* * *
十月中旬。中間テストが無事に終わった。
先輩に教えてもらったおかげで全体的に手応えがあったし、今日返ってきた数学のテストは今までで一番点数がよかった。
それは京ちゃんの英語も同じだったらしく、嬉しそうに日野先輩に報告していた。
私もこれなら楓先輩に報告できるとホッとしたのと同時に、ひとりで図書館に向かわなくてはならない寂しさを感じている。
テストが終わったから放課後のバスケの練習も再開したけれど、今日はみんな部活優先の日なのでそれもない。
先週はずっと中央の席に四人で座っていたのが、一番奥のすみでひとりぼっち。
いつも以上に人が少なく、今までは快適だと感じていた静かな空間が急に虚しく思えて、私は珍しく下校時間よりも前に帰路についた。
家に帰ると、まだ十八時前なのにお父さんの革靴がある。
いつも通り「ただいま」と玄関をあけ、階段下にバッグを置こうとしてやめる。
洗面所で手を洗ってからリビングに顔を出すと、ソファに座っているお父さん達が揃ってこちらに「おかえり」と笑顔を向けてきた。
それに同じような笑顔を返すことはせず、「ただいま」と小さく頷くだけ。
半年も経てば、こうしてお父さんの隣にお母さんではない人がいるのに慣れてくる。
その〝慣れ〟がお母さんを裏切っているような気がして、この家では笑うどころか、息もうまく吸えない。
「……お父さん、今日は早いね」
「うん、たまにはね」
「ちょうどよかった。これ」
私はスクールバッグの奥底から、提出日間近のプリントを取り出した。ずっとどちらに渡そうか悩んでいたけど、ふたり揃っているのならちょうどいい。
「あぁ、三者面談か。この前受験がおわったと思ったのに、もう進路を聞かれるのか。最近の子は大変だね」
「あの、ごめん。出すの忘れてて、明後日までに提出なんだけど……来れる?」
どちらの顔も見ずに、誰が、とも言わず尋ねる。
だって、お父さんに仕事を休ませるのは申し訳ないと思う一方で、真央さんに来てもらうのは気まずいと感じているから。
「十二月の頭から中旬までの間か。うん、大丈夫。仕事の調整がつくようにしておくから、どの日程でも大丈夫に丸つけて出していいよ」
私の葛藤をよそに、プリントを見たのはお父さんだけで、隣に座る真央さんに相談することもなくそう言った。
「お父さんが……来るの?」
「そのつもりだけど。なんで?」
「ううん。学校の行事で仕事休んでもらうの、中学で終わりだと思ってたから。ごめんね」
「なに言ってるんだ。高校は授業参観もないし、体育祭とか文化祭にも来なくていいなんて言うから寂しいくらいだよ」
私を気遣っているわけではなく、本気でそう思っているお父さんが大人気なく拗ねた口ぶりで抗議してくる。
小学校の頃から、お父さんは学校行事に参加する際、どこまでも全力投球だ。
小学二年の頃、親子競技の大玉転がしに参加したお父さんがひとり白熱し、私を置いてひとりでゴールして、お母さんにこっぴどく叱られていたのが忘れられない。
『洋ちゃんが全力で楽しんでどうするの!』
『だって、ついー』
結局、叱られて泣きそうなお父さんの顔を見て私が笑って、お母さんが豪快に笑ってその場を締める。いつものパターンだった。
五月にあった体育祭は父兄の見学が認められていたけど、ほとんど来る人はいないと聞いていたし、真央さんとふたりで来られたらどうしていいかわからなかったから、絶対に来ないよう釘を刺したのだ。
「親なんてほとんど来てなかったよ。来ても参加する競技もないし」
「菜々の勇姿を見に行きたかったんだよ。心配しなくても、三者面談ではしゃいだりしないから大丈夫」
「それは心配してないけど」
「それよりテストは? その結果を見て話すんでしょ?」
「うん。今回はたぶんできてると思う」
先輩に勉強を教わった、とは言わないけれど。
隣で会話を聞いていた真央さんが「夕食の準備しますね」と立ち上がってキッチンへ向かうと、その背中を見送ったお父さんが少し居住まいを正して「進路は考えてるの?」と尋ねた。
あぁ、彼女は気を遣ってくれたのかと気付く。また私の心に罪悪感が根付き、ギュッと胸が苦しくなった。
ふたりとも、私のことを考えてくれているのが痛いほど伝わってくる。
それを見て見ぬふりをしながら、進路へ思考を切り替えた。
京ちゃんは明確に美容師になりたいという夢を語っていたけれど、私にはなりたい職業や夢がない。
お母さんを亡くし、日々の生活を送ることに必死だった私は、将来を夢見ることすらしていなかった。
「ううん。まだやりたいこととか考えたことなくて。ぼんやり大学には行くんだろうなって思ってるくらい」
正直に答えると、お父さんは申し訳なさそうに頷いた。
「菜々には今までたくさん苦労かけたもんな。これから、いくらでも考える時間はある。お父さんは菜々がやってみたいと思うことなら反対はしないから、今は視野を狭めないで、いろんな選択肢を持てばいいよ」
話を聞きながら、私は視界の端に映るキッチンへ意識を向けた。
彼女はきっと親子水入らずで話せるように席を外してくれたんだ。三者面談に来たくないわけでも、私の進路をどうでもいいと思っているわけでもない。
それは、料理をしながら優しい顔つきでこちらを見ている様子で伝わってくる。
お父さんは、こんな気遣いのできるところに惹かれて再婚を決めたのかな。
お母さんを亡くして七年。たくさん考えて、視野を狭めないで掴み取った選択肢が彼女との再婚だったのだろうか。
それなら、私の視野は狭くていい。
視野を広げることが大切な人への思いを薄めてしまうのなら、私は視野を広げたくなんてない。
「……着替えてくる」
それだけ言って、私は二階へと上がった。
自分の部屋に入り、真っ先に机の上の写真立てに「ただいま」と声をかける。
ルームウェアのワンピースに着替え、スクールバッグからスマホを取り出すと、チカチカと緑のランプが点滅している。
見ると、楓先輩からのメッセージだった。
【日曜、九時半でどう?】
相変わらずの簡潔な文章。けれど鬱々としていた私の気分を一気に上昇させるには十分だ。
ファミレスの帰り道、先輩は「テストが終わる週の日曜、あいてる?」と尋ねてきた。なにも予定のなかった私は頷き、日にちが近づいたら時間を決めようと言われ、それにも頷いた。
テスト後も会う約束ができた嬉しさに加え、すぐ前を歩く京ちゃんと日野先輩に聞こえていないかドキドキしたし、ふたりだけの内緒話をしているのに胸が高鳴った。
【大丈夫です。めちゃくちゃ楽しみにしています!】
そう入力して、送信する前に読み返し、首を捻ってバックスペースを連打する。
ちょっと馴れ馴れしいかな。楽しみにしているのは本当だけど、どこまで正直に伝えていいのか迷ってしまう。
そもそも、どうして楓先輩が私を遊園地に誘ってくれたのかもわからない。
『テストを頑張ったら』と言っていたから、きっと打ち上げみたいな意味だと思うけど、それならふたりよりも四人の方が自然な流れな気がする。
だから、どうしてふたりで?と考え出すと、つい自惚れた思考が頭をもたげてくる。
もしかしたら、楓先輩も私と同じ気持ちだったり……?
いや、まさか。入学前に事故から間一髪で助けてくれたり、そのあと泣き崩れた私に優しく寄り添ってくれたりする優しさを知ってるから、私には彼を好きになる理由はある。
でも楓先輩にとって、私はたった二週間前に初めて話しただけの後輩にすぎない。
京ちゃんと話して以来、あまり自分を卑下しないようにしようとは思うけど、それでもこんな短期間で好きになってもらえる理由なんて浮かばなかった。
「あーもう、考えてもわかるはずないか」
人の本当の気持ちなんて、いくら考えてもわかるはずがない。
それよりも勉強を教えてもらって、おまけにテストの点も上がったんだから、きちんとお礼をしないと。
私は再びスマホに文字を入力する。
【九時半、了解です。晴れるといいですね!】
直接楽しみだと言わなくても、きっと気持ちは伝わるはず。
ドキドキしながらメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
【うん。楽しみにしてる】
絵文字もスタンプも使わない真っ直ぐな楓先輩本人の言葉が脳内で再生され、私はスマホを持ったまま、耳まで赤く染まっているであろう顔をベッドに埋めたのだった。
十月中旬。中間テストが無事に終わった。
先輩に教えてもらったおかげで全体的に手応えがあったし、今日返ってきた数学のテストは今までで一番点数がよかった。
それは京ちゃんの英語も同じだったらしく、嬉しそうに日野先輩に報告していた。
私もこれなら楓先輩に報告できるとホッとしたのと同時に、ひとりで図書館に向かわなくてはならない寂しさを感じている。
テストが終わったから放課後のバスケの練習も再開したけれど、今日はみんな部活優先の日なのでそれもない。
先週はずっと中央の席に四人で座っていたのが、一番奥のすみでひとりぼっち。
いつも以上に人が少なく、今までは快適だと感じていた静かな空間が急に虚しく思えて、私は珍しく下校時間よりも前に帰路についた。
家に帰ると、まだ十八時前なのにお父さんの革靴がある。
いつも通り「ただいま」と玄関をあけ、階段下にバッグを置こうとしてやめる。
洗面所で手を洗ってからリビングに顔を出すと、ソファに座っているお父さん達が揃ってこちらに「おかえり」と笑顔を向けてきた。
それに同じような笑顔を返すことはせず、「ただいま」と小さく頷くだけ。
半年も経てば、こうしてお父さんの隣にお母さんではない人がいるのに慣れてくる。
その〝慣れ〟がお母さんを裏切っているような気がして、この家では笑うどころか、息もうまく吸えない。
「……お父さん、今日は早いね」
「うん、たまにはね」
「ちょうどよかった。これ」
私はスクールバッグの奥底から、提出日間近のプリントを取り出した。ずっとどちらに渡そうか悩んでいたけど、ふたり揃っているのならちょうどいい。
「あぁ、三者面談か。この前受験がおわったと思ったのに、もう進路を聞かれるのか。最近の子は大変だね」
「あの、ごめん。出すの忘れてて、明後日までに提出なんだけど……来れる?」
どちらの顔も見ずに、誰が、とも言わず尋ねる。
だって、お父さんに仕事を休ませるのは申し訳ないと思う一方で、真央さんに来てもらうのは気まずいと感じているから。
「十二月の頭から中旬までの間か。うん、大丈夫。仕事の調整がつくようにしておくから、どの日程でも大丈夫に丸つけて出していいよ」
私の葛藤をよそに、プリントを見たのはお父さんだけで、隣に座る真央さんに相談することもなくそう言った。
「お父さんが……来るの?」
「そのつもりだけど。なんで?」
「ううん。学校の行事で仕事休んでもらうの、中学で終わりだと思ってたから。ごめんね」
「なに言ってるんだ。高校は授業参観もないし、体育祭とか文化祭にも来なくていいなんて言うから寂しいくらいだよ」
私を気遣っているわけではなく、本気でそう思っているお父さんが大人気なく拗ねた口ぶりで抗議してくる。
小学校の頃から、お父さんは学校行事に参加する際、どこまでも全力投球だ。
小学二年の頃、親子競技の大玉転がしに参加したお父さんがひとり白熱し、私を置いてひとりでゴールして、お母さんにこっぴどく叱られていたのが忘れられない。
『洋ちゃんが全力で楽しんでどうするの!』
『だって、ついー』
結局、叱られて泣きそうなお父さんの顔を見て私が笑って、お母さんが豪快に笑ってその場を締める。いつものパターンだった。
五月にあった体育祭は父兄の見学が認められていたけど、ほとんど来る人はいないと聞いていたし、真央さんとふたりで来られたらどうしていいかわからなかったから、絶対に来ないよう釘を刺したのだ。
「親なんてほとんど来てなかったよ。来ても参加する競技もないし」
「菜々の勇姿を見に行きたかったんだよ。心配しなくても、三者面談ではしゃいだりしないから大丈夫」
「それは心配してないけど」
「それよりテストは? その結果を見て話すんでしょ?」
「うん。今回はたぶんできてると思う」
先輩に勉強を教わった、とは言わないけれど。
隣で会話を聞いていた真央さんが「夕食の準備しますね」と立ち上がってキッチンへ向かうと、その背中を見送ったお父さんが少し居住まいを正して「進路は考えてるの?」と尋ねた。
あぁ、彼女は気を遣ってくれたのかと気付く。また私の心に罪悪感が根付き、ギュッと胸が苦しくなった。
ふたりとも、私のことを考えてくれているのが痛いほど伝わってくる。
それを見て見ぬふりをしながら、進路へ思考を切り替えた。
京ちゃんは明確に美容師になりたいという夢を語っていたけれど、私にはなりたい職業や夢がない。
お母さんを亡くし、日々の生活を送ることに必死だった私は、将来を夢見ることすらしていなかった。
「ううん。まだやりたいこととか考えたことなくて。ぼんやり大学には行くんだろうなって思ってるくらい」
正直に答えると、お父さんは申し訳なさそうに頷いた。
「菜々には今までたくさん苦労かけたもんな。これから、いくらでも考える時間はある。お父さんは菜々がやってみたいと思うことなら反対はしないから、今は視野を狭めないで、いろんな選択肢を持てばいいよ」
話を聞きながら、私は視界の端に映るキッチンへ意識を向けた。
彼女はきっと親子水入らずで話せるように席を外してくれたんだ。三者面談に来たくないわけでも、私の進路をどうでもいいと思っているわけでもない。
それは、料理をしながら優しい顔つきでこちらを見ている様子で伝わってくる。
お父さんは、こんな気遣いのできるところに惹かれて再婚を決めたのかな。
お母さんを亡くして七年。たくさん考えて、視野を狭めないで掴み取った選択肢が彼女との再婚だったのだろうか。
それなら、私の視野は狭くていい。
視野を広げることが大切な人への思いを薄めてしまうのなら、私は視野を広げたくなんてない。
「……着替えてくる」
それだけ言って、私は二階へと上がった。
自分の部屋に入り、真っ先に机の上の写真立てに「ただいま」と声をかける。
ルームウェアのワンピースに着替え、スクールバッグからスマホを取り出すと、チカチカと緑のランプが点滅している。
見ると、楓先輩からのメッセージだった。
【日曜、九時半でどう?】
相変わらずの簡潔な文章。けれど鬱々としていた私の気分を一気に上昇させるには十分だ。
ファミレスの帰り道、先輩は「テストが終わる週の日曜、あいてる?」と尋ねてきた。なにも予定のなかった私は頷き、日にちが近づいたら時間を決めようと言われ、それにも頷いた。
テスト後も会う約束ができた嬉しさに加え、すぐ前を歩く京ちゃんと日野先輩に聞こえていないかドキドキしたし、ふたりだけの内緒話をしているのに胸が高鳴った。
【大丈夫です。めちゃくちゃ楽しみにしています!】
そう入力して、送信する前に読み返し、首を捻ってバックスペースを連打する。
ちょっと馴れ馴れしいかな。楽しみにしているのは本当だけど、どこまで正直に伝えていいのか迷ってしまう。
そもそも、どうして楓先輩が私を遊園地に誘ってくれたのかもわからない。
『テストを頑張ったら』と言っていたから、きっと打ち上げみたいな意味だと思うけど、それならふたりよりも四人の方が自然な流れな気がする。
だから、どうしてふたりで?と考え出すと、つい自惚れた思考が頭をもたげてくる。
もしかしたら、楓先輩も私と同じ気持ちだったり……?
いや、まさか。入学前に事故から間一髪で助けてくれたり、そのあと泣き崩れた私に優しく寄り添ってくれたりする優しさを知ってるから、私には彼を好きになる理由はある。
でも楓先輩にとって、私はたった二週間前に初めて話しただけの後輩にすぎない。
京ちゃんと話して以来、あまり自分を卑下しないようにしようとは思うけど、それでもこんな短期間で好きになってもらえる理由なんて浮かばなかった。
「あーもう、考えてもわかるはずないか」
人の本当の気持ちなんて、いくら考えてもわかるはずがない。
それよりも勉強を教えてもらって、おまけにテストの点も上がったんだから、きちんとお礼をしないと。
私は再びスマホに文字を入力する。
【九時半、了解です。晴れるといいですね!】
直接楽しみだと言わなくても、きっと気持ちは伝わるはず。
ドキドキしながらメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
【うん。楽しみにしてる】
絵文字もスタンプも使わない真っ直ぐな楓先輩本人の言葉が脳内で再生され、私はスマホを持ったまま、耳まで赤く染まっているであろう顔をベッドに埋めたのだった。