保健室で彼に会った日から、およそ1週間後の朝。
自宅のベッドで眠っていると、枕元のスマホにセイくんからLINEメッセージが届いていた。

どうやら今日は会えるらしい。
1週間ぶりに会えると思ったら、嬉しくてベッドの上で飛び上がった。
先日の生放送番組中に彼が手でエスマークを象った姿を見て、深く幸せを噛み締めていた。


1週間前みたいに保健室の扉を開けて廊下へ出たら、また冴木さんが立っていたら嫌だな~なんて思いながらも、やっぱり会える喜びの方が優っている。
募る想いはパンク寸前に膨らんだ風船のよう。


それから学校へ登校して彼と約束の時間になってから保健室へ。
窓際のカーテンは開いている。
彼はまだ来ていない様子。
ギュッと布団を握る指先に照れ臭さを隠す。

到着後からおよそ10分程度で彼が到着。
養護教諭から手渡された書類を書き終えると、彼は窓際のベッドに横になった。

それから私は、養護教諭が部屋を離れたと思われる隙を狙って、いつもみたくカーテン越しから声をかけた。



「セイくん、1週間ぶりだね」

「紗南の声が間近で聞こえて嬉しいよ」



これがリップサービスだとしても、嬉しくて涙が滲み出てくる。
話したい事は山ほどあるけど、2人に許された時間はほんの僅か。



「ねぇ、芸能界ってどんなところなの? 楽しい? それとも厳しいの?」

「んー、両方かな。ステージで歌ってる時や、ファンから熱い声援を受けた時は最高に幸せだな~って思ってる。でも、上下関係が厳しいし、見えないところで複雑な事情が絡んでたりもするから……」


「私は芸能界を知らないから、客観的に見た世界しかわからないんだ。でも、きっとセイくんの周りにはモデルや女優さんとか、綺麗な女性が沢山集まってくるんだろうな……。私なんて童顔で奥二重だし、何の特徴もないし。芸能人のライバルが現れたら張り合えないな……、なんてね」



紗南は風貌や容姿に自信がない。
だから、一見煌びやかに見える芸能界に身を置くセイが、いつ自分の元から離れていってしまうかが不安だった。
すると、セイはカーテンの向こう側からクスッと笑う。



「……何、いきなり他の女の話?」

「あはは。自分でもよくわかんない。自分が誰にヤキモチを妬いているのかさえ。セイくんがどんな日常生活を送っているのかわからないから。……全然気にしないで」



話したい事をコンパクトに詰め込みすぎてしまったせいか、自分が何を伝えたいのかわからない。
ただ、会えない時間は孤独で寂しくて嫌な妄想ばかりが膨らむ。

2枚のカーテンを挟んでいる2人の間には10秒ほどの長い沈黙が続いた。



「でも、俺には紗南が一番だよ」

「えっ!」


「確かに芸能界には綺麗な女優やモデルは山ほどいるけど、別に関係ないし」

「やだな、セイくんは私を気遣って言って……」
「白い肌にぷっくりした血色のいい桃色のほっぺや、パッチリしている奥二重の童顔の紗南の方が100倍以上魅力的だよ。それに、俺はずっと俺でいるから、お前が心配する事は1つもないよ」



セイの気持ちが伝えられると、すっかり不安色に染まっていたはずの紗南は心を打たれた。
愛されている喜びは、歌が上手に歌えなくて泣いていたあの頃にセイからもらった星型の飴が口の中に広がっていくように、胸いっぱいに広がっていく。



「うん、ありがと。ねぇ、いつもの飴、食べる?」

「うん、頂戴」


「じゃあ、今から飴を渡すからカーテンの下から手を伸ばしてね」



カーテンの下からヌッと顔をのぞかせたセイの手の上に、紗南はブレザーのポケットから取り出した星型の飴を手渡した。


ところが、保健室内で不在のフリを続けている養護教諭は、カーテンが閉ざされている2つのベッドが視界に入る正面の椅子に座ったまま黙って一部始終見届けていた。

しかし、紗南とセイの間にはカーテンで仕切られていてお互いの姿が見えないように、保健室内にいる養護教諭の姿も見えない。
だから、周囲の目を気にする事なく恋人として甘いひと時を過ごしていた。


飴袋を破いた後、コロンと小さな音を立ててセイの口の中に転がる。
星型の飴は勇気の飴。
その勇気の飴が口の中にじんわり染み渡っていくと、数日前に冴木から伝えられた話を口にする準備が整った。



「実は来月からアメリカに留学する事が決まった」

「えっ⋯⋯」



紗南は衝撃的な事実に思わず耳を疑った。

聞き間違え?
それとも冗談?

現実が受け入れ難くて留学という2文字がすんなり耳に入っていかない。
セイは伝えなきゃいけない言葉を喉の奥に引っかからせながら話を続けた。



「期間は約2年。内容は語学にダンス。幼少期から習っていたピアノも向こうで再び習うつもり。俺、歌手として軌道に乗り始めてから学びたい事が沢山生まれて半年前に留学を希望してた。今回、昔から憧れだった人がダンス講師を務めてくれる事になったから、留学してより一層ダンスに磨きをかけて来ようと思ってる」

「……留学か。凄いね」



留学話が現実味帯びなくて何処か他人事のように思えていた。
でも、彼が日本から離れて行く姿を想像したら⋯⋯。



「夢の実現に向かうチャンスが訪れたから伝えなきゃなと思ってて」

「うん」


「来月から約2年間、別々の地で暮らす事になる。まだ恋人らしい事を何1つしてやれてないのにごめん」



セイは遠い目でそう言うと紗南を日本に置いていく姿を思い描いた。

一方、紗南は消えていきそうなほどの暗い声が届くと、留学がよりリアルに感じた。

留学先がアメリカか……。
今度はライブなどの短期海外公演ではなくて、丸2年間日本からいなくなってしまう。
カーテン越しから声が聞けなくなるどころか、長い間メディアからも姿を消してしまう。

嫌だ。
もう二度と離れたくないと思っていたのに……。


でも、寂しくなるとはいえ自分の気持ちを貫くのは間違ってる。
彼の将来を思ったら、『心配しないで行っておいで』と大きく構えるのが正解だと思う。
だから、私自身も弱気な殻を破らなければならない。

紗南はポケットの中の飴を取り出して袋を破ってから口の中に放り込んだ。



「留学……。頑張って行って来て。私の事は何も心配しなくて大丈夫」

「紗南……」


「本音だよ。寂しくないって言ったら嘘になるけど、アメリカ留学はセイくんの夢だったんでしょ」

「あぁ」


「だったら夢はしっかり叶えないと。彼女というよりファンの一員として誰よりも応援してるから頑張って!」

「……サンキュ」


「大丈夫。私、ずっと待ってる。セイくんが成功する姿を夢見て日本で待ってる」



セイは紗南からの心強いエールが胸に刻まれると、より一層留学への意識が高まった。



「ありがとう」

「それにアメリカと言っても飛行機でひとっ飛びで行けるから、会いたくなったら貯金を崩して会いに行くね」


「マジ? お前は泣き虫だし頼りないところがあるけど飛行機とか1人で乗れんの?」

「えへへ……。まだ1人で飛行機に乗った事がないからわかんない。でも、いざとなったら何とかなりそうな気がする」



キーン コーン カーン コーン

話の途中でチャイムが鳴った。
2人は別れの時間と察すると、自然と会話が途切れた。


一方、長らく不在のフリして様子を見守っていた養護教諭だが、聞き耳を立てていた事がバレないようにチャイム音に紛れさせて足音をかき消すと、恰もいま保健室に現れたかのように扉を大きく開けた。



「……さ、2人とも。3時間目の授業が終わったから、そろそろ教室に帰りなさい。だいぶ体調が回復したでしょ」



こんな自分は非常にカッコ悪いが、自ら生み出した危機的状況から脱するには、こうする他ない。



「はーい」
「ほーい」



素直に了承した2人が時間差で教室に戻っていくと、フーッと深いため息をつき机に腰をかけた。



「ただですら恋愛が難しい状況なのに、セイはもうすぐで留学かぁ。恋は前途多難のようね……」



運命のイタズラによって2人が離れ離れになる事を知ると、恋の行方が心配になった。