二畳あまりの狭い部屋にいたはずなのに、視界が一気に開けた。白い玉砂利が敷き詰められた庭があり、その向こうに大きな楼閣が見える。庭には錦鯉が泳いでいそうな巨大な二つの池があった。ひとつは黒い水が、もう一つには赤い水が貯められている。黒い池の周りには龍のように体をおおきくくねらせた松がいくつも生えており、もう一方の赤い池には池の周りは梅の木が植えられている。各々の中央には黒い岩と赤い岩があり、そこからちょろちょろと水が流れ出してきていた。まるで鏡で映したかのように、その配置のすべてが左右対称のように見えた。 
 その異様な光景よりも、優李には今しがた消えた那沙の表情が残像のように見えていた。那沙のあんなに必死な姿は見たことがないような気がする。
「あの男、見たことがある」
「え」
「今今切見世までおまえを探しに来た男だ、確か夢屋の獏だ。攫うような形になって悪かったな。安心しろ、あの男のもとに返してやる、あの獏を敵に回すのは本意ではないからな」
「那沙のことをご存知なのですか?」
「そうだ、那沙といったな。少々金を持つだけの商家の男かと思えばそうではない。あの獏は人の夢を形にすることが出来るのだろう、そんな芸当普通の獏にはできやしない。ほんの一握りの獏だけがなせる技だ。中でも那沙の集める夢は一際質がいいと聞く。あれは底しれない力を持ったあやかしだ。昔は政府で働いていた。人間の女を娶り、政府の仕事をやめ、同じように夢を形にすることが出来た祖父が道楽でやっていた夢屋を継いだのだと聞いた」
 那沙というあやかしがいかに稀有な力を持っているのかを焔は語り、だからおまえには手が出せないなとからかうように笑った。
 優李が理由(わけ)がわからず首を傾げると焔は見透かしたような笑みを浮かべる。
「あの獏はおまえと恋仲だろう、随分と血相を変えていたな。あの涼しい顔が歪むのを初めて見た。俺がおまえを身請けしたと知ったらあの獏は蹈鞴の屋敷におまえを奪いに来るだろうな、それはそれで面白い」
 焔はくっくっとおかしそうに笑った。
「そんなことにはなりませんよ! そもそも恋仲などではありません、……私の片思いですから」
 優李がひとりごとのようにつぶやくと、突然焔は口元に指をあてた。しゃべるなということだろう。どしりと地面を踏む音がする。ふたりはサツキの茂みの中に隠れると息をひそめた。楼閣の方から大蝦蟇が歩いてくるのが見える、後ろに幼いあやかしを幾人か連れている。切見世にいた蝦蟇よりもさらに躰の大きな蝦蟇だ。気になるのは後ろを歩くあやかしたちである。津軽や四つ尾のような金魚に似ているが、肩の上で切りそろえた髪や耳あかの下についたヒレの様な部分は鮮やかな赤ではなく黒かった。
「まったくどうしたことかしら、いっこうに体質が変わらないじゃない。ほらおまえたち、はやく水を汲みなさい」
 大蝦蟇が指示をすると、幼い金魚たちは赤い岩のある池から水を汲んだ。
「はやく食事を作るんだよ。あぁあぁ、どうしてだろうねぇ、一刻も早く禿を送り出さなきゃいけないっていうのに。これじゃあ稚魚院の外に出せやしないよ。いったいどうしちゃったのかしら」
 ぶつぶつと独り言をいう大蝦蟇の後ろに水を汲んだあやかしたちが行儀よく並んでついていく。
「あれが稚魚か」
 蝦蟇たちの姿が見えなくなると焔は口角を持ち上げた。
「稚魚、金魚のですか?」
「おそらくな」
「津軽や四つ尾さんのように鮮やかな赤色ではないのですね。まるで」
 フナの様だ。
「稚魚院の秘密をひとつ知ってしまったな。まあ、知って罰せられるほどの秘密でもないだろう。彼女たちは幼い頃は黒く、禿として店に配属になる頃には赤く変色するといったところか。こんなことを隠したいわけじゃないだろうな」
「稚魚院はなにかを隠しているわけではないのでは」
「いや、隠しているさ。ここには誰も入ることが出来ないって聞いただろう、遊女たちだって戻れないにはなにか理由がある」
 焔はそう言い切った。
「ですが、こうして焔様は侵入できているでしょう、今までだってこうやって入り込んだ誰かがいたのではないでしょうか」
 優李が尋ねると、焔は「おいおい」と呆れたような声を出した。
「侮るなよ。これでも俺は踏鞴の中でも指折りの力を持つあやかしなんだ。兄貴よりもずっと……」
 得意げにそういったところで焔は言葉を飲み込み、「まさかな」とつぶやく。それきり黙って深く考え込むように視線を落とした。
「焔様、どうかされましたか」
 優李が声をかけるとはっとして首を振る。
「悪い、なんでもない。あの水が気になるな、汲んで調べてみたい」
「私、水筒を持たせてもらっていますから、どちらかなら汲み取れます」
「俺も持っている。とはいえ中身は酒だがな、飲みほしてもう一方を汲む」
「昼間っからお酒ですか?」
「夜に飲むつもりで持っていただけだ。仕方なく飲むことになった」
 優李に指摘され、焔はバツが悪そうにしながらも言い返した。それからひょうたんでできた水筒の中身を空にする。すると焔はとろんとまどろみ、そのまま地面に横になった。
「焔様、もしかしてものすごくお酒に弱いのでは」
「いや、そんなことはないはずだが……」
 酔っているよりは強い眠気に襲われているようにも見える。
「焔様、そのお酒、どこで買ってきたものですか」
 尋ねたが答えはなく、代わりに規則正しい寝息が聞こえてきた。優李は焔の体をツツジの茂みにしっかりと隠すと、自分は茂みからそっと出た。池に近づき、赤い池と黒い池の水をそれぞれ汲み取る。
「あれ……」
 不思議なことに汲み取った水は透明だった。どうやら池の色はその底に生えている植物の色が反映されているらしい。水そのものに色がついているわけではなかった。一方で黒い方の池の水はわずかに黒く着色している。
 池を覗いていると影ができる。慌てて顔を上げると大我麻の姿が視界いっぱいに映った。
「おやぁ、これはこれは、可愛い侵入者さんだこと。どうやってここに入ってきたのかしら、悪い子にはそれなりのお仕置きをしないといけないわねぇ」
 いうなり大蝦蟇は優李をひょいと抱えた。
「は、離してださい」
「いやよ。あら、あなたいい匂いがするわね。人間みたい。主様の大好物なのよ、最近お機嫌が悪いけれど、あなたを食べたら少しは機嫌がよくなるかもしれないわ。私だって褒めていただける」
 背筋に冷たいものが走る。
「主様?」
「えぇ、この芳原を牛耳るお方よ、大蜥蜴(おおとかげ)なの」
「その大蜥蜴様が。芳原を仕切っていらっしゃるのですか」
「えぇえぇそうよ。大蜥蜴様がこの稚魚院を作り、芳原のおきてをお作りになったの。お国の王様たちの手の届かない芳原の王様よ。あやかし嫌いでここで働けるひとはほとんどいないの。私は信頼されているからここの管理を任されているのよ。すごいでしょう」
 大蝦蟇は饒舌だった。気になったことを尋ねてみたら、案外あっさりと答えてくれるかもしれない。そう思い口を開く。
「あ、あの、ここの金魚たちはみんな黒いのですね」
「あら、あなたは知らないのね。あの子達はフナのあやかしなの。ここの赤い水を飲んでいくと体が赤くなって金魚になるのよ。それなのに、おかしいのよねぇ」
「なにがですか?」
「最近の子達は全然赤くならないのよ。おかげで外に出せなくて困っているのよ」
「あ、あの、あの黒い水は何なのですか?」
「あら、あの水は中和剤なのよ。赤い水を飲むと体がどんどん弱っていくのよ、だけど美しくなるためには赤い水を飲まなくちゃいけないわ。だから黒い水を飲むのよ。金魚たちが弱らないよう芳原全域の上水道に繋がってるのよ、すごいでしょう!」
 金魚が芳原から出られない理由はこの赤い水なのだ。
 金魚たちの命を束縛する水を、これ以上飲ませないようにしなければいけない。きっと、体が黒いままなら水の影響を受けず、芳原の外に出られるかもしれない。
 大蜥蜴と交渉してみよう。
 優李は機嫌良く歩く大蝦蟇に抱えれながらぐっと表情を引き締める。
 蝦蟇は旅館のような大きな楼閣の中に入り、どんどん階段を上っていく。行き交う少女たちは皆一様に黒いままだ。
「主様、私ですよ」
 最上階まで登り、大蝦蟇は固く閉じられた襖の前で声をかけた。