津軽の仕事が終わると、揚屋を後にして和泉屋へ戻る。道すがら津軽はくすくすとおかしそうに笑った。
「優李、いい人がいるでしょ」
「えっ、いい人?」
「しらばっくれないでよ、恋人がいるでしょう? それも、優李のことをすごく大事にしてる恋人」
「い、いないよ!」
津軽がいたずらっぽく笑うと、優李は顔を赤らめた。ふとよぎるのは那沙の顔だが、恋人などではない。
「嘘ぉ、だってその着物の蝶、使い魔でしょう? 優李、気が付いてた? 席のお客が優李にちょっかいをかけようとするとその蝶から鱗粉みたいな粉が飛んできて、酔ったみたいにぼんやりしちゃってたの。そんな使い魔をつけてくれるくらい優李のことを心配しているひとがいるなんて、いいなぁって思ったの」
「そのひとは保護者みたいなものだから……」
「そうかなぁ。でも、優李は好きなんでしょう、そのひとのこと」
津軽の言葉に顔を赤らめた優李はこくんと小さく、だがしっかりと頷いた。
「いいなぁ、相思相愛だと思うな」
「違う違う、片思い!」
「そう? じゃあ片思い仲間だね」
津軽は無邪気に笑う。通りは賑わっており、行き交うひとびとの声には活気がある。華やかな町だ。この華やかさの底には、津軽たち金魚の悲しみが横たわっている。
「津軽にも好きな人がいるんだね」
「叶わないんだけどね。お客はさ、一度通う遊女を決めたら変えないのが作法というか暗黙の決まりというか……だからそのひとが私のことを見ることはないんだよね」
津軽は儚げに笑ったがそれも一瞬のこと。普段どおりの快活な声で尋ねてくる。
「そんなに心配してくれるひとがいるのに芳原に来てるってことは、訳ありなんじゃない?」
するどい津軽の言葉に、優李はうなずいた。上手く嘘をつきとおせるような性分ではない。
「だけど、ごめん。内容話せないんだ」
「そうだよね、変なことを聞いてごめん」
津軽が謝ってくるので、優李は慌てて首を横に振った。
「津軽にはなんでも話したいって思ってるの。でも約束しちゃったんだ、本当にごめんなさい」
「なあに改まって。ここにくるひとはいろんな問題を抱えてるんだから、秘密の一つや二つあってもいいんだよ優李」
朗らかに笑う津軽の笑顔に優李はいっそう心が痛くなる。優しい津軽のために、なにかできることがないかなという考えが廻ったところで「おお津軽」と声がかかった。三十代くらいの要望の男だ。一見那沙のように人間の姿に似た容貌だ。なんのあやかしだろうと優李は首をかしげる。
「近江屋さん」
「おまえもついに太夫かぁ。俺が更紗に通ってた頃はまだ禿だったのになぁ。早いもんだ」
「近江屋さん、四つ尾姐さんが寂しがってますよ。あのひとほかの太夫に浮気してるんじゃないかって」
「おいおい、そんなことするわけないだろ、更紗がいなくなって依頼俺は四つ尾一筋よ。最近ちょっと景気が悪かっただけだ。でも安心しろ、これから大金持って四つ尾のことろにいくつもりだから」
「待ってますよー!」
「あのひとも更紗さんのお客さんだったんだね」
「うん、更紗姐さん売れっ子だったから。あ、そうだそうだ、四つ尾姐さんの前で更紗姐さんの話をしちゃ駄目だよ」
「わかった、でもどうして?」
「四つ尾姐さんが悲しい顔をするからさ。近江屋さんみたいに更紗姐さんのことを知っているお客は四つ尾姐さんや私に更紗姐さんのことを話したがるけど、四つ尾姐さんは本当はしたくないんだと思う。四つ尾姐さんはもともと更紗姐さんについていた禿で、ふたりはすごく仲良しだったんだ。だから、四つ尾姐さんは更紗姐さんが死んだときにすごく悲しんでいて……」
「そっか……わかった。約束する」
「ありがとう優李」
先日那沙たちと会いに来たとに、四つ尾に辛い思いをさせたのだろうと思うと苦しかった。
大好きだった更紗の恋、そしてその恋人のために敵対するあやかしを殺めたこと、そして火の中に身を投じて亡くなった……。
思い出すだけで辛かっただろう。四つ尾に申し訳ないことをしてしまった。
津軽の話では、亡くなる前に少しおかしくなっていたという更紗。蹈鞴の子息に毒を盛った罪の意識から、火の中に飛び込んだのだろうか。
だけど……
優李は那沙の店に夢を買いに来た白波の様子を思い出す。更紗の夢が見たいと言った白。
四つ尾の話と白波の様子は噛み合わない気がする。
四つ尾さんが気になる、彼女のひととなりを知りたい。それから那沙に相談しよう。優李は三日後に迎えに来る那沙と茜を持ちつつ、和泉屋で情報を集めることにした。
「お帰り津軽、遠いお座敷に呼ばれていたのね」
和泉屋に戻ると四つ尾はすでに帰ってきていた。津軽の姿を見つけて顔を出したのだろう。にっこりと優雅な笑顔を浮かべている。
「あら、新しい子がいるのね。初めまして」
すっと、四つ尾が目を細めた。先日置屋で会った時と少し雰囲気が違う。あのときは儚げな雰囲気を纏っていたが、今の四つ尾からは快活さが感じられた。これは本来の四つ尾なのかもしれない。置屋での四つ尾は余所行きだったのだ。
「は、初めまして。優李と申します」
「優李、あなたは金魚ではないわね。芳原は今人手不足だから外から働きに来てくれたのでしょう。慣れない町で大変ではない?」
「は、はい。今日から働かせていただいているので、正直戸惑くことばかりです」
「困ったことやわからないことがあったら気軽に私や津軽に聞いてちょうだい」
「ありがとうございます。津軽……津軽姐さんにはとてもよくしていただいています」
「優李、すごく可愛いんですよ姐さん。一生懸命手伝ってくれてるんです」
「そう、津軽をよろしくね優李。近年配属になる禿がいなくて、津軽の身の回りの世話をできる子がいないのよ」
「はい、精いっぱいお勤めさせていただきます」
まっすぐに四つ尾を見つめる優李に、四つ尾は優しい笑みを返した。
「さあ、手を洗っていらっしゃい。津軽にお茶を入れてあげて」
優李は「はい」と頷いて、廊下にある蛇口をひねった。ちょろちょろ水が流れる。少し汗をかいたかもしれない。顔を洗うと清々しい気持ちになった。
店の掃除をしていると津軽が食事だと呼びに来てくれた。津軽の部屋で一緒に夜食をとることにする。深夜零時を回っており、正直空腹よりも睡魔の方が勝っていた。
「眠そうだね優李」
「ごめん、前は遅くまで働いても大丈夫だったんだけど、最近生活が規則正しかったからついつい。でも大丈夫、すぐにこの生活に慣れるから」
那沙のもとで暮らすようになってから、十分な休息をとれるようになった。那沙には感謝してもしきれない。今回のことで少しでも役に立ちたい。優李がぐっと拳を握って気合を入れると津軽は少し悲しそうに微笑んだ。
「いいんだよ優李。こんなところの生活に慣れなくったって。だってあなたは外の世界で生きていける。あなたを大事に思ってくれる大好きなひとと幸せになったらいいんだよ」
「津軽……ありがとう。でも私、ここにいる間はここで頑張りたいの。津軽の身の回りのお世話をする子たちがいないのなら、尚更辞めるのが忍びなくなる」
「ありがとう優李。その気持ちだけで嬉しいよ」
「それにしても、どうして配属になる子たちがいないのかなぁ」
優李疑問を口にすると、津軽は難しい顔をしてから優李の耳に顔を寄せてきた。
「ここだけの話だよ。みんな気が付かないふりをしているんだけど、稚魚院で病気がはやってるみたいなの。子供たちが病でなくなって、禿になれる子がいないんだって。でも稚魚院の中には誰も入ることが出来ないし、みんな見て見ぬふりをしているっていうか」
「病気……」
「稚魚院で何か起こってるんじゃないかって、思ってるの。だけど確かめることが出来なくて……」
「稚魚院にはどうして誰も入ることが出来ないんだろう」
「それは……そういえばなんでだろう」
津軽は首をひねった。
「優李、いい人がいるでしょ」
「えっ、いい人?」
「しらばっくれないでよ、恋人がいるでしょう? それも、優李のことをすごく大事にしてる恋人」
「い、いないよ!」
津軽がいたずらっぽく笑うと、優李は顔を赤らめた。ふとよぎるのは那沙の顔だが、恋人などではない。
「嘘ぉ、だってその着物の蝶、使い魔でしょう? 優李、気が付いてた? 席のお客が優李にちょっかいをかけようとするとその蝶から鱗粉みたいな粉が飛んできて、酔ったみたいにぼんやりしちゃってたの。そんな使い魔をつけてくれるくらい優李のことを心配しているひとがいるなんて、いいなぁって思ったの」
「そのひとは保護者みたいなものだから……」
「そうかなぁ。でも、優李は好きなんでしょう、そのひとのこと」
津軽の言葉に顔を赤らめた優李はこくんと小さく、だがしっかりと頷いた。
「いいなぁ、相思相愛だと思うな」
「違う違う、片思い!」
「そう? じゃあ片思い仲間だね」
津軽は無邪気に笑う。通りは賑わっており、行き交うひとびとの声には活気がある。華やかな町だ。この華やかさの底には、津軽たち金魚の悲しみが横たわっている。
「津軽にも好きな人がいるんだね」
「叶わないんだけどね。お客はさ、一度通う遊女を決めたら変えないのが作法というか暗黙の決まりというか……だからそのひとが私のことを見ることはないんだよね」
津軽は儚げに笑ったがそれも一瞬のこと。普段どおりの快活な声で尋ねてくる。
「そんなに心配してくれるひとがいるのに芳原に来てるってことは、訳ありなんじゃない?」
するどい津軽の言葉に、優李はうなずいた。上手く嘘をつきとおせるような性分ではない。
「だけど、ごめん。内容話せないんだ」
「そうだよね、変なことを聞いてごめん」
津軽が謝ってくるので、優李は慌てて首を横に振った。
「津軽にはなんでも話したいって思ってるの。でも約束しちゃったんだ、本当にごめんなさい」
「なあに改まって。ここにくるひとはいろんな問題を抱えてるんだから、秘密の一つや二つあってもいいんだよ優李」
朗らかに笑う津軽の笑顔に優李はいっそう心が痛くなる。優しい津軽のために、なにかできることがないかなという考えが廻ったところで「おお津軽」と声がかかった。三十代くらいの要望の男だ。一見那沙のように人間の姿に似た容貌だ。なんのあやかしだろうと優李は首をかしげる。
「近江屋さん」
「おまえもついに太夫かぁ。俺が更紗に通ってた頃はまだ禿だったのになぁ。早いもんだ」
「近江屋さん、四つ尾姐さんが寂しがってますよ。あのひとほかの太夫に浮気してるんじゃないかって」
「おいおい、そんなことするわけないだろ、更紗がいなくなって依頼俺は四つ尾一筋よ。最近ちょっと景気が悪かっただけだ。でも安心しろ、これから大金持って四つ尾のことろにいくつもりだから」
「待ってますよー!」
「あのひとも更紗さんのお客さんだったんだね」
「うん、更紗姐さん売れっ子だったから。あ、そうだそうだ、四つ尾姐さんの前で更紗姐さんの話をしちゃ駄目だよ」
「わかった、でもどうして?」
「四つ尾姐さんが悲しい顔をするからさ。近江屋さんみたいに更紗姐さんのことを知っているお客は四つ尾姐さんや私に更紗姐さんのことを話したがるけど、四つ尾姐さんは本当はしたくないんだと思う。四つ尾姐さんはもともと更紗姐さんについていた禿で、ふたりはすごく仲良しだったんだ。だから、四つ尾姐さんは更紗姐さんが死んだときにすごく悲しんでいて……」
「そっか……わかった。約束する」
「ありがとう優李」
先日那沙たちと会いに来たとに、四つ尾に辛い思いをさせたのだろうと思うと苦しかった。
大好きだった更紗の恋、そしてその恋人のために敵対するあやかしを殺めたこと、そして火の中に身を投じて亡くなった……。
思い出すだけで辛かっただろう。四つ尾に申し訳ないことをしてしまった。
津軽の話では、亡くなる前に少しおかしくなっていたという更紗。蹈鞴の子息に毒を盛った罪の意識から、火の中に飛び込んだのだろうか。
だけど……
優李は那沙の店に夢を買いに来た白波の様子を思い出す。更紗の夢が見たいと言った白。
四つ尾の話と白波の様子は噛み合わない気がする。
四つ尾さんが気になる、彼女のひととなりを知りたい。それから那沙に相談しよう。優李は三日後に迎えに来る那沙と茜を持ちつつ、和泉屋で情報を集めることにした。
「お帰り津軽、遠いお座敷に呼ばれていたのね」
和泉屋に戻ると四つ尾はすでに帰ってきていた。津軽の姿を見つけて顔を出したのだろう。にっこりと優雅な笑顔を浮かべている。
「あら、新しい子がいるのね。初めまして」
すっと、四つ尾が目を細めた。先日置屋で会った時と少し雰囲気が違う。あのときは儚げな雰囲気を纏っていたが、今の四つ尾からは快活さが感じられた。これは本来の四つ尾なのかもしれない。置屋での四つ尾は余所行きだったのだ。
「は、初めまして。優李と申します」
「優李、あなたは金魚ではないわね。芳原は今人手不足だから外から働きに来てくれたのでしょう。慣れない町で大変ではない?」
「は、はい。今日から働かせていただいているので、正直戸惑くことばかりです」
「困ったことやわからないことがあったら気軽に私や津軽に聞いてちょうだい」
「ありがとうございます。津軽……津軽姐さんにはとてもよくしていただいています」
「優李、すごく可愛いんですよ姐さん。一生懸命手伝ってくれてるんです」
「そう、津軽をよろしくね優李。近年配属になる禿がいなくて、津軽の身の回りの世話をできる子がいないのよ」
「はい、精いっぱいお勤めさせていただきます」
まっすぐに四つ尾を見つめる優李に、四つ尾は優しい笑みを返した。
「さあ、手を洗っていらっしゃい。津軽にお茶を入れてあげて」
優李は「はい」と頷いて、廊下にある蛇口をひねった。ちょろちょろ水が流れる。少し汗をかいたかもしれない。顔を洗うと清々しい気持ちになった。
店の掃除をしていると津軽が食事だと呼びに来てくれた。津軽の部屋で一緒に夜食をとることにする。深夜零時を回っており、正直空腹よりも睡魔の方が勝っていた。
「眠そうだね優李」
「ごめん、前は遅くまで働いても大丈夫だったんだけど、最近生活が規則正しかったからついつい。でも大丈夫、すぐにこの生活に慣れるから」
那沙のもとで暮らすようになってから、十分な休息をとれるようになった。那沙には感謝してもしきれない。今回のことで少しでも役に立ちたい。優李がぐっと拳を握って気合を入れると津軽は少し悲しそうに微笑んだ。
「いいんだよ優李。こんなところの生活に慣れなくったって。だってあなたは外の世界で生きていける。あなたを大事に思ってくれる大好きなひとと幸せになったらいいんだよ」
「津軽……ありがとう。でも私、ここにいる間はここで頑張りたいの。津軽の身の回りのお世話をする子たちがいないのなら、尚更辞めるのが忍びなくなる」
「ありがとう優李。その気持ちだけで嬉しいよ」
「それにしても、どうして配属になる子たちがいないのかなぁ」
優李疑問を口にすると、津軽は難しい顔をしてから優李の耳に顔を寄せてきた。
「ここだけの話だよ。みんな気が付かないふりをしているんだけど、稚魚院で病気がはやってるみたいなの。子供たちが病でなくなって、禿になれる子がいないんだって。でも稚魚院の中には誰も入ることが出来ないし、みんな見て見ぬふりをしているっていうか」
「病気……」
「稚魚院で何か起こってるんじゃないかって、思ってるの。だけど確かめることが出来なくて……」
「稚魚院にはどうして誰も入ることが出来ないんだろう」
「それは……そういえばなんでだろう」
津軽は首をひねった。