セイとジュンは迎えに来た冴木と一緒にタクシーに乗って学校を後にした。
今日は午前11時半からベストアルバムのジャケット撮影。
急遽発売が決定したベストアルバムは歌手活動を始めてから3年間の集大成にあたる。
音源の原盤が残されている為、レコーディングは行わないが、新規にジャケット撮影だけは行われる事になった。
拘束時間は約2時間。
昼食は撮影後。
15時から音楽番組の収録。
そこでメディアを通じて留学前の挨拶。
収録合間の30分程度の休憩時間は、女性誌のインタビュー。
仕事三昧の過密スケジュールはひと息つく間もない。
セイは日々重なっていく問題にストレスを抱えてバタバタと仕事をこなしている間にも、紗南が遠ざかっているような気がしてならない。
ジュンが単独で撮影している間、セイは冴木と2人きりの楽屋でドレッサーの回転椅子に座ったまま肩を落とした。
鏡を囲むように設置されている10個の電球はセイの茶髪を明るく照らす。
「冴木さん」
「ん、何?」
「留学の出発日を少しだけ先に伸ばしてもいいかな」
呟いた本音は、堂々とステージに立つ姿とは別人のよう。
セイは留学を伝えたあの日から紗南に一度も会っていない。
スケジュール変更すら伝えていないのに、過密スケジュールは出発前日まで続き、出国日まで紗南に会えない気配がしてならなかった。
だから、出発日を先延ばしにして考える時間を設けたかった。
「どれくらい?」
「最低でも1カ月くらい」
無茶を言ってるのは百も承知だ。
半年待ってようやくレッスンの予約がとれたのに自己都合で日程をずらすなんて。
でも、ダメ元で頼むしかない現状。
エンターテイナーとして最高のパフォーマンスを手に入れるには出発日の延期などあり得ないが、今の精神状態のまま渡米しても最善の結果が生まれない。
セイが気持ちを届けてから、およそ20秒間の沈黙が続く。
スタジオへ繋がっている解放扉からは、カメラのフラッシュの光とシャッター音が響き渡ってくる。
それ以外の雑音が耳に入って来ないほど、セイは静かに口を閉ざしていた。
胸中が明かされると、冴木はもたれていた壁から離れてセイの隣に立って険しい顔つきへ……。
「今さら何言ってるの? 貴方の個人的な都合で日程を先延ばしに出来ると思う? もう出発の何日前だと思っているの? マスコミを通じて世間にも大々的に発表したの」
セイは態度が豹変した冴木の威圧感に口を閉ざす。
冴木さんの言ってる事は正しい。
きっとマネージャーが彼女じゃなくても厳しい返答がなされているだろう。
「わかってる。でも、少しでも日程に融通が利くのならと思っ……」
「手続きはとっくに終えたの」
「1カ月後には必ずアメリカに向かうと約束するから」
「留学費用の頭金600万円は既に納入済みなの。貴方の自己都合で今さら出発日を変更出来ない」
冴木は軌道修正しながらも想いを伝え続けるセイに叱咤した。
留学の件で目一杯になっているのはセイだけじゃない。
冴木はKGKの将来を思い、今日まで着々と準備を進めてきたのだから。
「頭金の内訳は、ダンスレッスンの頭金、ピアノ教室のレッスン代、語学学校の入学金と授業料、滞在先のアパートの家賃と敷金、飛行機の片道チケット代よ。その後に諸々発生する資金に関しては後日納入していくつもり」
「別に留学を辞めたいって言ってる訳じゃない。ただ、俺の出発を1カ月だけ先延ばしに……」
「それじゃあ、納入済みの頭金を事務所に払って、今すぐ芸能界を引退しなさい」
「引退? 俺はただ出発日を先伸ばしにして欲しいって言ってるだけで」
「返答に半年待ってようやく漕ぎつけた大事な契約なの。貴方の一方的な都合で予定を左右させられない」
冴木は甘えが残るセイにピシャリと一喝して厳しい現実を知らしめる。
セイは悔しくて納得出来ないが、冴木の言い分もよくわかっている。
すると、冴木は力が抜けたようにフゥとため息を1つつく。
「ねぇ、よく考えて。貴方は自分の意思で留学を決意したのよ。我々が無理強いした訳じゃない」
「確かに冴木さんの言う通りだし、留学はしたいけど……」
「今回のプロジェクトは会社全体でサポートしてるの。それに、ファンやスポンサーまでも貴方達の将来の活躍に期待してくれているわ」
「わかってる。でも、いま自分の気持ちが留学一色に染まっていなくて」
セイはいま乗り気の姿勢ではない事を匂わせると、冴木は心変わりしてしまった原因に気が止まる。
「ひょっとして、今すぐアメリカに行けないない理由でもあるの?」
「……」
「特別な理由があるなら正直に話してみて。最後まで聞いてあげるから」
冴木は視線を落として口を噤むセイに口調を改めた。
冴木さんとは毎日顔を合わせているという事もあって、本物の家族のように絶大な信頼を寄せている。
時に意見が食い違って激しく衝突し合ったりもしたけど、最終的には母親のようにいつも味方でいてくれた。
だからこそ心境を語る気になった。
「俺、いま大事な人がいるんだ」
「大事な……人」
冴木の頭の中には先日話をした紗南の顔が思い浮かぶ。
「彼女は幼い頃からずっと好きだった人。でも、仕事がバタバタしていて彼女には留学日程が前倒しになった事を伝えてなくて……。それに、俺が未熟だからあと少しだけあいつの傍に居たくて」
セイは紗南が心残りだと素直に吐露した。
しかし、紗南の存在などとうに気付いてる冴木は、甘い考えにカッと頭に血が上った。
「……それが、留学日程を先延ばしにしたい理由なの?」
セイは唇をかみ締めてコクリと頷く。
「貴方を放置し過ぎたわ」
「えっ……」
「先日留学話をした際に身辺整理をしなさいって言ったばかりよ。こんなチャンスもう二度と訪れないかもしれないのに。いっ時の恋沙汰よりも現実に目を向けてちょうだい」
「冴木さん」
想像以上に厳しい口調にハッと顔を見上げると、身を震わせる冴木を見て逆鱗に触れている事に気付く。
冴木は今回のプロジェクトを成功させる為に半年前から慎重に準備してきたにもかかわらず、紗南の存在がセイの足枷になっていると知ると気持ちが逆撫でされた。
冴木は突然ドレッサー上に置いてあるセイのスマートフォンを鷲掴みにして言った。
「急で申し訳ないけど、このスマホは今日限りで回収させてもらうわ」
「えっ!」
「手元に彼女との繋がりがあるせいで留学の気持ちが揺らいでるんでしょ」
「いくらなんでもスマホを取り上げる必要はないだろ。その中には彼女以外にも大事な連絡先が沢山入ってるし」
セイは過去に見せた事がないほどの反抗的な態度を取った。
まるで傷口に塩を塗られたような気分に。