昼休みになると、美羽は当たり前のように弁当を持ってきて、向かい合って食べる。一人のほうが気楽なのにと思う。でも、これが防御壁になるのならば、文句は言えないと思う。いわば壁なんだと言い聞かせる。目の前には艶のあるストレートヘアの女子高生。今まで、ぼっちなランチタイムを過ごしていたので、違和感はある。誰かと一緒ではない昼休みはどこか息苦しかった。
 手作りの弁当箱を持ってくる。丁寧に作られたおかずがたくさん詰め込まれていた。親の愛情ってこういうものなのだろうか。
 早起きしてまで、弁当を作る気にはなれない流希亜は売店の総菜パンや弁当の類を買って食べることが多い。もちろん、母親が作るはずはない。
 大き目な弁当箱にびっしり詰め込まれた彩あざやかな弁当は、きれいだ。
 じっと見てると、食べたい? と艶やかなたまごやきを口元に持ってくる。つい口を開けてしまった。反射的に食べてしまう。うまい、甘口だ。
「私が作った卵焼き、おいしいでしょ?」
「甘口の卵焼きは嫌いじゃないな」
「推しが目の前で喜んでるって信じられないなぁ」
 憧れのまなざしを向けられる。
 ただ、卵焼きを食べているだけの自分を見られても困るだけだ。
「死ぬまでにやりたいこと、考えてたんだけどさ」
「唐突に死ぬとか言うなよ」
「人は全員いずれ死ぬんだから」
「身も蓋もない言い方だな」
「私はいなくなる人間だから、ちゃんと考えたいの」
 ノートを出す。女子が持っていそうな感じの四つ葉のクローバーが表紙に描かれたかわいらしいノートだ。
「よくある話だけど、ここにやりたいことを書いて、かなえていこうかと思うんだ。かなえられたら、簡単な日記もここに書こうかと思うの」
 焼きそばパンを食べながらノートを見る。
 ノートの一番最初のページには羅列してやりたいことが書かれていた。
『推しとやりたいこと。海に行く。花火をする。映画に行く。水族館に行く。カフェでお茶をする。二人だけの秘密を持つ。推しの演技を観る』
「これは、まだ途中だよ。もっともっとやりたいことはあるんだ」
「それまでは死ねないな」
「そうだね。私、推しの演技を観たいと思ってる。また機会があったら趣味でもいいから、演劇とかやってほしいな」
「それはどうかな。もう、縁も切れてるから仕事で演技は難しいよ。演劇をやる予定もないしな。水沢さんこそ演技をやったら映えると思うけど」
 少し焦った様子で否定する。
「私には無理だよ」
「なんか、アイドルにいそうな顔してるし」
「実は、小学生時代、母親に勧められて少しアイドルまがいなことをやったこともあるんだ」
「まじか」
「でも、無理だったの」
「売れなかったってことか?」
「プライベートに支障が出るから、私は続けるのを辞めちゃったんだ」
「学校との両立とか?」
「子役のチョイ役をもらったことがあってね。エキストラみたいな仕事だったけど。流希亜くんと共演したんだよ」
「覚えてないな」
「そりゃそうだよね。主役と脇役中の脇役だもん」
「でも、今ちゃんと認識しておく。なんていうドラマだった?」
「学校のこどもたち」
「あぁ、あれね。もしかして、おまえ誰っていうセリフの相手だったり?」
 おぼろげな記憶が蘇る。黒髪のストレートの長い髪の毛。その女の子に話しかけるセリフがあった。
「転校してきたばかりですっていうセリフだけだけどね」
「俺たちは会話してたってことか」
 タイムリープしたかのような感じがする。
「推しのことは好きになれないんだろ。だったら、本当に恋をできる相手を探してみるとリアルが充実するんじゃないのか?」
「そうだね。出会えたらいいけど、恋ってしたことないし」
 ノートをおもむろに取り上げる。
『本当に恋する相手をみつける』
 ノートに持っていたペンで書きこんだ。
「ちょっと、勝手に何するのよ」
「これ、超重要じゃね?」
「私は推しがいれば心強いから特に恋愛なんて必要ないよ」
「俺は、人を好きにならない。おまえは推しは恋愛対象にはならないっていってただろ」
「つまり、私たちはウソ恋ってことでしょ。推しが恋してる姿を見てるだけで幸せなんだよ」
「今の俺にそれは無理だな」
 声は小さく他人には聞こえない程度の会話をする。
 ふと、彼女の腕にあざを見つける。
「そのアザ、どうしたんだ?」
 青いアザはぶつけたあとにできる、打ち身だと思われた。
「ぶつけちゃったの。私、ドジだから」
 彼女の顔が少しばかり曇ったのは気になった。でも、彼女は時折そのような顔をすることが度々あったので、そこまで気になるということはなかった。
 正直言えば、暗い部分を併せ持つのが水沢美羽という人間だと思えた。
 自分自身が暗いと自覚しているので、暗い部分に関しては違和感がなかった。
 明るいと言っても作った明るさの彼女と接することはそこまでの苦痛はなかった。
 たしかに、彼女は鈍臭そうな印象を受けることも多々あった。
 多分不器用なのだろう。器用ならば、既に引退して復帰する見込みのない久世流希亜の推し活を継続しているはずはない。彼女は青いのだと思う。大人びた外見とはうらはらに青春を夢見て、過去の子役に夢を馳せる。クラスメイトの女子よりもずっと青い。そんな印象を受けた。

「今日は一緒にアイスクリームを食べて帰ろう。やりたいことをノートに昨日色々書いてみたんだ」
「やりたいことは尽きないな」
 少しばかり無意識にため息が出た。今の孤立した流希亜には彼女のような人間と一緒にいることはメリットだ。しかし、これじゃあ、水沢美羽と付き合っているのと同じだ。時間が水沢美羽に吸い取られてしまうように思えた。でも、今何かやりたいことがあるわけでもない流希亜はそのまま促されるままに動く。 
「俺も死にたいよ」
 その言葉に美羽は怒る。
「あなたには演技を再開してほしいの。だから、死ぬなんて言わないで」
 目の前の人間が理由こそわからないが、死ぬかもしれないというタイムトラベラーだというのならば、いささか不謹慎な発言をしてしまった。申し訳ないような気持ちになる。流希亜にとって調子が狂う日々だった。それでも、誰かと一緒にいると時々襲う母親への嫌悪感や小学生時代のいじめの記憶や現在の状況を消すことができた。それは意外にもありがたい出来事だった。
「将来の夢も何もないんだ。役者をやりたいなんてこれっぽっちも思ってないよ」
「あなたには才能がある。だから、絶対に役者をやるべきだと思うの。世の中にはなりたくても才能がなくてできない人がたくさんいるんだよ」
「才能なんてないって」
「才能ってわかる人にはわかるんだよね」
 過大評価に戸惑いながら、昼食を食べ終える。いい感じに午後の授業の時間となる。
 ふと、子役時代に名刺をもらった事を思い出す。今でも芸能事務所の連絡先は生きているのだろうか。きっと変わっているに違いない。十年も前のことだ。でも、会社は移転していないだろう。
 放課後は約束通りアイスを食べに行く。それは当たり前の高校生カップルの日常。しかし、俺たちに関して言えば、全部ウソ。友達かどうかも怪しい。でも、とりあえず街中を歩く。多分、一人だったら街中を歩くことなくすぐに帰宅しただろう。
 縁というのはどういうわけかどこかでつながるものらしい偶然の中の必然。
「もしかして、久世流希亜くん?」
 みたことのある中年男性が声を掛けてきた。
「もしかして・・・・・・霧生(きりゅう)さん」
 霧生さんは子役時代にお世話になった芸能事務所社長で、若い頃は俳優志望だったらしい。たしかに、アラフォーだがイケメンだ。あの当時、結構若手だったが、今は四十歳くらいだろうか。
「ずっと君のことを心配してたんだよ。時々、君のお母さんから話しは聞いていたんだけどね。もしよければ、バイトしてみないか?」
「バイト?」
「一人暮らししてるって聞いたんだ。制作のバイトの人手が足りなくってな」
 一瞬役者のバイトかもしれないと期待した自分に苦笑いだ。
「また、芸能の世界に触れたくなったらここに連絡してくれ」
 名刺を渡される。
「もう、芸能の世界には未練はないです」
「そう言うと思った。でもさ、人の心を動かせる仕事って貴重だと思うんだ。俺は役者になりたかったけれど、なれなかった。才能がなかったんだ」
 少し残念そうな顔をする霧生さん。
「君は才能のある人間だ。羨ましいよ」
「ですよね!!」
 そこで急に会話に入ってきた水沢美羽。
「私、彼を推してる大ファンなんです」
「もしかして、昔、アイドルグループにいた……」
「水沢美羽です」
「じゃあ、水沢さんにも名刺渡しておくよ。もし、何か仕事があったらアルバイトしない?」
「私は才能ないんです」
「それは、俺が見て決めるよ。このビジュアル、もったいないと思うけどな」
 何人もの女性を口説いたであろう慣れた話し方をする。
 霧生さんは髪をなびかせ、手を振って去る。
 それから、ただアイスを食べて、どのアイスが美味しいとか好きだとか他愛のない話をして帰宅した。ウソ恋のような美羽との関係は迷惑なこともなく、日常の一部となりそうな感じがした。
 きっとアイスを食べるという項目には線が引かれて、達成した事項となったのだろう。

 正直美羽を知りたいという興味もなかった。でも、つながっていられる誰かがいることは、想像以上に心強かったように思う。
 それくらい孤立していたということだろう。
 毎日たわいのないメッセージを送りあっていた。

 時々彼女の体に青いアザを見つける。親の暴力だろうか。とても気になった。聞いても、彼女はいつもはぐらかす。どこかで転んだとかぶつけたという返事が返ってきた。

 季節は過ぎていつの間にか受験生の天王山と言われる夏休み直前となっていた。美羽はこの頃、休みがちだったので、家を担任に教えてもらい、宿題を届けることにした。多分、本人に家にいくというと嫌がるだろうと思ったからだ。いつも美味しそうなお弁当は美羽の手作りだということもわかった。なぜか家族の話を避けているように思えた。流希亜も同じように家族の話は避けていたから、それはそれで居心地はよかった。でも、アザの頻度が増えていることに不安を感じていた。美羽は芸能活動は母親の勧めだったと言っていたが、それ以外に塾に行っているとかプライベートな話をしなかった。家族構成も不明だ。

 ピンポーンとインターホンを鳴らす。古びたアパートの一室だった。そこには、想像以上に着古した私服姿の美羽がいた。髪の毛もずっと切っていないせいか、ぼさぼさした感じでとりあえず一つにまとめているという感じだった。

 玄関に出てきた美羽は、流希亜が来るとは思わなかったらしく、相当焦った様子だった。部屋の奥からはうなり声が聞こえる。母親だろうか。
「お母さん病気なの。今は、母子家庭だから、生活保護受けながら生活してるんだ」
 気まずいのか目を逸らす。
「精神的に不安定で、私が面倒見ないといけないから、学校行けなくて。こんな格好でごめん」
 自分の私服姿を恥ずかしそうにする。
「これ、届けに来たんだ」
「学校に取りに行ったのに」
「あの様子じゃ、学校来れないんじゃない?」

 美羽の母親がうずくまり、布団の上で寝込んでいる。
 うーとかあーという動物のような声を響かせる。
「こんなこと誰にも話せなくて……」
「この前会った霧生さんなら色々相談に乗ってくれると思うよ。彼は芸能人を育成するために寮を経営しているし、相談先も大人として助言してくれると思う」
 名刺の連絡先をスマホに入れていたおかげですんなり連絡がついた。
「ヤングケアラーっていうやつかな。児童虐待になるから、児童相談所にも連絡だ。すぐに学校の担任に相談しろ。あと、彼女は俺が拾ってやってもかまわない」

 昔からよく知っている大人のアドバイスは心強かった。
 実の親の事件の時も、霧生さんがだいぶ精神面で助けてくれた。
 信頼していたはずなのに、自分で距離を作っていた。
 それは、芸能界と距離を置くためだったのかもしれない。

「最初は普通のお母さんだったと思う。でも、私の芸能活動がうまくいかなくなって、私に自己投影していたお母さんは壊れていったの。その頃離婚が成立して、頼るのはお母さんしかいなかった。そのうち、幻覚が見えるとか幻聴が聴こえると時々言うようになったの」
「アザの原因もお母さんなのか?」
「お母さんを悪者にしたくなかったから言えなかった。暴力的になることもあって、最近では通っていた精神科にも行かなくなったの。行こうと言っても拒否された。お母さんは無職になって生活保護を受けることになったの。でも、心の病気って見えないから、障害認定することも難しかったみたい。どんどん悪化した。生活は心も体も苦しかった。罵声を浴びせられ、理不尽な要求を呑まなければいけない。私にはどうすることもできなかった。私は中学を卒業する頃にこの生活から抜け出したくて身を投げ出した。でも、なぜか今、人生をもう一度やり直しているみたい」
「タイムリープの話か……」
「私のほうが頭がおかしい人みたいだよね」
「信じるよ。君は悪くない。まずはお母さんを入院させよう」

 それから、中学校や児童相談所などが動いて、行政の介入と医療措置により、彼女のケアラー生活は一時的に無くなった。いつ退院できるかはわからないけれど、精神科のある病院へ強制的に入院措置をとることができた。そのアドバイスは霧生さんのおかげだった。彼は、自分自身、美羽と似たような経験をしたからこそ、芸能の世界で若い時からお金を稼ぐことのできる人材育成の手伝いをしているらしい。世の中には、お金に困って仕事を探している子どもが意外といるらしい。でも、中学生以下は働くことはできない。でも、芸能の世界は子どもでも仕事ができる。それは子どもの未来を広げるチャンスを与える仕事だと言っていた。

 その夏、美羽と一緒に花火大会に行った。
 その頃には美羽は霧生さんからエキストラなどの仕事や小さな会社の広告の仕事をもらえるようになっていた。中学生の間はとりあえず、近いということもあり、あのアパートから中学に通うらしい。
「高校に入ったら、霧生さんの事務所の寮に入ることになったの」
 わたがしをちぎりながら薄暗くなった空を見上げる。花火が打ちあがる。
 毎年同じ光景をみていても飽きないのが花火大会だ。
 赤、黄、青、緑、オレンジ……無数の色に囲まれる感覚。
 音に圧倒され、光に魅了される。
 人間は馬鹿なのかもしれない。毎年同じような光景に魅了されるなんて。
 美羽の私服姿は少しおしゃれを気にしているのか、最初に自宅で会ったときのような洗い腐れたえりの延びたシャツではなかった。
「この洋服、仕事のお金が入ったから買ってみたの。せっかく流希亜くんと花火大会に行くんだもん」
 少し恥ずかしそうにしながら、かわいいでしょ、というポーズをとる。
 メモを取り出し、『推しと花火大会に行く』という項目に線を引く。達成されたということらしい。その夏は死ぬまでにやりたいことをかなりこなしたように思う。かき氷を食べるとか、ひまわり畑でひまわりに囲まれるとか、とても健全なやりたいことを達成すると、ノートに線を引いた。
 その夏は二人で灯篭流しにも行った。亡くなった美和の魂を供養した。
 自分ばかりが楽しんでいて申し訳ないような気がしたから、美羽には内緒にして、一人で美和の墓参りにも行った。

「なんだか、俺たちばかり楽しんでいて申し訳ないよな」
 ふと言葉が出た。
「生きることの方が大変だと思うけどな。流希亜くんの人生は決して楽ではなかったでしょ」
 その通りだ。大変なことばかりが人生には待っている。

 秋になり、進路も希望調査というよりも決定になるころ――。

【どこの高校を受験する?】
【桜高校。勉強、はかどらないな】
【今更あがいても変わんないよ。模試でA判定なら余裕】
【念には念を。遠い高校に行きたいんだよな】
【なんかその気持ちはわかるよ】
 どうでもいい言葉を吐き出し受け止めてくれる人がいるという存在がどんなに心強いか、流希亜自身が思い知っていた。
 ただでさえ不安がいっぱいの受験期。緊張と不安と若干の春への期待で胸がいっぱいだった。
 正直中学校はどうでもよかった。
 あそこに居場所を求めようとも思わなかった。
 気持ちを吐き出す受け皿となってくれるMiwaの雨のアイコンは当たり前の存在となっていた。
 一日に何度も目にしていたから、生活の一部となっていた。
 中学には毎日は行かなかったけれど、冬の行事は一緒に楽しんだ。
 クリスマス、元朝参り、正月、バレンタイン……。 
 くもった窓に好きとかいてもらうとか、雪を楽しむという項目もあった。
 女子特有の楽しみ方にクスリと笑えることも多々あった。
 ノートに達成すると線が引いていく。

 流希亜はあえて自宅から遠い知り合いのいない高校を受験した。あえて女子が八割という高校を選んだ。というのも男友達とのつながりを絶ちたかったのと、女子が多ければ友達ができなくても浮いた存在にならないのではないかという期待もあった。友達を作りたくない前提で受験していた。でも、少しは二割の男子と仲良くなりたいと願う自分もいた。つまらない高校生活を進んで望んでいるわけではない。自宅からは自転車で駅に行き、電車とバスを乗り継いで通学する。名前は桜高校。元は女子高だったけれど、少子化のあおりで共学化されたらしい。伝統校であり、県内でも五本指に入る創立年数だ。最初こそ男子がたくさん入るのではという期待もあったのだが、実際は男子の希望者はそんなにおらず、結果的に二割程度は毎年なんとか男子が入学しているらしい。同じ中学からも女子で希望している人も毎年ほとんど聞いたことはなかった。通学の不便なことが一因らしい。