「ハルノさん」
誰かに呼ばれた気がして、春は作っていた砂山から顔を上げた。
そこにいたのは自分よりも小さな子どもだった。名札の色から、2つ下の年少組の子だということがわかった。
「ハルノさん……!」
泣きそうな声で、その子が言った。
春は首を傾げる。春の名前は『はる』だ。はるの、という名前ではない。もちろん苗字も全然違う。
だから、きっと違う子に話しかけているのだろう。
そう結論付けて、春は砂山作りに戻る。
幼稚園の休み時間は貴重だ。
教室に戻ったら文字や数字の勉強をしなくてはいけないし、運動会が近いから、踊りの練習もしなくてはいけない。やらなきゃいけないことがいっぱいで、何も考えずに遊べるのは、この外遊びの時間くらいだった。
「ハルノさん……?」
不安そうな声が聞こえてくるが、気にしない。だってそれは春に言っていることじゃない。そんなことより、作った砂山の上に園庭の隅から拾ってきた枝と葉っぱをバランスよく置くことの方が大事だった。
この前は枝を探しているだけで外遊びの時間が終わってしまった。だから今日こそはきちんと完成させて、先生に見せてあげようと思った。
「……」
その子は変わらずに春の前に立っていた。小さな足が春の視界に入ってくる。そこにいられると、砂山が日陰になってしまって、葉っぱの色がくすんで見える。
これでは春の思うものが作れない。
「ねえ、そこ、どいて?」
春が声をかけると、その子は一瞬嬉しそうな顔をした後、可愛らしい顔を泣きそうに歪めた。
春としてはできる限り、優しく声をかけたつもりだった。同じ組の男の子みたいに、どけ!なんて言っていないし、強く押したわけでもない。
だから、そんなこの世の終わりだと思えるくらい、傷付いた顔をするなんて思ってもみなかった。
これは春のせいなのだろうか。謝った方がいいのだろうか。
春が言葉に詰まった時、園庭の真ん中にいた先生が、外遊びの時間の終わりを告げた。
周りの子達はみんな、走って園舎に向かっていく。
春も、急がなきゃ、とすぐに駆け出した。
次はなんの時間だっけ。ひらがなだったかな。でも、その前に砂を触ったから手を洗わなきゃ。
次にやることを一生懸命考えながら、園舎の入り口にたどり着いた時だった。
「何やっててるの!早く来なさい!」
入り口に立っていた先生が、春の後ろを見て、そう怒鳴った。
遊びの時間が終わりだと言っても遊び続ける子がいないわけではない。わざとボールを蹴りながら片付けたり、まっすぐ園舎に来たらいいのに、わざわざ鉄棒を経由して遠回りに帰ってきてみたり。そういう子に怒っているのだと思い、春はなんとなく振り返った。
園庭の真ん中に立っていたのは、さっき春の前に立っていた子だ。
その子は制服の裾を握りしめ、何かに耐えるように、苦しそうに涙を流していた。
その瞬間、春の胸の奥が騒ついた。
もしかして、春のさっきの言葉で泣いてしまったのだろうか。
妙な焦りが、春の心音を早くする。
立ち尽くしたまま動こうとしないその子に痺れをきらしたのか、さっき怒鳴った先生が、春を通り越してその子に近付いた。
「どうしたの?なんで泣いてるの?とにかく中に入るわよ」
先生は手を引いて園舎に連れて行こうとするが、その子はそこから動こうとしない。
先生が何を聞いても唸るような泣き声を漏らし、足を突っ張らせるだけ。
はじめは優しく聞いていた先生も苛ついてきたのか、次第に語尾が荒くなっていく。
「なんなの?ほら、外遊びだったら次もできるから、おいで!」
ぐい、と手を引くも、その子の足が石になったように動かない。
もういい、と先生は怒鳴り、その子を置いて春のそばに戻ってきた。
「もうそこで好きなだけ泣いてなさい!ほら、みんなも早く中に入って!」
先生の声に背中を打たれ、周りでなんとなくその様子を眺めていた子達が、ばらばらと中に入っていく。
春も慌てて靴を脱ぐ。だけどどうしても気になって、もう一度だけ、と園庭を振り向いた。
誰もいない園庭の真ん中で、あの子は1人で泣いていた。
この後に起こることは、春にはなんとなくわかる。あの子が自力でこっちに来ない限り、先生達は絶対にあの子を迎えにはいかない。
春も年中の頃、同じ目にあったことがある。
あれは運動の時間の前だったけど、春はどうしても絵本の続きが気になってしまい、読むのをやめられなかった。いつまで経っても準備をしない春に先生が怒り、無理矢理絵本を取り上げ、春の手の届かない高い棚の上に置いてしまった。それに春が怒り、泣いた。
先生は勝手に泣いていなさいと教室に春をひとり残し、他の子達みんなを連れて園庭に出て行った。
1人取り残された教室で、春は泣き続けた。正直、1人で教室に残されるのは心細かったけど、春にだって意地はある。ここでごめんなさいと謝って、みんなと合流したら、先生に負けたような気がした。だから、結局春は運動に参加せず、ずっと教室で泣き続けたのだ。
でも、と春は思う。
あの時、先生がもう一度戻ってきて、絵本を取り上げてごめんね、一緒に運動やろうと優しく言ってくれたら、春だって喉が枯れるまで泣き続けずに済んだ。次の日、声が出なくて、幼稚園を休むことになって、大好きな給食のカレーを食べ逃さずに済んだのだ。
今、園庭に立ち尽くしてるあの子だって、一緒なんじゃないか。
ふと、春はそんなことを思った。
泣き出してしまったけど、自分で止められなくなっているだけ。もう一度チャンスがあれば、もしかしたら自分から動けるかもしれない。
「春ちゃんも!何、ぼーっとしてるの?早く中に入りなさい!」
2年前に春を教室に置いていった先生が怒鳴る。
それを無視して、春は脱ぎかけた靴をもう一度履き、園庭に向かって駆け出した。
後ろで先生が怒っている声がする。だけど気にしない。
私から1回分のカレーをとった恨み、忘れてないから、と心の中で舌を出す。
そしてさっきまで春が作っていた砂山の前にいる、あの子の前にたどり着いた。
涙に濡れた目が、驚いたように春を見ている。
やっぱりこの子が泣いているのは、春のさっきの言葉のせいなのだろうか。
だったらまずは謝るべきかと春は口を開いた。
「さっき、どいてって言ってごめんね」
その子は何も言わない。ただ、ぱちりと瞬きをひとつしただけ。
まだ年少だし、もしかしたらよくわかっていないのかもしれない。
春は構わず、右手を前に差し出した。
「もう外遊びの時間、終わりなんだって。だから、一緒に帰ろう」
教室に、と言った時だった。
大きく見開いたその子の目から、ぼろぼろと大きな涙がこぼれ落ちた。
際限なく溢れてくるそれに、春はびっくりして、差し出した手を引っ込めそうになった。
その前に、小さな両手が春の右手を包む。
その子の顔がくしゃりと歪んだ。
「うん、うん……!いっしょに、かえりたい……!」
赤く紅潮した頬の上を、いくつもの涙が流れていく。
その軌跡をぼんやりと眺めながら、春は握られた手の温度を感じる。
なんとなく、この手をずっと待っていたような気がした。

おわり