「入れ」
 低い声が返ってくる。
 蝦蟇は襖を開けると部屋の中に入った。わずかに畳が沈み込むような揺れを感じる。
「侵入者です、私が捕らえましたよ。主様に献上しようと思いまして。この子、美味しそうな匂いがするんですよ、人間みたいに甘い香りがします。きっと砂糖菓子みたいに甘いと思いますよ」
 優李は蝦蟇に抱えられたまま顔を上げた。逆さまに映る視界の中に隻眼の男がいた。蝦蟇とは違い、人に似た姿をしている。長い黒髪の下で光る金色の瞳には、爬虫類のように細長い虹彩がある。
 このひと、どこかで会ったような……。
「なるほど、確かにいい匂いだ。しばらく人間を食っていなかったからな。最近は向こうへの入り口に監視がついて面倒だ」
「私が捕まえたんですよ、お手柄でしょう?」
「俺が毒を撒いているんだ、捕まえられて当然だろ。そもそも警備はどうなっているんだ。こんなひ弱な小娘が入れるようでは困る」
「それもようですよねぇ、ほかにも協力したものがいましたかねぇ。この子のように弱っちければ大丈夫ですけれど、万が一強いあやかしなら、主様の毒で眠っているはずですよ」
「探せ」
 まずい。焔様が見つかってしまう。突然眠ってしまったのにはやはり原因があったのだ。吾妻泉で琥蓮が作り出していたような霧のようなものかもしれない。きっと私は半妖だから毒の効果がなかったのだ。強い眠気に襲われた焔様はきっと大した抵抗もできずに捕まってしまう。
「ぬ、主様」
 優李は思わず大蜥蜴に声をかけた。
「なんだ娘」
「金魚たちに水を飲ませているのはなぜですか。彼女達は黒くとも十分に美しいと思います」
 大蜥蜴はじっと優李を見据えると、金色の瞳に優李を映した。
「それを辞めれば、金魚たちは自由になれるはずです」
 優李の訴えを大蜥蜴は鼻で笑った。
「くだらない偽善だ。おまえも篝のようなことを言うのだな」
「篝さんを知っているのですか」
「あたりまえだ。踏鞴の息子だ、知らない者はいない」
「篝さんはここに来たのですか」
「いや、この稚魚院の中までは入ってこられなかった。篝は俺を置屋に呼び出し直談判してきたのさ、遊女を芳原の外に出したいとな。本当に迷惑だ。ここの秩序を乱してもらっては困る。金魚は芳原で生きるものだ、そう割り切った方がいい」
「でも、金魚たちはお客に恋をするひとだっているんです。彼女たちに、そのひとと生きる道があってもいいのではないでしょうか」
 納得できない優李が食い下がると、大蜥蜴は目を細めた。
「俺は幼いころは瀧家に住んでいた。父は瀧家の当主だったそうだ」
「ではあなたは瀧家の……」
 そこで初めて優李は既視感の理由が分かった。この大蜥蜴は、白波に似ているのだ。いくらか年を重ねているように見えるが、白波のように美しい顔立ちをしているが、金色の瞳は白波と異なり危険な香りがした。
「もう五百年以上昔のことだ。そのころのこの辺りはまだまだ小さな町で、貧民街の女が金を稼ぐために集まっているような場所だった。俺の母はその女郎だった、金色の瞳をした美しい蜥蜴だ。母は俺を身籠り瀧に身請けされた。俺が男だったからだ。そのとき瀧には息子がいなかった。貧民街から抜け出すことは母の夢だったのだろう。だが、屋敷で母はむごい扱いを受けた。芳原の外に、母の居場所はなかった」
 大蜥蜴の言葉に、なんと返したらよいのか言葉に困った。大蜥蜴には、大蜥蜴の言い分がある。それでも、と優李は歯を食いしばる。津軽の表情が頭に浮かぶ。
「俺の方は跡取りとしてそれなりに大事にしてもらったがな、年の離れた腹違いの弟が生まれるとあっさり捨てられた。行き場をなくした俺はこの町に戻り、今の芳原を作り上げた。遊女たちがいらぬ夢を抱かぬように」
「金魚たちに諦めろというのですか。あたりまえのように恋をして、愛されることを諦めろと」
「そうだ。その先に金魚の幸せはない。ここであきらめながら生きた方が幸せというものだ」
「そんな……」
「おまえにはわかるまい、生まれによって虐げられる苦しみが」
 肌が泡立つ。大蜥蜴は心の底から憎んでいるのだ、母を虐げたひとたちを。
 だが怒りと同時ににじむような悲しみも感じた。わかる。優李には理解が出来た。生まれによって迫害され、虐げられ、あらゆるものを奪われる辛さがわかる。それでも、違うといいたい、その先に幸せがないわけではない。
「腹が立つ。おまえの顔など見たくもない、ちょうど腹も空いたところだ」
 このままでは大蜥蜴に食べられてしまう。そんなことはいい、どうしたら、水のことを那沙たちに伝えられるだろう。あの赤い水を飲まなければ金魚は生まれない。黒い水を飲めばきっと外にだって出られることを。
 焔が目を覚ますまで、なんとか時間を稼ぎたい。
「更紗という太夫をご存じですか」
「何を唐突に。知っている、火の中に身を投げた金魚だ。更紗はひと際美しい金魚だった」
「更紗さんには瀧家のお客さんがいらっしゃったんです。彼は、更紗さんの死を今でも悲しんでいるようでした」
「でたらめを言うな。あの家にそんな感情を持ち合わせているものがいるはずがない」
「本当です、更紗さんが自分に会わなくなった理由を、ずっと思い悩んでいるんです」
「うるさい娘だ、そろそろ息の根を止めた方がいい」
 大蜥蜴はゆらりと立ち上がり、優李に手を伸ばした。
 その瞬間、体がぐっと後ろに引かれる。体勢を崩した優李は、そのまま力強い腕のなかに抱かれるかたちになっていた。
「助けに来るのが遅くなった」
「那沙!」
「無事でよかった。だが、今にもこの大蜥蜴がおまえを食おうとしていたな」
 那沙は大蜥蜴を見据える。大蜥蜴は大きなため息を吐いた。
「本当に警備はどうなっているんだ。本来ここには誰も入ることが出来ないはずだが」
 大蜥蜴の質問に那沙は答える。
「どうやらおまえが張っている結界が緩んでいるようだ。いたるところに綻びが出来ている」
「そんなはずはない」
「気が付かないのか」
 顔をしかめて否定する大蜥蜴に対して、那沙は淡々と答える。優李を抱き上げると、そのまま欄干に足をかけた。
「優李は返してもらう」
「な、那沙、ここから飛び降りつつもりですか」
「飛び降りる。しっかりつかまっておけ」
 いうなり那沙はとんっと軽やかに欄干を蹴った。