学校生活で一番好きな時間。それは勉強の時間でも給食の時間でもない。放課後、みんなが帰っていく中、窓際で物思いに(ふけ)っているチヅルに声を掛けられる時間。

「よう。また見てるのか」

 大きなツリ目がこちらを向く。無機質的な乾いた瞳。どちらかと言えばきれいに分類されるはずの彼女が男子から不人気な理由が、この瞳だった。でも俺はこの瞳が好きだった。透き通ってきらきらしている瞳よりもずっと引き付けられた。なにもかもを知っている、すれっからしの賢者のような瞳がたまらない。

「また見ているよ」

 チヅルは視線を窓の外に戻す。遠くにそびえる超巨大ショベルカーだ。

「あれはなんなのかねえ」
「時間の終わりを観測させるもの」
「時間?」
「そう。可視化された時間——端的に言って時計のようなものだ」
「穴を掘っているのに時計なのか?」
「例えば偉い学者さんが言うように、実際60年後にマントルに辿り着いたとき、或いはそのもっとあとで核に辿り着いたとき、それが世界の終わりを意味するなら、人類が認識している時間と言うものが跡形もなくなる瞬間だろう」

 彼女は肩まで伸びたくせのある髪を白い指先に巻き付けて弄んだ。張りのある髪がくるくると過激なポールダンスを踊る。

「時間は人類が居なくなっても流れるだろう?」
「それを知覚する人間は?」
「全滅してる」
「そういうことだよ」

 こういう要領を得ないところも彼女が嫌われる原因だが、知識マウントを取ってくるわけではないので、俺は話していても不快ではない。いや、意味わかんないことに変わりはないんだけど。

「チヅルはあの超巨大ショベルカーが憎いのか?」
「憎い?」
「世界も人類もなくなるんだぜ?」
「君は砂時計に嫌悪感を抱くかい?」
「えーっと?」
「3分間という時間は砂時計が存在していたから流れたのではない。流れた時間を人間が砂時計によって認識したに過ぎない」

 ガタッ。椅子が揺れる。彼女は机に手を突いて前のめりになった。中学生にしては発育の良過ぎる胸がゆっさと揺れた。

「確かに砂時計がなければ明確に3分間を認識することはないが、別の外的或いは、お腹が減るなどの内的要因によって時間経過を知覚することもあり得る。誰かが見やすい位置に時計を掛けてくれた。それだけのことなのさ」

 彼女の乾いた瞳が世界の空気を見ている。どこにでもある、でもここにしかない空気を。

「えーっとつまり、超巨大ショベルカーが世界を終わらせるんじゃあなくて、終わるまでのカウントダウンを掘削作業でやっているだけ、と?」

 彼女は満足げに頷いた。口角が上がったときに艶のある唇が天井の蛍光灯をぼんやりと反射した。潤みのある、生気に満ち溢れた唇。

「あ。そろそろ行かないと」
「あれ? なんか部活やってたっけ?」
網邑(あみむら)凛久(りく)が塾へ行く時間だ。同行しようと思う」

 リクに?

「チヅルってリクのこと嫌ってなかった?」
「1年前までは」

 リクがちょうど勉強を頑張り始めた日だ。いつの間に仲良くなったんだろう。
 チヅルが鞄を持って出て行くので、俺も同行することにした。

「そもそもなんで嫌ってたんだっけ?」
「彼はね、私の仮説をことごとく『見たことがない』とか『前例がない』とか『非科学的だ』と言って否定するんだよ。それが嫌いな理由」

 リクは答えのない問答があまり好きじゃあないからな。さっきの超巨大ショベルカー砂時計論なんかも、証明することが出来ないからリク的には「なし」だろう。

「好きになった理由は、彼が現代科学を否定しようと努力し始めたからだよ」
「あいつは科学者になりたいって言ってたぜ?」
「超巨大ショベルカーを止めるために、だろう? あの現代科学では解き明かせない謎そのものに挑むんだ。とても哲学的じゃあないか。それにまるでヒーローのようでもある。私はその姿勢に惹かれた」
「ふうん」

 納得しながらやり取りを反芻する。なんか今のやり取りおかしくなかったか……?

「好きなの!?」

 廊下を歩きながら叫ぶ俺に、好奇のまなざしが向けられた。慌てる俺をチヅルは不思議そうに見ている。

「ん?」
「いや、惹かれたって」
「彼の姿勢に惹かれて好きになった」

 チヅルはそれがどうしたと言わんばかりの表情だ。

 マジか。ずっと仲良くおしゃべりしてたから、チヅルはてっきり俺のことが好きなのかと思っていたけれど、それは大きな勘違いだったのか。

「がっかりしているように見えるけれど」
「あ、いや」

 取り繕う言葉を探す。だけどその間にも彼女の歩調は上がっていく。俺は上げられないでいる。無言のまま差は開いていく。いやこれは俺の速度が下がっているだけなのかも知れないな。そう思ったときにはもう、チヅルの背中は黄昏に隠されていた。



 リクは科学者になりたいだけだ。でもチヅルからしたらその行為は哲学者でヒーローだ。哲学者かどうかはともかくとして、ヒーローなのは間違いないだろう。世界があの超巨大ショベルカーに終わらされるのだとしたら、立ち向かう彼は完全にヒーローだ。

 もしも正義のヒーローになれるなら。なんて考えたのはいつの日の頃だっただろうか。いや、それは今でもまだ時折考えることだ。俺が弱小野球チームでピッチャーを務め続けるのも、ヒーローになりたいからなのかも知れない。そう。いつだってヒーローになりたい。でもどうやってなればいいのかわからない。だからなれない。なれる方法がわかればなって、きっと自分の命を犠牲にしてでも世界を守るのに。——とか思っていた。
 でも今、正義のヒーローになる方法は明確になっている。にもかかわらず俺はなろうとしていない。
 リクと同じ道を歩めばなれるかも知れないのに。地頭はそんなに違わないはずだ。今からでも頑張ればなれるだろう。でもなることを選べない。なぜだ。面倒だからだ。勉強が嫌いだからだ。60年後の平和なんて知ったこっちゃあないからだ。

 ……なんだ。結局命を犠牲にしてでもなんて嘘だったんだ。

 俺はいつだって命懸けになれるくせに、人生懸けにはなれない。ようはお手軽時短な方法で褒められたいだけなんだ。

「あれ? タツキ?」

 ヒーローの声が降って来た。

「どうしたの? こんなところで」

 彼はブランコに座っていた俺に目線を落として眉を(ひそ)めた。外灯がなければ表情は読み取れないような暗さだった。いつの間にか黄昏を越えていた。

 ポキッと音がする。いつものお菓子。

「お前は?」
「たまに来たくなるんだよね。ほら。ここ、タツキとよく遊んだでしょ?」
「そうだな。よくキャッチボールしたなあ。遊ぼうぜ」
「ボールもグローブもないよ」

 はははと笑う。隣のブランコに腰が下ろされた。

「また何回目になるかわからねえんだけど、もう野球しねーのかよ」
「だって、もう遊んでいる場合じゃあないだろう?」

 小学校の頃、リクはキャッチャーだった。そこまで運動神経がいいわけじゃあないけれど、ピッチャーの俺と息が合っていた。だからこの辺じゃあそれなりに強いチームになっていたはずなんだ。それなのに抜けちまって。

「こっちは真剣だってーの」

 ——キィ……と漕ぎ出す。

「真剣かな」

 リクが疑問とも区切りとも取れるようなニュアンスの言葉を放ったから、俺はブランコを緩く漕ぎながら次の言葉を待った。

「もしも僕がタツキの立場で真剣に野球をやるなら、隣町の中学校に入学したけれどね」

 学区は違うが、申請すればいけないことはない。俺が本気で人生の中心に野球を置きたいと思うのなら、親に頼んででもそれくらいのことはしなけりゃあいけないんだろう。

「僕からしたらタツキの野球は全然真剣じゃあないんだよ。プロになる努力もしないのに、真剣とか言わないでほしいよ」

 ——ザアッ!

 揺れるブランコを思い切り踏ん張って止まった。

 リクの物言いに、俺は胸糞が悪くなるのを感じた。

「お前さあ! なんなんだよ! くそっ! くそ! なんなんだよ!」

 なにも言葉にならない。なってくれない。俺は俺で俺なりに俺を責めて来た。このままじゃあダメだよなとか思ってはいた。だけどやり方がわからないから、どうしたらいいかわからないから、ボロ負けになる試合を延々やり続けて来たんだ。試合に出続けてりゃあそれは勝負してるってことだから。逃げてないから。
 でもそれが実は全部逃避だった。そう言われちまった。14年間の全否定を食らった、のに……どこにも言葉がない。握りしめた拳が熱い、痛い。

 俺は背中を向けて歩き出した。

 全部わかっちまった正義のヒーロー様は、偉いよな。
 こんなセリフさえ、口にすら出せないで。