「早くここを離れないと事態が悪化する。今すぐ戻ろう」



だが、セイは不服そうに首を横に振る。



「戻らない。さっき伝えた通り僅かなチャンスも逃したくない」

「⋯⋯いいか、お前が探してる相手と会っちゃいけない」



ジュンは紗南という名前を出さぬようにアクセントを入れて注意を促した。



「どうして?」

「相手はこの騒ぎで関係がある事を知られてしまう。心ない人間から逆恨みされたり、いじめの標的にされてしまう恐れがある。だから、そっとしておくべきじゃないかな」



ジュンの言ってる事は正しい。
確かに騒ぎを起こしてしまったら、残された彼女は格好の餌食になってしまうかもしれない。
登校さえ脅かされる状況に追いやられてしまったら、穏やかな生活を送れないどころか、将来の邪魔をしてしまう可能性がある。



「それに、今回の件で一番迷惑を被るのは相手だ。それに、このまま迷惑をかけ続けていたら、他の生徒がこの一連の騒動をマスコミに吹聴する可能性がある。そしたら、留学する意味自体がなくなってしまうかもしれない」

「……」


「だから、いっときの感情に任せないで普段通りのお前でいるんだ。いいな?」



ジュンは言葉を慎重に選びながら、最後の説得に回った。
しかし、一度点火した感情は簡単に抑えきれない。



「普段通りのお前って何だよ……。俺だって感情を持つ1人の人間なのに」



言いたい事が直接伝えられなくて焦る気持ちと、本音を明かさぬままこの学校に1人残してしまう紗南の気持ち。
2つを両天秤にかけてみたら、どちらを優先すべきかわからなくなった。

セイの気持ちが不安定になっていた、その時。

ピピピピーーーっ!

警笛を鳴らす音が階段下から鳴り響いた。
リズミカルに階段を駆け上がってくる複数の足音もセットで。
セイ達は息を飲んで踊り場の方に目を向けると、階段下から教師と警備員の2人が逼迫した表情で接近してきた。
目的はベージュのブレザーを着た自分達を確保する為。

警備員は生徒達を押し退けて距離を縮める。
しかし、自分達は他の生徒達に包囲されていて、逃げたくても逃げようがない。

3メートル
2メートル
そして、1メートル……

円の中心部へと入り込んだ警備員は、ようやくKGKの元へ。
セイは警備員の手が触れても捕まるまいと振り払い、警備員も負けじと手を伸ばして掴みかかる。

しかし、おしくらまんじゅう状態で行く手を阻まれてしまってるせいもあって、あっという間に捕まってしまった。



「君達、ここは芸能科の生徒が立ち入る場所ではない。今すぐ東校舎から出て行きなさい」

「言われなくてもわかってる。でも、俺には今この瞬間しか時間が残されてないんだ」


「君がいくら有名人でも特例は許されない。さぁ、一緒にここを出るんだ」

「離せよ。あんたの言う事なんて聞けない。俺には一生に一度きりの大事な用事があるんだ」


「君達のせいで普通科の生徒に迷惑がかかってるんだ!」

「まだ戻るもんか……。たった1分だけでもいいから離せよ」



コップの中の表面張力の水のように、今にも想いが溢れ出しそうなのに。
ただ、紗南と2人きりで話がしたいだけなのに……。

引き離されそうになればなるほど、会いたい気持ちが募っていく。


セイは警備員の手をを振り切ろうとして身体を大きく揺さぶったが、警備員も手を緩める気はない。
力勝負では互角に近い。
だから、逃げ切れない。

飛んだアクシデントに見舞われながらも、ふと廊下の方に目をやると、ずっと奥の方に2年生の教室のプレートが見えた。


2年生……。
そう、ここは紗南に会えるまであと一歩手前の所。
在籍してる教室はどれかわからないが、紗南はこの近くに必ず居る。

邪魔が入らなければ後もう少しで紗南の所に辿り着けたのに。
2人の間を阻む様々な障害によって、そのあともう少しが叶わない。


紗南に会えないまま校舎から追放されてしまうのかな。
学校に来るのは今日で最後なのに、たった一度きりのチャンスがいま手の中からすり抜けようとしている。

こんな筈じゃなかった。
恋人らしい事は何一つしてあげれなかったけど、これからは時間をかけて幸せにしていくつもりだった。
今日も明日も明後日も、一生心に残るような幸せ言葉で包んであげたかった。

それなのに、どうして思い通りにならないんだろう。
このまま心がすれ違った状態でお互い別々の道を歩んでいかなければならないのだろうか。


ーーいや、このままでは終われない。
俺に与えられたラストチャンス。
無駄にはしないし、したくない。
俺達の恋が世間に受け入れて貰えなくても、お互いの心が通じ合っていればきっと乗り越えられるはず。
だから、言いたい事だけ言わせて欲しい。

心の葛藤を続けているセイは、不安な気持ちと耐え凌ごうとする気持ちの狭間で苦しんでいた。

だが、東校舎で紗南の名前は呼べない。
呼んでしまった瞬間、芸能生命は終わる。
顔を見るのは不可能だし、話を聞いてもらえるかわからないけど、2人の関係が完全崩壊する前に最後の望みを賭けた。

セイはスーッと大きく息を吸い込み、全身に力を込める。



「エスぅぅーーっ……。エスぅぅーーっ……!!」



名前の代わりにイニシャルの頭文字を叫んだ。
モニター越しに指で象っていたあのエスマークなら紗南に伝わると思ったし、エスというイニシャルだけなら人物特定されないと思った。

セイの叫び声は多くの雑音をすり抜けて行く。


まだセイの素性も知らなかった、当初。
保健室のカーテン越しから聞こえてきた声に心を奪われた紗南。
自分の初恋相手とも気付かぬままに⋯⋯。
だからこそ、紗南はセイの声に人一倍敏感だった。


紗南は廊下から直球で届けられた声がセイだと判明した瞬間、ガバッと顔を見上げた。



「もし、俺の声が届いてるなら耳をすませて聞いて欲しい」



セイは瞳に映る事のない紗南を思い描いたまま、2階の廊下を見つめて叫んだ。
1階から2階までKGKを追いかけて来た1年生。
そして、2階に在籍する生徒達までもが授業中の教室から抜け出して廊下の人ごみの中に紛れ込む。
急遽、深刻な事態に巻き込まれてしまった教師達は、廊下に溢れ出ている生徒の収集で手一杯に。



「さっきはどうして嘘をついたの? どんな話を吹き込まれたか知らないけど、利口に聞き入れてんじゃねぇよ。話を素直に聞き入れる相手が間違ってんだろ」



セイの心の中があからさまになると、紗南は何かを察したのではないかと思った。
唇を強く噛みしめると、心の傷がパックリ開いてしまったかのように涙が浮かぶ。
しかし、どんなに気持ちを揺るがせても、自分の立場を痛感してるからブレーキを踏み続けなければならない。

セイは現状のままでもいいから話を続けたいが、警備員達は身勝手な行動をとるセイを許さない。



「君! 身勝手な行動を辞めなさい」

「俺に触んな」



セイは後戻り出来ない気持ちに歯止めが効かない。
だが、アイドルとしての建前や秩序を忘れた訳じゃない。
今この瞬間でしか伝えられない事があるからこそ、第三者に何を言われても踏ん切りがつかない。

少し距離を置いてジッと見守る生徒達は、警備員とセイが激しく言い争う現場を見て、愛想のいいアイドルとして抱いていたイメージから、熱い気持ちを持つ1人の男性として見る目が変わりつつあった。