【今朝は逃げ出してごめんなさい。あのあと家に来てくれたとお父さんから聞きました。もしも先輩が許してくれるなら、もう一度会って話がしたいです】

 私は自分の部屋でイルカのぬいぐるみを抱えながら、もう一時間以上スマホとにらめっこしている。

 あのあと、お父さんと家に帰ってくると、真央さんがいつも通りの笑顔で待っていた。

 彼女がお母さんの手紙について知っているかどうかはわからない。けれど、私とお父さんがなにを話してきたのか詮索することなく、ただ温かく「おかえりなさい」と迎えてくれた。

 それがどれだけ凄いことなのか、今の私にはよくわかる。

 だから照れくさかったけど、笑顔で「ただいま」と返すと、真央さんが泣き出してしまって驚いた。

「ごめんね、なんか嬉しくて……気にしないで」

 慌てて涙を拭ってキッチンへ向かった真央さんを見て、これまでの態度を改めて反省した。

 私が自分勝手に逃げてきたことで、相手をたくさん傷つけている。京ちゃんに本音を言えなかった時も、お父さんに積もり積もった感情を爆発させた時もそう。

 そして、楓先輩に対しても同じだ。

 初めて先輩に出会った日から、私はずっと彼から逃げっぱなしだ。

 事故から助けてもらった時は、泣きじゃくった恥ずかしさからお礼も言わずに逃げ出した。

 昨日の保健室でも、今朝の公園でも、先輩は私に触れればなにを考えているのかわかるはずなのに、それをしないで私に「きちんと話そう」と言ってくれた。

 なのに、私はそれを突っぱねて、自分の主張だけを押し通して逃げてばかり。

 原口希美さんの存在を知り、自分たちを両親や真央さんに重ねていっぱいいっぱいになっていたけれど、ようやく両親については気持ちの整理ができた。

 真央さんは大きな覚悟をもってお父さんといる道を選び、お父さんはお母さんを大切に思ったまま、これから先の人生を真央さんと歩もうと決めた。それをお母さんは祝福しているのだと知って、私の心は少しだけ軽くなった。

 そして私は……楓先輩ともう一度話をしたいと思った。

 何度も私と話そうとしてくれた先輩だけど、もうさすがに呆れているかもしれない。「触らないで」なんて酷いことを言ったり、勝手に別れを切り出して逃げたり、振り返ればめちゃくちゃ身勝手な言動ばかりだ。

 だけど、お母さんの手紙に気付かされたことがある。

『未練がひとつもない人生なんて難しいけど、できるだけ後悔しない道を選んで生きてほしい』

 このまま楓先輩とお別れして、私は本当に後悔しない……?

 そう考えたら居ても立っても居られず、私は自分の部屋に入るなりスマホを手にして先輩にメッセージを打ち始めた……のだけれど。

「なんて送るのが正解なの……」

 私はイルカにウエストができるほどキツく抱きつき、足をじたばたと動かした。

 あれだけ自分勝手に言い逃げしておいて、どんなメッセージを送ったらいいのかわからず、文章を打っては消し、打っては消し、を繰り返している。

「まずは謝って……マフラーのお礼を言う? いや、それは今じゃない気がする。もう一度会って話したいって素直に言うべきだよね」

 結局、最初に打った文面をもう一度作り直し、えいっと勢いをつけて送信マークをタップする。

 今は授業中だし、すぐに返事は来ないだろう。もしかしたら、無視される可能性だって……。

 そう思いながら自分の送ったメッセージを眺めていると、数秒も経たない間に既読マークがついた。

「えっ……!」

 私は驚いて画面を食い入るように見つめていると、すぐにメッセージが送られてきた。

【俺も話がしたい。今日は部活休む。菜々の家の近くまで行くから】

 相変わらず言うべきことを簡潔に書いてくる先輩のメッセージにホッとする。だけど今は授業中のはずなのに、スマホなんて触ってて大丈夫なのかな?

 もしかしたら、私を心配してずっとスマホを手放さずに気にしてくれていたのかもしれない。うだうだと考えていないで、もっと早くメッセージを送るべきだったのに。

【心配かけて、本当にごめんなさい】

 帰り際にお父さんが言っていた。家に来た時の楓先輩は『自分の不用意なひと言で菜々を追い詰めてしまった』と話していたと。

 私のために部活を休ませてしまうのは申し訳ないと思ったけれど、部活を終えたあとに会うとなると、かなり遅い時間になってしまう。

 なるべく早く話がしたくて、今日だけは先輩の厚意に甘えようと、私は続けてメッセージを打った。

【学校が終わる時間に、親水公園で待ってます】

 もう逃げない。

 ちゃんと自分の気持ちを話して、先輩からも話を聞くんだ。

 そう心に誓って、私は昼食の支度を手伝うために、一階へ下りていった。



「ごめん、待たせた?」

 ブルーのクロスバイクに跨った先輩が公園についたのは、午後三時半を少し過ぎた頃だった。

「いえ、全然」

 初めてこの公園に先輩が会いに来てくれた時も、同じような会話をした。まだ少し夏の名残があった頃、会ったばかりの私のために話を聞きに来てくれた先輩に戸惑いながらも、その優しさに急速に惹かれていったのを思い出す。

「寒くないか? これ買ってきた」

 手首に下げたコンビニの袋から、温かいレモンティーが差し出された。

「ありがとうございます。あったかい」

 近くのベンチにふたりで座った。もらったペットボトルを頬に当てながら、どうやって話を切り出そうかと考える。

 伝えたいことや聞きたいことがありすぎて、気持ちがうまく纏まらない。

 先輩を呼び出しておきながら、いざ話そうと思うと言葉が出ないなんて。私は徐々に焦ってくる。

「あの、あの……私……」
「菜々。大丈夫、ゆっくりでいい」

 そう告げる先輩の優しさは、ここで初めて弱音を聞いてくれた時と全く変わらない。

 私はこくりと頷き、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。

 先輩から逃げ出したあと、今年の三月まで住んでいた街へ行っていたのだと話すと、先輩は「そっか」と納得したように頷く。

「先輩が伝えてくれたおかげで、お父さんが迎えに来てくれました。そこでお父さんの本音を聞いて、お母さんからの手紙を受け取ったんです」
「手紙?」
「私が……恋を知ったら渡すようにと、お母さんが生前お父さんに託していたらしいです」

 私に恋を教えてくれた張本人に話すのはめちゃくちゃ恥ずかしい。両手で口元を隠しながらもごもごと話すと、隣の先輩も心なしか少し耳が赤く染まっている。

「お母さんの手紙を読んで、拗らせていた考え方を改めました。楓先輩、言ってくれましたよね。『菜々のお母さんは、お父さんの幸せを裏切りだって思うような人なのか?』って」
「いや、あれは……菜々の気持ちも考えずに、無神経だった」

 後悔を顔に滲ませる先輩に、私は笑顔で首を横に振った。

「いえ、いいんです。その通りでした。お母さんは、もしお父さんが再婚するのなら応援してあげてって、手紙に書いていたんです」

 そう伝えると、先輩は驚いた顔をしている。

 お父さんと土手で交わした会話や、お母さんからの手紙の内容を先輩に話した。そうすることで、より両親の、特にお母さんの思いを客観的に見つめられた気がする。

『恋をすると、彼とずっと一緒にいたいよね。ふたりで幸せになりたいって思う。

 その恋が愛になるとね、ただその人の幸せを願えるようになる。自分よりも、相手が幸せになってくれたらいいなって感じるの』

 恋と愛の違いを考えたことなんてなかったし、私はまだ恋を知ったばかりで、お母さんの思いを受け入れることはできても、全部を理解できたわけじゃない。いつか大人になったら、お母さんの言う〝愛〟がわかるようになるのかな。

 私が話し終えると、楓先輩は長い息を吐き、じっとなにかを考えた様子だ。

「……優しくて強い、素敵なお母さんだな」

 お母さんを褒められたのが嬉しくて、私は笑顔で大きく頷いた。

「はい」

 幸せに生きていくために誰かを好きになることは、決して裏切りではない。永遠に故人を偲んで生きていく道もあれば、新たに伴侶を見つけて寄り添って歩む道もある。

 お父さんや真央さんと本音で話し、お母さんの深い愛情の詰まった手紙を受け取った今、ようやく受け止めることができた。

 私は大きく息を吸い込み、ふうっと静かに吐き出してから、ずっと聞くのが怖かった彼女について尋ねた。

「……原口希美さんについて、聞いてもいいですか?」
「うん。俺も、菜々に話したいと思ってた」

 そう告げられ、不安と緊張から胸がドキドキして落ち着かない。

 だけど、きちんと聞かなくては。これから自分がどうすれば後悔しないのか、どうしたら幸せになれるのか、しっかりと考えるために。

「希美は同じマンションに住んでた幼なじみで、元々母親同士が交流があったらしい。俺の両親が俺の力を知ってからは、仕事を理由に頻繁に希美の家に預けられてた。兄妹みたいに一緒に育ったんだ」

 楓先輩が話してくれたのは、幼い頃からの希美さんとの思い出。

 活発で運動神経のよかった彼女はずっと陸上の選手だったことや、勉強はあまり得意ではなかったこと、激辛好きで食事にはなんでもタバスコを入れていたことなど、まるで昨日も会っていたかのように淀みなく話す。

「うちの高校を受けたいって言い出した時は、俺だけじゃなく希美の両親も無理だって説得してたな。でもあいつ、『あの制服着てイケメンの彼氏を作る』って聞かなくて。結局部活を引退したあと、俺が勉強を教えてた。不純な動機だったくせに、たった三ヶ月でめちゃくちゃ成績が上がったんだよ」

 希美さんの明るい人柄ゆえか、楓先輩も柔らかい表情で話している。彼女に会ったことのない私も思わず笑みが零れた。きっと友達も多くて、とても素敵な人だったんだろう。

 ……ん? あれ、先輩、今なんて……。

「イケメンの、彼氏を作る……?」
「そう。可愛い制服着て、髪伸ばして、イケメン彼氏作って青春を謳歌したかったんだって。不純だろ」
「え……だって希美さんは、楓先輩と付き合ってたんですよね……?」

 希美さんには、可愛い制服に頼らなくてもずっとそばに〝イケメンな彼氏〟がいたはずなのに。

 私は不思議に思って先輩を見上げると、片手で顔を覆って「やっぱりか……」と大きなため息をついている。

「なんで変な誤解を生んだのかわかんないけど、俺と希美は単なる幼なじみ。むしろ家族みたいなもんだよ」
「家族……?」
「言ったろ? ガキの頃からずっと一緒に育ったんだ。今さら女子として見たりしないし、向こうだって一緒だよ。中学の時は一緒に帰るだけで周りから『付き合ってんの?』とか言われて、鬱陶しかった記憶しかない」

 本当に煩わしそうな顔をして言う先輩に、私は唖然とする。

 希美さんは、楓先輩の恋人じゃなかった……?

 日野先輩から話を聞き、それを確かめることなく鵜呑みにしてしまった。学校を休み、飛行機を使って命日当日にお墓参りに行くくらいだから、きっととても大切に想っていた恋人だと信じて疑わなかった。

「もしかして日野から聞いた希美のことって、それ?」
「……はい」
「悪い。菜々が噂を聞いて苦しむんだったら、ちゃんと中学の頃に誤解を解いておけばよかった。日野が勘違いするほど噂が広がってたのか……」

 先輩は後悔を滲ませ、口元を歪めた。

「希美が事故に遭った直後の俺はかなり虚ろだったと思う。現実を受け止めきれなくて、受験勉強どころじゃなかった。それもあって付き合ってるって噂が真実味を増したのかもしれない。日野と今みたいに話すようになったのも、実は高校に入ってからなんだ」
「そうだったんですね」

 とても仲が良さそうだし、中学が同じだと知っていたから、付き合いは長いのかと思っていた。

「じゃあ、恋愛する気がないとか、忘れられない人がいるって、日野先輩に話したのは……?」
「こんな力があって、ずっと他人と一線を引いてた。表面上は仲が良くても、なんでも話せる相手はいなかったし、誰かを好きになるなんて考えたこともなかった。それに……希美が死んだのは自分のせいだって思ってた」

 強烈すぎる言葉に、一瞬意味が理解できず、私は固まったまま先輩を見つめた。

 思いがけない事実を連続で告げられ戸惑ったが、私は一旦感情を横に置き、聞き役に徹することにする。今は口を挟むべきではない気がした。

「あの日、希美と一緒に本屋に行く約束をしてた。でも俺は友達と話し込んでて、すぐに追いつくからって希美だけ先に行かせた。その時、事故が起きた」

 想像するだけで辛い現実が希美さんを襲った。居眠り運転の車が起こした事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。

 それを知った時の先輩の衝撃はどれほどのものだったのだろう。ほんの数分前まで学校で顔を合わせていた幼なじみが、突然命を奪われてしまっただなんて。

 ショックなんて言葉では言い表せないほどの絶望が、中学三年生だった先輩の肩にのしかかったはずだ。

 けれど、それは決して先輩のせいではない。

「俺が約束通り一緒に行っていれば。教室で待ってろと引き止めていれば。考えたってどうしようもないことを考えては俺のせいだって自分を責めたし、希美が行きたがってた学校に行くために勉強することにも罪悪感が湧いた。どうせなら親に疎まれてる俺が死ねばよかったのにって思ってた」
「先輩……っ!」

 私は思わず先輩の手を握り、ふるふると首を振った。

 口を挟まずに聞いていようと思ったのに、あまりに悲しいことを淡々と言うから、我慢できずに話を遮り、彼の手を握ってしまった。

 ――――そんな悲しいことを言わないで。

 ――――事故は先輩のせいなんかじゃない。

 ありきたりなセリフは聞きたくないだろう。

 だけど私の必死の形相からも、握った手からも、思っていることはすべて伝わってしまっているはずだ。

「ご、ごめんなさい……っ」

 咄嗟に引こうとした手を、楓先輩が優しく包んだ。

「やっぱり菜々の心の声は、優しさで溢れてる」
「……え?」
「口にしなくても心から俺を心配してくれてるって、ちゃんと伝わってる。ありがとう」
「そんな、私は、なにも……」
「今も希美をひとりにした罪悪感は胸にある。きっと一生抱えて生きていくんだと思ってる。でも、こうしてそれを口にできるのは、菜々のおかげなんだ」
「わ、私……?」

 先輩は包み込んだ手をほどき、指を絡めて繋ぎなおす。いわゆる恋人繋ぎに、こんな状況なのにドキッと心臓が高鳴った。

「菜々は覚えてないと思う。俺たちが本当に初めて出会った日のこと」

 ――――本当に、って? それは、あの事故から助けてくれた日じゃないってこと?


 楓先輩が語ったのは、希美さんが亡くなった直後。先輩が中学三年生、私が二年生の頃だという。

 道端でバッグの中身を散らばらせてしまったところに、私が通りかかったらしい。

「希美の形見の参考書を拾ってくれた女の子の優しさに勝手にイライラして、八つ当たりしたんだ。『俺のじゃない。その参考書の持ち主は、俺のせいで死んだんだ』って、見ず知らずの女の子に言ったんだ。今思えば、サイテーだよな」

 自嘲めいた笑顔に、胸がぎゅっと苦しくなる。

「でもその女の子が言ってくれた。『この参考書の持ち主は、あなたがそんな辛そうな顔をするのを望んでいないと思います』って」

 先輩の話を聞きながら、うっすらと記憶が蘇ってきた。

 たしか中学生の頃、自分と同じように大切な人を亡くしたであろう男の子と出会ったことがある。

 私は天国で見守っているお母さんに心配をかけないよう、笑顔で生きていくべきだと思っていた。自分勝手な正義感でその男の子にもそう言ったら、目の前の男の子は一筋の涙を流した。泣かせてしまったと焦って、私は慌てて謝ってその場を走り去った気がする。

 その男の子が、楓先輩だったということ……?

 絶句して見つめると、先輩は小さく笑って頷いた。

「菜々は、いつも俺から逃げていく」
「う……ごめんなさい、本当に」

 身に覚えがありすぎて項垂れると、繋いでいる手と反対の手がぽんぽんと頭を撫でた。

「きっと同じように大切な家族を亡くして、それを乗り越えた菜々の言葉だからこそ、俺の心に刺さったんだと思う。おかげで少しだけ前向きになれた。それに、本音と口にする言葉が違う人間ばかりだと悲観してたけど、菜々は違った。余計なことを言ってしまったと謝りながら、心の中で俺にエールを送ってくれた」
「エール……?」

 心の中で何を思っていたかなんて、全然覚えていない。

 私が首をかしげると、先輩が当時を思い出すように目を伏せた。

「俺が辛い経験から立ち直れるようにって、そう心の中で願ってくれた。受験頑張れってエールをくれた。菜々のおかげで俺は前に進めた。菜々が、俺をこの世界に引き止めてくれたんだ」

 思ってもみなかった真実に目を見開く。先輩は、偶然言葉を交わしただけの私をずっと覚えていてくれたの……?

 私はふと、京ちゃんとふたりで二年八組に行った時の楓先輩の驚いた様子を思い出した。

『あ、君……!』

 あれは事故の時のことを覚えていたわけじゃなくて、その時の中学生の女の子が私だって気付いてくれたから……?

「うん。俺の忘れられない子は、中学生の頃の菜々のことだよ。ずっともう一度会いたいって思ってた」

 彼は真っ直ぐな眼差しを向けて、噛みしめるように言った。

「希美に恋愛感情はなかったけど、俺にとって両親以上に近い家族のような存在だった。命日には会いに行くし、今も大切に思ってる」

 私はゆっくりと頷いた。

「だけど俺が初めて自分から触れたいと思ったのは、守りたいと思ったのは、菜々だけだ。この力のせいで嫌な思いをさせることもあるかもしれない。でも、菜々を諦めたくない。菜々が好きだ」

 繋いだ手がぐっと強く握られる。

 ストレートに気持ちが伝わってくる真剣な告白に、目頭が熱くなった。

 私も、その思いに応えたい。

「私も……楓先輩が好きです」

 緊張と恥ずかしさで声が震えた。だけど伝えなくては。こんな風に真っ直ぐに私を想ってくれる人には、きっと二度と出会えない。

「散々逃げておいて、今さらって思われるかもしれないけど……先輩が好きです」
「菜々……」
「先輩に忘れられない人がいるって知って、お母さんを忘れていないのに真央さんと再婚したお父さんと重なったんです」

 私のせいで大切だった人への想いを薄れさせるのが怖かったし、他の誰かを想っている先輩を受け入れられる自信もなかった。理不尽に命を奪われた希美さんに嫉妬する醜い自分に耐えられなかった。

 なにより、それを先輩に知られて嫌われるのが怖かった。

 私が先輩から逃げた理由をひとつずつ吐き出していくのを、全部受け止めるようにじっと聞いてくれている。

「一方的に逃げるしかできない私に、先輩はきちんと話そうって言ってくれた。私に触れればなにを思ってるかわかるはずなのに、それをしなかった」
「そんなの当然だろ」
「当然だって思える優しい先輩が好きです。心の中を読まれるのは恥ずかしいし、少しだけ怖いと思うこともあるかもしれない。でもそれは先輩が怖いんじゃなくて、嫌われないか不安なだけで」
「嫌うわけがない」

 私の言葉に被せるように、先輩が言った。

「素直で真っすぐで、思いやりがあって、でも臆病なところもあって、誰よりも可愛い。そんな菜々を嫌いになるわけがない」
「か、買いかぶり過ぎです……。心の中で嫌なことを考える日だってありますよ」
「わかってる。それで俺が菜々を嫌うことはないけど、聞かれたくないのなら絶対に触れない。この前みたいに触るなって言ってくれていい。だから、これからも一緒にいたい」

 ずっと他人と線を引いてきたという先輩が、私を選んでくれた。一緒にいたいと言ってくれた。

 それがなにより嬉しくて、私は何度も頷いた。

「私も、先輩と……ずっと一緒にいたいです」

 そう告げながら、ふとお母さんの手紙にあったフレーズを思い出した。

「私は、楓先輩と恋がしたいです」

 唐突に切り出した私の言葉に、楓先輩が首をかしげた。

「お母さんのように大切な人の幸せを願えるのが〝愛〟なんだとしたら、私はまだ愛を知らないんだと思います」

 自分よりも相手の幸せを願う気持ちはとても健気で、儚くて、強くて、美しい。お母さんの手紙を読んで、そう思った。

 大人になればわかるものなのか、限られた人にしかたどり着けないものなのか、私にはわからない。

 もし今、私が命を失ったとして、先輩に『他の人と幸せになって』と言えるのか。答えは『NO』だ。

 自分よりも相手の幸せを願う強さも美しさも、私は持っていない。ただ自分勝手に相手を、楓先輩を好きでいることしかできない。

「愛じゃなくていい。まだ恋をしていたい。そう言ったら、先輩はどう思いますか?」

 驚いた顔をしたあと、先輩は笑った。とても嬉しそうに、とても幸せそうに、笑った。

「俺は菜々とずっとふたりでいたい。ふたりで幸せになりたい。俺も、菜々とずっと恋をしていたい」

 私たちはもう子供じゃない。たくさんの悩みや葛藤を抱えながら生きているし、本気で人を好きになれる。一生に一度の恋ができる。

 でもきっと、愛を語れるほど大人じゃない。それでいい。それがいい。

 私は、愛にならない恋がしたい。