新しい季節が来た。
 少し窮屈な制服に身を包んだ私は、重い足を動かしながら使い慣れた駅へと向かう。電車に乗り込むと、私と同じ制服を着た学生たちがちらほらと見える。その中には、知らない顔もあった。新一年生だろうか。
 車窓の外には、まだ目覚めたばかりの太陽と街並みが広がっている。
 春。まるで街全体が淡いピンク色に染まっているようで、眩しい季節。
 今日から新学期だ。
「おはよ、タマ」
 ぼんやりと流れる景色を見ていると、ふと顔に影が落ちた。正面へ視線を向けると、私と同じ制服を大胆に着崩した女子がいた。彼女の名前は青山(あおやま)(めぐ)。アイメイクの濃い化粧と明るいオレンジ髪が、彼女のトレードマークである。
「メグ。おはよう」
 メグは私の隣に座ると、カバンから鏡を取り出し、前髪を整え始める。
「あ、そだ。ねぇタマ、迷倫(めいりん)高の彼と別れたって本当?」
「あー……うん」
「なんで? 結構イケメンだったのに」
「うーん、すれ違っちゃったのかなぁ……分かんないけど、私が悪いんだ」
 嘘。私は一ミリも悪くない。単に相手が嫉妬深くて面倒だったから別れた。それだけ。
「タマが可愛過ぎるから、きっと過保護になっちゃうんだよ〜」
 そう言うメグは、どこか揶揄(やゆ)するような視線を私に向けた。
 どうせ、すっぴんはそうでもないのになぁとか思ってるんだろう。
 べつに、好きに思えばいい。仮にそうだとしたって、あんたよりはマシなんだから。
「タマが彼氏と別れたって学校で知れたら、また男子の争奪戦が始まるかもねぇ」
 私はメグの言葉を笑って流した。
 私は、世間一般で言うところの美人に分類される。勉強もそこそこできるし、運動もきらいじゃない。おまけに人当たりもいいから、男女問わずよくモテるし学校では人気者。
 ……だけど。
 私はまだ、だれかを好きになったことはない。
 告白されて、これまで何人かの男の子と付き合ってみたものの、みんなつまらなかった。
 手を繋いでもぜんぜんどきどきしないし、話をしていてもつまらない。
 そして、私がつまらない顔をしていると、相手も気を遣い始めて、どんどん空気が悪くなってくる。その結果、相手の執着が強くなり、息苦しくなって、私のほうから別れを告げることが多かった。
 結局私は、モテる私が好きなだけで、男の子が好きなわけではなかった。
 でもそれは、付き合った男の子が私に見合ってないだけ。私はなにも悪くない。
 電車が最寄り駅に着き、学校へ向かう。
「あ、タマちゃんおはよー」
 校舎に入るなり、金髪ロン毛の女子が駆けてきた。彼女も二年のとき同じクラスだった斎藤(さいとう)遥香(はるか)だ。
「ねぇ見た? 見た? クラス」
「まだ」
「私、タマとメグとべつのクラスだった〜」
「そうなんだぁ。残念だね」
 内心、よかったと思いながらクラス分けの表を見る。
 名前を探してみると、私は四組だった。これまで仲が良かったふたりとは、完全に別れてしまった。別にどうでもいいけど。
 ……そんなことより、だ。
「タマ、何組だった?」
「……四組」
 クラス表を見上げたまま、端的に答える。
「私は三組。全員バラバラだぁ」
「まぁ、二年のとき結構派手に遊んだしね。バラバラにされるとは思ってたわ」
「ってそれよりタマ、石野(いしの)と同じクラスじゃん」
 クラス表、四組の一番上に『石野ひなた』とある。
「……石野……さん?」
「あの顔だけの女だよ! 性格超悪いやつ!」
「あぁ……」
 知ってる。
 石野ひなた。学校で一番可愛いとか言われて、男子からチヤホヤされてる女。
 たしかに、顔は可愛い。それは私も認める。
 ただし、ワガママで空気が読めなくて協調性がないから、女子からはすこぶる嫌われているのだ。
 私は、私より目立つ女はきらい。可愛い子もきらい。特に、石野ひなたみたいなタイプはこの世のなによりきらいだ。
 高校最後の年なのに、なんてついてないのだろう。とにかく、この一年は絶対かかわらないようにしよう。
 階段を上がったところでふたりと別れ、新しい教室に入る。教卓で座席を確認すると、私の席は窓際から二列目の一番前だった。
 ……うしろがよかったな。これじゃ後ろの子の視線があるしサボれないじゃん。
 席につき、カバンからペンケースを取り出していると、ガタンと隣の席の椅子が引かれた。
「……あ」
 見ると、例のあの子とかちりと目が合う。
「おとなりさんだぁ。よろしくね!」
 甘ったるい声だった。
「……うん。よろしくね、石野さん」
 咄嗟に笑みを作って返し、さっと視線を外した。
 ……マジで最悪。

 始業式が終わり、新しい担任の挨拶が終わると、今度は学生の自己紹介の時間になった。挨拶は番号順で、初っ端は石野ひなただった。
「えっと……石野ひなたです。好きなものはお菓子とか? で、きらいなものは朝と勉強と運動? あ、部活は入ってません。学校行事とか委員会は基本不参加希望なので、よろしくお願いしまーす」
 ……うわ、最悪な挨拶。
 石野は相変わらず、超甘々な声でわがまま放題言って席についた。
 石野の挨拶に、女子はみんな引いていた。……男子はまぁ……笑顔に見惚れてたけど。
 それから数人の自己紹介が終わって、私の番になった。
鈴賀(すずが)珠生(たまき)です。私は部活に入っていないので、高校最後の今年はクラス行事にも積極的に参加して、みんなと楽しく過ごせたらと思っています。よろしくお願いします」
 当たり障りなく挨拶を終えて席に着くと、うしろの席の男の子の番になった。
瀬野(せの)(みなと)です。一応サッカー部所属です。よろしく……」
 前を向いたまま次の子の挨拶を聞いていると、ふと、となりから視線を感じた。
「ねぇ」
「…………」
「ねぇねぇタマちゃん」
 ……タマちゃん!?
 ぎゅん、と顔を向ける。
「え……なに? ……石野さん」
 愛想笑いを浮かべて石野を見る。すると、石野はなぜだかパッと嬉しそうな顔をした。
「私の名前覚えててくれたの!? 嬉しい!」
「あ……うん、まぁね」
「タマちゃんってすごく物覚えいいんだね!」
 ……バカにされているのだろうか。
「石野、鈴賀。人が自己紹介してるときにしゃべるんじゃない。失礼だろ」
「あ、す、すみません」
 謝りながらも、いや、私は喋ってないんだけどと思う。
 なんで私まで怒られなきゃなんないの。私は話しかけられただけだし、関係ないし。
 じろりと石野を見ると、石野はぺろりと舌を出した。
「怒られちゃったね」
 ……本当に最悪。

 ――それからというもの。石野ひなたはことあるごとに私に話しかけてきた。
「ねぇねぇ、タマちゃんて家どのへんなの?」
「ええっと……家は、南のほうかな?」
 嘘。テキトーに言った。
「そうなんだ! あ、私のことはひなって呼んでね! タマちゃんっ!」
「……うん。ありがとう」
「タマちゃん、次移動教室だって。一緒に行こぉ」
「…………うん」
「お昼一緒に食べようよ〜」
「あ、私、先約があって……」
 遠回しに敬遠しているにも関わらず、よくもまぁ石野は懲りずに話しかけてくる。
「ねぇねぇタマちゃん。今日の放課後、クレープ食べに行かない?」
「ごめん、今日は用事が」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね。それなら明日行く?」
 やんわり断っても、石野は明日の予定を聞いてくる。
「明日もちょっと……」
「じゃあ来週?」
「うーん……」
 もしや、断られているという認識がないのだろうか。
 いや、メンタル鋼かよ。
「あっ、数学の教科書忘れちゃったぁ。タマちゃん見せて〜」
「えっ」
「先生ぇ〜、教科書忘れちゃったので、タマちゃんから見せてもらっていいですかぁ?」
「!?」
 私の許可より先に先生に許可を取りやがった。
「仕方ないなぁ。次からは気を付けろよー。あ、それから先生に対する言葉遣いは……」
「はぁい気をつけまーっす」
「……鈴賀、見せてやれ」
「……はい」
「ありがとぉ」
 あぁ、もう! まったくもってウザイし、なんなのこの女……!!
 新学期が始まってからというもの、出席番号順でとなりの席になってしまった私は、石野ひなたになにかと話しかけられる毎日を過ごしていた。
 授業中でもふつうにデカい声で話しかけてくるし、おかげで先生に怒られるし、空気だってぜんぜん読まない。
 ……今年が高校最後なのに、まったくついてない。

 
 ***


 新学期が始まって一週間が過ぎたある日の放課後。私は、メグと遥香と三人で駅前のクレープを食べに来ていた。
「タマ〜、どうよ? 新しいクラスは」
「あぁ、うん……」
 答えるまでもない。
「噂によると、石野に懐かれてるらしいじゃん」
 なぜか嬉しそうなメグと遥香。
「うん、まぁ……悪い子じゃないんだけどね。けど……ちょっと合わないかも」
「うわ、タマが珍しくやつれてる!」
「しかも、タマが合わないとか言うなんて……」
「というかさ、石野が学年主任の岡田とデキてるって噂知ってる?」
「知ってる! 放課後一対一の個人指導でしょ! ヤバイよね!」
「え、なにそれ」
「タマ知らないの? 石野ってバカでいつも赤点ギリで、欠席もめちゃくちゃ多いのに留年してないじゃん? だから、学年主任とデキてて、進学させてもらってるって噂だよ! 有名じゃん!」
「えぇ、それはさすがにないんじゃないかな?」
「そりゃまぁ、噂だけどさぁ」
「でも石野ならやりかねないでしょ!」
「うーん、そうかなぁ……」
 ため息混じりにクレープをかじる。甘ったるいクリームが舌に絡まった。
「あ、でもさ、石野と仲良くなれば、湊くんとお近づきになれるチャンスじゃない?」
「おぉ。それはそうかも! 石野と湊くんって幼なじみらしいしね」
「湊…?」
「そ。瀬野湊」
「……そういえば瀬野くんって、私の後ろの席だったかも」
「そういえばって……タマったら、本当にイケメンとか興味ないんだね」
「まぁね……」
 嘘。知ってる。
 私のクラスには、イケメンがひとりいる。石野ひなたと幼なじみだとかいう瀬野湊。
 イケメンで頭も良くて、おまけにサッカー部のエースで面倒見がいいときた。顔だけしかいいところがない石野とはまるで正反対の幼なじみ。
 彼のことは、私はべつに好きというわけではないけれど、あの顔なら付き合ってもいいと思っている。もちろん、相手から告白してきたら、の話だけど。
「タマの今の最有力彼氏候補じゃない?」
「私は別に、そんなつもりは」
 あるが。
「またまたぁ! あ、そういえば私のクラスにもひとりイケメンがいてさ〜」
「あ、知ってる! バスケ部の人でしょ?」
「そう!」
「あれ、でもあの人彼女いなかったっけ?」
「いるいる! で、二年に彼女がいるっていうからその噂の彼女、見に行ったわけよ」
「マジ? どうだった?」
「めっちゃブス! やばいよ、あれは。女の趣味悪過ぎて冷めたわ」
「あーいるよね、そういう人〜。ブス専ていうの?」
「あはっ。マジないよね〜」
「タマのが絶対可愛いよ」
「うんうん、だよね〜!」
「そんなことないよ」
 ふたりの話を聞き流しながら、私は表向き笑みを浮かべてクレープを食べていた。
 甘ったるくて、胸焼けした。


 ***


 放課後。委員会が終了し、下校前に私は女子トイレにいた。鏡に映る自分を視界に入れないようにしながら手を洗い、ドアを開ける。
「あっ」
 足元を見ていたせいで、入ってこようとした人とぶつかってしまった。
「あっ、ごめん」
 大丈夫だった? と問おうとして顔を上げると、ぶつかったのは例の石野ひなただった。
「げっ」
 思わず声を出してしまい、慌てて口を噤む。聞こえていなかっただろうか。
「って、なんだぁ、タマちゃんか」
 石野はお得意の上目遣い。女にやったところで嫌われるだけなのに、と思うけれど、これが彼女の素なのだろう。
「……ごめんね。怪我してない?」
 私は努めて笑顔を張り付けて、石野に話しかけた。すると石野は私が笑顔で返したのが嬉しかったようで、パッと笑ったまるで花が咲くような、すごく可愛らしい笑顔で。
「大丈夫だよ!」
 ……いいなぁ。石野はすっぴんでこのレベルなのか。化粧したら、無敵だろうな。
 羨まし……くはないけど。
「あ、そだタマちゃん。今日、放課後クレープ行けるよね?」
「え? ちょ、待って、なんの話?」
「先週約束したでしょ?」
 してませんが。
「行けない……?」
「…………」
 石野がきゅるんと瞳を潤ませた。
 ……ウザ。
 大きな二重の瞳。ぷるぷるした白玉肌。髪は細くつややかで、巻いているのだろうか。毛先だけくるんとしている。華奢な身体と、小さな手。
 どこもかしこも男が好きそうな容姿。
 でも、顔だけ良くたってダメなのだ。基本、学校というカースト社会では女子にハブにされたら生きていけない。バカで空気が読めなくて、協調性のない女は生き残れないのだ。
 だって現に、石野ひなたはクラスでひとりも友達がいない。


 ***


 昨日も来たクレープ屋のテーブル席で、私は石野ひなたと向き合っていた。
 私が食べているのは、チョコバナナクリーム。石野はイチゴチョコクリームを注文していた。
 甘いのは太るから特別好きじゃないけど、石野ひなたは好きなようだ。あからさまに瞳を輝かせている。
「石野さんは甘いの好きなの?」
「うん! 好き! タマちゃんは?」
「私は太りやすい体質だから、気を付けてるんだ。……石野さんは細いからそういうの気にしてなさそうだよね」
「うん! ぜんぜん気にしない!」
 ……帰りたい。
「あ、これ、持ち帰りもあるかな?」
「え、持ち帰るの? これ」
 なぜに。
「アイス溶けちゃうんじゃない?」
「そっか、そうだよね」
 石野は少し残念そうにして、再びクレープをはむはむと食べ始めた。
「……あ、そういえばタマちゃんのそれ、何味?」
「チョコバナナだよ」
「…………」
 石野はじっと私を見ていた。正確には、私のクレープを。
「……食べる?」
「いいの!? 食べる!」
 私はクレープごと石野に差し出す。
「じゃあ、全部あげる」
「えっ、なんで?」
「私、あんまりこういうの好きじゃないから」
「こういうのって?」
「甘いもの」
 石野がきょとんとした顔で私を見た。
「え。じゃあなんで来たの?」
「えっと、それは……」
 あなたがしつこかったからですが。
「もしかしてタマちゃん……私のために?」
 瞳がキラキラしている。どうしたらそんなにプラス思考になれるのだろう。謎。
「ずっと思ってたけどさ、石野さんって、すごいプラス思考だよね」
「そう? あ、ひなでいいよ〜」
「……石野さんって、二年のときだれと仲良かったの?」
「だれと……えっと、湊とか?」
「女子は?」
「うーん、とくにはいなかったかな」
 だろうね、と内心で同意する。
「ねぇ、石野さんって、学校楽しい?」
「え? 楽しいよ?」
 ふつうに返され、面食らう。
「だって学校には湊がいるし」
「……そっか。あ、瀬野くんとは恋人同士だったりする?」
「ううん。湊は家族だよ」
「家族?」
「うん。生まれたときからとなりにいるから、家族」
「ふぅん……」
 つまり幼なじみということか。
 だからってふつう、家族って言う? 血の繋がらない他人同士で、しかも性別も違う人と家族とか。あり得ない。そんなふうに思っているのは、きっと石野側だけだ。
「タマちゃんは二年のとき、だれと仲良かったの?」
「え?」
 一瞬、言葉に詰まった。
「……とくには」
 一瞬、メグと遥香の顔が過ったけれど、あの子たちは別に友達というわけではない。
 正直、メグと遥香と話していても、いつもだれかの悪口ばかりで楽しくない。
 ふたりだけのときは私の悪口を言っているのも知っている。そんな人を友達だなんて思うわけがない。
 お互い、ギブアンドテイクだ。私といると人気者の仲間でいられるからふたりは私についてくるし、私は私の可愛さが引き立つから彼女たちに付き合う。ただ、それだけの関係。
「じゃあ、私と一緒だ!」
「え」
「私もね、女の子で仲いい子いないからさ! なぜか避けられるんだよねぇ」
「そう……だったんだ」
 そりゃ避けるだろ、ふつうは。
「だからタマちゃん! 友達になろっ!」
「う……う、うん……」
 屈託なく笑うその顔は、女の私でも見惚れてしまうくらいにきれいだった。
 いや、おかしい。私と石野が同じ? ない。絶対ない。だって私は人気者で、石野はきらわれ者だ。


 ***


 放課後、私は図書室にいた。他クラスの男の子に呼び出されたのだ。行ってみると、案の定告白だった。好みの顔じゃなかったので丁重にお断りして、私は昇降口へ向かう。下駄箱でローファーに履き替えていると、ふととなりに人の気配を感じて顔を上げる。
 そこにいたのは、すらりと背の高い男の子。瀬野湊だった。
「……あ、鈴賀。今帰り?」
 声をかけられた私は、得意の笑みを返す。
「うん。瀬野くんも?」
「今日は部活休みだから」
 そうなんだ、と返すと、沈黙が落ちた。
「それじゃ、また明日ね」
 とくにそれ以上話すこともないので、さよならをする。すると、瀬野はなぜだか私にくっついてきて、並んで歩き始めた。
 え、なに? どういう状況?
「ねぇ。さっき、告白されてたでしょ」
 見てたのか、という意味でちらりと瀬野を見る。
「なんでふったの?」
「なんでって……彼のことなにも知らないし、まだ前の人と別れたばかりだし」
 嘘。本当は顔が好みじゃなかった。ただそれだけ。
「うわ、嘘っぽ」
 と、瀬野が言った。
 眉を寄せる。
「鈴賀って、来る者拒まずじゃないんだ?」
 立ち止まり、瀬野をキッと睨みつける。
「どういう意味?」
「あー。別に、変な意味じゃないから気にしないで」
 いい意味でもないだろうが。
 気にするなと言うなら初めから言わないでほしい。なんなの、この男。感じ悪。
「ただ、ちょっと意外だったからさ」
 私は瀬野の声を無視して早足で歩き出す。
 ……私はバカじゃない。
 こっぴどくふって、逆恨みでもされたらたまらない。だからいつも、できるだけこじれない別れ方を選んでいる。前に一度、厄介なタイプの男の子と付き合ってしまって、しつこく追いかけ回されたことがあったから。
 高校生になってからは、家の場所だってだれにも教えていない。今後も教えない。
「怒るなよ」
「別に、怒ってないよ?」
 仮面を被った私は、そんなことで怒るほど短気じゃない。
「そういえば、瀬野くんこそ石野さんと付き合ってないんだね」
「え? あぁ……まぁ」
 瀬野は驚いた顔をして私を見た。なんで知ってるのか、と聞きたいのだろうか。
「石野さんが言ってた」
「……あぁ、そういうことか。……ありがとな、ひなたと仲良くしてくれて」
 あいつあんまり女子とかかわらないからさ、と瀬野は言うが、素晴らしい勘違いだ。
 べつに仲良くないし、あっちが勝手に付きまとってくるだけで、こちらはものすごく迷惑しているのだが。
「……本当に仲良いんだね、石野さんと」
「え? あーまぁ、ずっとそばにいるからな」
 石野は以前、瀬野のことを家族だと言っていた。瀬野も同じように、石野のことをとても大事に思っているのだろう。眼差しがそう語っていた。
 私は愛想笑いを浮かべることも忘れ、ぽつりと呟く。
「……勘違いしないで」
「え?」
「私、石野さんと仲良くないから。あっちが勝手に付きまとってくるだけ」
「え……でも昨日クレープ食べたってひなた、嬉しそうに話してたけど」
「しつこかったから付き合ったんだよ。瀬野くんさ、幼なじみなら瀬野くんから言ってくれないかな。迷惑なんだよね。石野さんみたいな全方向からきらわれるタイプの女子に絡まれたら、私まで女子からきらわれかねないんだから」
 吐き捨てるように言うと、瀬野がぽかんとした顔をした。それを見て、ハッと口を押さえる。
 やってしまった。せっかくこれまで誰も素を見せずに頑張ってきたのに。
「ご……ごめん、私帰る!」
 私は、走ってその場から逃げ出した。


 ***


 家に帰ると、玄関でおばあちゃんに鉢合わせた。
「あら、おかえり」
「……ただいま」
 おばあちゃんは手に財布を持ち、靴を履いている。どこかに行くのだろうか、と思っていると、おばあちゃんが言った。
「ちょっと買い物に行ってくるね」
「うん」
「すぐ戻るから、キッチンそのままにしてていいからね」
「うん」
 おばあちゃんは私を一瞥もすることなく、出ていった。
 一階の廊下を進み、居間のさらに奥の和室が私の部屋だ。部屋と言っても、服が入ったプラスチックケースひとつと、布団がひとつあるだけだが。
 制服のままプラスチックケースを机にして勉強していると、玄関の扉が開く音がした。おばあちゃんが帰ってきたようだ。
 そっと障子の隙間からキッチンを覗くと、おばあちゃんは既に料理を始めていた。軽やかな包丁の音が聞こえてくる。会話のないこの家では、こういう何気ない音がよく響く。
 おばあちゃんは、私をきらっている。
 口調こそ優しくて余計なことはなにも言わないけれど、おばあちゃんは一切私を見ない。お父さんも、私に干渉しない。三者面談にすら来ない。
 お母さんが出ていった日から、私は一度も家族と目を合わせていない。
 静かに、とても静かに拒絶されている。
 でも、べつに気にしない。どうせ高校を卒業したら、この家は出るつもりだし。
 部屋の前に夕食が入ったお盆が置かれた音がして、私は障子を開けてお盆を入れた。
 鍵なんてついてない障子の向こう側では、おばあちゃんとお父さんの声がする。
 ふたりとも、私がきらいなわけじゃない。ただ、私の顔がダメなのだ。私がお母さんにそっくりだから。
 お母さんは、私が五歳のときに出ていった。お父さんの知り合いだとかいう若い男と浮気をして、それがおばあちゃんにバレて出ていったのだそうだ。
 正直お母さんのことはぜんぜん覚えていないけれど、どんな顔をしていたのかは知っている。だって、私だから。
 鏡に映る私はまったくお父さんに似ていない。知らない女の人だ。たぶん私は、お母さんなのだ。
 私が成長すればするほど、お父さんは私を見なくなった。おばあちゃんは、眉を寄せるようになった。
 それだから私は自分の顔がきらいだし、化粧前の自分の顔のときは、まともに鏡を見ることもしない。


 ***


「それでは、球技大会の種目決めは以上になります。それぞれ出る種目は、実行委員主導により放課後練習がありますので、スケジュールを確認しておいてください! 学年優勝狙って頑張りましょう!」
 季節は初夏。毎年恒例、球技大会の季節が来た。
 私たちが通う高校の球技大会は学年ごとに行われ、学年カラーごとに開催される月が決まっている。私たち三年はカラーが青、二年が緑、一年が赤。青学年は毎年夏休み明けの九月の頭に行われ、緑学年は十月、赤学年は十一月に行われる。
 球技大会は各クラス対抗で、優勝すると景品などがもらえるため、生徒たちは並々ならぬ気合を入れて挑む。
 私の出場種目はバスケになった。バスケは室内競技なので日焼けしなくて済むし、どちらかといえば得意だからいい。
 ただ、ひとつ問題がある。石野ひなたと一緒なのだ。
 最悪だ。だって、石野は昨年も同じクラスだった子の話によると、ひどい運動音痴らしいのだ。
 夏休みの自主練に付き合ってほしいなどと頼られそうで怖い。……と、思っていたのだが。予想に反して、石野は放課後の練習に参加することはなかった。
 ちょっと拍子抜けしたが、まぁ絡まれないことに越したことはない。
 ホッとしていた私とは裏腹に、練習に参加せず帰宅する石野に、バスケ担当になった他のメンバーはいい顔をしなかった。
「運動音痴のくせに練習こないとかなんなの?」
「当日も休んでくれたらいいんだけどね」
「つかもう学校来なくていいんじゃね?」
「ね、珠生ちゃん」
「……まぁ、石野さんもいろいろあるんじゃないかな」
「珠生ちゃんは優しいなぁ」
「つーか、顔がいいってだけで男子は騙されすぎ。バカでも運動音痴でもチヤホヤされるんだからいいよね〜」
「私は珠生ちゃんのほうが絶対可愛いと思う」
「私も! 絶対珠生ちゃん派!」
 やっぱり、女は醜い生き物だ。集まればすぐに目立つ子の愚痴をはじめるのだから。
 この球技大会を機に、派閥が生まれた。私派か、ひなた派か。
 くだらない、と内心で思う。そもそも同じ舞台に私を上げないでほしい。
 まぁ、悪口の対象が私ではなく石野になったのはいいけれど。
「じゃあまたね!」
「お疲れ様〜」
「バイバーイ!」
 笑顔で学校を出る。
 球技大会があると、放課後の練習があるから家に帰る時間が遅くなっていい。今は彼氏がいないから、寄り道するいいわけにちょうどいいのだ。ふたりとも、保護者として心配しているフリだけはするから。
 商店街をふらついていると、正面にうちの制服がちらついた。
 おや、と思い見ると、石野だった。なにをしているのだろう、とよくよく観察していると、となりに小さな男の子……がいた。年齢はどれくらいだろう……五歳とか? 子供が好きじゃないから、よく分かんないけど。
「……え、なにあれ」
 もしかして隠し子? え、マジ? 石野ってそーゆう感じ? でも、相手は? 瀬野? いや、さすがにそれは……。
 ぐるぐる考えていると、私の念に気付いたのか、石野がパッと振り向いた。
「あっ」
 ……やば。
 目が合ったことをなかったことにして顔を背けるが、石野は気にした様子もなく私に駆け寄ってきた。
「タマちゃん!」
 逃げたところで明日の朝が面倒なだけだ。ここは軽く立ち話で済ませよう。
「あー……石野さん。偶然だね。こんなところでなにしてるの?」
 そのきょとん顔はお決まりなのだろうか。もはやわざとなのではと思い始めてきた。
「私はただの保育園のお迎えと買い物だけど」
「そうなんだ……ねぇ、その子ってもしかして……」
「あ、この子? この子は空太。私の弟」
「弟?」
 男の子を見る。たしかに石野に似て目がくりくりとしていて、可愛らしい男の子だ。
「こんにゃちは」
 ……うん。バカそうなところがソックリ。
「こんにちは」
 私は笑顔で挨拶を返した。
「うち母子家庭だから、私が弟の面倒見てるんだ」
「ふぅん……大変だね」
 だから帰宅部で、球技大会の練習にも参加しなかったのか。
「それで、タマちゃんはこんなとこでなにしてるの?」
「私は球技大会の練習帰りだけど」
「あ、そういえばそっか。というか、タマちゃんの家って、こっちのほうだったんだね!」
「……ううん」
 首を振ると、石野は訝しげに「え?」と首をかしげた。
「……ただ、ちょっと道草食ってただけ。家は居心地が良くないから」
 そう言うと、石野は数度瞬きをしてから言った。
「そかそか。じゃあさ、うち来る?」
「え?」
「これからご飯の準備なんだけど、その間空太見ててくれるなら大歓迎だよ!」
「え、いやそれは」
「気にしないで。今日お母さん夜勤でいないし、それに、お客さんがいると空太が大人しくなるからめっちゃ助かる」
「えーお姉ちゃん僕んち来るのー?」
「えっ」
「そうだよ〜」
「えっ!?」
「やったぁ!」
「さて、それじゃあ三人で帰ろ〜!」
「……えぇ、ちょっと……」
 私はなぜか石野の家に招かれることになった。いや、だからなんで。

 石野の家は、三階建の古いアパートだった。単身世帯用レベルの狭い部屋に三人で住んでいるらしく、ベッドもテレビもない。
 あるのはリビングに小さなテーブルひとつで、夜はテーブルを避けて布団を敷いて三人川の字で寝るのだという。
 リビングは、私の部屋とそう変わらない広さだった。
「狭いけど、どうぞ」
 本当に狭い。
 石野は手際よくエプロンを付けると、キッチンに立った。その後ろ姿は学校で見るふわふわした感じはまるでなくて、しっかりしたお姉さんだ。
 その手馴れた様子に、
「……もしかして、家事はいつも石野さんが?」
「そうだよ〜。お母さんは仕事忙しいし」
「ふぅん……」
 だから、放課後はいつもまっすぐ帰宅していたのか。
「……じゃあ、卒業したらどうするの?」
「働くよ」
 石野は躊躇いなくそう答えた。
「就職ってこと?」
「うん」
 でも、うちの学校は三年になると進学組と就職組でクラスが分かれる。就職コースは六組のはずだ。
「……でも、石野さん四組に入ったってことは、最初は進学するつもりだったんじゃないの?」
「うん。でも、年明けにお母さんが過労で倒れちゃって。だから代わりに私がお金を稼がないと。勉強する暇があったらバイトのシフト入れたいし……だから進学は諦めたんだ。というか最近はバイトも忙しいし、いろいろと片付かなくなってきてるから、夏休み中に学校も辞めようと思ってる」
「えっ!? 辞めちゃうの? 学校……」
「学年主任の先生には卒業まであと少しなんだから踏ん張れって、何度も止められてるけど」
「ふぅん……」
 なるほど。学年主任との密会は、その件か。
 私は家の中を見回す。
 石野の話では、さっきから母親と弟の話しか出てこない。この家に父親はいないのだろうか。
 すると、石野は私の心を察したように言った。
「私と空太ね、父親違うの。私のお父さんは生まれてすぐ別れてて、今は別の家族がいる。うちも再婚したんだけど……新しいお父さん、空太が生まれてすぐ事故で死んじゃって」
「……そうなんだ」
 ふたりは父親が違うというが、顔はよく似ている。どちらも母親似なのだろう。
 狼狽えた。話を聞けば聞くほど私と石野は決定的に違うということを見せつけられているようで。
「タマちゃんは進学するの?」
「……うん。大学かな。まだ学部とかは決めてないけど」
「そっかぁ。そうしたら、塾とか大変そうだね」
「塾は行ってないよ」
「えっ、そうなの? それなのにあんなに勉強できるんだ。すごいね」
「家にいるとやることがないから、いつも勉強してるの」
 これは本当。話す人もいないし、家だとずっと参考書を読んでいる。
「……そういえばさっき、家は居心地が悪いって言ってたけど……」
「……うちも片親なの。うちはお母さんがいないんだ」
 淡々と告げると、石野は分かりやすく動揺していた。
「うちの母親ね、出ていったんだ。男と駆け落ち。ヤバいでしょ」
 ふふっと笑いながら言うと、
「……なんで笑うの?」
 と、不思議そうな顔をした石野と目が合った。
「ぜんぜん、笑いごとじゃないじゃん」
「…………」
 ふつう、ここまで言えばみんな黙り込む。それ以上詮索されることはなくなるのに。今回、黙り込んだのは私だった。
「だから、そんな似合いもしない化粧して大人ぶってるの? 男を取っかえひっかえして、寂しさ誤魔化してるの?」
「別に、そういうんじゃ……」
「その化粧、ぜんぜん似合ってないよ」
「は?」
 うわ、なにこいつ。ここに来て自分のが可愛いですアピール? ウザ。
「石野さんには関係ないでしょ」
「うん。でも、不細工だから気になる」
「はぁ!?」
 だれが不細工だ。カチンときた。もう我慢できない。
「知ってる? あんたこそ、めっちゃ悪口言われてたんだからね。球技大会の練習勝手にサボって。あぁ、そういえば学年主任とデキてるとかいう噂もあったっけ」
「だって、球技大会より弟のお迎えでしょ」
 しかし、石野は気にした素振りもなく平然と言い返してくる。
「なにも言わないで帰るから反感買うんだよ。少し考えれば分かるでしょ」
「言ったって、同情誘ってるとか言われるのがオチだし。言いたいやつには言わせておけばいいんだよ。私は別に友達じゃない人たちになに言われても気にしないもん」
「だから友達できないんじゃないの」
「うわ、ひど。でもさ、そういうタマちゃんって、友達いたっけ?」
 ふん、とバカにするように笑われた。
「はぁっ!? 私はいるよ! どう考えたってクラスで一番の人気者でしょうが!」
 こいつ、やっぱりいやなやつだった。
「あぁ〜、上っ面の友達ね。タマちゃん、仮面被るのだけは上手いもんねぇ」
「だけは」を強調された。ムカつく。
「あぁもう、うるさい! 仮面被ってなにが悪いのよ! 少なくとも私は、あんたみたいに女子からきらわれてないんだから、私が正しいでしょ!」
 やっぱりこいつ、バカだ。ただのワガママ女だ。
 私はムカついて石野をキッと睨む。
「そう? でもタマちゃんってぜんぜん学校楽しそうじゃないよね。そもそも合わない子と仲良くする意味ってあるの? そんなことで気を遣うんだったら私は弟と一緒にいてあげたいし、湊と楽しく笑ってたい」
 と、石野は余裕の笑みを浮かべている。
「私は好きでもない人にきらわれたってどうだっていい。だって、私をきらってる人に個人的な事情を話したって理解してくれるわけないんだから。私には、私のことをちゃんと分かってくれる湊と空太とお母さんがいるしね」
 石野は私に強気な視線を向けて、そう言い切った。
 ……あぁ、もうムカつく。
「タマちゃんってさ、学校だといつもニコニコしてたけど、本当はこれが素なんでしょ? 性格かなりねじ曲がってるよね〜?」
「…………」
 私が言葉に詰まると、石野は畳み掛けるように言った。
「家のことを相談できる人もいなくて、外では愛想笑いで誤魔化して、好きでもない男の子と遊んで。でも結局だれにも心を開かないからひとりのまま」
 小さく息を吐く。
「……私、あんたのこと本当にきらいだわ」
「じゃあなんで着いてきたの? 結局、家よりもきらいな私の家のほうがマシなんでしょ?」
「…………」
 答えられなかった。
 私はなんで、ここにいるのだろう。
 石野のことなんて、だいっきらいなのに。


 ***


「あの」
 夏休みを目前にした月曜日の朝、いつものように学校の最寄り駅で電車を下りると、見知らぬ男の子に声をかけられた。学ランを着ているから、きっと最寄り駅が同じ他校の生徒だろう。島名(しまな)高校とか言ったっけ。
「なに?」
 振り向くと、胸辺りのボタンが目の前にあった。デカ。見上げて目を合わせると、男の子の顔がぽっと赤くなった。
「あ、あの……俺、橋本(はしもと)っていいます。いつも同じ電車に乗ってて、ずっと、可愛いなって思って見てて……よかったら、連絡先教えてもらえませんか」
 にっこりと微笑む。そうだ。私はそもそも、友達なんてほしくない。家族もいらない。
 私を好きって言ってくれる人がいれば、それでいい。
「嬉しい。ありがとう」
 そう言って、ポケットからスマホを取り出した。
 橋本くん(下の名前は知らない)と連絡先を交換して別れ、学校へ向かう。昇降口で、メグと遥香と遭遇した。
「あ、タマ。おはよ」
「見てたよ。告られてたでしょ」
「あぁ、うん」
「付き合うの?」
「気が早いって。まだ会ったばかりだよ」
「背が高くて結構かっこよかったよね」
 記憶にない。どんな顔してたっけ、と考えていると、チャイムが鳴った。
「あ、予鈴」
「じゃあね」
 上履きに履き替え、さっさと教室へ向かった。

 頭が重い感じはしていた。このところダイエットでほとんどご飯も食べてなかったし、日中の暑さもあって、体力も落ちていたのかもしれない。
 放課後の球技大会の練習で倒れた私は、気が付いたら保健室のベッドの上だった。身を起こすと、傍らにはなぜだか瀬野がいた。ぎょっとする。
「……なんで、瀬野くんが」
 となりのコートで男子もバスケの自主練をしていたら突然悲鳴が聞こえて、見たらお前が倒れてたんだよ、と瀬野はため息混じりに言った。
 つまり、倒れた私を瀬野が運んでくれたということか。
「ありがとう」
「別に」
 瀬野はすくっと立ち上がると、「先生のこと呼んで、俺はそのまま帰るから」と言った。
 瀬野は、あの日私が吐いた暴言について、なにも触れなかった。
 その後、先生が顔を見にやってきて、なんでもないことを伝えると帰っていいと言われた。迎えを呼ぶかと聞かれたが、そんなことしたら余計に私の肩身が狭くなるので(とはさすがに口にしなかったが)、歩けるから大丈夫と言って断った。
 カバンを取りに、教室へ向かう。扉に手をかけたところで、まだ教室に残っていたらしいクラスメイトたちの話し声が聞こえた。手を止め、その場にとどまる。
「マジで抜け目ないわ。ふつうあそこで倒れる?」
 教室にいたのは、クラスメイトの女子数人。どうやら、瀬野の前で倒れた私の話をしているようだ。
 タイミング悪いな、と思う。
「ちょっと可愛いからってさぁ」
「いやでも、ぶっちゃけ珠生ってそうでもなくない? 絶対化粧で誤魔化してるって」
「化粧取ったらブスだよね〜」
「たしかに。顔だけなら石野ひなたのほうが可愛いかも」
「結局どっちも顔だけってことじゃん」
「言えてる」
「そういえばさ、今日駅で島高の男の子と話してるとこ見たんだけど」
「うわ、また? 軽〜」
「珠生ちゃんって本当に誰でもいいんだね。引くわぁ」
 彼女たちの甲高い笑い声が、ずかずかと心臓に刺さっては棘のように残る。
 ……別に、悪口なんて今さらだ。今までだって散々言われてきたし、気にしない。悪口なんて、言い換えればただの嫉妬だ。私が可愛いから、みんな妬んでいるだけなのだ。
 今ガラッと扉を開けて中に入れば、彼女たちはきっと狼狽えて、慌てて私に引きつった笑みを浮かべるだろう。そしてゴマをする。その顔を見たらきっと許せる。あんな子たちと同じ土壌に立つ必要なんてない。心の中で笑っていればいいのだ。
 ……そう思うのに、私の足は動かない。前へ行かないどころか、少し震えていた。
 もういいや。スマホはポケットにあるし、カバンなんて持ち帰る必要ない。今日はこのまま帰ろう。
 回れ右をしたとき、すぐ目の前に大きな物体があって、私は小さく悲鳴を上げた。顔を上げると、瀬野だった。
 瀬野は私を見下ろし、静かに訊く。
「中、なんで入んないんだよ。カバン、ロッカーだろ」
 いや、あんたこそなんでいるんだ。帰ったはずじゃなかったのか。
「俺も忘れ物取りに来たんだよ。早く入れよ」
 と、言いながら瀬野が勢いよく扉を開ける。
「ちょっ……」
 教室が静まり返った。クラスメイトたちは扉の前に立つ私と瀬野を見て、固まっている。ひとりが声を上げた。
「あ……あ、珠生ちゃん。い、いたんだ」
 無理に空気を割いたせいで、声がひっくり返っている。
「体調は、大丈夫?」
「うん」と小さく返すと、クラスメイトたちはホッとしたように笑った。どうやら、さっきの悪口はなかったことにするつもりのようだ。気付かれてない、とでも思ったのだろうか。
「そっか、良かったぁ」
「心配してたんだよ」
 引き攣ったいくつもの顔が私に向いている。薄気味悪いと思った。
 立ち止まったままの私をすり抜け、瀬野が代わりに私のカバンを持ってくる。
「荷物、これだけ?」
「……あ、うん」
 ありがとう、とカバンを受け取る。なにも言わずそのまま足を引いて帰ろうとすると、瀬野が言った。
「お前、今散々悪口言われてたけど、なにも言い返さねーの?」
「えっ……」
 再び空気が凍った。バカなのだろうか、この男は。振り向くと、瀬野はにやっと笑っている。うわ、性格悪。さすが石野の幼なじみをやっているだけのことはある。
「……え、なに」
「私たち、別に悪口なんか言ってないし……」
「そうだよ。別に……ねぇ?」
 普段穏やかな瀬野の鋭い指摘に、彼女たちが狼狽えるのが分かった。その顔に、私の中でなにかがプツンと音を立てて切れた。
 なんかもう、どうでもいいやと思えてきた。
「へぇ。あれって悪口じゃなかったんだ?」
 私は笑顔で彼女たちを見る。
「え……?」
「いや、まぁ別にいいんだけどね。だってさ、結局みんなは私の顔が羨ましいんでしょ? 自分には持ってないものを私が持ってるから、憎らしいんだよね。あはは、ごめんね? みんなより可愛くて」
 そう言い捨てると、私は彼女たちにくるりと背を向けた。
 教室を出て行こうとして、ふと足を止める。
 ……そういえば。
「そういえばさっき、ひなたのことも顔だけとか言ってたけど」
 すぅっと息を吸う。
「それ、違うから。ひなたには、ちゃんといいところたくさんあるから! ぜんぜんバカじゃないし、あんたたちの百倍真面目でいい子で、いろいろ考えてるんだから!」
 強い口調で言って、ふんっと息を吐き、扉に手をかける。
 思い切り扉を閉めようとすると、その手を瀬野に止められた。なんだ、と思って振り向く。すると、今度は瀬野が彼女たちに向かって言った。
「俺もひとつだけ。お前らさ、気付いてる? 影でこそこそだれかの悪口言って笑ってるお前らのほうが、よっぽど顔も性格もドブスだってこと。一回鏡見たほうがいいんじゃね」
 そう吐き捨てて、瀬野は思い切り扉をぴしゃんと閉めた。

 私は、黙々と歩いた。心の中は嵐が吹き荒れている。いらいらどころじゃない。近くにゴミ箱があったら思い切り蹴り飛ばしたいレベルだ。
 校門を抜け、近くの公園の前に来たところで足を止めた。
「あのさぁ」
 足を止めた私のとなりで、瀬野もなぜか立ち止まる。というか、なんでまだいるんだろう。
「いつまで着いてくる気?」
 瀬野をじろりと睨みつける。
「ついでだから送ろうかなって」
 こころなしか、その声はどこか楽しそうに跳ねている。
「送らなくていい。まだ帰る気ないし」と、私は視界に入った公園に入る。その公園は、遊具はほとんどなかった。私は唯一あるブランコに座った。
「なら、帰るまで付き合う」
 そう言って、瀬野は私のとなりのブランコに座った。
 夏の真ん中、濃い日差しの夕暮れに、キィ、と金属が擦れる音だけが響いている。
「……なんで庇ったわけ?」
「なにが? 俺は思ったことを言っただけだけど」
「だからって……」
「だってあいつら、ふつうに最低だったじゃん」
「……だとしても、瀬野には関係なかったでしょ」
 私は、前に瀬野の前で本性を見せている。瀬野の中での私の印象は最悪のはずだ。それなのに。
「関係なくても腹立つだろ」
 腹立つ? だれが、だれに?
「……あぁ、石野をバカにされたから?」
「いや? ひなたはぜんぜんそういうの気にしないからいいんだけど。でも、お前は違うじゃん」
「は?」
「手も足も、震えてた。俺を見た瞬間、泣きそうな顔してたから」
「なっ……」
 カッと顔が熱くなるのが分かった。
「なってないし! 泣いてなんかないし!」
「はいはい。余計なことしてすみませんでしたね」
「本当だよ。明日からどーすんの。確実に私ハブられんじゃん」
「いいじゃん。あんなやつら放っておけば」
「……ダメだよ。男子はいいかもしれないけど、女子は群れてないと生きられない生き物なんだよ」
 友達なんていらないけど、いじめを受けるのだけはごめんだ。蔑まれるのもいや。私は、最後まで完璧でいたい。
 みんなからちやほやされて、クラスでも一軍のトップに君臨し続けて、卒業式ではみんなの中心で写真を取って、さよならをする。
 高校生活は、そんな華々しい記憶だけで埋めつくしたかったのに。
「……なら」
 影が落ちて、顔を上げる。瀬野は私が座るブランコの鎖を両手で掴んで、私を見下ろしていた。黒々とした瞳が揺れる。
「俺らが群れてやるよ」
「……俺、ら?」
「うん。俺と、ひなた」
「瀬野はいいとして、きらわれ者と一緒にいたら余計きらわれるだけじゃん」
 すると、瀬野は小さく息を吐いて、
「ずっと思ってたんだけどさぁ」
 と言った。なによ、と私は瀬野を睨むように見つめる。
「お前はひなたがきらいなわけ? それとも、みんながひなたのことをきらってるから仲良くしたくないわけ?」
「……それは……」
 言葉につまる。
 私は石野のことをどう思ってる?
 石野はたしかに協調性がなくて、ワガママ。自分勝手だし、一緒にいるといらいらする。……だけど、放課後まっすぐ帰ることにも先生との密会にも、ちゃんとした理由があった。
 ずっと石野をバカにしていた。でも、石野はそんなこと、ぜんぜんまったく歯牙にもかけていなくて……私なんかよりずっと愛されていた。
 私はぎゅっと手を握り込む。
「……仕方ないじゃん。私には、やさしい家族や幼なじみなんていないの。自分を偽らなきゃ、だれにも好きになってもらえないの。みんなに合わせないと……居場所すら見つけられないダメな人間だから」
 うっかり泣きそうになって、唇を噛んだ。
「だからさ、珠生には俺たちがいるじゃんって言ってんの」
 顔を上げると、瀬野と目が合う。
 吸い込まれそうなほど澄んだその瞳に、あぁそうか、と思った。
「……なにそれ。あんた、私の本性見たでしょ。それなのに、なんでそこまでするの?」
「ぶっちゃけると、顔が好み」
「はっ?」
 素っ頓狂な声が出た。
「いやまぁ半分は冗談だけど。でも、相手を知りたいと思うときなんて、だいたいみんなそんなもんだろ? 雰囲気がいいとか、スタイルが好みとか」
 不快感を全面に出して瀬野を見る。
「……ぜんっぜん嬉しくないんだけど?」
 すると、瀬野はからっと笑った。
「俺になに期待してんだよ? 俺、ひなたの幼なじみなんだけど? 頭もあいつと同レベルだから」
 つまりバカと。
 ふっと息が漏れる。
 もう、なんでもいいや。なんとなく、瀬野の言いたいことは分かった。
「……石野があのままでいられたのは、ずっとそばに瀬野がいたからなんだね」
 石野には、瀬野のような守ってくれる人がいる。味方になってくれる家族もいる。だから、あんなに軽やかなんだ。
「……いいなぁ」
 ぽそっと本音を漏らして俯いたとき、瀬野がしゃがんだ。再び視線が合う。
「俺らがいるから、明日もちゃんと学校に来いよ」
「!」
 ぎゅっと胸が潰れそうになった。今度こそ視界が滲んで、私は弾かれたように立ち上がる。
「……し、知らないし」
 まっすぐに見つめてくる瀬野に背を向け、私は逃げるように公園を出た。


 ***


 その翌日から、私は完全にクラスの異物となっていた。まぁ、当たり前と言えば当たり前だ。昨日、クラスメイトにあれだけのことを言ってしまったのだから。
 本当は登校したくなかったけれど、家にいることのほうがいやで仕方なく制服を着た。ワイシャツに袖を通しながら、私は以前石野に言われた言葉を思い出した。
『結局、家よりもきらいな私の家のほうがマシなんでしょ』
 そのとおりだった。私は家に居場所がないから、どうしても学校では居場所を作りたくて、がむしゃらに頑張っていた。でも、必死で守ってきた居場所すら私は呆気なく失った。
 昼休み。四方から、ひそひそと私の噂をする声が聞こえる。そこには、昨日あの場にいなかった女子たちの声も混ざっていた。
「昨日のあの話って、本当なの?」
 そうだよ。あれが本当の私だよ。
「前から思ってたけど、珠生ちゃんってやっぱりナルシだったんだ」
 だって、私しか私を愛してくれないんだから、仕方ないじゃない。
「自意識過剰だよねぇ」
 うるさい。勝手なことを言うな。上っ面の私しか知らないくせに。
「というか性格ヤバくない?」
 だからどうした。
 ……いらいらする。
 今まで私にへらへらしてきたくせに、急にこれだ。本当、学校って同調社会だよなと思う。だれかひとりがつるし上げられたら、みんなこぞって集中砲火を浴びせる。
 そこに意思なんてない。なぜやるのかと問われたら、あの子がそう言ったから。それだけ。
 結局、だれかのせい。くだらない。
 ……でも。
『お前はひなたがきらいなわけ? それとも、みんながひなたをきらってるから仲良くしたくないわけ?』
 私も、そうだった。
 購買部から帰ってきて間もなかったが、教室で食べる気にはならなかったので、屋上へ続く階段に腰を下ろした。いらいらしながら焼きそばパンをかじる。
 廊下だから暑いし、埃臭いし、最悪。こんなところじゃ食欲なんて湧くわけもない。焼きそばパンを脇に置いて、パックのトマトジュースを開ける。
 ストローが上手く開かず、さらにいらいらした。
 あぁもう。なんでこんなとこでお昼を食べなきゃなんないの。これじゃまるで、いじめられっ子みたいだ。
 そもそも、今回の件は私はまったく悪くない。クラスメイトの悪口なんて放っておけばいいものを、瀬野があんなふうにけしかけるから悪いのだ。
 女の口というのは、羽根より軽い。一度悪い噂が広まれば、あっという間にクラス中に……いや、学校中に広まる。
 そして、その結果がこれだ。
 しんとした廊下。遠くから、学生たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。どこまでも続く空のように青い色をした、今だけのみずみずしさを含んだ声。
 思えば私は、いつだってその外側にいた気がする。みんなと一緒にいても分厚い仮面を被って、本音をしまって、がっつりエフェクトをかけて笑っていたから――。
「あっ! 見つけた!」
 突然、ビーズがパーンと弾けるような声が響いた。顔を上げると、そこには一番見たくない顔があった。
「……石野」
 と、瀬野もいる。なんでこいつらがここに。
「もう! 探したんだよ〜! トイレから帰ってきたらタマちゃんいなくなってるからさぁ」
「つか、こんなとこで昼飯? 味しなそ〜」
 ふたりは当たり前のように私の両脇に腰を下ろした。
「うるさい。別に、私がどこにいようと私の勝手でしょ。ていうか、なんなのあんたら」
 ……そういえば私、このふたりには本性バレてるんだった。
「タマちゃん辛辣〜」
「まぁ、珠生らしくていいんじゃね」
 もはやこのふたりの前では猫を被ることすら面倒くさい。
「さて、ご飯ご飯」
「ちょっと! なんでここで食べようとするのよ」
「え、一緒に食べようよ?」
「はぁ? なんで私があんたたちと食べなきゃいけないの」
「出た、ツンデレ」
「いいじゃん、タマちゃんどうせぼっちでしょ。ねぇねぇ、湊から聞いたよ〜。タマちゃん、私のこと庇ってくれたんだって?」
 石野は突然キリッとした顔で遠くを見つめ、「ひなたはバカじゃないし、めっちゃいい子で超美少女だから!」と言い放った。どうやら、私のモノマネらしい。
「ウザ。てか美少女なんてひとことも言ってないし。勝手に改竄すんな」
「あ、バレた」
「なんなの。もしかしてあんたたち、私のこと笑いにきたわけ?」
「違うよ〜。うふふ、でも嬉しかったなぁ。タマちゃん、あんなに私にツンケンしてたくせに私のこと大好きだったんじゃん」
 石野はうっとりとした顔で言った。
「違うし、離れてよ。キモい」
「ひどっ! てか、口悪っ!」
 すると瀬野まで「やっぱりツンデレ」と言ってきた。しかも、鼻で笑いやがった。
「…………」
 いい加減、言い返すのも面倒くさくなってきた。さっさと食べ終わして、図書室にでも行こう。
 石野はランチバッグから手作りのたまごサンドを取り出すと、はむはむと食べ始めた。
「……ねぇ、あんたたちさぁ……なんでこんな私にかまうの?」
「へ?」
 訊ねると、石野はきょとんとした顔で私を見る。口の端に、タマゴが付いているんですが。
「それはもちろんタマちゃんが好きだからだけど」
 だから、なぜ。
「私、あんたに好かれるようなことした覚えなんてぜんぜんないけど」
「えっとねぇ……うん。好きなのは、顔だね」
「は? 顔?」
 眉を寄せる。さらに意味が分からない。
「私ね、実は可愛い子が大好きなんだよねぇ。タマちゃんってすっごい可愛い顔してるのに、ぜんぜん似合わない化粧してるからさ。ずっと気になってた!」
 そうなのか。
「だから、いつかタマちゃんと仲良くなって、お化粧させてほしいなぁって思ってたんだ」
「化粧?」
「うん。私ね、だれかの化粧をするの好きなんだ。湊に化粧させてっていってもいやがられるし」
「そりゃそうでしょ」
「だよな? なんで俺が化粧されなきゃなんねーんだよ」
 瀬野はげんなりした顔をして、石野から私に視線を流した。石野の自由奔放さに振り回されているのは、瀬野もらしい。
 けど、瀬野が化粧。ちょっとだけ、見てみたい気もする。
「湊、女の子みたいにきれいな顔してるんだからいいじゃん!」
「俺は女じゃないっつーの!」
 瀬野が石野にチョップをかます。
「あたっ!」
 瀬野のチョップに対し頭を押さえる石野に、私はため息を漏らす。 
「……で? つまりあんたは、私の顔だけが好みなわけ?」
「うん、この前まではそうだった……けど、今は違うよ。今は、タマちゃんの全部が好き! 性格も、顔も!」
「……なにそれ」
 今さらそんなふうに褒められたって嬉しくない……はずなのに。
 少しだけ、心があたたかくなった気がした。
「あのさ、石野」
「ん?」
「ごめん。私、石野にずっといやな態度とってたよね。本当は石野のことなにも知らないのに、みんながきらいって言うから、同じようにそう思い込んでた。みんなに合わせてた。本当に、ごめん」
 小さく頭を下げて謝ると、石野はぽかんとした顔をした。
 すぐに笑って、
「……いいよ。別に」
 と言う。
「よくないよ」
「いいんだよ。そりゃ、私はタマちゃんのことが好きだからショックはあるけど。でも、私が好きだからって、タマちゃんが私を好きだとは限らないもんね」
「え?」
「私が好きだから、タマちゃんもきっと私のことを好きだなんて思わないよ。そんなのはただの私のエゴだから」
 石野が私の耳元に顔を寄せる。
「私のこと庇ってくれたって湊から聞いたとき、すごく嬉しかったんだ。湊以外で私を気にかけてくれる子なんて、今までひとりもいなかったから。だから、許そう!」
 ふふん、といった感じで石野が笑う。
「私ね、お父さんが死んでから家のことで手一杯でさ、正直学校に行く意味とかぜんぜん分かんなかったんだよね。湊には学校なんて行かなくてもふつうに会えるし。だから、七月いっぱいで本気で辞める気だったんだ。でも……私、やっぱり高校辞めるのやめようと思う」
 思わず顔を上げた私のとなりで、瀬野が驚いたように石野を見た。
「タマちゃんと湊と三人でさ、やっぱり高校生らしいことしてみたいって思ったんだよね! だから、辞めるのはやめ!」
 瀬野が嬉しそうに微笑む。
「だからタマちゃん、湊! 三人で一緒に卒業しよう?」
 花が開いた瞬間のようなみずみずしい笑みに、思わず私も笑みが零れる。
「……うん」
 小さく頷く。すると、石野がくるっと私の顔を覗き込んできた。
「……あれ? タマちゃん顔赤い。もしかして照れてる?」
「てっ……照れてない!」
「照れてるな」
「だから、照れてないってば! なんなのあんたら!」
 ついムキになって言い返すと、石野と瀬野は顔を見合わせて笑った。
「やだなぁもう。可愛い、タマちゃん!」
「か、可愛くないし! ……てか、石野こそ顔だけはいいんだから、もう少し協調性大切にしたら人気者になれるんじゃないの」
 すると、石野がきょとんとした。
「キョウチョウセイってなぁに?」
 そういえばこの子、バカだった。
「えーっと……だから、だれにでも本音をズバズバ言うんじゃなくて、空気を読んだり、人に合わせるってこと」
「それって、その人の前で猫被るってこと?」
「……まぁそうなるけど」
「えーいやだよ。だってそんなことしたら、その人といるときはずーっと猫被ってなきゃいけなくなっちゃうじゃん。自分を偽ってだれかといても、楽しくなくない?」
「それは……」
 まぁ、たしかに。
「でも、社会ってそういうものでしょ」
 少なからず、大人になればみんな自分を抑えて生きるものだ。
「えぇ〜そんなのやだよ。私は我慢なんてしたくない。私は今我慢してないけど、湊もタマちゃんも、本当の私を受け入れてくれてるからすごく楽しいよ!」
 私は石野の顔を見つめた。まるで曇りのないその瞳に、胃の辺りがぎゅっとなるようだった。
「ささ、次はタマちゃんがハダカになる番ですよ」
「は? なにそれ」
「私が可愛くしてあげる!」
「……もしかして、私の顔に化粧したいって、本気?」
「もちろん!」
「言っておくけど、私、スッピンブスだからね」
 不貞腐れたように言うと、石野は戸惑いがちに私を見た。
「そんなことないよ? タマちゃんは可愛いよ?」
 目を逸らす。
「タマちゃん?」
 私は可愛くなんてない。
 ……だって、本当に可愛かったら、こんなふうにひとりぼっちになんてならないはずだ。
「私、好きでこの顔に生まれたわけじゃないから」
 そう言うと、石野は数度瞬きをした。
「……あのさ、ずっと思ってたんだけど……タマちゃんってもしかして、自分の顔きらいなの?」
「当たり前でしょ。こんな顔」
 好きになれるわけがない。吐き捨てるように言う。すると、石野は心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「どうして?」
 どうしてって、そんなの決まっている。
 私が、出ていった母親そっくりだからだ。
「自分の顔を武器にしてるくせに、その顔がきらいっておかしくない?」
 瀬野は不思議そうな顔をして、そう言った。
「……ふたりには分かんないよ」
 私の気持ちなんて。そう呟くように言うと、石野と瀬野が顔を見合わせた。
 私は俯いたまま、ぽつぽつと話し出す。
「私……母親が男作って出ていってから、家に居場所がないんだ。お父さんもおばあちゃんも、絶対私を見ようとしない。暴力とかは振るわれないけど、透明人間みたいに扱われてる」
「ずっと……?」
「うん。私が母親そっくりの顔をしているから」
 卵型の輪郭。くっきりとした目元に、流れるような鼻筋。
 どこを見ても父親の影はない。もはや父と血が繋がっているのかすら怪しいくらいだった。
 私はこの顔のせいで、家族に愛してもらえない。目すら、合わせてもらえない。
「……ふたりは、死にたいって思ったことある?」
 石野は黙り込み、瀬野は静かに首を振った。
 あるわけない。石野や瀬野には、自分を愛してくれる家族と、自分を理解してくれる幼なじみがいるのだから。
 なにも持たない私とは、なにもかもが違う。
「私はあるよ。何度もある」
 死にたくなったことも、なんで私を見てくれないのと叫びたくなったことも。でも、結局意気地無しだから、なにもできないままこうしてだらだらと生きてしまっている。
「……ねぇ、タマちゃん」
 石野は私の手をそっと握った。私は、顔を上げて石野を見る。
「私、死にたいって思ったことはないけど……もうぜんぶどうでもいいって思ったことはあるよ」
 家事とか保育園のお迎えとか、私女子高生なのに、なんでこんなことしなきゃいけないんだろうって思ったことは何度もある。
 そう言って、石野はかすかに微笑んだ。
「でも、私はワガママだから、そんなときでもお腹は減ったし、眠くもなった」
 そう言って、石野はパクッとたまごサンドを食べた。
「死んだらなにもなくなっちゃう。美味しいものだって食べられなくなっちゃうんだよ」
「……そんなの関係ないよ。死にたい人には、それ以上に苦しいことがあったってことでしょ」
「でも、これからもっと楽しいことが待ってるかもしれないじゃん」
 石野のまっすぐな視線から、私は目を逸らした。
「そんな不確かなものに賭ける心の余裕なんてないんだよ」
 死を願う人間には。
「そっかぁ……。でも、私は死ぬ勇気のほうが持てないなぁ。だって怖くない? 死ぬの」と、石野は瀬野を見た。瀬野は困ったように微笑み、首を捻る。
「……まぁ、怖いよな。死ぬのは」
 でしょ? と、石野は私へ視線を流した。
「私たちには、ずっと先の未来のことは分からない。けど想像することならできるよ! 明日どうしようかなぁとか、なにを食べようかなぁ、とか。それに、もしかしたら運命の人に出会えるかもしれないじゃん? そんなふうに思ったら死ねなくない? だって明日だよ? 明日!」
 思わず笑う。
「なにそれ。運命の出会いなんてあるわけないじゃん」
「そんなことないよ!! だって私は、それを毎日続けたら出会ったんだから」
「出会った? だれに?」
 訊ねると、石野は私を指さした。
「タマちゃん」
「は……? 私……?」
「そうだよ。私は今年、タマちゃんに会えたよ」
「……いや、意味分かんないし」
「ねぇタマちゃん。タマちゃんは、昨日私を友達から庇ったこと、後悔してる?」
「え……」
 じっと見つめられ、私は黙り込んで考える。
 どうなのだろう。あのときは頭がカッとなって、気づいたらああ言っていたけれど。
 そもそも、友達ってなに? 一緒にクレープを食べること? だれかの悪口を囁き合うこと?
「分からない……」 
 だって私には、これまで一度も友達なんていなかったから。
「じゃあさ、タマちゃんは昨日の子たちとまた仲良くなりたいと思ってる?」
「…………」
 はっきり思った。
 それは、ない。
「私たちの時間は、無限じゃないんだよ。それなのに、その貴重な時間を友達でもない人の悪口に頭がいっぱいになって、ネガティブな想像をずっとしてるのって、すごくもったいないと思わない? こんなところでひとりでうずくまってたって、ご飯は美味しくないよ。もっと楽しい話をできる人と一緒に食べたほうが、ご飯だってずっと美味しいと思わない?」
 その言葉に、なにかが喉の奥から込み上げる。
「タマちゃんには、仲良くしたいって心から思うような子はいないの?」
 首を振る。
「……そんなのいない。だって私、性格悪いから。私なんかと友達になりたい人なんて、どこにも」
「そうじゃなくてさ、タマちゃんが仲良くしたい人だよ」
「私が……?」
「そう。男子でも女子でも、先輩でも後輩でもいいから、だれかいないの?」
 考えるけれど、ぜんぜん思い浮かばない。あらためて考えて、虚しくなった。
「はいはいっ! 私はいるよ!」
「え……」
「私はね、タマちゃんの友達になりたい!」
 息がつまりかけた。
「……だから、なんで? 私、あんたにいやな態度しかとってないけど」
「うーん、たしかに素のタマちゃんになってからはぜんぜん優しくはなかったけど、でもその代わり嘘はなかったから! だから好き!」
「……なにそれ」
 石野の屈託のない笑顔に、私は小さく笑う。
「あ、笑った!」
「石野がバカみたいなこと言うからじゃん」
「バカって……あ、それ焼きそばパン? 購買のだよね? 美味しそう!」
 ふと、石野の視線が私の膝に落ちた。
「……いいよ、あげる。食欲ないから」
「えぇ! ダメだよ! 昨日球技の練習で倒れたんでしょ!」
 石野は手に持っていたランチバッグをごそごそと漁り、新しいたまごサンドを取り出した。
「それならこれと交換しようよ! 私のお昼!」
「……いらない。私はもうおなかいっぱいだし」
「いいから交換! 食べないと心は元気にならないよ!」
 ぐいぐいと押し付けられ、私は仕方なくたまごサンドを受け取る。石野は私から食べかけの焼きそばパンを受け取ると、嬉しそうにはむはむと食べ始めた。

 放課後、昇降口で瀬野に声をかけられた。
「珠生」
「……なに?」
「俺も一緒に帰っていい? ひなた、どっか行っちゃってさ」
「部活は?」
「今日水曜だよ。部活は休み〜」
 ため息をつく。
「……好きにしたら」
 ぶっきらぼうに返すと、瀬野は小さく微笑んで、私のとなりに座った。
「この前は、ごめんな」
「……なにが」
 ローファーを履きながら、ちらりと瀬野を見やると、
「俺、自分が腹立ったからって、お前の立場とか考えもしないであんなこと言った。今日のクラスの雰囲気見て、すごく反省した。本当、ごめん」
 申し訳なさそうなその顔と目が合い、思わずどきりとした。
「……いいよ、別に。もともときらわれてたのが露見したってだけでしょ」
「そんなことない」
「は?」
「お前、あいつらといるときでも絶対人の悪口とか言わなかったじゃん」
「それは……ただ周りに自分をよく見せたくて言わなかっただけだし」
 いやなことをされたときは、内心でボロクソに言っているし。
「まぁ、そもそも性格の違う人間が何百人も同じ場所で生活してるんだから、合わない奴がいるのは当然だと思うんだよね」
 まぁ……たしかに。
 考えてみれば、当たり前のことだ。
「悩んでもがいて、苦しくてもこうやって学校に来るのは、その何百人の中から一生ものの好きなやつを見つけるためなんだよ、きっと。あいつらに刃向かった珠生を見たとき、唐突にそう思った」
 そのときだった。
「おーい」
 校門を出たところで石野の声がして、振り返る。
「もう! 先帰るなんてひどいじゃん」
「いなかったひなたが悪い」
「いや、私は関係ないし」
「ひどっ」
 石野は私の腕に絡みついてくる。
「そんなこと言わないでよ〜」
「で、お前はどこ行ってたんだよ?」
「あぁ。田中(学年主任)に辞めるのやめるって言ってきた」
 足を止める。
「それで? タマちゃんと湊はなに話してたの?」
「別になにも……」
「あぁ。実はな、珠生がひなたと俺にめちゃくちゃ感謝してて、これからはずーっと一緒にいたい! っていう告白をしてたとこ」
「はっ? 違っ……」
 すると、石野はおもむろに足を止めた。
「そうだよっ!」
 私は石野を振り返る。
「私、タマちゃんのために学校辞めるのやめるんだから!」
「重いわ」
「軽いよりいいだろ」
「どっちもいや」
「ワガママだな」
「タマちゃん! 明日もお昼ご飯一緒に食べようね!」
 石野は小さな白い歯を見せて、にっと笑った。
「……ついさっきまで学校退学しようとしてた人がなに言ってんだか」
「えへへ。私過去は振り返らない主義〜」
 その瞬間、唐突に石野と瀬野が美しい理由が、分かった気がした。嘘がないからきれいなのだ。言葉にも、生き方にも。
「……あんたらって、物好きだよね。私と仲良くしたいなんて」
 でも、そんな物好きたちが、私は結構好きかもしれない。
「……ねぇ、今度私に化粧教えてくれない?」
 頬を紅潮させた石野は、パッと花の咲いたような笑顔で頷いた。


 ***


 そして、終わりの季節がやってきた。
 私たちは今日、三年間通った高校を卒業する。
「卒業証書、授与」
 着古した制服に赤い花をつけて、少し埃っぽい体育館に立つ。
「卒業おめでとう」
 窓の外では、まだ少し冷たい風に薄紅色の桜の蕾が揺れている。
 もう少ししたらきっと、あの木は薄桃色の花を咲かせて、私たちを新しい季節へと連れていく。
 式が終わり、学校を出る。それぞれ、仲良しの子たちと写真を撮っている。その様子を横目に、私はひとりで校門を出た。
 ――と。
「タ〜マちゃんっ!」
 あの子が腕に絡みついてきた。
「ひなた」
 そのとなりには、湊もいる。
「湊も」
「ねぇねぇ、このあとどうする?」
「俺は荷造りしなきゃ」
「私たちもやんないとだね」
「お前らルームシェアするんだっけ? いいなぁ」
「湊だって隣町でしょ。すぐ近くじゃん」
「新しい学校かぁ……やだなぁ」
「私がいるじゃん〜」
 私とひなたは、春から美容の専門学校に行くことになっている。
「ん……そうだね」
 ひなたのお母さんは昨年秋に無事退院し、今はしっかり働いている。
 あれから、ひなたは進学したいと母親に相談し、了承を得た。
 ひなたの弟、空太くんも今年の春から小学生になるため、学童に通えることになったのだ。
 進学できることになったのはいいが、ひなたも私も余裕はないため、少しでも家賃を安くしようとルームシェアをすることになったのである。
「あっ、見てみて桜! まだ蕾だねぇ。いつ頃咲くんだろ〜」
「そろそろだろうけど、まだ寒いからなぁ」
 校門脇にある桜を見上げるひなたと湊を見つめる。
 このふたりとこんなふうに仲良くなる日がくるだなんて、一年前の私に言ってもきっと信じないだろう。
 でも、それでいい。
 人生は、生きてみなきゃ分からない。
 空を見上げる。視線の先には、青々とした空が広がっていた。
 もうすぐ新しい季節が来る。
 新しい学校は、どんなところだろう。どんな人たちと出会うのだろう。
 変わることは、やっぱり少し怖い。
 でも、私は私。
 だれになにを言われても、私はもう大丈夫。
 だって、ありのままの私を受け入れてくれる人がいるから。
 今の私にはもう、迷わずに帰れる場所――居場所があるから。