優李を抱いたまま飛び降りると、風がふわりと体を包むのが分かった。予定通り茜が風で受け止めてくれる。那沙はしっかりと自分の体にしがみつく優李を強く抱きしめた。無事でよかっとと安堵する。

 数刻前、稚魚院に向かう那沙に茜も合流してきた。本人が言うようにただ酒を飲んでいただけてはないらしい。茜は稚魚院のことをいろいろと調べ上げていた。
「芳原を牛耳っている大蜥蜴がいるんだよ」
 稚魚院まで続く通りを飛びながら茜が口を開く。
「その蜥蜴、ちょっと訳ありなんだ。だから瀧家に連絡を取った。困っているから力を貸してくれってな」
「なぜ瀧家に」
「そりゃあの大蜥蜴が瀧の血を継いでいるからさ。どうやら踏鞴家の新当主もそれを嗅ぎつけているみたいだ」
「その新当主が今しがた優李を攫っていった」
「そっちの方が大変だな。那沙、おまえ、踏鞴と張り合うつもりかい」
「張り合うとは」
「どっちが優李を嫁にするかって話だ」
「俺は優李の保護者だ、そんなつもりはない」
「どうだかな。だったら、踏鞴が優李をくれと言ったら踏鞴に嫁がせるのかい?」
「踏鞴は駄目だ」
「『は』じゃなくて『も』だろう。じゃあ、私はちょっと先に行って稚魚院に掛けられた結界を解いてくるよ。瀧家の結界なんだ、白波様が協力してくれたからきっと解ける。お先に」
 いうなり茜は天高く飛び立った。
 那沙が稚魚院につくことには結界とやらが解かれていたのだろう。固く閉じられた門は簡単に開いた。広い庭には二つの池、赤と黒の池はあまりに異質に見えた。すっと水を掬い取ると違和感を感じる。
「赤い苔か……」
 黒い方の水を掬い取るとわずかに着色してたが、赤い方の水は無色だった。赤く見えたのは池の底に生えている苔の影響だ。
水を硝子瓶に汲み取ると、ツツジの茂みからなにものかの気配がすることに気が付いた。近づくと焔がけだるそうに体を起こしているところだった。
「優李はどこだ」
 那沙が声をかけると焔ははっと気が付いたように那沙を捉える。
「急な睡魔に襲われたのだ。優李が楼閣の方へ歩いていくのがぼんやりと見えた」
 焔の言葉を聞いた那沙は踵を返し、慌ててそびえたつ楼閣の中へと駆け込んだのである。金華猫の香りがする。優李の香りに違いない。那沙は階段を駆け上がった。

「大蜥蜴に食われる前に助け出すことが出来てよかったが、もうあんなに危ない真似はするな」
「ごめんなさい」
 素直に謝る優李を前に、那沙は心の中が搔きむしられるような痛みを感じた。
 本当に、無事でよかった。
「あの踏鞴の男には何もされていないのか」
「焔様ですか? 何もというか、四つ尾さんの話以外には特に話す暇もなかったので」
 と優李が答えるので安堵した。
「踏鞴が支払ったという金は俺が出す」
 優李はきょとんとしている。つまり、俺が身請けしてやると説明するのが恥ずかしくて那沙はそれきり黙った。

 優李の希望で和泉屋に顔を出すことになった。店の三和土(たたき)で優李が声をかけると、中から若い金魚が急いで姿を見せ、優李に抱き着いた。茜が言っていた気立てのよい太夫とやらだろうと那沙は思う。
「優李、無事でよかった!」
「心配をかけてごめんね津軽」
「いいのいいの、無事に帰ってきてくれたらそれでいいんだよぉ」
 抱き合った二人はなにかこそこそと話をしている。途中津軽が那沙の方を見てにっこりとほほ笑んだ。何が恥ずかしいのか、優李は赤い顔をしている。
「優李、幸せになってね」
「……ありがとう、津軽も」
 遠慮がちにそういうと、津軽と呼ばれた太夫は大きく手を振った。
「さようなら優李!」
「ありがとう津軽」
「手紙書いてね。でも会いに来ちゃだめだよ、私、なかなか会えないような法外に高い売れっ子になるからさ!」
「うん、応援してる」
 後日、四つ尾が姿を消したという話を茜から聞いた。優李は複雑そうな顔をしてたが、四つ尾は四つ尾なりのけじめのつけ方をしたのだろう。あの金魚が何を考えていたのかは、誰にもわかりはしない。