「福嶋さん……」
「ダンス留学は彼の夢でした。憧れの人からダンスを教えてもらえるなんてなかなか機会がないですよね。でも、夢が叶いそうな瞬間、私が邪魔をしてたんです。だから、敢えて突き放しました」
「辛かったでしょう」
「本当は離れたくなかった。あの時は味わった事がないほど胸が痛かった」
「可哀想に……」
「そしたら、彼は危険を冒してまで会いに来ようとしました」
「2年前の侵入騒ぎの日ね。あの日は職員室が大荒れだったから今でもしっかり覚えてる」
「結局、彼の将来を思って会いませんでした。……でも、あの日は彼が初めて『好きだ』と言ってくれたのに、私は一度も好きだと伝えられませんでした。それが、2年経った今でも心残りで」
好きな人を諦めるのは簡単じゃない。
長い歳月が過ぎても、忘れるどころか会いたい気持ちは募っていくばかり。
「そんなに強い想いを寄せてるのに、どうして好きと伝えなかったの?」
「私に勇気がなかったから……」
「恋人だったのに?」
「初めての彼氏だったし、ファンからしたら彼は特別な存在だし、気軽に連絡したり、会えたり、手を伸ばせば触れ合えるような相手ではなかった。でも、本当は上手な恋の仕方がわからなかったのかもしれません」
ーーそう、彼は特別な人。
縁がなければ、出会う事のないような雲の上の存在。
だから、何処までが普通の恋愛で、何処からが特別な区域に入るのか境界線がわからなかった。
でもそれは単なる言い訳で、他の人には簡単に思えるような事が、恋愛初心者の私には少し難しく感じていただけなのかもしれない。
養護教諭は小さく肩を震わせる紗南を見ていられなくなり、一度話に区切りをつけた。
「……で、今日はどうしてここに? こんな悪天候の中、用がなければ母校に足を運ぶ必要がないでしょ」
「もしかしたら、いま彼がここに来てるんじゃないかなと思って」
「どうしてそう思ったの?」
「実は、彼とは二度の別れを経験をしているんです。一度目は小学5年生でした。当時、彼は約束してくれたんです。『足首が浸かるくらい大雪が降ったら、俺達はまた会おう』って」
何年経っても、昔の約束をバカみたいに守ろうとしている。
約束の有効期限なんてもうとっくに過ぎているのに。
「そしたら、2年前の大雪の日にこの場所で彼と偶然再会しました。だから、今日もまた奇跡的に会えるかな、なんて」
紗南は養護教諭の向こうの窓の外の景色に目線を当てた。
だが、窓ガラスは結露していて外の様子は伺えない。
でも、ここに来る直前はブーツの先端が雪に埋もれていたから、今はもう足首が浸かるくらい降り積もっているだろう。
すると、養護教諭はフッと笑った。
「似てる」
「……え、誰に似てるんですか?」
「誰にも歓迎してもらえない恋に、ただひたすら奇跡を願っていたある女子生徒にね」
養護教諭は、自分と似たような境遇と思われる女子生徒の話を語り始めた。
「その私に似てる生徒さんは、一体どんな人だったんですか?」
「⋯⋯ねぇ、福嶋さんはセイのマネージャーの冴木さんを知ってるわよね。実は以前、喋っている姿を見た事があったの」
「あ、はい。勿論知ってますけど……」
「じゃあ話は早いわね。福嶋さんは彼女とそっくり」
「えっ! 何処がですか? 容姿も性格も全く違うのに」
紗南の頭の中には、『セイに近付くな』と目をつり上げている冴木の姿が思い浮かぶ。
冴木と言ったら、冷静沈着でデキる女のレッテルを貼っていたから。
「12年前、彼女は本校の普通科に在籍していたの。星マークの上履きの彼のように、芸能科の校舎に侵入して問題を起こした事があってね」
養護教諭は、大雪の中セイを探しに来た紗南の為に思い出話を始めた。
新任だった当時の記憶が蘇ると、保健室で失神してしまいそうなほど嗚咽を繰り返していた冴木の姿と、いま目の前で落胆している紗南の姿が不思議と重なって見えた。
紗南は驚愕的な事実を知ると、涙の雨がピタリと止んだ。
「えっ! あのクールな冴木さんが?」
「彼女は気が強くて完璧主義者のように見えるけど、本当は感情深くて泣き虫なの。学生時代はよく保健室で相談を受けていたわ。1人きりになると、もどかしい恋にひっそり涙してたの」
それから養護教諭は、12年前に記憶の焦点を当てて語った。
冴木には芸能科に彼氏がいた事。
第三者の手によって彼との仲が引き裂かれてしまった事。
音信不通になった彼と話し合う為に侵入して騒ぎを起こした事。
最後までお互い話が出来ぬまま関係が消滅してしまった事。
騒動を起こした翌年からブレザーの色が変更された事。
正直、驚いた。
彼女の過去の姿はまるで2年前の自分のよう。
「ブレザーの件の大元は、あの冴木さんだったなんて信じられない。しかも、芸能科に侵入しただなんて……」
「当時、不測の事態に学校中は大混乱を招いた。2年前に騒ぎを起こしたセイを見てたら、歴史は繰り返されてしまうんだなって」
「あの冴木さんが見境いがなくなるほどの大恋愛をしていたなんて。……意外」
少しずつ見えてきた彼女の内面。
セイくんと引き離そうとしていたあの瞬間は、一体どんな心境だったのだろう。
「結局2人の恋は幕を閉じたわ。当時は新任だった上に衝撃的な事件だったから今でも鮮明に覚えてる」
「でも、辛い過去があったのにもかかわらず、どうしてマネージャー業の道を選んだのかな。芸能界から離れたいと思わなかったんですかね」
「芸能界に纏わる仕事に就いたのは、別れた彼を探そうとしたんじゃないかな。彼は退学と同時に失踪してしまったから」
「彼が失踪……?」
「当時、2人の熱愛が紙面を飾ったの。彼女は一般人だから名前は伏せられていたけど、彼は逃げようがなかった。新人俳優として期待を背負っていた分、マスコミや身内からの攻撃が苦しかったのかもしれないね」
「そうだったんですか……。可哀想に」
冷酷な仮面に隠されていた辛い過去。
大切な人を失った彼女の苦しみが、私に宛てた言葉の中からビシビシと伝わってくる。
『セイに近付かないで欲しいの』
『最終的に傷付くのはセイじゃない。貴方自身なのよ』
『貴方も世間の餌食になって被害を被る前に自分から身を引きなさい。その方が貴方だけじゃなくセイの為にもなるから』
彼女の頭の中には私の未来が描かれていた。
辛い過去を重ね合わせながら、私がこれ以上傷つかないように厳しく突き放していた。
何度も別れるようしつこく迫って来たのは、私に残酷な道を歩ませたくなかったから。
それに、以前彼を会社の商品扱いしてたけど、多分それは違う。
大切に想っているからこそ、絶好のチャンスを最大限に活かしてあげたかった。
きっと、私にも一緒に背中を押して欲しかったんだと思う。
心から彼を愛してるなら、手放してでも応援するべきだと。
最初は彼女の想いなんて知らなかったから、単に私が目障りなんだと思っていた。
でも、今なら理解できる。
もし、私が冴木さんの立場だったとしたら、きっと同じ判断を下していた。
恋心がまだ蕾だった頃、彼女が私の元に警告に来なければ、私達はお互いの足を引っ張っている事に気付かぬまま甘い蜜を吸い続けていた。
2年という時を経て、私達が良い方向に結果が結びついたのは、私達の心を全力で守ってくれる人がいたから。
2年前に想像すらつかなかった残酷な未来は、2年という時を経て素敵な思い出になった。