高橋トオコが、傷付いた魂達の世話をするために作られてから、もうすぐ2年になる。
同じ時期に作られた同僚達は、あっという間にこの世界に溶け込み、友人として、あるいは恋人として、この世界で人として生きる魂達に寄り添っている。中には、魂の傷を癒し、天に還したものもいると言う。
だが、トオコは未だに魂の傷を癒すどころか、親しい人間ひとり作ることができずにいた。
『見た目は悪くないのに、なんでだろうなぁ』
同じ学校にいる上司は、トオコの相談に首を傾げた。
『まぁ、そんな焦ることはねぇよ。まだ2年だろ?そのうちできる』
上司はそう慰めてくれたが、トオコはなにも成せない自分が情けなくて仕方がなかった。
そのうちっていつだろう。
そのうちじゃなくても、他のみんなはできているのに、どうして自分だけできないのだろう。
トオコはそっと唇噛み締める。
一応、自分なりに頑張ってはいるのだ。
司書教諭として生徒に積極的に関わり、図書室に来る生徒には、何か悩みがあるなら聞くと言った。
でも、うまくいかなかった。みんな、わざわざ先生に言うようなことじゃないから、と遠慮して去っていく。
そんなことない。先生はみんなの役に立ちたいの。
トオコはそう言ったが、言えば言うほど生徒達は遠慮し、トオコから距離を取る。
自分はどうしてこんなにもうまくできないのだろう。どうしてこんなにも頭が悪いのだろう。
他の同僚達と性能は同じはずなのに、どうして同じことができないのだろう。
トオコは悩んだ。
なんとかしなければ。じゃないと、魂の傷を癒すという役目を果たせない。それができない自分は、いずれ上司に処分されてしまうだろう。
何もできないまま、消えるのは嫌だ。でも、具体的な解決策がわからない。
そう焦っていた時だった。
同じ学校で教師をしていた冬岡フユトに、トオコが告白されたのは。

告白されるまで、トオコは冬岡フユトに対して、特段何の感情も抱いていなかった。
職場の同僚で、25歳の男。髪は癖毛で、身長はトオコよりも頭ひとつ分くらい大きい。担当教科は地理で、2年前に新卒でこの学校に採用された。文芸部の顧問もしている。
知っていることはそれくらいで、それ以上の情報は働く上で必要ではなかった。
恋人としてのフユトの振る舞いは、完璧だった。
デートで誘われるお店はどこも有名なところで、運ばれてくる食事はどれもこれも美味しい。休みの日は、彼の運転する車で、流行りのフォトスポットや、できたばかりのショッピングセンターに連れていってくれた。あまり話すのが得意ではないトオコの代わりに、面白い話をたくさん聞かせてくれた。仕事終わりに、トオコが好きだと言っていたお菓子を、お疲れ様、とこっそり渡してくれたこともある。
彼は優しかった。いつもトオコを大事にしてくれた。
そんな扱いを受けて、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
正直、トオコは浮かれていた。
彼が差し出してくれるものを無邪気に喜び、彼が選んでくれた店で目を輝かせて買い物をし、彼の話に笑顔で頷く。
そんな日々が続いていたある日、トオコはふと、彼が時折、何か考え込んでいることに気付いた。
彼は、トオコの前ではいつも穏やかに笑っている。それは今でもそうなのだが、たとえばレストランで、トオコが席を立って彼がひとりになった時など、ふとした瞬間に、その表情が陰るのだ。
仕事で何かあったという話は聞いていない。学校という同じ職場で働いていることもあり、何かあればトオコの耳にも情報は入ってくる。念のため同僚にも確認してみたが、特にそういう話は聞いていないと言われた。
ならば原因はなんだろう、とトオコは首を捻る。
仕事で原因でないとなると、思いつくのは私生活。となると、最近新しくできた恋人、つまりトオコが原因の可能性が高い。
最近の自分の姿を振り返る。初めてできた恋人という存在に浮かれ、トオコは彼がしてくれることに全力で甘えていた。デートの誘いもその内容も全て彼任せ。してもらうばかりで、トオコから何もしたことはない。
そこまで考えて、トオコは真っ青になった。
しまった、彼の優しさに甘え過ぎてしまっていた。
こんな態度では、彼が疲れてしまうのは当たり前だ。トオコは恋人として彼を癒すどころか、ただの負担になっている。
なんとかしなければ、とトオコは焦った。
せっかく好きと言ってもらえたのに。やっと人の役に立てると思ったのに。
このままだとトオコは役立たずのままだ。
だが、まだ2年ほどしかこの世界で生きていないトオコにとって、こういう時に何をしたら正解なのかがわからない。でも、せっかく自分を好きになってくれた人が苦しんでいるのに何もしないでいられるわけがない。
なんでもいいからできることをしようと、トオコはとりあえず、今まで彼がやってくれたことをそのまま返そうとした。
まずは彼をデートに誘おうと思った。いつも彼が決めてくれたように、行き先も内容も全部トオコが考えて、彼を楽しませるのだ。
どうせなら、彼が好きそうなところに出かけたい。
そう考えたところで、トオコははたと気付いた。
そもそも彼が何が好きなのか、トオコは知らない。
だからトオコは聞いた。
「フユトさんは何が好きなの?」
「なんでも好きだよ。ただ、泳ぐのはちょっと苦手かな」
トオコの突然問いに、彼は少し驚きながらも、いつものように優しく答えてくれた。
だが、それだけでは行き先を絞れない。もっと情報が欲しい。
トオコは、何かやりたいことはないか、と食い下がった。
すると彼はしばらく考えた後、家で2人でご飯が食べたいと言った。
たしかに、2人で食事をするときはいつも外食で、どちらかの家で何かを食べたことはなかった。
それがやりたいのなら、と、トオコは彼の家で食事を作ることに決めた。
彼は子どものようの喜んでくれた。トオコも嬉しかった。
だが、実はトオコは今まで料理をしたことがなかった。
知識として調理方法は知っているが、実際に作ったことはない。そもそもトオコ達は食べなくても生きていけるのだ。だったら、食べない方が手間は減る。
万が一、失敗したらどうしよう。
食材を買い、彼の家に向かう途中で、そんな不安がトオコの胸をよぎる。
だが、これは彼が望んだことだ。今更やめるなど、トオコ達の立場から許されるはずもなく、失敗など言語道断。初めてだろうがなんだろうが、トオコ達はできて当たり前なのだ。
それができないとなると、トオコは本当に出来損ないになるだろう。
もし、もし料理がうまく作れなかったら、さすがの彼も呆れるだろうか。料理すらできないのかと、トオコに失望するだろうか。
冷たい彼の視線を想像し、トオコの背筋が寒くなる。
そして彼の部屋の小さなキッチンで包丁を手に持った瞬間、トオコの緊張が頂点に達した。
大丈夫、大丈夫、とトオコは小刻みに震える手を見下ろしながら、自分に言い聞かせる。
野菜の洗い方も、味付けも、火加減も、全てトオコは知っている。この体だって、機能的にはなんの問題もない。普通なら、失敗などしないはずだ。
なのに、どうしても不安が拭えない。やっぱり、一度練習してくるべきだった。もっと事前に準備できることがあった。なのに、どうして自分は、今にならないとそれがわからなかったのだろう。
今更後悔してももう遅い。
こみあげてきた不安を振り払う為、ぎゅっと包丁を握る手に力を込める。
大丈夫。やれる。できるはず。いや、やるのだ。きちんとやらなくては。
性能に問題はない。だから、本来は練習も必要ないのだ。何もしなくとも、彼を喜ばせる料理を作ることができる。
だってトオコ達は、傷付いた魂達を癒すために存在している。
もしそれができないのなら、トオコがここにいる意味など。
「あ」
野菜に振り下ろしたはずの鈍色の刃が、トオコの指に食い込む。
トオコが声を上げると、隣にいた彼が包丁を素早く取り上げて、シンクに投げ入れた。
そして、じわりと血が滲んできたトオコの指を、ぎゅっと親指で圧迫した。
「大丈夫?」
焦ったような彼の声を聞きながら、トオコは呆然と傷付いた自分の指を見下ろした。
嘘。嘘だ。野菜と一緒に自分の指を切るなんて。本当に、失敗するなんて。
もし他の同僚だったら、こんな失敗は絶対にしなかった。むしろ彼を感嘆させるくらいの料理を手際良く振る舞って、彼を喜ばせていただろう。
でも、トオコはできなかった。料理ひとつ彼に作ることもできず、彼に余計な面倒をかけている。
「ごめんなさい」
震える声で、トオコは言った。
そう言うことしかできなかった。
「大丈夫。絆創膏とってくるから、自分で押さえられる?」
優しいその声に、トオコはこくりと頷いた。
彼がキッチンから出て行ったのを確認して、トオコは指の怪我を少しだけ治す。
せめてこれくらいしておかなくては。彼は優しいから、あのままだと傷が深いからと病院に連れていこうとするかもしれない。そんな手間をかけさせるわけにはいかない。見えるところの傷だけ残して、それ以外を完全に修復する。
トオコ達の体も人間のようにできているが、それは模しているだけで、中身は全くの別物だ。
皮膚を切られて血が噴き出ても、心臓の部分を抉られようとも、トオコ達は死なない。痛覚も自分で操ることもできるから、痛みで苦しむこともない。
トオコ達が死ぬのは寿命か、要らないと上司に判断され、処分される時だ。
「待たせてごめん。今貼るから」
彼が慌てた様子でキッチンに戻ってきた。トオコの前に膝をつき、絆創膏の包装紙を剥がそうとする。
だが、彼も焦っているのか、その手元がおぼつかない。粘着面を覆っていた紙を剥がすが、トオコの指に貼る前に絆創膏同士がくっついてしまった。
彼は慌てながらそれを外そうとするがうまくいかず、ごめん、と言い残し、再び絆創膏を取りにキッチンから出て行ってしまった。
「だ、大丈夫。血も止まったみたいだし、傷もそんな深く無さそうだから」
トオコはそう伝えるが、彼は再び絆創膏を手にトオコの前に戻ってきた。
彼の指は、よく見ると震えていた。もしかしてトオコの怪我で、無駄に動揺させてしまったのかもしれない。
彼は慎重に粘着面にある紙を剥がし、トオコの指に絆創膏を貼ってくれた。
少し斜めに貼られたそれをみて、トオコはもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
すると、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「いや、全然大丈夫。こっちこそ、もたついちゃってごめん」
「私の方こそ、変な怪我しちゃってごめんなさい……。本当はちゃんとできるんだけど……、ちょっと緊張しちゃって……」
トオコはもごもごと言い訳をする。
情けない。本当に情けない。料理ひとつ満足に作れないなんて。
自分達は完璧に作られているはず。能力もみんな一緒なはずなのに、どうして自分だけ上手くできないのだろう。何が間違っているのだろう。何が足りないのだろう。
呆れる上司や同僚の顔が頭をよぎる。
せっかく、せっかく役に立てると思ったのに。自分を好きだと言ってくれる人に出会えたのに。どうして自分は彼のために何もできないのだろう。
「緊張……?」
すると、彼はぽかんとしたまま、その言葉を繰り返した。
「緊張、してたの?」
どこか信じられないと言いたげな言葉だった。
それはそうだ。緊張なんて、彼に悟らせるわけにはいかない。同僚達はいつも落ち着いており、料理くらいで慌てふためいたりなんてしない。
トオコもそうなりたかった。穏やかな笑みを浮かべたまま、すごい料理を作って彼を驚かせたかなった。トオコにはそれができるはずだった。だって、トオコは同僚達と一緒なのだから。同僚ができることはトオコもできるはず。そのはずなのに。緊張など、しないはずなのに。
「緊張するよ。すごくしたよ。だって」
だって。
「だって、初めて好きって言ってもらえたの」
トオコはいつも役立たずだった。誰のためにもなれなかった。こんな自分の価値なんてあるのかを思っていた。
だけど、彼が好きと言ってくれた。彼だけがトオコを認めてくれたのだ。
だから、その人のために精一杯やりたいと思った。失敗なんてしたら嫌われてしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、心臓は大きな音を立てるし、手は勝手に震えた。
「その人のために、初めてご飯を作るの。……緊張するよ」
同僚達はきっと緊張なんかしない。そんなことでいちいち動揺したりしない。
でも、トオコは駄目だった。失敗したらと思うと落ち込んでしまうし、自分が作ったものを彼が褒めてくれるかもしれないと想像するだけで、顔は熱くなった。
つまり、浮ついていて料理自体に集中できていなかったのだろう。だから、変な緊張をして指を切ったのだ。
情けない。こんな姿、上司や同僚が見たら、呆れて言葉も出ないだろう。
やはり自分は、出来損ないなのかもしれない。
「……ずっと高橋先生は、僕が告白したから付き合ってくれてるのだと思ってた」
唐突に彼がぼそりと呟いた。
トオコは意味がわからず、え、と聞き返す。
「その、つまり、先生は僕のことは好きなんじゃなくて、僕が告白したから付き合ってくれてるとばかり……。えぇと、その」
よく見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。気まずそうに視線をトオコから外し、さっきトオコに優しく絆創膏を貼ってくれた手は、彼の膝の上で、所在無げに握ったり開いたりを繰り返している。
彼がなぜ突然照れ出したのか、トオコにはよくわからなかった。
トオコが彼と付き合ったのは、彼から告白されたからだ。それは間違っていない。なぜなら、それが彼の望みならば、トオコは叶えなくてはいけない。
人間からの告白をトオコ達は断ってはいけない。この世界にはそんな決まりがある。
もちろん、すでに特定の相手がいる場合はその限りではないが、恋人がいないのであれば、その告白は必ず受けなくてはいけない。傷付いている魂に、さらに失恋という傷を付けないためだ。
だからこそ、トオコは彼の告白を受け入れた。
「でも、そうじゃないって思っていいのかな。高橋先生も、僕のことを好きだって思っても」
いいのかな、と、期待と不安に混ざった声が出て彼の口からこぼれ落ちる。
いいも何も、彼がそうあることを望むのなら、トオコはそうあらねばならない。それがトオコ達の役目だ。
だからここでトオコは、そうだと彼の意見を肯定しなくてはいけない。彼を喜ばせるために。
そうだよ、私もあなたが大好きなのだと、目を潤ませて答えるのが正解だ。
でも。
「わかんない」
トオコの口から出たのは、この場にあるまじき言葉だった。
「わかんない。わかんないの。あなたに好きって言ってもらえて、すごく嬉しかった。だからあなたに応えたいと思った。でも、思えば思うほど色々うまくいかなくて、今日だって料理ひとつできなかったし、あなたをお腹空かせたままで、こんなよくわからない問答に付き合わせてる」
ひくり、とトオコの喉が鳴った。
「いつもあなたにやってもらってばっかりで、私何もしてなくて、何もできなくて、こんなんだったら、あなたが私と付き合っている意味なんてあるのかなって。もっと気の利いた人が恋人の方がいいのかなって。こんな私が」
あなたを好きだなんて、そんな図々しいこと言っていいのかな。
ぽろりと、言葉と一緒に涙がこぼれ落ちた。
透明な雫がフローリングの床に落ちた一瞬の後、彼の手がトオコに伸び、その体を包み込む。
彼の胸の温度がトオコの頬に触れる。
彼と触れ合うのは、これが初めてだった。2人で出かけても、彼はトオコに指ひとつ触れることはなかった。呼び方だってずっと『高橋先生』だった。彼がそう呼びたいのなら、とトオコは訂正しなかった。
名目上は恋人ではあったけれど、2人で一緒に出かけて食事をしているだけで、それ以上恋人らしいことは、何もしていなかった。
でも、彼はトオコのことを初めて好きだと言ってくれた人だ。だからトオコは彼のためならなんでもしようと思った。だけど、何もできないまま、日に日に彼が疲れていく。
なんでもいい。彼に元気になって欲しかった。自分を好きだと言ってくれた優しいこの人を、なんとか救いたいと思った。自分が駄目だったら、他の誰でもいい。元気でいてほしい。笑っていてほしい。
だって、彼はトオコにとって特別な人だから。
彼の腕の中で鼻を啜りながら、トオコは言う。
「好きとかよくわからない。でも、あなたには傷つかないでほしい。私のことで余計な面倒をかけたくない。辛い目に遭わないでほしい。悲しい気持ちにならないで。苦しまないで。いつも笑っていて」
トオコを置いて、天に還るその時まで。
それがトオコの正直な気持ちだった。
何にもできない自分だからこそ、トオコは彼に嘘だけは吐きたくなかった。
自分が人ではないことは告げられないから、せめて、それ以外は正直でいたかった。
彼はしばらく何も言わずにトオコを抱きしめ続けた。
きつくきつく、トオコの腕に跡が残るほどの力を込め、やがてトオコの涙が落ち着いた頃、「高橋先生って、意外と子どもなんだね」と、彼は赤くなった目を細めて、ふにゃりと笑った。



それから彼は少し肩の力が抜けたようで、トオコへの接し方もだいぶ砕けたものに変わった。
呼び方も『トオコさん』に変わり、トオコも彼のことを『フユトさん』と名前で呼ぶようになった。
トオコの方は、相変わらず緊張して空回ったりすることもあった。だが、その度に彼が大丈夫と笑ってくれ、そんなことを重ねていくうちに、トオコも徐々に必要以上に緊張することが減っていった。
2人で出かける場所も変化した。
前は彼が選んでくれた場所に行ってばかりだったが、最近は2人で話し合い、2人の行きたいところに行けるようになった。
最近のお気に入りは動物園だ。トオコが行ったことないと言ったのがきっかけで、彼がよく行く動物園を紹介してくれた。
初めて見る自分よりも大きな動物に、トオコはあっという間に釘付けになった。
もちろんそれらは本物ではない。トオコ達と同じく、それらしく見せている作り物だ。
それでも情報ではない生身の迫力に、トオコはあっという間に夢中になった。
そんなトオコに、彼は動物のことをたくさん教えてくれた。
もちろん、そのほとんどのことをトオコは知っていたけど、彼が楽しそうな顔で教えてくれるので、嬉しくなって、いろんな話をせがんだ。
こんな時間がずっと続いてくれたらいいと思った。
「どうして私を好きになったの?」
ある時、大きな目でこちらを見下ろすキリンの前で、トオコは尋ねた。
彼は驚いたように目を開いた後、視線をキリンに戻し、照れ臭そうに笑った。
「トオコさんさ、去年の学校の忘年会のこと覚えてる?僕がテーブルの端に座ってて、トオコさんがその隣に座ってたの」
言われて、トオコは記憶を引っ張り出す。
今年の締めに美味しいものをみんなで食べようと校長が学校中の職員を集め、広めのお座敷で、みんなで食事を食べたのだ。長いテーブルが部屋の真ん中にどんと置かれ、その上に食べきれないほどのたくさんの料理が並べられていた。そういえばその時、隣の席は彼だったような気がする。
「あの時、すごい豪華なご飯がたくさん並んでたでしょ?その中に舟盛りがあって、すごい立派な魚の頭がのせられてた。その真っ暗な大きな目が僕のこと見てて」
駄目だった、と彼は言った。
「僕、昔から魚が怖いんだ。あの目に見られると背筋がどんどん寒くなって、いくら息を吸っても吸えなくなる。ししゃもくらいのサイズの目だったらまだ大丈夫なんだけど、鯛の大きさくらいになると体が震える。あの時の魚はそれよりももっともっと大きかったから、目があった瞬間に冷や汗がどばっとでて、体が石みたいに固まった。息も出来なくて、正直そのまま倒れてしまいそうだった」
言われてみれば、トオコは彼と動物園や植物園、展覧会に美術館にプラネタリウムと色々なところに出かけたが、水族館だけは行ったことがなかった。
でも、テレビでクラゲが大量発生したニュースやクリオネの特集などは普通に見ていてはずだ。
そう尋ねれば、あれには目がないから、と彼は気まずそうに笑った。
「覚えてる?その時、トオコさんが持ってたおしぼりをバサッと魚の頭にかぶせて、見えなくしてくれたんだよ」
思い出した。
横に座っている人間が、まるで何かに怯えるように小さく震え出したから、なんとかしなくては、トオコは慌てた。でも、その怯える視線の先には魚の頭しかなく、もしかして魚を見たくないほど嫌いなのかと思って、とりあえず手に持っていたおしぼりを魚の顔にかけて隠したのだ。
ただ、魚の頭にかけたおしぼりの一部が、下に並べてあった刺身に触れてしまい、そのことで同僚達からは何を考えているのだと怒られた。その場にいた優しい人間達が、魚の頭ってちょっと怖いから隠したくなるのわかるよ、とトオコを庇ってくれたことで、その場はおさまったが、後でこの料理を作った同僚から激怒された。自分が人間を喜ばせるために用意したものになんてことをしてくれたのだと怒る同僚に、人間が怖がっていたから、と言えばよかったのだろうが、同僚の怒りが凄まじく、トオコは何も言えずにずっと俯いていた。
そんなこともあったせいで、トオコはこの記憶を嫌なものとして、あまり思い出さないようにしていた。
「魚が怖いって変でしょ?だから親以外には隠してた。だけど、怖がってる僕に気付いて、あんな行動をとってくれる人がいるなんて思ってなくて。だから」
「だから?」
「……すごく痺れた」
しびれる?とトオコは聞き返す。
「そう、かっこいいなって。誰かのために、さらっとあんな行動を取れるなんてすごいと思った。それから僕はずっとトオコさんみたいに、優しい人になりたいと思っていた」
キリンはこちらを見るのに飽きたのか、踵を返して檻の奥に戻っていく。その後ろで長い尻尾が揺れる。
それを目で追った後、彼はゆっくりとこちらを見た。
「次は象を見ようか」
その言葉にトオコは頷き、そっと彼の手に指を絡めた。




「トオコさんはどうして僕の告白を受け入れてくれたの?」
ある日、2人で映画を観た後に入ったカフェで、彼が唐突にそんなことを聞いてきた。
さっき観た映画はミステリーもので、最後に犯人が恋人の制止も聞かず、高層ビルの屋上から飛び降りて粉々になって終わった。それを見て、何か思うことでもあったのだろうか。
「だって告白されるまで、トオコさん、僕のことなんてなんとも思ってなかったでしょ?僕は正直、目を引くほどかっこいいわけでもないし。だから、どうしてかなって」
そこまで見抜かれているとなると、トオコは下手なことは言えない。
気まずさを誤魔化すように、前に置かれたアイスティをストローでぐるりとかき混ぜる。
「……一生懸命だったから」
トオコはぼそりと呟いた。
「あんなふうに真っ直ぐに好きって言ってもらえたの、初めてだったから」
嬉しかったの、とトオコは言った。
「……じゃあ、もし。もし僕の前にトオコさんに真っ直ぐ告白した人がいたら、トオコさんはそっちと付き合ってた?」
彼の目が、責めるようにこちらを見ているような気がする。
トオコは膝の上でぎゅうと手を握った。
それは、トオコにとって意地悪な質問だった。
トオコ達は人間からの告白を断ってはいけない。すでに恋人や配偶者がいる場合を除き、全て受け入れなくてはいけない。だから、彼の質問に対する答えはイエスになる。
でも、それを言ったら彼が悲しむこともトオコにはわかる。
トオコは迷った後、わからない、と答えた。
「だって、そんな人いなかった。いないと思ってた。だからこそ、初めてあなたに好きって言われて嬉しかった」
「じゃあ、もし、トオコさんがいろんな人から好きってたくさん言われてたら、僕とは付き合わなかった?」
「わかんないよ。そんなことになったことないし」
「なら」
彼の視線がトオコから離れ、テーブルの上に落とされる。そこにあるのは、彼が注文した温かなコーヒーだ。
「もし今、僕以外の誰かから告白されたら、その人が僕よりもかっこよくて僕よりも賢くて、僕よりも一生懸命トオコさんに告白したら、トオコさんはそっちと付き合う?」
そう聞かれた瞬間、トオコの頭が真っ白になった。
「そんなことしない!」
気付けばトオコは椅子を倒して立ち上がり、彼の向かって叫んでいた。
「相手がいくらかっこよくていくら一生懸命でも嫌だ!あなた以外、絶対嫌だ!」
そう叫ぶと同時に、彼が一番聞きたかったのはこの問いだったのだろうなと思った。
彼はきっと、不安になったのだ。いつかトオコが彼を捨てて、別の人間のところに行くと。
トオコ達の立場として、それは絶対にあり得ないし、トオコとしてもそんなことをするつもりは毛頭ない。たとえ上司から、彼と別れて別の人間と付き合えと言われても、トオコは絶対に断るだろう。
だけど、そのことを彼は知らない。不安に思うのも無理はないだろう。
そうわかっていても、自分の気持ちを疑われるのは辛く、悲しかった。
今現在、トオコには彼以上に大事なものなどいない。全てを捧げるなら彼だとトオコは思っている。その為なら、怖い上司にだって歯向かえるというのに。
突然立ち上がったトオコに、彼は呆気に取られたように目を丸くしていた。
そこでトオコははたと気付く。ここはカフェ。公共の場だ。周りには他の人間達もいたはず。
トオコは慌てて周りに頭を下げ、倒した椅子を戻して、ストンと座った。
座る直前、カフェの店員にギロリと睨まれた。あれは人間ではなくトオコの同僚だ。もしかしたら後で、トオコがカフェで騒いでいたと上司に報告されるかもしれない。
また怒られる。
落ち込みそうになる気持ちをぐっと堪え、彼に向き直る。
とりあえず今は彼のことだ。
トオコは場を仕切り直すように、こほんと小さく咳払いをした。
「その、不安にさせてごめんなさい。とにかく」
そういうわけだから、と、もごもごと言い訳をした時だった。
「……ははっ」
不意に、彼が笑った。
どうしたのだろう。
突然笑い出した彼に、トオコは目を瞬かせた。
彼は苦しそうに体を折り曲げ、両手で顔を覆った。
「はははっ、まさかトオコさんが怒鳴るなんて。全然予想してなかった。ははっ、ははは」
彼の指の隙間からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
手で押さえきれなかった涙が、次から次に溢れ、彼の服を濡らしていく。
トオコは思わず言葉を失った。
大人の人間がこんなに泣くのを、トオコは初めて見た。
「……泣いてごめん。でも、っ、ははっ、そっか、そんな声を荒げるくらい怒ってくれるなんて思ってなくて。どうしよう」
すごく嬉しい。
彼はそう呟き、顔を覆っていた手を下ろした。
涙に濡れた頬。真っ赤に腫れた目元。
だけどその顔は、今まで見た中で一番、晴れやかだった。



「……っ!」
彼が飛び起きた瞬間、ベッドが波のように揺れる。
トオコがそっと目を開ければ、隣の彼は上体を起こしたまま、何度も肩で息をしていた。
「……フユトさん、大丈夫?」
トオコはそっと彼に手を伸ばす。
恐怖でこわばった体が少しでも和らぐように、ゆっくりとその背中を撫でた。
「……ごめん。ちょっと怖い夢を見てさ」
彼は誤魔化すように笑う。その笑顔は、いつもと違って、とてもぎこちない。
同じベッドで眠る関係になってから、彼がこうして夜中に何度も飛び起きることを知った。
いつもの彼だったら、起こしてごめん、と謝って、またすぐにベッドに体を横たわらせるのだが、今日の彼は黙ったまま、しばらくぼうっと真っ暗な部屋の壁を見つめていた。
トオコは思わず声をかける。
「……今日の夢は、そんなに怖かったの?」
「……そうだね、すごく怖かった」
ぽつぽつと、彼は今見た夢のことを語り出した。
「気づいたら、海の中に沈んでたんだ。慌ててもがこうとしても体が全然動いてくれなくて。その間にも体がどんどん沈んでいく。息もできなくて苦しくて、どうしようと思った時、目の前に大きな魚がいるんだ。自分の体よりもずっとずっと大きくて、目が真っ黒で。口が半開きで」
思い出したのか、夜の闇に浮かぶ彼の声がわずかに震えた。
「魚の口なんかずっと小さいはずなのに、自分の顔くらい大きく見えて。何も見ていないような真っ黒な目がすぐ前に迫ってきてて」
怖かった、と彼はぽつりと呟いた。
「……ごめんね、変なことで起こして。明日も仕事なのに」
「大丈夫。起きてもすぐに寝られるから」
冗談めかして言うと、彼はぎこちなく笑ってくれた。
こういう時でも、彼はトオコを気遣ってくれる。彼はとても優しい人だった。
だからトオコは、少しでもその苦しみを軽くしてあげたかった。
「次に、夢に魚が出てきたら教えて」
「どうして?」
「私が焼き魚にして食べてあげるよ。夜ってお腹が空くし」
わざと明るい声色で言う。
「そうしたら、フユトさんはぐっすり眠れるし、私はお腹がいっぱいになって嬉しい」
どうかな、と聞くと、彼は少し黙った後、起こしていた体を再びベッドに沈めた。
そしてトオコの体にぎゅう、と抱きついてくる。
彼の柔らかい髪が、トオコの鼻に当たって、少しくすぐったかった。
「あの夢の中に、君は来てほしくないなぁ」
「……駄目?」
「駄目とかじゃなくて、本当にひどい夢なんだ。冷たくて薄暗くて寒くて。あんなところに君を連れて行きたくない」
トオコを抱きしめる力が、さらに強くなる。
「なんであんな夢ばかり見るんだろう。なんで、あんなにも魚が怖いんだろう」
それは。
トオコは言いかけて、そしてそっと口を閉じる。
あなたは前にひどく怖い思いをして死んで、その傷が魂に刻み込まれているからよ。
声には出せないから、トオコは胸の内で答える。
その傷は癒えていないから、たまに傷口が開いて、夢という形であなたに痛みを与えてくる。あなただけじゃない。この世界にいる人間は、みんなこの悪夢に苦しんでいる。
トオコ達は皆それを知っている。だけど、それを人間に伝えることは許されていない。
教えられない代わりに、トオコは彼の背中に手を回す。
そして彼に負けないくらいの力を込めて抱き返した。少しでも、彼が安心できるように。
「……私、司書だから図書委員の子と関わることが多いんだけど、その中にね、雪が嫌いって子がいたの」
「……そうなんだ」
「先週、図書委員の仕事をしている時に雪が降ってきて、他の子がみんな雪だってはしゃいでる中、その子だけが憂鬱そうな顔をしてたの。どこか雪を怖がっているようにも見えた。だから、もしかしたらその子も、あなたと同じように怖い雪の夢を見ているのかもしれない」
いや、きっと見ているのだろう。雪の日に、自分が死ぬ夢を。
ここにいる人間達が前の生でどのように死んだのか、トオコ達に知る術はない。できるのは、本人から夢の話を聞いて推測することだけ。
本当のことは、魂を連れてきた御使いしか知らない。
「その子も優しい子なの。優しい人だから、そんな夢を見てしまうのかもしれない」
この世界は、魂が傷ついた生き物を無作為に収容しているわけではない。この世界に来られるのは、御使いに選ばれた魂だけ。この街には、御使いが自ら選んだ清らかな魂の持ち主だけが集められている。
雪が嫌いなあの子も、魚に怯える彼も、御使いに選ばれ、その手で掬われてここにいる。
トオコの体に巻きつく彼の腕から、まだ力は抜けない。
抱きしめることで彼の気が済むのなら、好きにすればいい。トオコはそのためにいる。それで少しでも気がまぎれるのなら本望だ。
ふと、雪が嫌いと言ったあの子のことを思い出す。
次に雪が降った日、生徒をしている同僚の誰かに、あの子と一緒に帰るように頼もう。
もしかしたら、誰かと一緒にいる方が、嫌いな雪のことを考えずに済むかもしれない。
そんなことを考えながら、トオコは彼の髪に顔を寄せ、そっと目を閉じた。



「正直に言うと、告白した時、自分が本当の意味でトオコさんが好きだったのかわからなかったんだ」
今日のデート先は、駅前にできた新しい商業施設だ。屋上がテラスになっていて、そこにはさまざまな植物が植えられている。
その隅のベンチに座り、夜景を眺めながら、そんなことを彼は言い出した。
「あの忘年会の日から、ずっとトオコさんのことかっこいいって思ってた。トオコさんみたいになれたらって。少しでもトオコさんに近付きたかった。呆れられるかと思ったけど、友達もみんな、すごく応援してくれた。だから告白した。かっこいいトオコさんと付き合えたら、無条件で僕もかっこいい何かになれると思ってた」
そんなわけなにのにね、と彼が眉を下げて笑う。
その顔は、過去の自分に呆れているようにも見えた。。
「案の定、付き合ってからすぐに、どうしたらいいのかわからなくなった。なんとかトオコさんにふさわしい人にならなきゃと思って、色々情報集めたり、友達に聞いたりしながら頑張ったけど、頑張れば頑張るほど空回っているような気がした。でも頑張らなきゃ、頑張ってトオコさんにふさわしいかっこいい男でいなきゃ、きっとすぐに振られてしまうと思った。だから、なんとかしなきゃとずっと焦ってた。その時に、トオコさんと家で初めてご飯食べることになって」
トオコが包丁で指を切る大失態を演じたあの時のことだ。
恥ずかしかった出来事を掘り起こされ、トオコはたまらず俯いた。でも、彼は気にせずに話を続ける。
「トオコさんが緊張してたなんて全然知らなかったし、気付けなかった。そこで初めて、僕はトオコさんのこと何も見てなかったんだなって思った。僕は、僕が考える素晴らしいデートをトオコさんに披露することばかり考えていて、トオコさんが何を思ってるかなんて考える余裕はなかった。トオコさんはかっこいいけど、トオコさんも僕と同じ人間なんだって、あの時初めて思った」
トオコは俯いたまま、そうだね、と小さく返す。
彼に嘘をつく苦しさを、トオコは必死に飲み込んだ。
「あの時トオコさんが正直に僕にぶつかってくれなかったら、僕はきっと勝手に落ち込んで、勝手に傷ついて、もしかしたら別れていたかもしれない。でもあの時、こんなまっすぐなトオコさんにふさわしくなりたいと思った。こんなトオコさんを大事にしたいと思った。ねぇ、トオコさん。僕のことをどう思ってるか、あの時から変わってない?」
あの時、トオコはわからないと答えた。好きかどうかわからない。ただ、彼が大事で辛い思いはしてほしくないと。
そうだね、とトオコは小さく返す。
「……正直、わからないままかもしれない。でも、あなたといるのは楽しい。話を聞くのも楽しい。ずっと一緒にいたいし、あなたの隣にいるのは私だけがいい。あなたには私をずっと好きでいてほしいし、私以外の人のことを好きにならないでほしい。だけど、それと同じくらい幸せになってほしい。私も頑張るけど、もし私の頑張りがあなたを不幸にするのなら、私を捨ててでも幸せになってほしい」
「そこは一緒に不幸になってほしい、じゃないんだ?」
意地悪そうに口の端を上げる彼に、絶対嫌、とトオコは首を横に振る。
「それだけは駄目。あなたには幸せになってほしい。幸せでいてほしいの。あなたの幸せに私がいらないと言うのなら、私は頑張って我慢する。頑張る。頑張るから」
膝の上で、ぎゅうと痛いくらい手を握りしめて答えると、彼は困ったように眉を下げた。
そしてキツく握っていたトオコの手を、そっと両手で包んでくれた。
「ずっと悩んでることがあって」
彼がぼそりと呟いた。
「だけど、それを言うと、一生トオコさんを縛ってしまう気がする。トオコさんがちゃんと僕のこと好きだって胸を張って言えるようになるまで待とうと思ってた。だって、このままだとまるで、僕がトオコさんを騙してる気分になる」
トオコは首を傾げる。自分は彼に騙されているのだろうか。わからない。でも、彼に騙されるのならトオコは構わない。彼が騙したいのなら騙せばいい。この体も心も全て彼の為のものだ。好きに使えばいいと思う。
「僕は、トオコさんにちゃんと考えてほしい。僕のことをどう思っているか。それで、トオコさんがちゃんと胸を張って僕のこと好きって言えるようになったら」
「なったら?」
結婚してほしい、と彼は言った。



「ねえ、ご両親ってどんな人?」
トオコの何度目かの質問に、彼は呆れるように笑った。
「大丈夫、2人とも普通の人だよ。緊張なんてしなくていいよ」
「無理だって。急に一緒に食事とか緊張するよ」
「急じゃないよ。半月前から行ってたじゃない」
彼の言う通り、彼の両親との食事会は随分前から決まっていた。
結婚前の挨拶、というわけではないが、彼が両親に恋人がいると言うことを言ってしまったらしく、なら一度会いたいと彼の両親の方からお誘いがあったのだ。
「ねえ、どんな人?優しい?」
「父さんは静かな人だよ。母さんは元気でよく喋るよ。2人とも優しいと思うよ」
「本当?私にも優しくしてくれるかなぁ」
「食事の席でよっぽど変なことしない限り大丈夫だと思うよ」
「よっぽど?例えば?何したらいけないと思う?」
泣きそうな顔でトオコが尋ねているのに、彼はくすくすと笑うばかりだ。
「大丈夫だって。多分、トオコさんと同じくらい向こうも緊張してるよ。母さんも、何着ていったらいいかしらって、昨日電話で聞かれたよ」
「そうだ、私も服考えないと!とりあえず学校で着ているスーツでいいかな。可愛げがないって言われないかな」
「大丈夫、大丈夫。向こうは写真でトオコさんの顔知ってるし」
「えっ、なんで知ってるの?」
「僕が見せたから」
「ちょっと待って、どの写真見せたの?なんの写真見せたの?」
彼が差し出してきたスマホの画面には、遊園地に行ってジェットコースターに乗り、頭から爪先まで水で濡れてぐちゃぐちゃになって笑ってる写真だった。
「なんで、よりにもよってこれを見せたの!これ、化粧も髪もぐちゃぐちゃだし!」
「だってこのトオコさん、子供みたいに笑ってて可愛かったから」
たしかに初めて乗ったジェットコースターが予想外に楽しくて、トオコは彼以上にはしゃいでしまった。画面で笑っている自分は、自分とは思えないほど幼い笑顔を浮かべている。
「僕もさ、小さい頃に家族で遊園地によく行ったんだ。母さんが張り切ってチケット取って、着いたらまずこれに乗るんだって父さんに嬉しそうに言っていて。父さんもいつもは落ち着いていて、遊園地なんか興味ありませんって顔してるのに、中入ったら誰よりもソワソワして。歩いてる着ぐるみを見つけては僕に、一緒に写真撮ってやろうかって言うんだ。母さんも、いつもは自販機の飲み物買うのもちょっと渋るのに、遊園地で売られている飲み物や食べ物は、しょうがないなぁって笑いながら買ってくれた。帰り道は僕が疲れ果てて、車の後ろの席でたいてい寝ちゃうんだけど、その時、助手席と運転席で話す2人の声が子守唄みたいで気持ちよかった。大きくなったら、僕もこんなふうに家族で遊園地に来たいなって思ったんだ」
そう言う彼の目には愛おしさは溢れていて。
それは、きっと彼の大切な思い出なんだろうとトオコは思った。
「……食事会よりも、みんなで遊園地行った方がいいんじゃない?」
「ははっ、それもいいね。トオコさんがうちの両親に緊張しなくなったら、久しぶりにみんなで遊園地行くのも楽しいかもね」
その光景を想像したのか、彼の声は弾んでいた。
トオコも想像する。彼とまだ見ぬ彼の両親と遊園地に行くところを。
トオコはジェットコースターが好きだった。彼の両親はジェットコースターは好きだろうか。ジェットコースターに乗っている間は化粧が、とか髪型が、とか気にしなくていい。常に激しく動いているから会話する暇もなくて、何か話さなきゃ、と焦る暇もない。ただ、声を上げてみんなで笑っていられる。
そして帰りはどうなるのだろう。彼が運転して、トオコが助手席で。後ろの席で疲れ果てた両親が眠っていたら。それを見て、子どもの頃の自分みたいだと彼が笑うのだ。
そんな光景を想像して、トオコも笑った。



「こ、こんにちは」
目の前に座った2人の人間に、トオコは体を縮こまらせて挨拶をした。
いつか彼と一緒に来た駅前の商業施設。その10階にあるレストランで、トオコはついに彼の両親と対面を果たした。
品の良さそうなご両親だ。歳は50過ぎくらいだろう。父親の方は白いシャツに手触りの良さそうなカーディガンを羽織っており、母親の方は淡いベージュのジャケットにマーメイドラインのロングスカートをあわせている。
トオコがぎこちなく挨拶すると、母親はあらあらと明るい声を上げた。
「そんな緊張しなくても大丈夫よぉ!フユトにすごい可愛い彼女ができたって言うから一目見てみたいって私がわがまま言っちゃったの。本当に綺麗ね、お人形さんみたい!」
「ちょっと母さん!声が大きい!」
彼が慌てて母親を嗜める。ここは高級レストランというわけではいけれども、それなりにしっとりとした雰囲気のお店だった。そこに彼の母親の声は想像以上によく通ってしまった。
そのおかげで周囲の客が、もしかして顔合わせかしら、とひそひそと話している。
「ご、ごめんなさい、私、結構声が大きくて……」
彼の母親が落ち込んだように、しゅんと肩を落とす。
その様はまるで幼い子どものようで、トオコの緊張がほんの少し和らいだ。
「母さんは興奮するとどんどん声が大きくなっちゃうから。家ならいいけど、外では気をつけてよ。トオコさんもごめんね」
彼に言われて、トオコは慌てて首を横に振る。
むしろ明るく話しかけてもらえて嬉しかったとはにかみながら伝えれば、母親の目が感心するようにトオコを見た。
「フユトから聞いてた通り、本当に良い子だねぇ。ねぇ、本当にうちの息子みたいなのでいいの?」
「ちょっと、母さん!何言ってるの!」
「たしかに、母さん、写真見た後、『あんな綺麗な彼女がフユトにできるわけない』って言ってたからなぁ」
父親が朗らかに笑いながらそう言えば、彼は、そんなこと言ってたの、と母親に詰め寄った。
「言うわよ。だって初めて写真見た時、モデルさんかと思ったわよ。でも同じ学校の先生なんでしょう?モデルやろうとか思わなかったの?」
「いえ、私は」
トオコはもごもごと口籠る。
トオコは学校の司書をやりたくて司書をやっているわけではない。トオコが目覚めて、お前は学校で司書をやるようにと上司から指示されたからやっているだけだ。それ以外のものをやりたいなどと考えたことは一度もない。
「……ずっと司書になりたいと思ってたので」
なんとか笑顔で返せば、そうなの、と母親は不思議そうに呟いた。
そもそもトオコは、トオコの前に学校で司書をやっていた人間が突然傷が癒えたことで天に還り、消えてしまったから、その穴埋めとして用意されたのだ。
本来ならトオコ達は、人間と同じようにはじめは幼い子どもの姿をしており、人間と関わりながら人間と同じスピードで自らの体を変化させ、共に成長していく。だが、トオコのように突然消えた人間の穴埋めが必要になり、大人の姿から始めなくてはいけない場合もある。
だからトオコは、同僚達に比べて実地での経験が圧倒的に少ない。だけど、同じように動かねば怒られる。それでうまくやっているものもたくさんいるが、トオコは駄目だった。
どうせなら始めからやりたかった、と何度も落ち込んだこともある。子供のころから始められたら、きっと自分だって。
「トオコさんは何が好き?」
母親の声に、沈んでいたトオコの意識が現実に戻ってくる。
トオコは慌てて笑顔を作る。
「す、好きなものですか?」
「そう、何かある?」
母親がきらきらした目で尋ねてくる。
その隣では父親が、聞く範囲が広すぎる、と呆れたように笑っている。
「……そうですね、ジェットコースターとか、好きです。あと、動物とか」
「動物?」
「動物園とか、見てるの楽しいです」
彼とよく行った動物園。彼の解説を聞きながら、見て回るのが楽しかった。
思い出すだけで口角が上がっていく。
なるほどねー、と母親が言った。
「たしかに動物園は楽しいわよね。私も若い頃お父さんとよく行ったわよ」
「そうなの?」
彼が素早く反応すると、父親は誤魔化すように小さく咳払いをした。
「……今と違って、昔はあまり恋人同士で出かける場所がなかったんだ。だけど、毎回公園に行くのも芸がないし」
「あら、私は公園でも全然楽しかったんだけど」
「公園だと、母さんが遊具に夢中になってしまうからゆっくり話せないんだ。ブランコなんか乗ったらすごい高さまで漕いでしまうから、見ててハラハラするし」
「待って、それって子供の時の話?父さんと母さんって幼馴染だっけ?」
「違うわよ。これは20歳くらいの話よ」
懐かしいわぁ、という母親に、彼は呆気に取られているようだった。
どうやら彼の母親は、想像以上に無邪気な方らしい。
「それに遊具って年々進化しているから、私の頃よりもどんどん楽しいものになっていくの。滑り台なんかも滑り降りるところが3つに増えていたり!だから公園でも十分って言っているのに、父さんが意地張っちゃって、もっと楽しいところはたくさんあるんだって動物園とか遊園地に連れ出してくれて」
そうなんですか、とトオコは相槌を打つ。
「私も父さんも偶然、魚とか泳ぐのが苦手だったから、水族館やプールにはいけなかったけど、それでも全然楽しかったわ。やっぱり価値観が合うって大事よね」
そこで、そういえば、と母親がトオコを見た。
「この子も私達に似て、そういう魚とか水辺が苦手なんだけど、トオコさん大丈夫?プールに行きたい、とかない?」
「あ、いえ、私も泳げないので……」
知識として泳ぎ方は体にインプットされているはずだから、水の中に入ればおそらく自動的に泳げるだろう。だが、実際トオコは泳いだことはないし、泳げないことにしておいた方がいいような気がした。
「あ、でも、お刺身は好きです。だから水族館じゃなくて、お寿司屋さんに行けたらそれで満足です」
そう言うと、彼の母親は目をパチパチと瞬かせた後、私もよ、と、くすりと笑ってくれた。

彼の両親との食事会は想像以上に和やかに終わった。
そのことに安堵したものの、店から出た後、彼がトイレに行きたいと言ったので、トオコは彼の母親と父親とその場に取り残された。
自分もトイレに行ったらよかったのかもしれないが、彼の母親に行かなくて大丈夫かと聞かれた時に、反射的に大丈夫、と言ってしまったのだ。
そもそもトオコ達はトイレに行く必要などない。だけど、今は嘘でも行っておけばよかったと、トオコは心の中で密かに後悔をした。
何か話を振った方がいいのだろうか。料理美味しかったですね、とか。でも、もし彼の両親が、さっきのレストラン、たいしたことなかったと思っていたら。トオコとは食の趣味が合わないと思ってしまうかもしれない。
どうしようと必死に話しかける言葉を探していると、その前に彼の母親が口を開いた。
「今日は会ってくれてありがとう。お話しできて嬉しかったわ。緊張したでしょう?」
「……正直」
俯いてぽそりと答えると、母親はくすくすと笑った。
「私もすごく緊張したわ。だって息子の恋人と会うのなんて初めてなんだもの」
「そうなんですか?」
「そうよー。好きな子いる?って聞いても全然答えてくれなかったし。家を出て、学校で働くようになっても、浮いた話はひとつもなくて。だから、ちょっと心配だったの」
心配?と、トオコは問い返す。
「ほら、親はどうあがいても子どもより先に死ぬでしょ?私も70まで20年を切っちゃったし。そうなった時に、あの子をひとりで置いていくのが、少し不安だったの。あの子、ああ見えてすごく寂しがりだから、誰かあの子の隣にいてくれたらなって」
この世界の人間は、70歳で眠りにつくことになっている。
これはこの世界の創造主である御使いが作った決まりだ。傷を抱えた魂でも、だいたい70年の時を穏やかに過ごせば、次の世に送り出せるくらいには回復する。
だから、この世界の人間の寿命は70年と決められているし、人間達もそうだと教えられている。
逆に言えば、この世界の人間は70年間の生も保障されている。
突然の病気も不慮の事故も、この世界には存在しない。もちろん偶然の事故は存在するが、たとえ人間が怪我をしても、医者の役目を持った同僚が何もかもをあっという間に治してしまう。
だから彼の母親が言うように、子どもが親より先にいなくなることはない。ただ、例外はある。
ちなみに、彼らを世話する側のトオコ達の寿命は違う。だいたい500年ほどだ。
だけど、実際のところ、そこまで長生きする個体は極めて少ない。平均は人間と同じ70年くらいだろう。
人間を癒すために作られているトオコ達は、人間を深く愛する性質がある。そのため、愛する人間が寿命を迎えるなどして天に還った時、一緒に自分を処分してほしいと上司に訴えるものが多いのだ。
一応、500年生きられたら御使い様が何でも願いを叶えてくれる、という特典はあるらしいが、そこまでして生にしがみつく個体は少ない。トオコが知っている中でも、外見と名前を変えて500年以上生き続けているのは、トオコの上司くらいだ。
「だから、トオコさんを見て、今日はホッとしたの」
ありがとう、とふわりと笑う母親に、トオコは何と言っていいかわからなくなる。
だけど、その暖かな表情を見ているうちに、トオコの内から溢れてくるものがあった。
意を決して、トオコは口を開く。
「あの、私、こんな見た目ですけど、本当は全然何もできなくて」
自分は一体何を言おうとしているのだろう。きちんと彼の母親の質問に正しく答えられるだろうか。わからない。わからないけれども、どうしても今、伝えておきたいと思った。
「フユトさんは、すごく優しくて。要領を得ない私の話も優しく聞いてくれて。付き合いだした頃、私もっとポンコツで、彼のこと傷付けてしまったこともあったんですけど、そんな私のことも彼は見捨てないでいてくれて」
だから、とトオコは続ける。
「彼は、すごく優しくて、良い人で。私を大事にしてくれます。いろんなところに私を連れてってくれて、いろんなことを私に教えてくれました。彼はすごい人です。学校でも、生徒は彼のことをとても慕っています。冬岡先生の授業が楽しいとよく噂されてるのも聞いています。彼は、私以外にもたくさんたくさん愛されています。彼のことを嫌いという人を、私は聞いたことがありません」
彼の母親はきょとんとしたままトオコの話を聞いている。その後ろで、父親も突然語り出したトオコに呆気に取られているようだ。
だけど、ここまで吐き出したらもう止められない。
トオコは小さく息を吸った。
「私は彼と出会えて世界が変わりました。学校でも、そんな生徒はたくさんいると思います。彼はすごいです。すごく素敵な方です。ありがとうと言いたいのは私の方です。そんな彼を産み、育ててくださって、ありがとうございました。お2人がいなかったら、私は彼と会うことはできませんでした。だから」
本当にありがとうございます、とトオコは頭を下げる。
彼のそばにいられて、トオコはすごく幸せだった。その幸せのお礼を、どうしても伝えたかった。
トオコがありがとうと言われる立場ではない。トオコこそ、彼をこの世界で育てた2人にお礼を言いたかった。
ただの自己満足だ。だけど、どうしても伝えたかった。
向こうからの反応はない。
もしかして変なことを言ってしまったかと、トオコは焦って顔を上げた。
だけど、そこにいたのは。
「……本当?」
涙をぽろぽろとこぼしている母親の姿だった。
その体の輪郭は淡く光り、まるで糸が解けるように周りの空気に溶け出している。
ひゅ、とトオコの喉が鳴る。
この現象をトオコは知っている。嫌というほど。
これは魂の傷が急速に回復したことで起こる現象だ。
ここにいる魂は、傷付いているからこそこの世界に留めておくことができる。でも、傷が治ってしまえば、ここにきて留まらせておく理由はない。むしろ健全な魂を捕獲しているとみなされ、御使いは処罰の対象になるだろう。
だから傷が治った魂は速やかに天に還し、次の世に送らなくてはならない。いただいた命を無駄にしない為に。この街にはそのためのシステムが組まれている。
それが今、トオコの目の前で行われようとしているのだ。
彼の母親の傷が、トオコの言葉により、たった今、癒されてしまった。
トオコに、これを止める術はない。
「ま、まってくださ」
トオコは思わず一歩踏み出した。
だけどその体は、まるでトオコから逃げるようにふわりと浮き上がる。
「私、あの子を産んでよかったのね。あの子を産んだのは、間違いじゃなかったのね」
母親は呆然としたまま言葉を繰り返す。
その体のほとんどは溶け、みるみるうちに天に伸びる光の柱に飲み込まれていく。
「まって」
「よかった。私の子は愛されたの。いらない子じゃないの。愛されるべき子なの」
本当によかった、と涙がひと滴、母親の目から落とされる。
「トオコさん、ありがとう。私の子を愛してくれて。どうか、最後まで愛してあげて」
「私からもお願いする」
気付けば、光の柱は2つになっていた。
彼の父親の姿も、今は淡く光りきえかけている。
「な、なんで……」
「ずっと、ずっと後悔していた。何もできなかった。泣くあの子も、泣き叫ぶ母さんも、自分の親の愚行も、私は何もできなかった。私が知ったのは、全部終わった後だった」
だから、と消えかけの顔で父親が柔らかく笑う。
「やっと母さんが幸せになってくれた。それだけが心残りだった。君のおかげだ。本当にありがとう」
「トオコさん、ありがとう」
彼の両親が揃ってトオコに頭を下げる。
だけど、トオコは首をゆるゆると横に振ることしかできない。
違う、待って、だって、このままだと、彼らは消えてしまう。この世界から、彼の記憶からも。
そうしたら彼は。彼の大好きな両親は。
光は急速に膨れ上がり、そして火が消えるようにふっと消えた。
気付くとトオコの周りには他の客がいっぱい集まっていて、突然出てきた光の柱に皆拍手をしたり、すごかったね、口々に感想を言い合ったりしていた。
その向こうから、彼が小走りでやってきた。
「待たせてごめんね。トイレが混んでてさー」
「ねえ」
何事もなかったかのように戻ってきた彼に、トオコは恐る恐る声をかける。
「フユトさんのご両親って……」
「あれ、言ってなかったっけ?」
彼はきょとりと目を瞬かせた後、笑顔で答えてくれた。
「僕の両親、小さい頃に亡くなったみたいで、親戚の家で育ったんだ。あ、そうだ、今度その親
の墓参りに一緒に来てくれないかな。トオコさんのこと、紹介したいし」
照れたように言う彼に、トオコは愕然とする。
70年の寿命を終えて転生した人間とは違い、突然傷が癒えて転生した人間は、残された者にショックを与えないために、その存在に関する記憶はこの世界はから全て消去される。この世界に初めからそんな人間はいなかったことになるのだ。
だから彼の記憶から、彼の両親の存在は消え去ってしまった。
「……じゃあ、ご両親と遊園地行ったりとか」
「……そうだね、したことない。多分、行ったら楽しかったんだろうなぁ」
どんなことやっただろう。ジェットコースターとか乗ったかなぁ。
寂しそうな彼の言葉に、トオコの頭は真っ白になる。
あの楽しい思い出を、彼は覚えていない。
トオコは覚えている。ジェットコースターに乗ったこと。飲み物買ったりしたこと。帰り道の車で眠ってしまったこと。懐かしそうに話してくれた彼の言葉を、トオコはよく覚えている。
だけど、今の彼はあの記憶を知らない。彼の両親の温かさも優しさも知らない。
それは二人とも天に還っから。
トオコの言葉で、2人はこの世界から消えてしまった。
トオコが、彼から2人を、あの優しい思い出を奪ったのだ。
次の瞬間、トオコは叫んでいた。
言葉では無かった。ただ、どうしようもない衝動の塊が口から音となって飛び出した。
それが途切れた後、トオコは踵を返し、その場から逃げ出した。
驚いた彼が、後ろから追いかけてくる気配がする。
だけど、振り返り余裕はなかった。
トオコ達の身体能力は人間とは比べ物にならないほど高い。今のようにヒールのある靴を履いていようが、階段だろうが、息切れすることなくトップスピードで駆け上がることができる。そんなトオコに、彼が追いつけるはずがない。
別にトオコに目的地があったわけではない。
ただ、体の内に渦巻く衝動を発散するために、トオコは目についたエスカレーターを駆け登り、無心で足を動かし続けた。
後ろからの足音はとうに聞こえない。
やがてトオコは屋上に辿り着き、そのまま足を緩めることなくテラスに飛び出した。
外はうっすらと雨が降っていた。そのせいでせっかくの夜景を眺めている者は誰一人いない。
ここはいつか彼がトオコにプロポーズしてくれた場所だ。返事はまだだけど、いつか自信を持って彼を好きだと言えたら、トオコはやはりここで返事をしようと思っていた。
言わなくてよかった。
そう思いながら、トオコは地を蹴った。
今すぐ消えてなくなりたい。
その一心で彼にプロポーズされたベンチを通り過ぎ、軽々と手すりを乗り越え。
トオコはそのまま、テラスから身を投げた。
トオコは自身の終わらせ方など知らない。
だけどこうすれば、いつか映画で見た殺人犯のように粉々になれると思った。それで消えてなくなることができると思った。
猛烈な風が下から噴き上がる。雨に濡れた商業施設のガラスは、街の灯りでキラキラと光って、綺麗だった。
目から溢れた涙が上に上がっていく。地面がどんどん近付いてくる。
これで粉々になれる。全部終わらせることができる。
そう思った時だった。
背中で、バサリと音がした。
次の瞬間、目の前にあったはずの地面が遠くなった。
トオコは思わず手を伸ばす。
だが背中に生えた羽根がはばたくたび、無慈悲にも地面はどんどん遠のいていく。
「ああああああああ!ああああああああああああああああ!」
トオコの声が闇夜に響く。
おもちゃ屋で駄々をこねる子どものように、トオコは足をバタつかせ、地面に手を伸ばして泣き叫ぶ。
しかし、背中の羽根はトオコの叫びなど意にも返さず、トオコの体を上空へ連れて行った。
「やだ、やだああああああああああああああああああ!」
この羽根がなんなのか、トオコは知っている。
これはトオコ達に付けられた安全装置だ。トオコ達の身に危険が迫った時、勝手に作動し、その体を守るもの。
でも今回のこれはトオコ自身が望んだのだ。トオコが粉々になりたいと思ったから飛び降りた。だが、羽根はそれを許さない。勝手にトオコを終わらせることを許可しない。
トオコ達はあくまで御使いが作ったものだ。
トオコに、自分の終わりを自分で決める権利は存在しない。
いくら叫んでも羽根は止まらず、気付けばさっきまでいた商業施設がはるか足元だ。
このままどこに連れていかれるのだろう。
泣き疲れてぼんやりとした頭で、トオコは思う。
この空の先に何があるのか、トオコは知らない。それらしい宇宙は作られているらしいが、それをトオコが確かめたことがない。
もしかしたら、このまま空の果てに捨てられるのかもしれない。
そう思った瞬間、トオコの心は不思議な安堵感に包まれた。
終わらせてくれるのだったらなんでもいい。痛くても辛くても怖くてもいい。この世界から消えることができるのならそれで。
彼から大事なものを奪った罰だ。自分など、ここにいるべきではない。
そう思った時、羽根は徐々に羽ばたく力を弱め、トオコの体はとある建物の屋上に近付いていった。そこは、トオコが飛び降りた商業施設のそばにある、マンションの屋上だった。
冷たいコンクリートの地面にトオコの足が地にふれた時、役目を終えたとばかりに羽根はすぅっと消えた。
トオコはのろのろと辺りを見回す。
建物の中へと繋がる扉がひとつあり、その上に白い光が灯っている。
そしてその明かりの下に、誰かがいた。
それはトオコの上司だった。
見慣れた制服に身を包んでいる上司は、トオコを見て、呆れたように笑った。
「何やってんだよ、高橋先生」
トオコは慌てて上司に頭を下げた。
上司は鈴木ゴロウという名前で、トオコが勤める学校に通っている。その為、側から見たら教師が生徒に頭を下げているように見えるだろう。
「やっと仕事終わって遊びに行けるって思ったのに、呼び出しとか。本当にダルいんだけど」
「よ、呼び出しって……」
「羽根だよ、羽根」
上司がトオコを指差す。そこにはさっきまで、真っ白な羽根があった。
「そっちは知らないだろうけど、羽根が出ると、上司である俺に通知が来るんだよ。羽根が出るってことはその身に危険が迫ってるってことだから、上司は何があったか話を聞いて、御使い様にちゃんと報告しなきゃいけねぇの」
で、何があったんだ、と上司が興味なさげに聞いてくる。
緊張でカタカタと小さく震える手をぎゅっと握り、トオコは恐る恐る口を開いた。
「……彼から両親を奪ってしまったんです。彼はあんなに両親との思い出を大事にしていたのに、私はそれを根こそぎ奪ってしまった」
話し出すと止まらなかった。トオコの悲しみが次から次に口から溢れ出し、それと共に再び視界も歪んでくる。ぼたぼたと涙を流し、時折言葉につまりながら、トオコは何があったのかを事細かに上司に伝えた。
やがてトオコの言葉が止まり、辺りにしゃくり上げる音だけが響き出した時、黙って聞いていた上司が、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、お前の都合で冬野先生を置き去りにしたのか」
淡々としたその言葉に、トオコの背がぞくりと粟立った。
「まず、2つの魂を癒した功績を罪だと考えてるのが間違っている。そこの認識の違いは致命的だから、さっさと直しておけ。あと、自分の近しい人間2人の記憶が消えて不安定になってる人間を、何の説明もなく、その場に置き去りにしたこともあり得ない。それは恋人である人間より、自分の感情を優先させたってことだろ?」
最低だな、と言う上司の声が、トオコの頭にぐらりと響く。
「で、何故飛び降りた?あんな人目のあるところでそんなことしたら、騒ぎになるのわかるだろ?何も知らない人間が見たら驚かせてしまうだろうし、記憶を消すのだって手間がかかる。それとも、そんなこともわからなかったのか?」
「ご、ごめんなさ……」
思わず、謝罪の言葉が口から飛び出す。
でも、辛かったのだ。もう彼に合わせる顔がないと思った。
確かに軽率な行動だった。だけどあの時は、そうするしかないと思ってしまった。
「それは、お前が楽な方に逃げただけだろ」
冷めた声が、トオコの言い訳を潰していく。
「何もかも放り出して消えたら、辛い気持ちも罪悪感も全部無くなるもんな。いいよな、楽で。今だって、こんな俺の説教なんかいいから、さっさと処分してくれって思ってるだろ」
違う、とは言えなかった。
だって辛かった。
自分が、彼から大好きな人達を奪ったことに耐えられなかった。
そんな自分が、彼の隣でのうのうと生きていくことなど、そんなこと許せるはずがない。
だからこれは罰だ。トオコが受けるべき、罰。
そんなトオコの心境を見透かすように、上司が口元を歪める。
「自分が辛いだけなのに、全部冬野先生のせいにして。冬野先生に責任を全部おっ被せて。高橋先生はひどいなぁ」
「ちがっ、違います!」
嘲るような言葉に、思わず反論する。
「彼のせいになど……!」
「してるだろ。冬野先生の気持ちも確認せずに、彼に悪いからと全部冬野先生を言い訳にしている。全部自分が辛くて、耐えられないだけなのにな」
それはまさしくその通りだった。
反論しようにも言葉が出ず、トオコは黙って唇を噛み締めた。
「……先生はさぁ、本当に冬野先生のことが好きなの?」
「……好きです」
そこだけははっきりと答えられた。だからこそ、彼に申し訳ないと思ったのだ。
「だったら、大好きな冬野先生のために頑張れねぇの?あんたがやったことを冬野先生は一切知らないし、知ることはできない。あんたの罪悪感なんか、人間は知ったことじゃないんだよ。冬野先生が好きなら、血反吐が出そうなくらいの辛い気持ちでも、全部飲み込んで、笑うくらいの根性を見せろよ」
忌々しそうに、上司が顔を歪めた。
「……お前が思うよりも、人間はあっさり俺らを置いていくぞ。落ち込んでる暇すら、俺らには惜しい」
その言葉で、ふとトオコは、今この瞬間にでも彼が天に還る可能性があることを思い出した。
「そこで後悔しても、もう遅いんだ」
そう言う上司は、どこか悔しげで。まるで、かつて同じ経験をしたような口ぶりだった。
そうだ、トオコが彼の両親を天に還したように、見知らぬ誰かの言葉によって、彼がこの世界から消えてしまうかもしれない。
そうなったら、トオコはもう二度と彼と会うことはできなくなる。
嫌だ、とトオコは思った。
それだけは嫌。絶対に嫌。最悪、自分のことを嫌いになってもいい。別れてもいい。それも辛いけど、この世界で彼が笑って過ごせているのなら我慢する。その顔を遠くから見られるだけで幸せだと思うことにする。
だけど、彼がいなくなるのは嫌。この世界から消えて、もう二度と会えなくなるのは嫌だった。
もちろん彼が人である限り、この関係はいつかは終わる。カウントダウンは出会った時から始まっている。
だからこそ、トオコはまだ彼と一緒にいたかった。もっともっと、そばにいたいと思った。
今、彼までいなくなるのは、耐えられない。
「わ、わたし……!」
一体何をやっていたのだろう。
言いようのない後悔が、トオコの中で暴れ回る。
優先すべきは自分の気持ちではない。
そんなもの、彼と過ごせる時間に比べたらどうでもいい。悲しむのも落ち込むのも、彼が天に還ってからいくらでもできる。
今大事なのは、少しでも長く彼のそばにいること。自分を愛してくれた彼を、精一杯愛すること。それがトオコのすべきことだ。それ以外、大事なことなどない。
どうして気付けなかったのだろう。
トオコは自分の弱さと脆さに嫌気がさした。
にわかに焦り出したトオコを見て、上司はめんどくそうに息を吐いた。
「どうしてもって言うなら、今、お前を処分してもいいけど」
「……いえ、彼の元に戻ります。お騒がせして、すみませんでした」
「いーよ、別に。行くならさっさと行けよ」
そう言って、上司は後ろにある扉を指差した。
トオコは勢いよく頭を下げた後、ぎゅっと拳を握り締め、地面を蹴った。重たい扉を開け、非常階段を駆け降りる。
トオコの体は特別製だが、身につけているものは市販品だ。
衝撃に耐えきれず、途中でヒールも折れてしまったが、トオコは構わず走り続けた。
一刻も早く、彼の元に行きたかった。
『トオコさん、ありがとう。私の子を愛してくれて』
不意に、彼の母親の最後の言葉が蘇る。
『どうか、最後まで愛してあげて』
わかりました。最後まで愛します。絶対に。
声に出さずに、トオコは答える。
彼の両親は消えてしまった。この世界に2人を知っているものはもういない。
だけど、トオコは知っている。トオコだけは覚えている。
ならば2人の願いを叶えられるのも、トオコだけだ。
彼らの分まで、トオコは彼を愛するのみ。
やめるときも健やかなるときも、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どれだけトオコが罪悪感に押し潰されようとも、トオコは笑って、彼を愛そうと思った。
それが、トオコを愛してくれた彼への愛になると信じて。
溢れる涙を、トオコは腕で拭う。
家を出る前に一生懸命に塗ったマスカラとアイシャドウが、服の袖を醜く汚した。
つらいなぁ。
そんな本音がぽんと浮かび上がる。
彼が突然いなくなる日を想像するのも辛いし、いつか必ず、彼がいなくなってしまうのも辛い。
辛いことだらけで、嫌になってしまう。
だけど、強くならなくてはいけない。
これからも彼のそばにい続ける為にも、上司が言うような、どんな気持ちも飲み込んで笑えるほどの強さがほしいと思った。
やがて1階に着き、外につながる扉を開ける。
ぐちゃぐちゃになった顔で、トオコは前を見る。
空は暗い。夜明けはまだ、遠かった。



暗闇の中で、冬岡フユトはふと目を開ける。
どうやら、お風呂が沸くのを待っている間に眠ってしまっていたらしい。
体を起こし、ベッドのそばに落ちていたスマホで時間を確認する。
日付が変わって、少し経った頃だった。
お風呂のお湯は浴槽にいっぱいになったら自動で止まるものだったからよかったものの、旧式のものだったら今頃お湯が溢れて大変なことになっていたかもしれない。
ため息をひとつ落とし、フユトは浴室に向かう。
恋人のトオコのことが不意に頭を過ぎったが、それを振り払うかのように、フユトは上着を脱ぎ捨てた。

浴室の中は、温かな湯気に満たされていた。
フユトはプールや水族館など水が多いところは嫌いだったが、意外にも風呂は好きだった。
シャワーで体を流し、温かなお湯に体を沈める。
ふぅと息を吐き、首を浴槽の淵に置いて天井を見上げる。
湯気がふわふわとのぼっていく。
自分も湯気と一緒に、この温かな空気に溶けてしまいたかった。
今日の食事の終わり、トオコが突然大声を上げて駆け出した。もちろんフユトはすぐにその後を追った。だけど予想外にトオコの足が早く、あっという間にその姿を見失ってしまった。
周りにいた人間が何かあったのかと声をかけてくれたのだが、フユトは恋人が突然逃げ出してそれを探しているとは言えず、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化すしかできなかった。
電話もかけたが留守番電話に繋がるだけ。メッセージも既読にはならない。
突然どうしたんだろう。何か怒らせることでも言ってしまったんだろうか。
フユトには全くわからなかった。
出会った時から、トオコは不思議な存在だった。
すごく綺麗でしっかりしてるのに、自分にあまり自信がない。見た目と中身がちぐはぐで、体だけ大きくなった臆病な子どものようだった。
それでもトオコは基本穏やかだ。大きな声を出したりしない。だから、彼女があんなに声を上げるのは珍しい。
きっと、自分が何かやってしまったんだろう。
フユトは両手で顔を覆う。
何故だろう。いつもだったら、彼女にもっと電話をかけたり、何かあったのかと彼女の家に行ったりしただろう。
だけど、今日はそんな気になれない。そうやって行動して、もしも何かが変わってしまったら。そう思うと怖くて動けない。このまま朝を迎えたら、何もなかったかのように、いつもの彼女と会えるのではないかと思ってしまう。
自分はこんなにも臆病だったのか、とフユトは落ち込んだ。
彼女が心の支えだったというものあるかもしれない。
今までだって落ち込んだことは何度もあった。そんな時、自分はどうやって立ち直ってきたのだろう。一応友人と呼べる人間は何人かいる。だけど彼らに相談した記憶はない。
だから、なんだかんだ自分は打たれ強い人間だと思っていた。
だけど、今日は駄目だ。些細なことで心が揺らぐ。不安で不安でたまらなくなる。
こんなことは今までなかった。一体何があったというのだろう。
今日はあの夢だって見ていないのに。
ざぁぁん。
耳元で、波の音がした。
フユトは慌てて顔を上げる。
見えるのは見慣れた浴室だ。空気も暖かい。決して海なんかではない。
わかっているのに、体の震えが止まらない。
「どうして女なんか産んだの!」
突如、ヒステリックな叫び声が浴室に響いた。
浴室にはフユト以外誰もいない。だけど、その声は壁に跳ね返り、ぐわん、とフユトの頭を揺らす。
この言葉をフユトは知っている。夢の中で何度も聞いた。
これは、フユトを生んだ母親を責める声。
「男を産めと言っただろうが!この役立たず!」
そして、夢の中で女として生まれたフユトを責める声だ。
無意識にフユトは逃げ出そうとした。だけど、体が動かない。咄嗟に声を上げようとした。いや、声は既に上げていた。泣き声を。フユトは泣き叫んでいた。それしかできなかった。
「ごめんなさいごめんなさい!お義母さま!許してください!次は男の子を産みますから……!」
自分を産んだ女が叫ぶ。その声は少し幼い。もしかしたら、まだ若い子なのかもしれない。
「あの子がどうしてもって言うから、あんたみたいな農民の子を家にいれてやったのに!この恩知らず!後継ぎひとり作れないなんて……」
年老いた女がガリガリと忌々しげに爪を噛む。
「しかも私に内緒で、そんな何の役にも立たない子を隠れて育てて…!悪いって思ってるなら、さっさと新しい子を作って!これは海にでも捨てておくから」
ざばり、という音とともにフユトを包んでいた温かな温度が消える。
実際、フユトの目には、湯気を上げるお湯がうつっているのに、体はみるみるうちに冷えていく。まるで外に裸で出されたように。
「やめてください、お義母さま!その子を返して!」
母親が必死に追い縋る音がする。
だけど、フユトの体の震えは止まらない。
寒い。寒い。怖い。怖い。怖い。この後どうなるか知っているからこそ、次に起こることが恐ろしい。
ざぁん、と波の音が近くなった。
「女なんか産んだあんたが悪いのよ」
そうして、フユトの体は宙に放り出された。
一瞬の浮遊感。その直後、フユトは水の中にいた。
苦しい。苦しい。体が動かない。水をかいて浮上することもできない。
遠くの方で、どぷん、と何かが飛び込んだ音がした。だけど、それが何か確認することもできない。
強い波に巻かれ、体はどんどん底のほうへ。
何かしなければ、とフユトは必死に体に力を入れる。
本当に赤子なら無理だが、今のフユトは大人で、これは夢だ。だって、そうじゃなければおかしい。
せめて体のどこかでも動かさなくては。
その瞬間、ぱちり、と視界が広がった。
目を開けることができたらしい。
喜ぶ間も無く、目の前にあったものに、フユトの体が固まる。
真っ黒い魚の目。
底に落ちていくフユトを狙っているかのように大きな目が、無感情にこちらを見ていた。
がぼり、と口から泡が溢れる。
その目達が、音もなく近づいて来る。
食べられてしまう。
いや、女のフユトはこうして死んでしまったのだ。
だから自分は男としてここにいる。
だって、フユトがはじめから男だったらこんな悲劇は起こらなかった。自分を産んだ若い女も義母に怒られなかったし、自分だってこんな苦しい思いをせずに済んだ。
全部全部、女である自分が悪いのだ。
ぐらりと思考が揺らぐ。息ができない。胃の底まで水が入り込む。苦しい。黒い目が見ている。
だから海は嫌い。水が嫌い。魚が嫌い。
ありのままの自分を認めてくれなかった、あの世界が。
「フユトさん!」
ざばり、という音ともに、視界が明るくなる。
見えたのは愛しい彼女の姿。綺麗な服が濡れるのも構わず、フユトの背に手を回し、抱き抱えているトオコの姿だ。
どうしてここに。そう問おうとするが、大量のお湯を飲んでしまったせいが、げほげほとむせてまともに話せない。
どうやらいつの間にか寝てしまい、本当に浴槽で溺れかけていたらしい。
湯船に浸かったまま、浴槽のヘリに寄りかかり、フユトは何度もお湯を吐き出す。
その背を、彼女はゆっくり撫でてくれた。
彼女の手は優しく、わずかに震えていた。
「ごめんなさい」
ようやく落ち着いてきた頃、彼女は泣きながらそう言った。
「不安にさせてごめんなさい。おかしなことをして、ごめんなさい」
くしゃりと顔を歪め、ぽろぽろと涙をこぼしながら謝る彼女を見て、フユトははたと気付く。
もしかして、自分は彼女に置いて行かれたことが原因で入水自殺をはかったと思われているのだろうか。だとしたら、彼女がこんなに思い詰めた顔をしているのにも合点がいく。
それは違う、と慌てて彼女に伝えようとした。
だが、なぜかその言葉が喉に突っかかって出てこない。
もし。
もし、そうだと言ったら、彼女は責任を感じて、ずっと自分のそばにいてくれるだろうか。
こんな悪夢を見ているおかしな自分を見捨てずに、ずっと愛してくれるだろうか。
ずっとずっと。たとえ自分が冷たい海に沈んでも、一緒に水の底まで落ちてくれるだろうか。
抱き合いながら深い海に沈んでいく自分達の姿を想像して、フユトは小さく首を横に振る。
そう誘えば、彼女は間違いなく一緒に行くと言うだろう。
彼女が自分に依存していることを、フユトはよくわかっていた。
ひとりで沈むのは怖い。だから、彼女にそばにいてほしい。それが本音だ。
だけど、自分のわがままで、彼女をあんな冷たいところに連れて行きたくはなかった。
彼女には、夢の外で待っていてほしい。
フユトが悪夢を見ても、目覚めた時に隣に彼女がいてくれるのであれば、何度沈んでも大丈夫。
そう思える気がした。
「ごめん。うっかり寝ちゃってたみたい。驚かせてごめん」
助かったよ、と彼女を安堵させるようにフユトは笑う。
だけど、彼女の涙は止まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
浴槽の床にぺたりと座り込み、泣きながら、ごめんなさい、と繰り返している。
このショックの受け様から、やはりフユトは自死を図ったと思われているのかもしれない。
とりあえず彼女を落ち着かせようと、フユトは湯船の中から手を伸ばした。
その柔らかな髪に、指を絡める。
黙ったまま優しく撫でていると、不意に彼女が顔を上げ、フユトを見た。
「私、もっと強くなる」
泣き腫らした真っ赤な目で、唐突に彼女は宣言した。
「今日みたいにあなたを置いて逃げることはもうしない。何があっても、あなたのことを一番に考える。あなたがどんなところに沈んでも、すぐに潜って迎えにいけるようになる。なるから、だから」
どうか私と結婚してください。
その言葉が、浴室にじわりと響く。
少し間の後、はたと気付いたフユトが慌てて弁解する。
「いや、さっきのは本当にうっかり寝てしまっただけで自殺しようとしたわけじゃなくて……。だから、その、そこまで責任を感じなくてもいいというか……」
まさか風呂で真っ裸の時にプロポーズの返事をもらうとは思わなかった。
狼狽えながらそう言うと、彼女は首を横に振った。
「違うの。私、あなたが好きなの。これからもずっと一緒にいたいし、少しでもあなたの力になりたいの。あなたが困った時に頼りなれるようになりたい。結婚したいっていうのは、この気持ちは今だけじゃなくて、これからもずっとだっていう宣言というか誓いというか……」
もごもごと付け加える彼女を、フユトは呆然と眺める。
その表情に何を思ったのか、彼女の顔が曇る。
「あ、あの、フユトさんの気持ちも確認せずに勝手に言ってごめんなさい。その、もう今日のことで嫌になったっていうなら、全然、その、すぐにここから出て行くし」
「嫌じゃない」
間違いなく嫌ではない。これで、フユトが望んでいた通り、彼女はずっと自分のそばにいてくれると誓ってくれたのだ。
「……本当にいいの?」
「うん。私、あなたの家族になりたいの」
そう言って優しく笑う彼女は、どこか泣き出しそうで。
本当は泣き叫びたいのを我慢して、震える手を誤魔化すためにきつく握りしめ、必死に顔を上げているように見えた。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないよ。無理なんかしてない。私、今は弱くて頼りないけど、あなたを助けられるくらい、強くなるから」
「強くならなくていいよ」
そう言うと、彼女がわかりやすく狼狽えた。
彼女の顔がみるみる青くなる。不安げに視線がさまよう。
きっとフユトが彼女を拒絶したと思ったのだろう。
彼女は昔からなんとかフユトの役に立とうとしている節があった。最近は落ち着いていたのに、フユトが溺れかけているのを見て、また変な癖が出てしまったのかもしれない。
「そんなに何もかもを背負わなくてていいよ。家族になるなら、なおさら。ちゃんと2人で考えよう」
フユトの言葉に、彼女の目が戸惑ったように揺れる。
「家族って1人が頑張るものじゃないでしょ。……僕に家族はいなかったけど、でも、そんな気がする。誰か1人が辛いのじゃなくて、みんなで笑い合える家族になりたい」
フユトは家族というものを想像する。父親は無口で、あまり話さないけど母親と子供のことが好きで。母親はよく喋って、いつも楽しそうに笑っていて。遊園地では父親はソワソワしながらも楽しそうで、母親もまるで子どものようにはしゃいでいて。そして、みんなで車で大好きな家に帰るのだ。
そんな家族を、フユトは夢見ていた。
「僕もトオコさんを守れるようになるよ。そりゃ、悪夢にうなされてばっかりで頼りないかもしれないけど、トオコさんがそういうなら僕だって頑張る。水は怖いけど、もし海のそばでトオコさんに何かあったら怖いし、その時に何もできないのは嫌だから。……水泳教室でも通おうかな。僕もトオコさん助けられるようになりたい」
そういう家族になりたいんだ。
彼女は何も言わず、その大きな目から、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
フユトが安心させるように微笑んで濡れた手を伸ばすと、彼女はそろりと近づいて来た。
その細い肩を引き寄せ、濡れた胸の中にしまう。
できるかわからないけれども、彼女と一緒だったら頑張れる気がする。
まずは水着を買うところからだと思いながら、フユトは、ごめんなさい、と繰り返しながら泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめる。

きっと素敵な家族になれるわ。
遠くで、懐かしい声が聞こえたような気がした。