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一本の桜が、乳白色の花びらを揺らして歌っていた。
並木道を外れ、隣に邪魔されることもなく気ままに枝を伸ばして佇むその桜は、悠々自適という言葉がよく似合う。
どうやらまだ現代には帰れていないようで、私は肩を震わせた。汗ばんだシャツを風が撫でて、とても寒い。少しでも風を回避できるように、桜の木の下で縮こまった。
「次は、また春ね」
見上げた桜は、暖かい日差しを透かしている。
三度目のトリップで耐性がついたのか、私は私を冷静に俯瞰していた。この後、おそらく彼が訪れるだろうと予測もついていた。トリップした先に必ず現れる、過去の瑞來のことだ。
さてさて、次は何歳の瑞來くんがお出ましかな。
「ハァ……」
夏に貰ったペットボトルを鞄に仕舞い、指先へ息を溶かす。ブレザー然り、セーター然り、手に持っていたものは一緒に季節を越えたらしい。
「じゃあ、あの手紙はどうして——」
差出人を元カレだと疑った封筒は、白い光とともに消えてしまったのに。
汗が引いてブレザーを羽織ると、巻き込んだ風に花びらがふわりと舞った。
「……また家出ですか」
この感じだと、声変わりもほとんど完成形か。
寄りかかる木の向こう側、背中で聴いた声のせいで寂しさを患いながら、私はゆっくり振り向いた。
「本当、よく会うね」
「それはこちらの台詞ですけど」
夏期講習の一件で彼を意識してから、同じクラスで毎日見ていたはずなのに。約半年間で健やかな成長を遂げていたことを今さら、はっきり実感する。ひょろりと伸びた背も、完成形に一歩近づいていた。
「ニョキニョキ伸びたねぇ、身長」
「ああ……まぁ、毎日成長痛ですけど」
「はら、健康的でいいじゃない」
「なんか、話し方が年老いましたね。見た目は変わんないけど」
飛び出した喉仏を上下させて、瑞來くんはククッと笑う。
話し方が老いたのは、あんたの健やかな成長に合わせているからよ。体内時計が今ちょっと狂っているの。
「ピチピチの女子高生に何を言うか」
立ち上がって口を尖らせると、彼は笑みを止ませてじっとこちらを凝視した。
「な、なに?」
「やっぱり似てるなと思って」
「え?」
「うちのクラスの女子に、よく似てる」
爪先から突き上げられるように、どきんっ、と心臓が跳ねる。私は視線を宙に泳がせながら、以前のように他人の空似だよ、と言い張った。
見上げた宙のなかで、桜が風に流されていた。
「あなたに似てる女子が、今日言ってました」
つまり、中学時代の私のことか。
隣で、同じように桜を見上げる瑞來くんへ視線を流す。この頃は何をしていたのか具体的に思い出せないでいたけれど、
「今日は委員の当番だったんですけど——」
と、放たれた言葉で記憶が解かれる。
中学二年の春であれば、私は彼と同じ図書委員に入っていたはずだ。何を隠そう、委員決めをする十月にはすでに瑞來を好きでいた私は、彼と同じ委員に立候補したんだ。
斜め後ろの席からカンニングを働いたのは、あれが最初で最後。震えながら、第一希望に鉛筆を走らせたときの罪悪感と高揚が、蘇ってくるようだった。
「図書室で、そのクラスメートが言ってました。この桜は “外れ桜” と呼ばれていて、舞った花びらを拾って願いを唱えれば、その願いが叶う、って」
瑞來くんは、私よりも高いところから視線を流す。もしやと思っていたけれど、やっぱり背は確実に抜かされていた。
「惜しいな、少年」
「はい?」
「花びらを掴み取って願いを唱えて、その花びらを願いを叶える瞬間まで持っていられたら——だよ」
少し凛々しさは増したけど、まだ青い顔立ちのなかで目がギョロリと丸くなる。
「知ってるんですね」
「そりゃあ、有名だもの。この辺の中高生の女子なら知ってるって」
「そういうもんですか……」
「あー、その顔は信じてないなぁ?」
覗き込めば、何の躊躇いもなく「非科学的だし」と静かに告げられる。昔も今も、瑞來に限らず、男子の大半はこんな反応だった。
「ジンクスを宛がう割りに、不名誉な名前を付けるのも理解できませんけど」
まぁ、ここまでは普通は言わない。
遊びが利きそうなのに実は真面目で、論理的なところはまさに瑞來そのものだ。