「菜々! 日野先輩と佐々木先輩いる!」

 頭の高い位置で結んだポニーテールを揺らして、友人の京ちゃんが振り返った。

 教室の窓から下を覗き込む彼女の視線の先には、体操着姿でグラウンドへ向かう二年八組の生徒がいる。

 この学校は二年生から文系と理系に分かれ、一組から五組が文系、六組から八組が理系クラス。

 中でも五組と八組はそれぞれ特進クラスとされていて、進学校であるうちの学校の中でも成績のいい人たちが在籍している。

 二年八組といえば理系の特進で男子生徒が多く、イケメンクラスと名高い。

 中でも目を引くのが、日野先輩と佐々木先輩のふたりが連れ立って歩いている姿だ。

 日野先輩はアッシュブラウンに染めた髪をツーブロックにしていて、耳にはピアスがあいている。

 アイドルのように目がパッチリしていて顔立ちが整っているし、本人も誰に対しても愛想がいいから、実際にファンクラブがあると言われるほど人気がある先輩だ。

 対して佐々木先輩はどちらかと言えば寡黙で、少し近寄りがたい雰囲気。

 サラサラの黒髪に切れ長の瞳、私より三十センチは高そうな長身で、日野先輩に比べると少し怖そうな印象だけど、彼もまた学校中の女子から絶大な人気を誇っている。

 肩にブルーのラインが入った白い体操着に、シンプルな紺色のジャージ姿。普段ダサいと思っている指定の体操服だって、彼らが着るとおしゃれに見えてくるから不思議だ。

 ふたりは仲がいいようで、よく一緒に歩いている姿を見かけるし、実際同じ中学出身なのだそう。

「日野せんぱーいって呼んだら、こっち向いてくれるかな?」
「京ちゃん、呼べるの?」
「いや、呼べないけどさ」

 京ちゃんが小さく肩を竦める。

 彼らの周りには同じクラスの女子四人が取り囲むようにして歩いているから、とても三階から声をかけるなんてできる雰囲気ではない。

 もしそんなことをしようものなら、あの先輩たちから睨まれてしまいそう。

「学校のアイドル相手だと、ライバルが多いよぉ」
「大丈夫。京ちゃん美人だし、性格もいいんだもん。せっかく一緒の委員会で話せるようになったんだし、これからだよ!」

 スラリとしたスタイルに目鼻立ちの整った京ちゃんは、外を歩くとモデル事務所からスカウトの声がかかるほどの美人さん。

 けれど気取ったところがなく、高校入学後、引っ越してきたばかりで同じ中学の友達がいない私に声をかけてくれたのがきっかけで仲良くなった。

 言いたいことはハッキリ言うタイプなしっかり者の京ちゃんと、思ってることをうまく伝えられない口下手な私だけど、なぜか気が合う。

 一緒にいると楽しいし、なんだか自分まで明るくしっかり者になれた気がする。高校生活がこんなにも充実しているのは彼女のおかげだった。

 そんな京ちゃんは、実はこれまで初恋もまだだったという可愛らしい一面もあって、今は日野先輩に初めての恋をしている真っ最中。

 私も恋愛経験なんてないから話を聞くしかできないけど、京ちゃんの初恋が実ればいいなと願っている。

「菜々は? 佐々木先輩と付き合いたいって思わないの?」
「えっ、私?」

 急に話を振られて、意味もなくドキッとする。

 京ちゃんと喋りながら視線を窓の下に向けると、降り注ぐ太陽の光が佐々木先輩にだけ強く当たっているかのようにキラキラ輝いて見えた。

 端正な容姿で人気の佐々木先輩だけど、注目されるのは外見だけではない。

 理系の中でも特進クラスと言われる八組に在籍し、成績は常にトップクラス。

 中学三年の時に県大会で優勝したという弓道を高校でも続けていて、この夏に引退した三年生から引き継いで主将になったらしい。

 まさに文武両道。少女漫画にでてくるヒーローみたいな男子で、付き合いたいなんておこがましいことは思ったこともない。

 私とは別世界の人。先輩とはいえ同じ学校に通っているのに大げさだけど、そのくらい遠い存在だ。

「だって菜々、よく佐々木先輩の方見てるし。好きなのかなって」
「ううん、違う違う! そういうんじゃないよ」
「えー? そうなの?」

 好き、とか、そういうんじゃなくて。

 ただ、怖そうな雰囲気を纏っているのに、実はとても優しいと知っているから、つい先輩を見かけると目で追ってしまうことが増えただけ。

 私は心の中で自分に言い聞かせながら、ある出来事を思い出していた。

 あれは高校受験の合格発表の翌日だった。午前中からの雨が止んだものの、まだ空はどんよりと厚い雲に覆われた寒い冬の日。

 無事に志望校に合格したというのに、私の心の中はぐちゃぐちゃだった。

 どうして? なんで?

 悲しみや怒り、それを口に出せない自分への苛立ち、不安やもどかしさ、色んな感情が渦巻いて、周りどころか前も見ずにフラフラと歩いていた。

 だから横断歩道の信号が赤なことにも、横から大きなトラックが猛スピードで迫っていることにも気付いていなかった。

 トラックがけたたましいクラクションを鳴らしてようやくハッとした時にはもう遅くて、私は赤信号の横断歩道のど真ん中で固まるように立ち尽くした。

 もうダメだ。このまま死んじゃうかもしれない。

 そう思って身構えたのと同時に、バカな考えが一瞬よぎった。

 これで家に帰らずに済むかもしれない。お母さんのところにいけるかもしれない。

 今思い返しても、信じられない考えだ。そのくらい、突然お父さんから告げられた事実はショックだった。

 けれど、トラックに轢かれて死ぬ未来は訪れなかった。

 誰かが、私の腕を思いっきり引っ張って一緒に歩道に転がったから。

 おかげで間一髪事故にはならず、トラックの運転手に窓から「危ねーだろ!」と怒鳴られるだけで済んだ。

 その間、私は運転手に謝ることも、助けてくれた誰かにお礼を言うこともできなかった。

 ただ自分の置かれている状況や、一瞬でも頭をよぎった恐ろしい感情や、それ以外にもたくさんのことが一気に押し寄せてきて、なにも言葉がでなかった。

 その代わりに、呆然と見開く瞳から涙がぽろぽろと流れて止まらない。

 路上に座り込んだまま、ただひたすら泣いた。

 どのくらい時間が経ったのかわからないけれど、ようやく我に返って気付いたのは、助けてくれた誰かが、ずっと私を守るようにそばにいて、手を握っていてくれたこと。

 二月の冷え切った空気の中、寄り添ってくれる体温や、握ってくれた手の温かさが、この時の凍りついた私の心を癒やしてくれた。

 おそるおそる顔を上げると、目の前には私が合格したばかりの高校の制服を着た男子生徒がいた。

 意志の強そうな眉に切れ長の目、私よりはるかに大きな身体も、普段あまり男子と接してこなかった私には少しだけ怖そうに見える。

 迷惑をかけてしまったし、怒られるかもしれない。

 私は不安に感じて縮こまったが、彼は躊躇いがちに私の頭にぽんと大きな手をのせて、安堵のため息とともに微笑んだ。

 切れ長の目を少しだけ細め、すべてを包み込んでくれそうな包容力とでもいうんだろうか、そういう優しくて柔らかい表情だった。

 頭の中が真っ白になって、彼から目を逸らせなかった。

 喉の奥がキュッと絞られて、心臓がさっきまでとは違うリズムでドクドクと脈打っているのがありありとわかるくらい高鳴って、なんだか息が苦しくなったのを覚えている。

 事故にならなくてよかったとホッとしたのとも、これまで心の中を占めていた苦しくてやりきれない感情とも違う、また別の言葉にならない感情だった。

『ごっごめんなさい……っ!』

 恥ずかしくて、申し訳なくて、情けなくて、ただ謝るしかできず、私はお礼を言うのも忘れて、その場から走って逃げてしまった。

 その二ヶ月後、高校に入学した私は、助けてくれた彼が学校で絶大な人気を誇っている佐々木先輩だと気付き、お礼を言わなくちゃと思いながらも、いまだにただ遠くから見るしかできないでいる。

 いつも人の中心にいて、とても声なんてかけられないし、もしも先輩があの時の自分の醜態を覚えていたらと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

 先輩の優しさや、握られた手の温かさを忘れられない。けれど近くでしゃべったりしたら、緊張と羞恥心で心臓が破れてしまうかもしれない。

 事故に遭いかけたところを先輩に助けられた話を、京ちゃんには伝えていない。

 だから今の私の感情をどう説明したらいいのかわからなかった。

「うーん、なんていうか、推しは遠くから愛でていたいというか……」
「えー、なにそれ!」

 半分冗談、半分本気で言った言葉に、京ちゃんはケラケラと笑う。

〝推し〟なんて先輩に使うのは失礼かもしれないけど、この気持ちを京ちゃんのように恋心に昇格させるのは、正直怖い。

 学校で一、二を争う人気者の先輩に対し、私は至って平凡な女子高生でしかない。

 京ちゃんのように美人でもなければ、スタイルがいいわけでもない。

 女子の平均身長に、太っても痩せてもいない体型。中学時代にソフトテニス部だったせいで肌は焼けていて白くないし、肩まで伸ばした髪は真っ黒で太いせいでスタイリングがしにくい。

 顔立ちはよく小動物系だって言われるけど、人より多少黒目が大きいだけ。

 成績も平均より少し上くらい、運動だって苦手ではないけど、すごくできるわけでもない。

 きっと私という人間を文字で書き表そうとしても『特記すべきことなし』で終わってしまう。

 卑屈になっているわけではないけれど、こんな私が佐々木先輩に恋心を抱いたとして、それが実る確率なんて、きっと宝くじが当選するよりも低い。

 だからこそ、こうして遠目で見ているくらいでちょうどいい。

 それに、どれだけ大切に想ったところで、それが永遠に続くわけじゃないって、私は知ってしまったから……。

 気分が沈みそうになるのを、無理やり口角を上げて京ちゃんに笑顔を向けた。

「それより、二学期にはもっと日野先輩に近づけるように頑張るんでしょ?」
「うーん、なにから頑張るべきかなぁ。委員会が一緒なだけじゃ、あんまりしゃべる機会もないよー。なにかいい案ない?」
「えっ? なんだろう……部活と委員会以外、先輩との接点なんて思いつかないね……」

 日野先輩は陸上部で、京ちゃんは美術部。運動部と文化部では、なにも関わりがない。

 ふたりは同じ美化委員だけど、集まりは月に一度だけ。清掃区域やグループは学年で分かれているらしく、こちらも近付くチャンスはないらしい。

 せっかく京ちゃんが私を頼ってくれたのに、結局なにもいい案が出せない自分がもどかしい。

 それでも京ちゃんは「よし、じゃあもしも廊下で見かけたら話しかけてみる!」と意気込んでいる。

「うん。頑張って!」

 応援するしかできないけど、彼女のこの健気な可愛らしさが日野先輩にも伝わればいいな、と本気でそう思った。