彼女と会った日から早くも半月が過ぎた。俺から何か行動を起こすこともなく、持ち帰った朗報だけを頭の片隅に、図書室で本を読んでいた。

「氷室くんだ。やっぱりここにいた」

「やっと来たんだな」

「待ちに待ったでしょ?」

 俺の目の前の席の一つ左に座りながらからかってくる。それには「そうでも」となんの面白味もない返事を返して本を閉じた。

 綾波さんもそれが何の合図か理解したのだろう。俺が欲しい質問をしてくれる。

「早速聞いてもいい?冷さんに会えたりする?」

「OKは貰ったぞ」

「本当?!ありがとう!本当は聞いてみるとか言いながら聞かないんじゃないかってそわそわしてたんだよー、私」

 分かりやすく子供のように喜ぶ。待ちに待ってたのはどっちだと言ってやりたいところだが、今は喜びに浸らせてやる。

「その手があったか」

 右手で右の耳たぶを触りながら少しふざけると、彼女は「嘘でしょっ?!」と驚きながら笑う。

 いつもは声ひとつしない図書室、どこか品のある賑やかさで心地いい。

「それで!いつならいいの?」

「何日か候補挙げてくれたらその中から父さんに聞くよ。家にいることも多いからそこは気にしなくていい」

 俺の言葉ににうーん、と頭を傾ける。2週間ぶりの対面だ。おそらく綾波さんも忙しいのだろう。

 わざとらしい仕草に意識を持っていかれそうだがなんとか理性で視線を押し留める。

「お堅いのも嫌だしなー。氷室くんと怜さんと私の3人がいいかも。お母さんっていつも家にいる感じ?」

「いや、母さんは基本家にはいないし心配ない」

「えっ?」

 困惑気味の綾波さんの顔を見てからすぐ後悔した。今の言い方では複雑な家庭環境みたいに聞こえてしまう。別に間違いかと聞かれると断定は難しいところだが。

「いや、気にしなくていい。ちょっと問題があるだけだ」

「その問題聞いても良かったりする?」

 率直に質問するのではなく、踏み込んで良いか聞くのは綾波さんなりの遠慮なのだろうけど遠慮の方向が間違っている気がする。

「別に隠すようなことじゃないしな。仲が悪い訳じゃないんだ。と言うかその逆で仲が良すぎるって感じかな。父さん、母さんのこと大好きだから日常の出来事を小説につい書いちゃうんだよ。それが恥ずかしいみたいで別居してる。だから母さんとは週一しか会ってないな」

「そうなんだ……仲良しすぎるって言うのも難しいんだね」

 どこか深刻そうな顔。綾波さんの言い方から察するに綾波さんの両親の仲はあまり良くないのだろうか?興味も意味も無いので気にしないでおく。

「気になったんだけど、日常の出来事が小説に組み込まれてるってことは、、冷さんの作品に出てくる、男の子は氷室くんだったりするの?」

「その可能性が高いだろうね。明らかにベースにしてるものもある」

 リアルからしか執筆できないのに何が有名小説家だ。と言う意見の人も一定数いるが、父さんは、現実から発想を得る事でリアリティが増すし、何も全てがノンフィクションな訳じゃない。と気に求めていない様子だ。

「ってことは氷室くんって中学陸上部なんだね。確か全国大会出てたっけ?可愛い幼馴染がいるのも本当かも。私の予想だとポエム書いてたってのも氷室くんベースかも」

 流石自称大ファンと言ったところ。即座に父さんの作品に出てくる子供の情報を繋ぎ合わせた。

「大体合ってるけど、全国大会までは行ってないし、幼馴染もいるにはいるが小1から一緒ってだけで特別仲良い訳じゃない。ポエムは燃やした」

「書いてたんだ……」

 引き()った笑い顔でこちらを見ている。何となく引いているようにも感じるが気のせいだと思おう。無理に強がったのが後悔していないみたいでマイナスイメージだったみたいだ。ここは話を逸らしておく。

「で、結局いつがいいの?」

「そうだなー、再来週の土日とか大丈夫?」

「聞いとく」

「しっかり聞いてよねー」

 さっきの会話を思い出したのか念押しされる。流石にここまで来て、無かったことにするほど人間辞めてないので大丈夫だ。

「待ち合わせをどうするかだな」

 綾波さんもうんうんと頷く。友達が少ない俺には待ち合わせというのがいまいち分からない。そんな俺が出来るのは無駄に書物を読んで増えたシチュエーションからそれっぽいのを組み合わせるだけだ。

「じゃあ俺の最寄駅に来てくれ。綾波さんが降りる駅の3つ先」

「分かった」

 話が一旦落ち着き、手持ち無沙汰になった俺たちは少し見つめ合った後、各々が本を読んで下校時刻まで時間を潰した。

 下心があるわけではないが、綾波さんに何度か視線が行く。相対的に見れば俺より二回りほど小さい手で本を支える。

 白い指がページを(めく)るたびに、本の上でアイススケートのように滑る。その仕草が落ち着いていて、この前のような冷たい寂しさを彷彿とさせた。

 ブックカバーは少し汚れていて、角がふやけている。それでも些細なことは感じさせないほどの景色は、絵にしても文句は無いほどだった。

 キーンコーンカーンコーン––

 綺麗な音色のチャイムが学校を包み込む。その余韻をかき消すかのように俺はパタリと本を閉じた。

「一緒に帰る?」

 どうせまた会うなら一緒に行ったほうが良いだろう。またねの後にもう一度会うと気まずくなるのは俺だけではないはず。

「そうしよっか」

 綾波さんは本のことになると、と言うか父のことになと明るくなるが、本来は落ち着いていて、お淑やかな人なのだろう。澄んだ声色からもそんな気がする。

 無言で2人、横並びになって校舎を歩く。恥ずかしいと言う感情は特に湧いてこなかった。普通なら気まずいこの空気感が今はどこか心地いい。

「嘘っ!蓮が女の子と一緒に帰ってる!壺買わされてない?」

 後ろから相当俺を馬鹿にした声が聞こえてくる。元気な声に振り向けばそこにいたのは幼馴染の久遠(くおん)だった。噂をすれば影、先ほど話していた幼馴染だ。

「お疲れ、壺は買わされてないから安心しろ。今誰かさんから喧嘩は売られたところだが。で、久遠も今から帰り?」

「うん、さっき部活終わってね。蓮は部活入ってなかったよね?また図書室で本読んでたんでしょ」

「ご名答」

 綾波さんは虫の居所が悪いのか辺りをキョロキョロと見回している。その不自然な様子に久遠の頭の上に疑問符が浮かぶ。

「こちらの方は?」

「こちら……綾波……さん、えーっと、図書室で喋るようになって、駅の方向が同じだから一緒に帰ろうってところです」

「ほとんど綾波さんの説明じゃないんだけど。下の名前も分からないし、もっと説明しなきゃいけないとこあるでしょ」

 一回聞いただけで覚えたらボッチはしてないんだよ。綾波さんはぎこちない自己紹介を久遠に始める。

「えっと……綾波栞って言います。綾波の……」

「しおりんね!何年生なの?」

「2年です。来年進学できるかは分かりませんが」

 新情報が一気に2つも解禁されてびっくりする。綾波さんも綾波さんで久遠の距離の詰め方に驚きを隠せていない。

 しかし、流石久遠だ。初めに歳を聞いて距離感を把握しておく。俺には何年経っても出来ない芸当だろう。

「タメじゃん!私は東雲(しののめ) 久遠(くおん)。なんて読んでくれても良いよ」

「分かりました、東雲さん」

 2人の性格から勝手に水と油だと思っていたが、嬉しさを隠せていない綾波さんと隠す気のない久遠。心配する必要は無かったらしい。笑顔を作る2人に俺はホッと胸を撫で下ろした。

「私も一緒に帰って良い?」

「もちろん」

 綾波さんがOKを出したことで3人で帰ることとなった。久遠とは小学生から同じ、つまり地域が同じであり、必然的に降りる駅も同じである。

 高校を出て紫色に衣替えしている空を眺めるながら歩く。前まではもっと明るかったはずなのにな。

「へー!しおりんって本好きなんだ!そりゃ蓮とも仲良くなれるねー」

 少し前を歩く2人を後ろから見守る。共通の話題から話を広げているようだ。

「氷室くんとは小学生からの付き合いなんでしたっけ?」

「そうそう!小学校の頃から図書室に篭りっぱなしでさ〜、知ってる?図書室で蓮、1人でポエム書いてたの!」

「図書室でですか?!」

 横並びで歩く2人に聞き耳を立てながら俺は女子トークに入れずにいた。俺から話を広げるのは良いが、(いささ)か俺への飛び火が過ぎませんかね?

「ほんと、面白くて面白くて!何だったかな?俺の心は……痛いっ!」

「はいはい、そこまでな」

 俺は久遠の持っているカバンに思いっきり下向きの力を与えた。久遠は頬をプクーッと膨らませて振り向く。

「なにすんのよ!」

「こっちのセリフだ。人の黒歴史を簡単に広めるな」

 なんで俺ですら忘れてたことを久遠は覚えているのか。幼馴染というのはそういうものなのだろうか。

「仲良いんですね」

「私はともかく蓮は友達少ないからねー」

 割と会話になっていないが、これは久遠の特徴の一つだ。噛み合ってないとかそういう訳ではなく、一つ先の会話をする癖がある。

 癖を知っているあたり俺も人のこと言えた義理じゃない。

「確かに氷室くんは友達作るたちじゃないですよねー」

 コミュニケーションは苦手ではないのだ。嫌いなだけで。だから友達と言える人は久遠しか居ない。久遠と正面切って話したのも入学式以来だったはず。

「綾波さんがそれを言うか」

「君ら苗字で呼び合うのは良いとして、敬称をつけるってどうなの?」

 俺たちの会話に久遠が割って入る。無理やり俺と目を合わせにくるのも久遠の癖だ。俺と言うか会話する人と言うべきか。

 その視線は、俺が質問に答えろと言う恣意表明でもある。

「俺らの好きで良いだろ。まだ会って間もないんだから」

「そんなんだから友達できないんですぅー。私なんかもうしおりんって呼んでるんだから」

 一方的に呼んでるだけだろ。さっき東雲さんって呼ばれてたし。どちらかと言うとおかしいのは久遠側のはずだ。

「久遠は距離のつめ方がおかしいんだよ。こう言うのはゆっくり縮めていくものなんだ」

「へー、縮めたいんだ」

 久遠がにんまりと笑いながらこちらを見ている。ふと綾波さんと目が合う。綾波さんは少し俺を見た後、頬を赤らめて目を逸らした。

「いや、一般論としてだよ」

 ただの照れ隠しにしか見えないが一応否定しておく。そしてすぐさま話を逸らす。もうそろそろ俺の十八番(おはこ)の一つになりそうだ。

「綾波さんって同い年だったんだな。知らなかった」

「嘘……普通初めに聞くもんでしょ」

 久遠の冷たい視線が突き刺さる。綾波さんも少し傷心しているように見えなくもない。2人揃って人付き合いが下手すぎる。

「蓮ってもう17歳でしょ?じゃあ同い年ってのは違くない?」

「そこまで細かいのか?学年が同じなら同い年だろ」

 久遠は「まあ、確かに……」と引き下がる。俺は少し前に誕生日を終えていて、ひと足先に17歳。来年には結婚できる。まあ、18歳で結婚なんて人助けでもしないけど。

「氷室くんって誕生日はいつだったんですか?」

「4月18日だよ。因みに私は8月18日!日付が蓮と一緒なの」

 俺の誕生日は春休み。久遠は夏休みで共に祝われない同士だ。俺は学校があっても祝われないか。

「8月18日なんですか!私は23日なんで5日違いです!」

 誕生日が近いと親近感が湧くのは綾波さんも同じなのか俺と2人きりの時の調子に戻っている。

「氷室くん。誕生日プレゼント期待してますね」

「いや、なんで……」

「良いですよね?」

 目力(めぢから)と圧が怖い。首を縦に振る以外に選択肢は無さそうだ。

「分かったよ。でも期待すんなよ」

「しおりんだけずるい!」

「私は来年の氷室くんの誕生日に渡しますからずるくないです」

 誕生日プレゼントにずるいとかあるのだろうか?そもそも友達に誕生日プレゼントを贈ったことが無いので皆目見当もつかない。そんな会話をしているうちに駅に着いた。

 今日も俺は吊り革を握り、窓の外を眺めながら家へ帰る。窓には真っ黒い画面が(うごめ)いていて、地下鉄の便利さが目に見えて分かる。

「じゃあ、バイバイ、東雲さんも」

 綾波さんと別れ、久遠と2人で最寄駅まで揺られる。久遠はさっきから静かだ。電車の中とはいえ何かしら喋ってくると思っていたのに。

 電車は息をするように俺たちを吐き出す。そしてまた、多くの人を乗せて次の駅に向かう。駅を出て2人で並んでゆっくりと歩いく。この辺りの空はまだ少し明るい。

「蓮、こうしてるとあの日を思い出すよね」

「半年前のやつか?やめろ、あれも一応俺の黒歴史なんだよ」

「カッコよかったのに」

「それはどうも」

 久遠はまだ何が言いたそうに歩くスピードを緩めた。俺も久遠のスピードに合わせる。久遠が口を開くまで俺は無言を貫く。

「しおりん、めっちゃ美人だね」

「まあ……」

 久遠が何を言って欲しいにしても、ここを否定しては話は進まないだろう。それに綾波さんは俺が否定出来ないほどに美人だ。

「良い匂いしたし、髪も細かくてサラサラだし、私みたいに塩素で色抜けてないし、肌も焼けてない……」

「どうしたんだよ。急にそんな悲観して」

「蓮は私としおりん、どっちが可愛いと思うの?」

 久遠は3歩進んで振り返り、正面から俺を見つめる。はぐらかすような答えは許さないつもりだろう。

 どちらが可愛いかは大した問題じゃない。質問の答えは用意されているようなものだ。どれだけモテないクソ男子だろうと選択肢が一つしかないことは分かる。

「んだよ、久遠の方が良いと思うぞ」

 俺は足を止めずに久遠の横を通り過ぎる。耳元で「すっ」と、息を吸った音がする。

「嘘つかないで」

「ついてない」

 久遠は俺の隣から離れるつもりはないらしい。無理にいつも通りを演じてる久遠の顔が左側に見える。

「だって右耳触ってるもん」

 話が噛み合わないのはいつものことだ。でも久遠も馬鹿じゃない。急に出てきた右耳にも何か意味があるはずだ。

「何の話だよ」

「蓮、嘘つく時右耳触るんだよ?さっきも何回か触ってたし」

 流石唯一で無二の幼馴染と言ったところか、隠し事は出来ないらしい。嘘でも言葉にされたのが嬉しいのかさっきよりは少し明るい。これなら上手くはぐらかせるはずだ。

「ま、久遠は久遠のままでいいよ」

 俺はわざと右耳を触りながら言う。でも、本当に久遠は久遠のままで良いと、そう思う。そうあって欲しい。

「わざと右耳触ってるでしょ」

「ははっ」

「でもね、嘘でもありがと」

「はいはい」

 もう空は薄暗い。何ちゃら星の一等星が薄く輝き出している。黒と紫の混ざったパレットの下、久遠はいつかのように手を振った。

「じゃあ、また」

「うん、またね」

 家は近いのに、1人になった途端に慣れた孤独感が心を襲う。これも俺にとっては心地いい。ただ、おそらく久遠にとってもっといいやり方はあったはずだ。

 家のドアの取手がひどく冷たく感じたのは、気配りの足りなかった俺はの罰だろう。