和泉屋の近くの宿で眠りについていた那沙ははっと目を覚ました。胸騒ぎがする。部屋の隅を見れば茜が寝転がっていた。昨夜も明け方まで遊女と酒を酌み交わしていたようだ。那沙はというと、酒の席に嫌気がさし、早々に宿へと戻ってきて優李が助けを求めてきてはいないかと気を揉んでいた。
「優李が心配なのだろう」
茜が寝転がったままこちらを見ていた。大きなあくびをして起き上がると胡坐をかいて座る。
「女将に頼んで気立てのよい太夫につけてくれるよう頼んだ。津軽という振袖太夫の身の回りの世話をしていることだろう」
「優李の様子が知りたい。津軽を呼ぶことはできないのか」
「四つ尾にかなりつぎ込んだからなぁ、今から太夫を変えるのは心証が良くない」
「そうか」
那沙は優李を潜入させたことを後悔し始めていた。何やらよくない予感がする。
「優李はそんなに大事か」
唐突に茜がそう尋ねてくるので那沙は茜を睨んだ。
「あたりまえだ」
「おまえらしくない。女に入れ込むたちだとは思わなかった。ほら、以前結婚しただろう、人間の女と。なかなか可愛い女だったのに、おまえは少しも興味を抱いていなかった。勿体ないやつだと思ったよ」
「女に入れ込んでいるわけではない」
「優李は女だろう」
「優李は優李だ。俺は優李を保護している、安全に気を配ってやる必要がある」
「それだけかねぇ。まあ、私は少し責任を感じている。おまえの大事な大事な優李に斥候を務めさせたことをだ」
「そういう風には見えないがな。昨夜も随分と飲んでいたようだ」
「そうさ、ここではそれが仕事だ。酒を飲み、情報を集める。優李の役目を終えさせるためにもそれが一番手っ取り早い。おかげで四つ尾のことがわかったぞ。あの女は踏鞴のところの新当主と懇意にしているようだ」
「踏鞴の……たしか焔といったか」
「焔が四つ尾に入れ込んでいるわけではないらしい。四つ尾の方から焔に接触し、親しくしているようだ。何かある」
「あるな」
「優李をすぐに呼び戻すぞ。もしかしたら四つ尾は危険かもしれない、これ以上同じ店に置くのは危険だ。四つ尾が優李を敵だと見なしたら大ごとだ」
そこに、ひらひらと蝶が舞い降りてきた。那沙は驚きのあまり切れ長の目を丸くする。
「茜、今すぐに出る。優李の身に危険が及んでいるかもしれない」
「おい、その蝶おまえが優李の着物に忍ばせた使い魔だろう」
「はがされるとは思わなかった。この蝶に気が付くとは、侮れない」
那沙と茜は慌てて和泉屋へ向かう。店は閉まっており、扉を叩くと鬱陶しそうな顔をした下男が顔を出した。
「旦那さん方、まだ店は開いていませんよ。夜が更けてから出直してきてください」
「優李という下働きを連れてこい。今すぐにだ」
「まだみんな寝てますよ。帰ってください」
下男が欠伸をしながら那沙たちを追い返そうとするので、その手に貨幣を握らせる。
「優李を呼んで来い。そうすれば報酬としてもう一枚出す」
「そりゃ話が早いや」
いうなり男は店の中に駆け込んでいった。
「本当におまえは、優李のこととなると見境がない」
「うるさい」
下男はなかなか戻ってこなかった。戻ってきたときには困ったような顔をしている。
「優李っていうのは津軽太夫のところにいる女みたいなんだけど、どこにも見当たらないらしいんです。津軽太夫に聞いたら顔を青くしていて、昨夜は一緒にいたっていってるから、いなくなったとしたら今朝だと思いますが」
「なんだと……! 今すぐに探せ」
那沙は怒りを露わにした。下男は小さな悲鳴を上げて店の中に戻っていく。
「ヤバいな。ちょっと女将にも話を聞いてみるか」
「俺は蝶がはがされた場所へ行く」
「おいおい、冷静になれ那沙」
「十二分に冷静だ。犯人を見つけても殺さないから安心しろ。ちゃんとおまえの前に引っ張ってくる」
「いやいやいや、十分に頭が沸騰してるだろ」
呆れる茜を残して、那沙は速足で通りを進んでいく。朝の芳原は夜の華やかさが嘘のように静謐だった。吹き抜ける風の清かさが那沙を余計に苛立たせた。
優李はどこにいるのか。どこからかユリの匂いがした。遊女が好んでつけている類の香りだろうと思ったところで那沙は眉をひそめる。
この香り、嗅いだことがある。琥蓮の妻である薬師、芙蓉が育てていた花の一種だ。
同時に蝶がひらりと舞い上がり、くるくると弧を描くように飛び始めた。
「ここか……」
那沙はユリの香りをたどるため一度蝶を手の甲にのせ、再び放つとふわふわと漂うように、だがはっきりと方向を定めて飛び始めた。その後を追う。蝶は最も大きな通りである仲通りと直角に交わる路地を進む。芳原の中心から離れるように、西へ西へ、先にあるのは高い塀だ。その向こうには深い堀がある。
蝶は塀の手前で一度止まり、そこに立ち並ぶ長屋の一つに止まった。
「ここは……」
那沙は険しい顔をする。連なった長屋の一軒から妖狐のような姿をした女が暗い顔を覗かせている。
芳原の遊女は金魚だけ、そう決めたのは伊邪那美と伊邪那岐が政の一部を任せている中央政府だ。
芳原には、芳原の掟が存在する。
那沙は蝶の止まった軒の抱主を尋ねた。
「一番新しく入った女は誰だ」
けだるそうに煙管を付加していた蝦蟇は那沙に向かってふうと白い煙を吐いた。
「今朝珍しい女が入りましたよ」
「どんな女だ」
蝦蟇は大きな目をぎょろりと動かした。
「お客さん、随分といい着物を着ている。肌も髪も艶やかで傷ひとつない。そんな金持ちがこんなところに女を買いに来るなんて、ずいぶんと変わっていらっしゃる」
「質問に答えろ」
蝦蟇はもう一度白い煙を吐いた。
「半妖の娘が入ったよ。珍しい、金華猫と人間の半妖さ。ここにくるには勿体ないくらいの上玉だけどね。こんなところにしか居場所がないなんて半妖っていうのは本当に可哀想だねぇ」
間違いない、優李だ。
「その女を買う。どこの部屋だ」
蝦蟇の言葉に那沙は苛立ちを隠せずにいた。一刻も早く優李を助け出す必要がある。
「お客さん、物好きだねぇ。でも、今はほかのお客がいると思いますよ。さっきお客さんと同じように半妖を珍しがって、買ったひとがいるんですよ」
「なんだと」
「あ! 困りますよ、そういう無粋な真似をされては困ります」
蝦蟇がそういうので懐に金貨を一枚差し込んでやる。すると蝦蟇は静かになった。
「手前から三つ目です。あっしは少し居眠りしますから。くれぐれも、検非違使の世話になるようなことはしないでくださいよ」
この町で金貨以外に価値を見出すものがいるのだろうか。那沙はぎょろりとした目をつむった蝦蟇を一睨みしてから優李がいるという部屋へを急ぐ。
指一本でも優李に触れてみろ、その首落としてやる。
那沙は手前から三つ目の扉を乱暴に開いた。
「優李が心配なのだろう」
茜が寝転がったままこちらを見ていた。大きなあくびをして起き上がると胡坐をかいて座る。
「女将に頼んで気立てのよい太夫につけてくれるよう頼んだ。津軽という振袖太夫の身の回りの世話をしていることだろう」
「優李の様子が知りたい。津軽を呼ぶことはできないのか」
「四つ尾にかなりつぎ込んだからなぁ、今から太夫を変えるのは心証が良くない」
「そうか」
那沙は優李を潜入させたことを後悔し始めていた。何やらよくない予感がする。
「優李はそんなに大事か」
唐突に茜がそう尋ねてくるので那沙は茜を睨んだ。
「あたりまえだ」
「おまえらしくない。女に入れ込むたちだとは思わなかった。ほら、以前結婚しただろう、人間の女と。なかなか可愛い女だったのに、おまえは少しも興味を抱いていなかった。勿体ないやつだと思ったよ」
「女に入れ込んでいるわけではない」
「優李は女だろう」
「優李は優李だ。俺は優李を保護している、安全に気を配ってやる必要がある」
「それだけかねぇ。まあ、私は少し責任を感じている。おまえの大事な大事な優李に斥候を務めさせたことをだ」
「そういう風には見えないがな。昨夜も随分と飲んでいたようだ」
「そうさ、ここではそれが仕事だ。酒を飲み、情報を集める。優李の役目を終えさせるためにもそれが一番手っ取り早い。おかげで四つ尾のことがわかったぞ。あの女は踏鞴のところの新当主と懇意にしているようだ」
「踏鞴の……たしか焔といったか」
「焔が四つ尾に入れ込んでいるわけではないらしい。四つ尾の方から焔に接触し、親しくしているようだ。何かある」
「あるな」
「優李をすぐに呼び戻すぞ。もしかしたら四つ尾は危険かもしれない、これ以上同じ店に置くのは危険だ。四つ尾が優李を敵だと見なしたら大ごとだ」
そこに、ひらひらと蝶が舞い降りてきた。那沙は驚きのあまり切れ長の目を丸くする。
「茜、今すぐに出る。優李の身に危険が及んでいるかもしれない」
「おい、その蝶おまえが優李の着物に忍ばせた使い魔だろう」
「はがされるとは思わなかった。この蝶に気が付くとは、侮れない」
那沙と茜は慌てて和泉屋へ向かう。店は閉まっており、扉を叩くと鬱陶しそうな顔をした下男が顔を出した。
「旦那さん方、まだ店は開いていませんよ。夜が更けてから出直してきてください」
「優李という下働きを連れてこい。今すぐにだ」
「まだみんな寝てますよ。帰ってください」
下男が欠伸をしながら那沙たちを追い返そうとするので、その手に貨幣を握らせる。
「優李を呼んで来い。そうすれば報酬としてもう一枚出す」
「そりゃ話が早いや」
いうなり男は店の中に駆け込んでいった。
「本当におまえは、優李のこととなると見境がない」
「うるさい」
下男はなかなか戻ってこなかった。戻ってきたときには困ったような顔をしている。
「優李っていうのは津軽太夫のところにいる女みたいなんだけど、どこにも見当たらないらしいんです。津軽太夫に聞いたら顔を青くしていて、昨夜は一緒にいたっていってるから、いなくなったとしたら今朝だと思いますが」
「なんだと……! 今すぐに探せ」
那沙は怒りを露わにした。下男は小さな悲鳴を上げて店の中に戻っていく。
「ヤバいな。ちょっと女将にも話を聞いてみるか」
「俺は蝶がはがされた場所へ行く」
「おいおい、冷静になれ那沙」
「十二分に冷静だ。犯人を見つけても殺さないから安心しろ。ちゃんとおまえの前に引っ張ってくる」
「いやいやいや、十分に頭が沸騰してるだろ」
呆れる茜を残して、那沙は速足で通りを進んでいく。朝の芳原は夜の華やかさが嘘のように静謐だった。吹き抜ける風の清かさが那沙を余計に苛立たせた。
優李はどこにいるのか。どこからかユリの匂いがした。遊女が好んでつけている類の香りだろうと思ったところで那沙は眉をひそめる。
この香り、嗅いだことがある。琥蓮の妻である薬師、芙蓉が育てていた花の一種だ。
同時に蝶がひらりと舞い上がり、くるくると弧を描くように飛び始めた。
「ここか……」
那沙はユリの香りをたどるため一度蝶を手の甲にのせ、再び放つとふわふわと漂うように、だがはっきりと方向を定めて飛び始めた。その後を追う。蝶は最も大きな通りである仲通りと直角に交わる路地を進む。芳原の中心から離れるように、西へ西へ、先にあるのは高い塀だ。その向こうには深い堀がある。
蝶は塀の手前で一度止まり、そこに立ち並ぶ長屋の一つに止まった。
「ここは……」
那沙は険しい顔をする。連なった長屋の一軒から妖狐のような姿をした女が暗い顔を覗かせている。
芳原の遊女は金魚だけ、そう決めたのは伊邪那美と伊邪那岐が政の一部を任せている中央政府だ。
芳原には、芳原の掟が存在する。
那沙は蝶の止まった軒の抱主を尋ねた。
「一番新しく入った女は誰だ」
けだるそうに煙管を付加していた蝦蟇は那沙に向かってふうと白い煙を吐いた。
「今朝珍しい女が入りましたよ」
「どんな女だ」
蝦蟇は大きな目をぎょろりと動かした。
「お客さん、随分といい着物を着ている。肌も髪も艶やかで傷ひとつない。そんな金持ちがこんなところに女を買いに来るなんて、ずいぶんと変わっていらっしゃる」
「質問に答えろ」
蝦蟇はもう一度白い煙を吐いた。
「半妖の娘が入ったよ。珍しい、金華猫と人間の半妖さ。ここにくるには勿体ないくらいの上玉だけどね。こんなところにしか居場所がないなんて半妖っていうのは本当に可哀想だねぇ」
間違いない、優李だ。
「その女を買う。どこの部屋だ」
蝦蟇の言葉に那沙は苛立ちを隠せずにいた。一刻も早く優李を助け出す必要がある。
「お客さん、物好きだねぇ。でも、今はほかのお客がいると思いますよ。さっきお客さんと同じように半妖を珍しがって、買ったひとがいるんですよ」
「なんだと」
「あ! 困りますよ、そういう無粋な真似をされては困ります」
蝦蟇がそういうので懐に金貨を一枚差し込んでやる。すると蝦蟇は静かになった。
「手前から三つ目です。あっしは少し居眠りしますから。くれぐれも、検非違使の世話になるようなことはしないでくださいよ」
この町で金貨以外に価値を見出すものがいるのだろうか。那沙はぎょろりとした目をつむった蝦蟇を一睨みしてから優李がいるという部屋へを急ぐ。
指一本でも優李に触れてみろ、その首落としてやる。
那沙は手前から三つ目の扉を乱暴に開いた。