輩は菜々のことなんて呼んでるの?」
「……な、菜々って」
「きゃー!」

 握りこぶしを上下にブンブン振りながら黄色い声で叫ぶ京ちゃんを慌てて止める。教室中の視線が一気にこちらに向いた気がした。興奮気味の京ちゃんはそんなことお構いなしに、さっきよりも頬を上気させながら私の顔を覗き込んでくる。

「ちょっと! これは事情聴取が必要よね」
「な、なに、事情聴取って……」
「ちゃっかり名前で呼び合ってるなんて、私より菜々の方がよっぽど進展してるじゃん!」
「うぅ……そんなんじゃないってばぁ」

 呼び方ひとつでこの調子じゃ、昨日電話で話したあげく家の近くまで来てくれたと話したら、学校中に響き渡る声で叫ばれてしまいそうだ。

「それより、テスト勉強の予定も決めて先輩たちに送らないと」
「そっか。じゃあその相談も兼ねて、放課後にたくさん話そう! 菜々と恋バナできるなんて、めちゃくちゃ嬉しい!」

 満面の笑みの京ちゃんを見て、私も嬉しくなる。

『うまく話そうとしなくても、彼女ならわかってくれるんじゃないか?』

 昨日楓先輩が言っていた通りだった。全部をうまく話そうとしなくても、相手に真剣に向き合えば、きちんと伝えられる。

 昨日『気負わずに頑張れ』と言い残し、クロスバイクに跨って遠ざかっていった背中を思い出すと、また心臓がきゅうっと甘く痺れた。