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 テスト週間初日から、私たち四人は毎日図書室で勉強している。

 座り位置も定着して、私と楓先輩、京ちゃんと日野先輩が隣同士で並ぶのに違和感がなくなりつつあった。

 今日はいつもと気分を変えて外で勉強しようという話になり、学校から二駅離れたファミレスに来ている。

 ここでも位置は変わらず、私の隣には楓先輩が座っていた。

「もう来週からテストだね。私、こんなに勉強したの初めてかも」
「私も」

 京ちゃんの言葉に私が頷くと、日野先輩と楓先輩がそろって苦笑した。

「去年受験生だったでしょ」
「図書室にいるの、放課後の二時間だけだぞ」
「あー、今の感じで、なんでふたりが特進クラスなのかがわかった気がしますぅ」

 京ちゃんが、ふてくされたように口を尖らせる。そんな彼女をなだめるように、日野先輩が「あーほら、グラス空になってる。飲み物取りに行こう」と笑い、連れ立ってドリンクバーへ向かった。

 立ち上がる際にグラスを持ってあげる日野先輩と、その厚意を自然と受け取り、小さくお礼を言って微笑む京ちゃんは、誰が見ても美男美女でお似合い。騒がしいファミレスにいても映画のひと幕のように絵になる。

 そんなふたりの様子を見て、彼女の恋が着実に進展しているのを感じた。

 たった五日で、京ちゃんはあっという間に日野先輩と仲良くなった。連絡先も交換し、話し方もだいぶ砕けた感じになっていて、かなり距離が縮まっている。さすがのコミュ力だと尊敬してしまう。

 球技大会の種目も、バスケとバレーを代わってもいいと言ってくれる子が見つかったらしく、「サッカー、応援しますね!」としっかりアピールしていた。

 私はというと、相変わらず楓先輩と話すのはドキドキするけれど、先輩がフランクに接してくれるおかげで、以前よりは緊張しなくなった。

 放課後に一緒にいる楓先輩はクールで寡黙というイメージとは違い、普通にしゃべるし、笑顔を見せてくれる。

 それはきっと距離が縮まっているから……だと思いたい。

「菜々? どうした?」

 ぼうっと考え事をしていた私の顔を楓先輩が覗き込む。

「あ、いえ。京ちゃんと日野先輩、かなり仲良くなったなと思って」

 親しげな仕草に鼓動を高鳴らせながら答えた。

「そうだな。あれだけお互い好きだってわかりやすいんだから、あとは日野が男を見せれば解決だろ」

 楓先輩の言う通り、どうしてお互いに気が付かないんだろうと疑問に思うほど、ふたりは感情が顔に出ている。

 以前、学校のアイドルと呼ばれるほどモテる日野先輩が誠実な人なのか心配していた時期もあったけれど、この一週間一緒に過ごしてみると、京ちゃんのことがとても好きなんだと私にもわかるほど彼女に向ける視線は甘い。

 ふと、自分を顧みる。

 もしかして、私もあんな顔をして楓先輩を見ているんだろうか。

 京ちゃんだって、私が自分の気持ちを自覚する前から楓先輩を気になっていると言い当てていたし。どうしよう、私の気持ちがダダ漏れだったりする?

 慌てた私は先輩の言葉に曖昧に頷きながら、みんなで注文した山盛りポテトに手を伸ばす。このままでは心の奥に隠してある先輩への恋心を見透かされそうで恥ずかしい。それを誤魔化すつもりだった。

 私と同時に隣から同時に手が伸びてきて、指同士が触れそうになる。あっと思った、次の瞬間。ものすごい勢いで楓先輩の手が引っ込められた。

 まるで、絶対に私の指に触れたくないとでも言うように。

「……っと、悪い。同じポテト引っ張り合いするとこだった」

 ほんの一瞬、先輩の顔に動揺の色が見えた。

 冗談めかして笑っているけれど、私はそれが作り笑顔だということに気付いてしまった。

 この半年、ずっと遠くから楓先輩を見てきたからわかる。あの一線を引いたような硬質な笑み、絶対に触れたくないという明確な意志。

 以前から図書室で感じていた違和感を、今も同じようにつぶさに感じ取れ、胸がズキンと痛んだ。

 先輩はすぐに何事もなかったかのような態度で、「それより」と持っていたシャーペンでテーブルをコツコツとたたく。

「ここ。大事だから覚えて。二次関数は基本三つに分類されるから、問題文からどの条件に当てはまるかがわかれば簡単に解ける」

 楓先輩は初日からずっと数学を教えてくれる。

 公式を当てはめるだけじゃなく、どうしてそうなるのか、どう考えると理解できるのかを丁寧に説明してくれるから、苦手な数学の問題集がとても捗っている。

 けれど、私はさっきの出来事が頭から離れない。

 ずっと隣に座って勉強を教わっているけれど、目の前に座る京ちゃんと日野先輩のように、肩を寄せ合うことはない。

 声を潜めなくてはならない図書室でも、ガヤガヤと賑やかなファミレスでも、決して手や身体が触れないような距離で座り、明らかに一線を引かれている。

 以前は潔癖症かな?と思っていたけど、ここ数日の間に違うと確信を持った。除菌シートを持ち歩いているわけでもないし、頻繁に手を洗っているわけでもない。飲み物の回し飲みにも抵抗がなさそうだった。

 楓先輩は〝人に触れないようにしている〟と思う。それは私だけじゃなく誰に対しても、仲のいい日野先輩に対しても同じ。数ヵ月前の事故の時はたしかに寄り添って手を握ってくれたのだから、触れられないわけではないはずだ。

 なにか理由があるのだろうし、聞いていいのかもわからない。

 京ちゃんを怒らせてしまった日の夜、近くの公園まで来てくれた先輩の言葉を思い出す。

『誰だって隠したいことはあるし、言わなくていい事実だってあるはずだから』

 あの言葉は、もしかして先輩自身にも当てはまるものだった?

 触れそうになった時にあれだけあからさまに避けながら、先輩はなにも言わずに誤魔化した。だったら、私は気付かないふりをしたままの方がいい。

 そう納得させて結論を出した自分に気付き、ガッカリする。

 実際は納得なんてしていないのに。気遣うフリをして、本当は迷惑がられるのが怖いだけ。

 家でも同じ。再婚に納得したわけじゃないのに、声に出して反対する勇気を持てないまま、自分がどうしたいのかを完全に見失っている。

「こら。上の空だな」
「あっ、ごめんなさい」

 またしてもぼうっとしてしまい、楓先輩が困ったような顔をして笑う。

 いけない。こんな所でまで家のことを考えている場合じゃない。せっかく貴重な時間を割いて教えてもらっているんだから、ちゃんとしなくちゃ。

「詰め込みすぎた? こう毎日苦手な数学ばっかりじゃ、集中力も保たないか」
「いえ、とっても助かりました」

 今はつい考え事をしてしまったけれど、実際ひとりで机に向かうよりも遥かに勉強の質が上がった。

 公式を覚えるだけで必死だった苦手な数学も、なんとなく解くコツみたいなものがわかってきた気がする。

 そう感謝を伝えると、先輩がにやっと口の端を上げて笑う。

「じゃあ、テストの点、期待してるな」
「あぁっ、待ってください、それはプレッシャーが……!」
「自分でハードル上げたんだろ」

 可笑しそうに肩を竦めたあと、ふとなにかを思いついた先輩が、スマホを取り出して操作しだした。

「じゃあ、テスト頑張ったら、これ乗りに行こう」

 向けられたスマホ画面に映っていたのは、関東屈指の観光地にある遊園地の大観覧車。

 この辺りに住んでいれば小学校の遠足で訪れたという子は多いし、私も実際、家族で遊園地に行ったことがある。

 幼児向けのアトラクションから、大人も楽しめるジェットコースターまで揃っていて、近くにはショッピング施設があるため、一日かけて楽しめる場所だ。

「いいですね! みんなで打ち上げしたいです」

 賛同した私に対し、楓先輩がなにか言いたげな顔をした時、「ただいまー」とドリンクを持った京ちゃんと日野先輩が帰ってきた。

「菜々の分も持ってきちゃった。レモンティーでいい?」
「うん、ありがとう」
「楓はコーラでいいよな」
「あぁ。サンキュ」

 私はテーブルの横に立ったままの京ちゃんから、楓先輩は日野先輩からグラスを受け取る。

「そうだ、ねぇ京ちゃん」

 先輩が提案してくれたばかりの遊園地の話をしようと開きかけた私の唇を、隣から伸びてきた長く綺麗な人差し指が止める。

 触れるか触れないか、ギリギリのところでスッと引いていった指。これまでにない距離で楓先輩を感じて、たった一本の指でじわりと体温が上がった。

 驚きに思わず息を詰めて隣に座る楓先輩を見つめると、先輩もこちらをじっと見返してくる。

 スカートのプリーツを気にしながら座っていた京ちゃんは楓先輩の一連の動きを見ていなかったようで、腰を落ち着けて「なに?」といつもの笑顔で尋ねてきた。

「う、ううん、なんでもない……」

 ぎこちない笑顔で返すと、特に用はないと判断したのか、そのまま日野先輩とおしゃべりをしだした。

 その間も、先輩は微動だにせずにこちらを見つめたまま。心臓がお店中に響きそうなほど騒ぐ。目をそらしたいのにそらせない。

「楓、先輩……?」

 カラカラの喉で名前を呼べば、今日何度目かの呆れた顔で「自分のことには鈍いな」と笑う。

「みんなでじゃなくて、ふたりで行こう」

 潜めたせいで低く掠れた甘い声が、私の鼓膜を震わせる。まるで内緒話のような囁き声は、私の脳裏にライトアップされた美しい大観覧車を呼び起こす。

 この地域のシンボルとも言えるこの観覧車は、昼間はランドマークを一望でき、夜は輝く夜景とイルミネーションを堪能できる、デートスポットの定番中の定番だ。

 そこに、ふたりで?

 それって、どういう……?

 はてなマークだらけの脳内は、今にも思考停止してしまいそうなほど混乱している。

 いや、深い意味はないのかもしれない。

 先輩は遊園地ではしゃぐタイプではなさそうだし、大人数で遊園地に行くのが苦手なだけかもしれない。ただ観覧車に乗りたくなって、目の前にいたのが私だったってだけかもしれない。

 楓先輩ほどモテる先輩が、私を〝そういう意味〟で誘うわけがない。

 思いつく限りの期待しない言い訳を並べてみたけれど、そのどれも効果がなかった。

 だって、ふたりきりで遊園地の観覧車に乗りに行こうと誘われたら、それはもうデートだと思う。

 どれだけ傷つかないようにと予防線を張ったところで、心は勝手に期待してときめいている。

「……ふたり、だけで?」

 確認のように小声で問いかけると、「だめ?」と質問で返された。

 ずるいと思いつつ首を横に振ると、楓先輩はとても嬉しそうに笑った。