ここは、どこだろう。

 うっすらと目を開いた優李は、自分がどこかに寝かされていることに気が付いた。四つ尾と話をしていたはずだが、その姿はない。部屋は狭く、二畳ほどしかない。板張りの堅い床には古い茣蓙が敷いてある。
「目が覚めたのか」
 しゃがれた声がした方を見ると、大きな蛙が煙管を吹かしていた。
「あんた半妖だねぇ、こんなところでしか働けないなんて、金魚よりも可哀想だ」
 ふうと白い煙とともに吐き出された蛙の言葉に優李はムッとした。
「四つ尾さんはどこでしょうか」
「四つ尾太夫は和泉屋の売れっ子だ。こんなところにいるような遊女が会えるような女じゃない」
「私をここに連れてきたのは四つ尾さんではないのですか?」
 蛙はため息と一緒に白い煙を吐く。
「四つ尾があんたを売りに来た。四つ尾にしてみりゃ二束三文だがね、ここで生きるような女は一生かかったって返せやしないさ。残念だがあんたはここから出られやしないよ。一生男に自分を売って暮らすのさ」
 隣からブツブツと呟くような声がする。隣りにいる遊女が独り言を言っているようだ。
「気になるかい? じきに気にならなくなるさ。あんたも同じようになる。ここに来るような客は病持ちだって多いからね、それがあんたに感染って、あんたはまた他の誰かに感染すんだよ。その間に少しずつ頭がおかしくなって、体もどんどん痩せ細ってさ」
 蛙の言葉と、四つ尾の言葉が重なる。
『亡くなる前の更紗姐さんは少し頭がおかしくなっていたと思うの。なんだかぼんやりしていて、それから異常なほどにやせ細ってた』
「少しずつ少しずつ頭がおかしくなって、ついに自分が誰なのか、ここがどこなのかよくわからないまま死んでいくのさ」
 蛙の言葉を恐ろしいと思うよりも、優李は更紗のことを考えていた。更紗は、病に罹っていたのではないか。自分が病に罹ったから、白波に感染さないために会うことをやめた。
 納得がいく。では、蹈鞴の子息に会っていたのはなぜか……
「おや、こんな汚らしい場所に御用ですか」
 蛙が丁寧な口調で話し始めた。相手は優李ではない。細く開かれた間口から覗き見ると、鮮やかな朱色の着物を着た男が立っていた。癖のある焦げ茶色の髪には艶があり、侍のように高い位置で結わっている。瞳が燃えるように赤い美男子だった。赤くとも茜の赤い瞳とは異なる色味だ。朱雀ではないのだろう。肌は褐色であり背には翼もない。
「今朝方新しい女が入っただろう」
「えぇ、耳がお早い」
「その女を買いに来た」
「今しがたちょうどお客を迎える準備が整ったところでございます」
 蛙は愛想よく答えたあとで、「このような場所にいる遊女が好みのなのは血だろうか」とひとりつぶやいた。その表情は下品に歪んでいる。こちらです、と優李のいる部屋を案内したのとほとんど同時に引き戸が開け放たれる。
 赤い瞳の麗人は優李を見据えるとすっとその傍らに腰を落とした。
「四つ尾に連れてこられたのだろう」
 開口一番にそういうものだから優李は目を丸くした。
「四つ尾さんをご存知なのですか」
「芳原に通うもので四つ尾を知らぬものはいまい」
「有名な太夫なのですね」
  男はすっと長い指を伸ばし、優李の頬に触れようとした。反射的に仰け反ると、男はふっと笑みを漏らす。
「容姿は申し分ないが遊女にはむかないな」
「恐らくむかない性格だと思います」
「誰の指示で芳原に来た。大方四つ尾に見つかって厄介者払いされたのだろう。それにしても切見世とはな。四つ尾も容赦のないことをする」
「あなたは……」
「おまえの名を聞いたら名乗ろうか」
 男が無邪気に笑うので、優李は拍子抜けしたような気持ちになる。構えているのはこちらだけなのか、悪人ではないだろうという自分の判断を信じてよいのかどうか迷った。
「優李と申します」
「優李か、大方朱雀あたりが雇ったのだろうな。少し話がしたいと思ってこのような場末まで来たのだ。俺は焔、蹈鞴の跡取りといえば話が早いだろう」
 男が蹈鞴の跡取りだと名乗ったので優李は再び目を丸くした。
「四つ尾さんが懇意にしているという……焔様」
「別に懇意にしているわけではない。四つ尾の方から俺に接触してきたのだ。十年前、(かがり)に何があったのかを知りたくないかと言ってな」
「篝様?」
「俺の兄貴だ。蹈鞴の跡取りだった男だ。更紗という太夫と懇意になり、死んだ。更紗も死んだと聞いてな、火の中に身を投げたと。芳原で起こったことは外には出さない。だから篝と更紗の間になにがあったのか、知るものはほとんどいない。真相はそれこそ闇の中だ」
「その後瀧家と諍いがあったと聞きました」
「そうだな。芳原の中でのことは外の人間にはわからない。だから漏れ聞く情報をもとに、どうにかして責任を転嫁したかったのだ。親父は殊の外兄を可愛がっていたからな、兄の死を誰かのせいにしたかったのだろう。憎しみの矛先が欲しかったのだ」
 焔の声音からは怒りも憎しみも感じられない。彼自身は兄の死に対してどのような感情を持っているのだろう、と優李は不思議に思った。
「兄の遺体を見ればなぜ死んだのかは一目瞭然だっただろう」
「では、篝様の死因はわかっていらっしゃるのですか? 四つ尾さんは更紗さんによる毒殺だと言っていました。瀧家がそれを指示したと……」
「そう、父は信じたかっただろうな。だが違う、兄は病死だ」
「病死……それは、あの、更紗さんから……」
 優李は更紗は何かしらの病に罹っていたと予想している。病は更紗の美しい姿を蝕み、精神を蝕み、その身を火に焼かせた。ならば、更紗から篝に病が感染ったのではないか。優李の予想に焔は首を横に振った。
「逆だ。兄は更紗に会う前から病に罹っていた。兄は和泉屋の女に恋をした。気の弱い臆病な金魚だと言っていた。自分と似ていて放っておけないと。どうすれば身請けできるのか、などと馬鹿なことを話していた。金魚はこの町でしか生きることが出来ないというのに」
「どうして、金魚はこの町でしか生きられないのでしょう」
「知らないのか、金魚はこの町の水でしか生きられない。ここの水を飲まなければ死んでしまう」
「水……ですか」
 優李は自分も飲んでいた水は、どこからか汲み上げてきたものなのかを思い出す。那沙の家には水が生まれる瓶があった。水の精霊と契約しているのだと那沙は話していた。和泉屋には、何があった。
「蛇口……。そういえば、この町には水道があるのですね」
「珍しいだろう。あの水は稚魚院から流れ出ている。敷地内に水源があるそうだ。そこから芳原全域に上水道が通っている」
 焔の話を聞いた優李にはひとつの考えが浮かぶ。金魚に恋をした篝、篝は愛した金魚をこの町から出そうとした。水の秘密を探りに稚魚院へ向かったのではないだろうか。
「焔様、私は稚魚院を調べてみたいと思っていたのです。その途中に四つ尾さんに捕まりました。きっと篝様の死もそこに関係があると思います」
「俺はそこまで調べる必要はないと思うがな、兄は病死だ。おそらく愛した金魚はなんらかの理由で和泉屋からここに連れてこられた。兄はここの遊女に通い、病が感染して死んだ。もう十分だ。君のことを追ってきた甲斐はなかったが、こう結論付ければ白波の婚姻は反故にならないだろう」
「白波様のために調査をなさっていたのですか?」
「そうではない、踏鞴と瀧の諍いをこれ以上深刻化しないためにここにきた」
 焔がすっと立ち上がろうとするので優李は深く頭を下げた。
「どうか、稚魚院を調べていただくことはできませんか、今稚魚院で病が流行っているようなのです。それから水についても、もしも、金魚たちの未来に町の外という選択肢が生まれるなら」
「愚かだ。金魚はこの町でしか生きられない方がいい。遊女は外の世界など知らない方がいい」
 寂しそうな津軽の顔が浮かぶ。あきらめたようなあの表情が風に舞う木の葉のようにゆらゆらとあてどなく舞った。
「彼女たちにも心があるのです。枷をつけてこの町に縛り付けられていいものではありません」
「きれいごとだ。そもそも君のような小娘がひとりそんなことを言ったところで何も変えられないだろう。兄だって失敗したことだ」
 焔は優李を見下ろし、しばらくじっと見つめてから口角を持ち上げた。
「そうだな、あの蝦蟇に一杯食わせてやるか。俺は、面白いものが嫌いじゃない」
 そういうと金貨を三枚ほど薄い布団の上に投げた。
「こい、おまえを身請けするよ。おまえはこの町から出たって生きられるんだから。この店から出て稚魚院を見に行ってみようじゃないか」
「でも誰も入ることが出来ないって津軽、和泉屋の太夫が言っていました」
「それは正面から入るという話だろう。俺はそんな回りくどいことはしない。そうと決まれば行くぞ」
 焔は優李を抱きかかえると、青い炎を生み出す。身を包むほどの大きな炎だが少しも熱くない。
 その時、建付けの悪い扉が乱暴に開けられた。激しく吹き付ける嵐のような勢いで青い顔をした那沙が現れる。
「優李!」
「那沙! 私、稚魚院へ向かいます」
 そう告げるなり、炎は焔と優李の体をふわりと包み込みそのまま焔と優李を燃やし尽くした。
 那沙が何かを叫ぶような声がする。だが、それは優李の耳には届かなかった。