駅の方で『のぼり柱』が出たらしい。
そんな声が聞こえてきて、奈津川ナツキは勉強していた手を止め、顔を上げる。
夜の図書館のカフェは、学生やサラリーマンで混み合っていた。カウンター席に腰をかけたまま辺りを見回すが、声の発信源はよく分からなかった。
ナツキはテーブルに置いていたスマホを手に取り、SNSを確認する。するといくつかのアカウントがその写真をあげていた。
四角い駅舎の上に伸びる、白い光の柱。その先は細く、そのまま青い空に吸い込まれていきそうだった。
ナツキも一度だけ、のぼり柱を見たことがある。
あれは今年の3月、ナツキがまだ高校2年生だった頃。
部活に向う途中、廊下の窓の外が突然明るくなり、何かと思って見ると、昇降口の前に白い光の柱が立っていたのだ。
のぼり柱がどういう現象なのか、ナツキはよく知らない。
珍しい自然現象のひとつで、空気中の塵や埃に太陽の光が反射して光の柱ができる、というところまではかろうじて覚えているが、それ以上の詳しい説明は無理だ。多分、大人でもできない人は多いだろう。
ただ昔から、のぼり柱は傷ついた魂が天に昇る時に現れると言われていたらしく、そのせいか、現代ではのぼり柱にお祝いの言葉をかけると幸せになれる、なんて迷信も残っている。
ナツキがそれを目撃した時も、周りの生徒は各々拍手をしたり、祝福の言葉を口々に述べたりしていた。
何故こんな迷信をみんな心の底から信じられるのだろう。
ナツキは冷めた目でその光景を見下ろしていたのを覚えている。
SNSを閉じ、ナツキは小さく息を吐く。
ホーム画面にうつし出された時間は20時55分。
もうすぐ閉館時間だ。そろそろ帰らなくては。
ナツキは重い気持ちを引きずって、椅子から立ち上がった。

図書館の外はもう真っ暗になっていた。
藍色の空には、まんまるな白い月とビーズのような星が煌き、ナツキを見下ろしている。
ナツキが放課後に図書館で勉強するようになってから数ヶ月。
高校3年になり、受験勉強をきちんとしたいから、というのは表向きの理由。
本当は出来るだけ家に帰りたくなかった。
ナツキの両親は2人とも働いている。母親は印刷会社の事務で、父親は機械メーカーの管理職だ。勤務時間は規則正しく、二人は大体18時半から19時の間には家に帰ってくる。
決してナツキは、両親が嫌いなわけではない。どちらかというと大好きだ。両親も、一人娘であるナツキを大事にしてくれている。
ただ、家にいるのが落ち着かないだけだ。一刻も早くここから出なくては、という焦りが、常にナツキの中で燻っている。
その感情に引きずられるように、ナツキの家に帰る時間はどんどん遅くなっていった。
帰りの遅いナツキを、両親は当然のように心配した。ナツキ自身も、こんな訳のわからないことで2人に心配をかけさせる自分は、最低だと思っている。
だが、自分でもどうしてこんなに家にいたくないのかわからないのだ。
居心地のいいはず場所なのに、寄りつきたくない。怖い。
何が原因なのだろう。それがわかれば、2人を少しは安心させられるのに。
そんなことを考えながら、ナツキは大通りを渡り、田んぼの横の道を抜ける。するとコンビニの白い明かりが見えてくる。
店内から漏れる明るい光に、思わずナツキは吸い寄せられそうになるが、昨日もお菓子を買ってしまったことを思い出し、なんとか振り切る。
頬に当たる風は生温い。
夏はあまり好きじゃない。暑くて、臭くて、気持ち悪い。
自分が熱気の中にどろどろに溶けていく気がする。
早く冬になればいいのに。
冷え切った空気と真白い雪に思いを馳せながら、ナツキは足を動かした。
コンビニを通り過ぎ、一本道を行く。
両側に並ぶ商店はもう閉まっていて、街灯の明かりだけがぽかりと浮かんでいた。
そして、なんとなくその下に視線を動かした時、ナツキはぎょっとした。
誰かが道の端でうずくまっている。
ひとつのお団子頭に紺色のマフラー。顔は伏せられ、膝を抱えている。多分、同い年くらいの女の子だ。着ている服も、ナツキの学校の制服と同じ紺のブレザーに見える。
この近所に住む同じ学校の子かな。具合でも悪いのだろうか。
ナツキが戸惑っていると、ひく、としゃくりあげる音が聞こえた。その後に鼻を啜る音が続く。
もしかして彼女は泣いているのかもしれない。
どうしよう。誰か呼んできた方がいいのか。それとも具合が悪いのだったら、先に救急車か。
ナツキは混乱しながらも、俯いて泣いている少女に一歩近付いた。
その時、あれ、とナツキは思った。
もう一度、その女の子を見る。
ひとつにまとめられたお団子頭。首に巻かれた紺色のマフラー。顔は伏せられていて見えない。着ているものは紺色の長袖のブレザーで、ナツキの学校の制服と同じもののようだ。ナツキの学校の、冬服と。
思わず、ナツキは足を止める。
今は7月だ。夏本番じゃないとはいえ空気も蒸している。今ナツキが着ている制服も半袖だ。
陽は落ちているとはいえ、ここまで厚着しているのはおかしいのではないか。
瞬間、ナツキの背筋が寒くなる。嫌な汗が背中を伝う。
おかしい。この子はおかしい。関わらない方がいい。
幸い、向こうはまだ顔を伏せたままだ。ナツキが声をかけなければ、こちらに気付かないかもしれない。
ナツキは彼女から離れようと、足を後ろに引く。
だが、不幸なことに、履いていた革靴の踵が地面の上にあった砂利を踏んでしまった。
静まり返った空間に、ざり、と乾いた音が大きく響く。
やってしまった。
後悔する間もなく、ずっと俯いていた小さな頭がゆっくりと持ち上がる。
どくどくと心臓の音が激しく鳴る。
走って逃げた方がいい。わかってる。わかっているけど、目が離せない。
体が動かない。動いてくれない。足が地面に溶けて癒着しているみたいだ。
まるで、暑い地面に熱されて動けなくなってしまった蛙のよう。目を閉じることもできない。
どうしよう。どうしよう。
硬直するナツキの前で、ゆっくりと顔が上がっていく。
そこにあったのは。
「あれ、奈津川じゃん。こんな遅くまで部活か?」
聞き慣れた声が、強張った空気を一瞬で破壊した。
弾かれるように振り向けば、そこにいたのは同じクラスの鈴木ゴロウだ。ナツキと同じ制服姿で、その手には白いビニール袋がぶら下がっている。おそらく、さっきのコンビニで買い物でもしていたのだろう。
そこではたと思い出して、ナツキは慌てて少女がいた方を見る。
そこには何もなかった。
俯いて泣いている少女も。啜り泣く小さな声も、なにもかも。



ナツキは生まれてこの方、心霊現象というものにあったことはない。
一応、おばけや幽霊などの存在も信じてはいるが、この目で見たことはなかった。
でも、昨日のは。あれは、自分の中でどう処理していいかわからないものだった。
見間違いだったのか。それとも、暑さで幻覚でも見たのだろうか。
昨夜からそのことを考え続けていたせいで、なかなか寝付けず、その結果、ナツキは寝坊してしまい、朝から走って学校に来る羽目になった。
一応遅刻は免れたものの、朝から汗だくで気分が悪い。
廊下側の一番前にある自分の席に座り、ぱたぱたと下敷きを団扇代わりにして仰ぐ。
教室はクーラーが効いていて涼しかった。昔はクーラーがないのが当たり前だと言われたが、ナツキには信じられない。そんな場所でどうやって勉強に集中しろというのか。
そんなことをぼんやりと考えていると、ナツキのすぐ前にある扉ががらりと開き、1人の男子生徒が入ってきた。
その瞬間、どくり、と心臓が鳴る。
「ゴロウ、ごめん!現国の教科書、貸してー」
入ってきたのは、隣のクラスの秋田アキヒコだ。ナツキの隣の席の鈴木ゴロウと親しいらしく、こうしてよく教科書を借りにやってくる。
ナツキは慌てて下敷きを置き、持っていたハンカチで顔の汗を拭いた。汗をかいているところなど、彼に見られたくなかった。
「いいけど、忘れたのか?」
「うん、学校に置きっぱなしにしてたはずなんだけど無くて。もしかしたらうっかり家に持って帰ったのかも」
鈴木から教科書を受け取った彼は、助かった、と、にかりと笑った。
「ありがとう。そっちの現国って何時間目?それまでには返すよ」
「んー、何時間目だったっけ?なぁ、奈津川」
突然名前を呼ばれ、ナツキは驚いて顔を横に向ける。
整った顔が2つ並んで、こちらを見ていた。
緊張で、ナツキは思わず持っていたハンカチを握りしめる。
「えっと、ごめん、何?」
「現国って何時間目?」
「4時間目だよ」
そっか、サンキュー、とにこやかに言ってくる2人に、ナツキはなんとか愛想笑いを返す。
2人はあまり親しくない人にも平気で話しかけられるタイプらしく、鈴木と席が隣になってから、こうして2人に話しかけられることが増えた。
別にナツキは2人のことが嫌いというわけではない。だが、ナツキにとって彼らは友人ではなく、ただの顔見知りだ。しかも、どちらもタイプは違えど雑誌に載っていてもおかしくないほど顔が整っており、女子の間で人気は高い。そんな2人から友人のように気安く声をかけられるのは、正直慣れなかった。
そんなナツキの心情など知らず、秋田アキヒコは首を傾げ、心配そうにこちらを見てきた。
「あれ、奈津川さん、なんか疲れてる?どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと今日遅れそうで、走ってきたから……」
何の邪気もない、優しい大型犬のような眼差しに、ナツキはぎこちない笑みを返し、体を少し引く。万が一にも汗臭いと思われたくないからだ。
秋田アキヒコはみんなに優しい。ここにいるのがナツキじゃなくても、きっとこんなふうに心配するだろう。その分け隔てない優しさが、ずっとナツキを苦しめている。
「期末テストが終わって、気が抜けて寝坊でもしたのか?」
興味をもったのか、鈴木が揶揄うように言ってきた。
「いや、ちょっと、実は」
昨日、変な女の子を見て。
そう言いそうになったのを、ナツキは慌てて飲み込む。
言ったら絶対に変な奴扱いされるし、言ったところで信じてはもらえない。昨日だって、直後に会った鈴木にも、あの女の子のことは言えなかった。
暑くてなかなか寝られなくて、と当たり障りのないことを言えば、2人は、たしかになぁ、と穏やかに返してくれた。
そのまま会話を続ける彼らを、ナツキは作り笑いを張り付けて見守る。
気を抜いたところに2人から会話のパスが飛んでくるものだから、なかなか気が休まらない。
いや、どうでもいい相手なら、いくら話しかけられても構わない。適当に相手をすればいい。
でも、そうではないから困るのだ。
「そういや、アキヒコ。また最近学校で噂流れてるの、知ってるか?」
「えっ、俺の?」
彼が不快そうに顔を歪める。
確か去年の終わり頃、秋田アキヒコが天使を見た、という噂が、突如学校中に広がった。しかもデマだったらしく、訂正するのに彼は随分苦労したらしい。
「違ぇよ。今回は怪談。怖い話」
悪戯っぽく鈴木が笑う。
「なんでも、この暑い中、冬服で徘徊している女子高生のお化けが出るんだとよ」



放課後の美術室。
ナツキの前に置かれているのは、小さな黒い台座だ。その上には、昨日ナツキが針金で作った芯材が固定されている。
ナツキは小さく息を吐き、その芯材に白い粘土を慎重にくっつけていく。
ナツキは美術部だ。
と言っても、絵が好きで美術部に入ったわけではない。
絵はどちらかというと苦手だった。頭の中ではこんなに綺麗に描けているのに、白い画用紙の前に立つと、あっという間に思い描いていたものは崩れ、似ても似つかないようなものが出来上がる。
それなのに何故美術部に入ったのかというと、彫刻がしたかったからだ。
ナツキには、幼い頃からずっと作りたいものがあった。
だが、絵ではそれをうまく表現できなかった。何度描いても思うものができず、悶々とした日々を送っていた時、ナツキは小学校の図工で粘土のうさぎを作った。デフォルメされたキャラクターではない。実際のウサギの写真を見ながら作った、本物そっくりのうさぎを。
自分は絵が苦手で図工も苦手だと思っていたナツキだったが、このうさぎだけは親も先生も友達も褒めてくれた。
粘土だったら、ナツキの頭に描いたものを限りなく忠実に再現することができた。
これだ、と、ナツキは震えるほど感動した。
それからナツキは中学、高校と美術部に入り、ずっと彫刻を続けている。
受験生であるナツキは、この夏休みで部活を引退する。夏休みにある美術展用の作品は、とっくに完成して提出しており、ナツキの美術部としての活動はすでに終わっている。
それでもナツキは美術室にたったひとり残り、今日も彫刻を作っていた。
その理由は単純。まだ作品を作りたかったからだ。
部活を引退してしまえば、ナツキがこの場所で自由に作品を作る権利は失われる。
もちろん、きちんと顧問や後輩に連絡すれば使ってもかまわないのだろうが、引退した上級生がずっとここに居座っているのはあまり良くない気がした。だから、そうなる前に、正真正銘、高校最後の作品を作っておきたかったのだ。
後輩達はとっくに全員帰ってしまっている。残っているのはナツキだけ。
同じ美術部の子には、美術室にひとりで残るの怖くない?とよく聞かれた。気を遣って一緒に残ってくれた子もいたけど、遅くまで付き合わせるのが申し訳なくて、ひとりの方が集中できるから、と先に帰ってもらっている。
それに、遅くまで残っているからこそ見られるものもあるのだ。
ナツキはちらりと壁にかけられている時計を見る。
もうすぐ最終下校時間だ。部活や勉強で残っていた生徒たちが、美術室の前を通って昇降口に向かっていく。
そろそろかな。
ナツキは顔を美術室の入り口に向ける。
美術室の扉には、四角く透明なガラスが嵌め込まれている。その狭い窓から廊下を通る生徒の顔が見えるのだ。
ぱたぱたという足音と共に、四角い窓の向こうを何人もの生徒が通り過ぎる。
その中の1人が、美術室にいるナツキに気付き、柔らかく笑いながらひらりと手を振った。
ナツキは慌てて小さく頭を下げて、ぎこちなく手をあげる。
ほんの一瞬の邂逅。
ナツキに手を振ってくれた秋田アキヒコの姿は、あっという間に扉の向こうに消えていった。
これが、ナツキの密かな楽しみだった。
もちろん、彼が毎日この時間まで残っているわけではない。また残っていても、美術室の前の廊下を通るとも限らないし、仮に前を通っても、ナツキがそれに気付けない時もある。
でも、今日は気付いてもらえた。
密かに想う相手の姿を見れた喜びで、ナツキの顔が自然と弛む。言葉にならない嬉しさが体の中に充満する。
だが、その熱が冷めるのは早い。
こんなことをして、一体何になるのか。
すぐに自己嫌悪がナツキを襲う。
相手は学年でも有名な人気者だ。彼を想う人などたくさんいるだろう。そしてその中には、ナツキよりも綺麗で、ナツキよりも可愛い子もいる。
彼がナツキに手を振ってくれたのも特に他意はない。知り合いがいたから挨拶をしただけ。彼はそういう気遣いができる人だ。
わかっている。あんな人を好きになったところで、ナツキにはどうしようもない。
いっそのこと、さっさと告白して振られてしまった方がすっぱり諦められるんじゃないかと思ったこともある。
でも、そもそも告白するような度胸はナツキにはない。もしあったのなら、去年のバレンタインに、たくさんチョコレートをもらっている彼に気遅れして、せっかく用意したチョコレートを鞄から出さず、そのまま家に持ち帰る、なんて失態をおかさなかったはずだ。
現状を壊す勇気もなく、ただ遠くから眺めているだけなんて。なんと不毛なのだろう。
ナツキは重い息を吐き出して立ち上がる。
外はすでに真っ暗だ。窓は鏡のように反射し、美術室にいるナツキの姿を映している。
その時ふと、朝聞いた噂話を思い出した。
冬服で徘徊している女の子の幽霊。
鈴木の話によると、夜、ひとりで歩いていると、その子は現れるという。
季節外れの冬服に、お団子頭。そして首には紺色のマフラー。
特に何をするわけではなく、虚な目で泣きながらふらふらと暗い道を歩いているそうだ。
間違いなく、それは昨日ナツキが見たあの子のことだろう。
粘土で汚れた手を洗いながら、昨日の出来事を思い出していると、突然後ろの扉ががらりと開いた。
思わず、ナツキの肩がびくりと跳ねる。
弾かれるように振り向くと、そこにいたのは司書の高橋だった。
グレイのパンツスーツ姿の彼女は、固まってしまったナツキに、「ごめんなさい、驚かせてしまって」と申し訳なさそうに眉を下げた。
ナツキは慌てて首を横に振る。
きっと、まだ校内に残っているナツキを注意しに来たのだろう。
ナツキがバタバタと荷物をまとめ、急いで美術室から出ようとすると、「ちょっと待って」と柔らかな声がナツキを呼び止めた。
正直、ナツキはこの高橋という司書があまり好きではなかった。
理由は、去年の年末ごろ広まった、『秋田アキヒコが天使を見た』という噂にある。
彼が、司書の高橋によく似た天使を見た、というあの噂。それだけだったらよかったのだが、その噂が広まるにつれ、『秋田アキヒコは高橋先生が好きなんじゃないか』という噂も一緒に広まってしまったのだ。実際のところ、高橋はナツキのクラスの担任である冬岡と、この春に結婚したため、彼とどうこうなることはない。だが、それでも彼に思いを向けられているかもしれない、というだけで、ナツキは気に入らなかった。
とどのつまり、ただの嫉妬だ。
艶やかな茶色の髪に優しげに細められた目元。可愛らしい大人の女性を体現している高橋を、ナツキが勝手に羨んでいるだけ。
正直ナツキは、こんな綺麗な先生、ひどくやっかまれて嫌われるんじゃないかと思っていた。けれど、クラスや部活でこの司書の悪口を言う人は1人もいない。本当に、ただの1人も。
そもそも、この学校の生徒は悪口を言わない。あの人ムカつくよね、とか、いなくなればいいのに、とかそんなマイナスな話をしない。
本当、この学校の生徒はみんな人間ができていると思う。
それなのにナツキは、いろんな人を羨んだり、彼と噂になっただけでこの司書に苦手意識を持ったり。
こんな自分が、あの人に好かれるはずもない。
ぐちゃぐちゃに織り混ざった感情を飲み込み、なんですか、とナツキは高橋に向き直る。
「奈津川さんって、毎日図書館で勉強してるって聞いたんだけど……」
「……そうですけど」
申し訳なさそうに声をかけてくる高橋に、ナツキの答えはそっけない。
「図書館近くに新しい白いマンションがあるのわかる?3階建てで、外観が蔦の這っているデザインの」
「……隣に小さな公園があるマンションですか?」
「そう!そのマンションの103号室のポストに、これを入れてきてほしいの」
そう言って、彼女は手に持っていた茶色い封筒をナツキに差し出してきた。
封筒の表面には黒いペンで『佐藤くんへ』と書かれている。
この佐藤って、もしかして。
ナツキの視線から何かを感じ取ったのか、彼女はほんの少し眉を下げた。
「……奈津川さんのクラスの佐藤くん。あの子、3年になってから、まだ一度も学校に来てなくて。こうやって、時々お知らせのプリントを渡しているの。はじめは私や担任の冬野先生が行ってたんだけど、それがプレッシャーになったのか、最近は顔も見せてくれなくなっちゃって……」
「でも、私」
ナツキはたしかに今年この佐藤という生徒と同じクラスだが、今まで特に話したこともない。去年も一昨年も違うクラスで、おそらく一度も関わったことがない。佐藤という名前以外何も知らない。顔だってわからない。
そんな自分が、これを届けていいのだろうか。
戸惑うナツキに、高橋は大丈夫、と笑った。
「扉のポストに入れるだけだから、そんなに難しく考えなくて大丈夫。奈津川さんが毎日図書館で勉強してるって聞いたから、ついでにお願いできるかなって思っただけ。それに、万が一会うことがあっても、知らない子の方があの子も気が楽かもしれないし」
「はぁ……」
たしかに知り合いが行くよりも、全く知らない人間の方が、ただ頼まれてきただけなんだな、と重く受け止めなくていいのかもしれない。
ナツキは差し出された封筒を戸惑いながら受け取った。
角二封筒。指で触ると、数枚のプリントの厚みが感じられた。
「103号室。左側の一番奥の部屋なの。よろしくね」
そう言った司書は、聖母のような柔らかな笑みを浮かべていた。


佐藤という生徒のことを、ナツキはよく知らない。
わかっているのは、同じクラスに新学期から一度も学校に来ていない生徒がいることと、その名前が佐藤であること。ただそれだけ。下の名前も知らない。
何か他に思い出せることはないかと考えているうちに、ナツキは図書館の前に着いていた。
駅から少し離れたところにある図書館の一帯は数年前に再開発され、ここだけでひとつの街のようになっていた。
両側に並ぶ街灯に見下ろされながら、ナツキは綺麗に舗装された道を進む。小さな公園を通り過ぎ、目的のマンションの前で足を止めた。
一見、ただの白い四角い箱に見えるその建物。よく見れば等間隔に窓がつけられており、その壁面には緑色の蔦が這っている。エントランスにも緑の蔦があしらわれており、全体的にコンクリートが自然に侵食されている意匠になっていた。
正直、家賃は高そうだった。佐藤という生徒は、もしかしたら裕福な家の子供なのかもしれない。
そんな下世話なことを想像しながら、ナツキはエントランスを抜け、言われた通りに左の通路に進み、一番奥の扉の前に立った。左上のプレートには103とだけ書かれている。
表札がないのは少し不安だが、ナツキに確認しようがない。
黒に近い灰色の扉の真ん中に、銀色の蓋が被った四角い穴が空いている。エントランスに集合ポストがなかったから、ここがポストなのだろう。
ナツキは背負っていた鞄を下ろし、中から頼まれていた封筒を出した。
少し曲がってしまった角を指で直し、その四角い口に差し込もうとしたその時、がちゃ、という音と共に目の前の扉が動いた。
何が起こったか一瞬理解できず、その体勢のままナツキは固まった。
目の前でみるみる扉が開いていき、中から人影が現れた。
その姿を見て、ナツキは目を見開いた。
ひとつにまとめられたお団子頭に、首に巻かれた紺色のマフラー。ナツキの学校と同じ制服の冬服。
昨日、ナツキが見た幽霊がそこにいた。
「えっ、あっ……」
対する幽霊も、ナツキがここにいたことに気付かずに扉を開けたようで、驚いて言葉を失っている。その目の周りは真っ赤で、昨日からずっと泣き続けているように腫れ上がっていた。
何か言わなければ。ナツキは咄嗟に口を開いた。
「……あの、佐藤くんのプリントを届けにきたのですが……」
「あ、ど、どうも、ありがとうございます……」
幽霊はおどおどしながらもナツキの差し出した封筒を受け取り、ペコリと頭を下げた。
封筒を持ったということは、きちんと実体がある。なら、この子は幽霊ではない。
そのことに、ナツキはほんの少し安堵した。
そして次に思ったのは、じゃあこの子は一体誰なのだろう、ということだ。
佐藤くん、と封筒に書いてあったから、ナツキは佐藤という生徒は男だと思っていた。でも、言われてみれば女子生徒をくん付けで呼ぶ教師はいる。
もしかしたらこの子が『佐藤くん』なのだろうか。それともその妹とか。学校に行かなくなった兄のことで悩んでいて、昨日からずっと泣いていた可能性もゼロではない。
だが、初対面でそれを聞く度胸はナツキにはなかった。
じゃあ、とナツキは頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。



あつい。あつい。あつい。
暑いのは嫌い。体から流れる汗も、体に張り付く服も、溶けてどろどろになった体から溢れる匂いも、何もかもが気持ち悪い。
冷たかったはずの床はとっくに体温で温まり、不快さは増える一方だ。
起きて、体を拭いて、着替えなければ。
シャワーを浴びて、クーラーの効いた部屋でアイスを食べて休みたい。
汗で汚れた床もきちんと水拭きしておかないと。カビでも生えたら、あの父親はもっと帰って来なくなってしまう。
そうわかっているのに、体が動かない。目も開けているはずなのに、何も見えない。
おかしい。どうしたんだろう。
ずきりと頭が痛む。
そうだ、さっき学校から帰ってきて、自分の部屋に行こうとして階段で足を滑らせ、そのまま落ちてしまったんだった。痛いのも、その時に頭を打ってしまったからだろう。
どのくらい寝ていたのか。
口を動かすが、出たのは言葉にならない呻き声だけ。体が動かない。鞄から携帯を出すことすらできない。
どうしよう。どうしたら。誰か。誰か。
母親はずっと前に出て行った。父親も最近はあまり帰ってこない。
ならば一体、誰がナツキを助けてくれるのだろう。
学校の友達。バレエの先生。近所の人。その姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
だめだ。昔ならともかく、最近は家のことにかかりきりで疎遠になり、助けてと気軽に言えるような関係ではない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
胸の奥から溢れ出る悲しみに、じわりと視界が歪んでいく。
どうして皆、ナツキを置いていくのだろう。どうして、誰もナツキを選んでくれないのだろう。
お母さんは見知らぬ誰かを取った。お父さんもナツキから逃げていった。友達も近所の人も、ナツキがこんなことになってから、うっすらと距離を取り出した。
どうして、と責めそうになった唇を、ナツキはぎゅっと噛み締める。
違う、みんなは悪くない。
きっと自分が悪いのだ。きっと、知らないうちに何か悪いことをしてしまったのだ。
だから、みんなナツキから離れていった。
ナツキが今こうなっているのは、きっと、その罰なのかもしれない。
現実から逃げるように、ナツキは目を閉じる。
想像するのは、明るい照明の下、舞台で踊る自分の姿だ。
あの頃は幸せだった。父がいて母がいて、いつも笑っていた。ナツキの世界は、まだ幸せのままだった。
ずっと舞台の上で踊り続けていたかった。
まどろむ意識の中でナツキは思う。
そうだ、そうすれば、きっとこんなことにはならなかった。ずっと幸せなままでいられたのに。
こんな悲しい思いをせずにすんだのに。
不意に、むわりと蒸した空気が、床と体の隙間から沸き上がった。
どうやら今日も熱帯夜になるらしい。



「奈津川、なんか顔色悪くないか?」
休み時間、鈴木にそう声をかけられる。
今日は朝からひどい夢をみた。
それは暑い廊下に寝転がったまま動けず、そのままじわじわと苦しみ続ける夢。
子どもの頃から何度も見ているものなのから、夢の中でこれは夢だと気付くことができたらいいのに、夢の中のナツキは毎回律儀に苦しんでいる。
この夢を見た日は、頭も体も重い。よほどひどい顔をしていたのか、両親はナツキに学校を休でもいいんだよ、言ってくれた。だが、家に1日中いる方が、今のナツキには耐えられない。
もうすぐ受験だから、と言い張り、ナツキは重たい頭引きずって学校へ来たのだ。
寝不足で、とナツキが苦笑いをしながら言った時、前の扉が開き、温い風と共に彼が入ってくる。
「ゴロウ、地理の資料集貸してー。別のクラスの奴に貸したんだけど、返すの忘れて持って帰っちゃったみたいで」
この席になってから、彼のこの困り顔を何度見ただろう。そして、鈴木の呆れるような顔も。
「またかよ、アキヒコ。しょうがねぇなぁ」
「助かるー。後で飲み物奢るよ」
じゃあ、と彼がクラスに戻ろうとした時、ナツキとばちりと目が合った。
やばい、疲れていたせいで無意識に彼を見てしまっていた。何か言われるだろうかと内心あたふたしていると、彼が怪訝そうに眉をひそめた。
「あれ、奈津川さん、顔色悪くない?」
「そ、そうかな。さっきも鈴木に言われたんだけど、そんなにひどい?」
作り笑いを貼り付けながら、ナツキは慎重に言葉を返す。
「なんかすごく疲れてるように見えるけど、なんかあった?」
「いや、ただの寝不足で……」
「そうなの?なんか怖い夢でも見た?」
あっけらかんと聞いてくる彼に、そんなところ、と濁して答える。
同じ夢を小さな頃から繰り返して見てる、というのは、なんだか普通ではないような気がして言えなかった。彼に変な奴だとは思われたくなかった。変な奴、という括りで、覚えてほしくなかった。
「そうなんだ、俺もたまに見るよ、怖い夢」
警戒するナツキに、彼はからりと笑った。
「へぇ、どんな夢なんだ?」
鈴木が、にやにやと笑いながら彼に尋ねる。
「なんか、ワイドショーを見てる夢。俺は自分の家のリビングでそのワイドショーを見てるのね。でもその家も今の家とは違うやつ。でも、俺はそこを自分の家だと思ってんの」
その感覚はナツキにもわかる。ナツキがよく見る悪夢に出てくる家も、今のナツキの家とは違う。今のナツキの家はマンションで、夢の中は一戸建てだった。
「ワイドショーでね、なんか女の子が死んじゃった事件のことを報道してて、それでコメンテーターの女の人が泣いちゃって、それで」
「それで?」
どこか楽しそうに鈴木が先を促す。
「画面が中継に変わって、そこに俺の親が2人で映ってて……。もちろん、今の本当の親じゃなくて、あくまで夢の中の親なんだけど、なんか報道陣にインタビューされてた」
「……そのワイドショーの事件起こしたのは、実は夢の中のお前の両親だったとか?」
「うっわ、やめろよ、そういうこと言うの。眠れなくなるだろ」
彼はそう言いながら口を尖らせる。そんな子供じみた表情も可愛らしいと思ってしまう自分は、きっとどうしようもない。
「でも多分、違うよ。夢の中のニュースだと、女の子は殺人じゃなくて事故死みたいだったから。ただ発見がすごい遅れて、それで話題になってたみたいで」
その時、ナツキ達の頭の上で、始業のチャイムが鳴った。
はたと気付いた彼が言葉を止め、切り替えるように笑った。
「とにかく、夢なんだから、奈津川さんも気にしない方がいいよ」
じゃあ、また、と彼はナツキに笑いかけ、バタバタと自分の教室に戻っていく。
彼がいなくなった扉を見ながら、やっぱり無理して学校に来てよかった、とナツキは小さく思った。


「奈津川さん、何度もごめんなさい。今日もお願いできるかな?」
放課後。帰っていく秋田アキヒコを美術室の小さな窓から眺めた後、ナツキは昨日と同じように高橋に声をかけられた。なんでも、昨日封筒に入れ忘れたものがあったらしく、また『佐藤くんへ』と書かれた封筒を渡された。
そういえば、結局、昨日のあの子は何だったのだろう。
それとなく高橋に聞いてみたところ、『佐藤くん』は一人暮らしで、兄妹もいないらしい。それ以上のことは、なぜそんなことを聞くのか高橋に突っ込まれるのが嫌で、聞けなかった。
モヤモヤとしたものを抱えながら、ナツキは昨日来たばかりのマンションの前に立つ。
2度目ともなれば、さすがにナツキも多少は慣れる。迷いなくエントランスを抜け、103号室の扉にあるポストに封筒を入れた。
すとん、と扉の向こうに封筒が落ちた音がしたのを確認した後、いつものように図書館に行こうと足を踏み出した。
その時だ。
部屋の中からばたばたと走るような音がしたかと思うと、次の瞬間、重そうな金属の扉がバタンと開いた。中から飛び出してきたのは、昨日も見た冬服のあの子だ。今日は髪は結んでおらず、長い髪が緩く巻かれた状態で肩に垂れ下がっている。
厚い前髪の隙間から現れたギラリとした目が、ナツキを射抜いた。
思わずナツキの体が硬直する。
一体なんだ。何か言われるのか。混乱したまま、ナツキは開いた扉の前で立ち尽くした。
小さな口が、はくりと動く。
ごくり、とナツキは無意識に唾をのんだ。
「あ、あの、この前、道で、驚かせてごめんなさい……」
その言葉に、ナツキはパチリと目を瞬かせた。
この前とは、まさか夜道で出会った時のことだろうか。
思わず見返すと、髪の隙間から覗く目が、逃げ場を求めるように左右に揺れる。
「お、驚かせるつもりはなくて、本当にごめんなさい……」
「い、いや、別にいいけど……」
彼女の雰囲気につられて、ナツキも少し吃ってしまった。
「あの、あんなところで何を……?」
「散歩してて……」
ぼそりと彼女は答えた。
「あの日、すごく夜空が綺麗で、月も大きくて星もよく見えて、それで気分転換に外に出たんだけど」
彼女の眉がへにゃりと下がる。
今にも泣き出しそうに、目にじわじわと透明な膜が張っていくのが見えた。
「本当に空がすごく綺麗だったんだ。ひとりで見るのがもったいないくらいの綺麗さで。ふと、晴野さんに見せてあげたいなぁって思ったんだ。一度そう思ったら、どんどん悲しくなってきちゃって。どうして晴野さんはここにはいないんだろうって思うと辛くて、一歩も歩けなくなって」
そこを奈津川さんに見られてしまったんだ、と彼女は言った。
「なんで私の名前……」
「学年集会で、表彰されてるの見たことがあったから……」
彼女はもう一度、ごめんなさい、と呟いた。ナツキは思わず首を横に振る。
「その、晴野さんって……?」
「……僕の好きな人」
彼女の声のトーンが、一段低くなる。
晴野。はるの。学校ではあまり聞いたことのない名前だ。一度でも同じクラスになった子なら、ナツキも覚えている。そうじゃないということは、別の学年の子なのだろうか。
「でも、晴野さん、いなくなっちゃって……。せっかく、せっかく仲良くなれたのに」
「……いなくなったって、その、引っ越しとか?」
ナツキの問いに力なく首を横に振る彼女を見て、ナツキは聞いたことを後悔した。
そうか、そういうことか。
無神経に聞いた自分を、ナツキは殴りたくなった。
「晴野さんがいなくなって、どうしたらいいかわからなくなって。ちゃんとしなきゃって思っているのに、学校に行くと晴野さんのことばっかり考えちゃって、外に出ても晴野さんとこうしたかったなっていう後悔ばかりが浮かんできて」
彼女の目から、ついに涙がぽろぽろと溢れだした。
次から次に溢れるそれは雨にように地面に降り注ぎ、冷たい石の地面に水玉模様を作る。
「な、泣いてばかりでごめんなさい。わかってる。わかってるんだけど、思い出すとやっぱり悲しくなって……」
ひぐ、という彼女が喉を震わせる音が、あたりに小さく木霊した。
ナツキは何と言っていいかわからず、気まずそうに自分の腕を抱いた。
「……あの、ごめん、なんか変なこと聞いちゃって……」
「ううん、奈津川さんは悪くない。僕が……」
そう言って、彼女はまた濡れた目から涙をぽろぽろと落とした。
「あの、さ、一応確認してもいい?ずっと学校休んでいる佐藤くんって、あなたでいいんだよね?」
ナツキが問いかけると、彼女は少し迷った後、こくりと頷いた。
やはり、この子が『佐藤くん』だ。つまり、佐藤くん、ではなく、佐藤さん、だったということだろう。
何と紛らわしい。だったら封筒に『佐藤くん』なんて書かないでほしい。
ナツキは高橋のことがさらに嫌いになった。
「あなたはその、晴野さん、っていう人のことが好きだったの?」
ナツキの言葉に、彼女は涙目のまま、こくりと頷いた。
「好きだった。ずっとずっと好きだった。好きって言ってもらえて、恋人になれたのに。もっともっと、いろんなところに出かけたかったのに」
彼女ははっきりとは言わないが、おそらく、その晴野という人物は亡くなってしまったのだろう。そして、彼女はそのショックで、学校に来れなくなった。
「晴野さんがいなくなってから、いろんなことがよくわからなくなって。暑いのも寒いのも、眠いのも痛いのも、空腹も、自分の顔も」
ぼろりと大きな涙が、彼女の頬からこぼれ落ちる。
「ただ辛くて悲しい。晴野さんがいなくなっちゃった。みんなの中からも消えてしまった。僕も、いつかは忘れてしまうかもしれない。それは嫌だった。嫌で嫌で、毎日泣いていて、ある時ふと鏡を見たら、鏡の中に晴野さんがいた」
ああ、とナツキは思った。
きっとこの子は、好きな人が突然いなくなって、おかしくなってしまったのだ。
「僕が試しに冬服を着て、晴野さんと同じ紺色のマフラーをしたら、そこには晴野さんがいた。晴野さんはもういない。わかってるけど、鏡の中には晴野さんがいたんだ。その瞬間、ほんの少しだけ寂しくなくなった。僕が晴野さんがよくしていたお団子頭にしたら、鏡の中の晴野さんは、より晴野さんらしくなった。晴野さんが、この世界に戻ってきたような気がしたんだ」
だから、この子はこんな季節外れの格好をしているのだ。恋人の格好を自分ですることで、なんとかその存在を自分の中に留めようとしている。いなくなった悲しみを、なんとか紛らわそうとしている。
「晴野さんの格好をしている時は寂しくなかった。それなら外にも出られた。でも、駄目だって怒られた。馬鹿なことをするな、そんなことをして何になるって。……そんなの、僕にもわかってる。だけど、僕がこの格好をやめたら、晴野さんが消えてしまう。本当に、この世界から晴野さんがいなくなる。そう思うと怖くて、やめられなくなって……」
そうして夜な夜な徘徊する冬服の幽霊が生まれたのだろう。
学校で噂している人達はきっと、彼女のこんな事情を知らない。
「奈津川さんもごめんなさい。プリント届けさせちゃって……」
「いや、別にそれはいいんだけど……」
ナツキは家に帰るまでの時間潰しができたらそれでいいのだ。大した手間ではないし、謝ってもらう必要はない。
だけど、恋人がいなくなって泣き続けるこの同級生を見ていると、妙に胸の奥が騒ついた。
「……あのさ、そんなに晴野さんって人のことが好きだったの?」
恐る恐る尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「好き。ずっと好きだった。本当に、大好きだった」
彼女の声に、迷いは一切なかった。
「付き合ってたんだよね?」
「うん」
「告白はどっちから?」
「えっ……、えーと、僕、かなぁ?」
「そうなんだ、すごいね」
ナツキが言うと、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた後、そうかな、と少し照れ臭そうに笑った。
それは彼女が初めて見せた、泣き顔以外の表情だった。
「どうして告白できたの?」
「え、どうしてって……」
「振られるって思わなかった?好きって言って、引かれるって思わなかったの?」
今までの関係を壊すことが怖いと思わなかったのか。しかも今のこの格好を見るに、晴野さん、というのは女の子だろう。この子も女の子。異性に恋する子が多い中、同性に告白する勇気は凄まじいものだとナツキは思う。
ナツキの問いに、彼女は考えるように黙った。そして少し迷った後、ゆっくりと口を開く。
「僕、馬鹿だったから。クラスが変わって全然会えなくなって、それで焦って、なんとか僕のこと見てほしいって、それだけだったから……」
何も考えていなかった、と彼女は困ったように眉を下げた。
「……そっか」
自分には無理だ、とナツキは思う。そこまで向こう見ずになれない。
ナツキはみんなに好かれている人気者のあの男に、身の程知らずの恋をしている。
だからこそ、この恋を口に出すのは怖い。だって、叶わないことがわかっている。
望みなんてはじめからない。告白したところで傷付くだけ。向こうにも、余計な気遣いをさせてしまうだろう。
そんなのは嫌だった。それなら、ただの顔見知りとして認識されているだけで十分だ。
だからこそ、それを乗り越えて自分の気持ちを伝えられた彼女を、素直にすごいと思った。



「ねえ、うちのクラスの佐藤って子のこと、何か知ってる?」
掃除の時間、教室前の廊下を箒で吐きながら、鈴木に尋ねる。
鈴木はその人見知りしない性格もあって、顔が広く情報通だ。ナツキが知らないあの子のことを何か知っているかと思ったのだ。
「佐藤って佐藤チトセのこと?」
そう、とナツキはこくりと頷いた。鈴木は、んー、と考えるように宙を見上げた。
「実は俺もよく知らないんだよな。話しかけても、あいつ、俺にビビってんのか、あんまり会話にならねぇし」
そうなのか。でも言われてみれば、あの子はどちらかと言えば気弱そうだし、短髪でガタイもいよく、はっきりと物を言う鈴木は少し怖く見えるのかもしれない。
当てが外れてしまった、とチトセが内心がくりと肩を落とした。
「珍しいね。立ち話?」
その時、突然割って入ってきた思わぬ声に、ナツキは勢いよく振り返る。
そこには、柔らかな笑みを浮かべてこちらに近付いてくる秋田アキヒコがいた。
「なんだよ、アキヒコ。掃除ちゃんとしたのか?」
「したよ。同じ掃除班の子が優秀ですぐに終わっちゃった。で、何の話してたの?」
首を傾げて聞いてくる彼に、鈴木が簡単に説明する。
すると彼は、ああ、と頷いた。
「チトセのことだったら、1年の時同じクラスだったから知ってるよ」
チトセ。彼は大抵の人のことを名前で呼ぶ。
彼は距離の取り方が上手なのだ。突然名前で呼ばれても嫌な気はしない。
でも、彼はナツキのことは名前で呼ばない。ずっと苗字にさん付けだ。
前はなんとも思わなかったのだが、彼に恋をしてから、その呼び方がひどく気になるようになった。考えすぎかもしれないが、名前を呼ばれるたびに、お前は範疇外だと言われているような気がするのだ。
だけど、彼に「私も名前で呼んで」と言う勇気もない。言って、嫌な顔をされたら怖い。図々しい奴だと思われたくない。それならば、今のままでいい。ナツキには現状を壊す勇気などない。
色々な感情を飲み込み、ナツキは彼に尋ねる。
「本当?どんな子だった?」
「えーと、優しい子だったよ。優柔不断なところはあったけど、俺が困ってた時もなんだかんだ助けてくれたし」
「へぇ、何があったんだ?」
「いや、たいしたことじゃないよ。……ちょっと、図書室についてきてほしいって頼んだだけ」
その答えに、一拍置いた後、鈴木が大笑いした。
「だって、あの噂があってから高橋先生に1人で会うの気まずいんだよ!あ、あと、チトセと言えば童顔かな。正直、あまり同い年には見えなかった」
ナツキは昨日見た佐藤チトセの顔を思い浮かべ、あれ、と思う。
別に老け顔というわけではないが、特段すごく幼いという印象は受けなかった。でも、それは個人の感覚の差だろうか。
「仲良かった子とか知ってる?……付き合ってた子とか」
「んー、誰かいた気もするけど、ごめん、あんまりよく覚えてない。あ、でも、チトセ、ずっと体調崩して休んでるんでしょ?大丈夫かなぁ」
その顔は、本当に心からあの子のことを心配していて。
もし。もしナツキがあの子のように突然学校に来なくなったら、彼はこういう風に気にしてくれるだろうか。それとも、ナツキがいないことなど気にせず、別の子ににこやかに話しているのだろうか。
腹の奥から噴き出てくるどろどろとしたものを押し込め、そうだね、とナツキは当たり障りのない答えを返した。


もし告白して、振られてしまっても、彼は今まで通り普通に話しかけてくれるのだろうか。
図書館のカフェで、ガラスに反射する自分の顔を見ながらナツキは考える。
何の面白みのない顔だ、と静かに自嘲する。
かわいいわけでもない。綺麗なわけでも、化粧で化ける顔でもない。
もし、ものすごく自分が可愛いかったら、彼はナツキのことを名前で呼んでくれただろうか。
ナツキちゃん、と。あの澄んだ夏の空のような声で。
うっかり想像してしまい、ナツキは小さく首を振る。
そんなふうに呼ばれてしまったら、ナツキは間違いなく勘違いするだろう。
そう考えると、さん付けされている今の状況の方が、変に期待することもなくて、はるかにマシなのかもしれない。
そう自分を納得させようとするものの、自分だけ名前で呼ばれていないという状況は、どうしても引っかかってしまう。
別に好きになってもらえるだなんて思ってはいない。
だけど、せめて他の人と同じように扱ってほしい。みんな名前で呼ぶなら同じようにしてほしい。特別にしてなんて言わない。ただ、みんなと同じであれば、それでいいのに。
ガラスに映るナツキが、ぎゅっと眉を寄せた。
その時だ。
ナツキの顔の向こうに、見覚えのある人物がふらりと現れた。
季節外れの冬服に身を包んだ少女が、夜の道をひとり歩いている。
いつかのナツキと出会った時のように、また散歩でもしているのだろうか。
少し考えた後、ナツキは手早く荷物をまとめて立ち上がり、図書館から出た。
外は昼間の熱気が残っているせいか、むわりと蒸していた。
夢の光景を一瞬思い出し、ナツキは慌てて首を振る。
あれはただの夢だ。気にすることはない。
図書館の外壁に沿うように少し歩けば、カフェの外側にたどり着く。
その向こう側に探していた影を見つけ、ナツキは足を早めることなく、慎重に近付いていった。
ひとつに結ばれたお団子頭。首には暑そうなマフラー。紺色の冬服が、彼女の周りだけ冬になったような錯覚を覚えさせる。
彼女は、今日もたったひとりで、温い空気の中を揺蕩うように歩いていた。
その周りに人の姿はない。暗い街の中を、夜の海を泳ぐ魚のようにゆらゆらと進んでいく。
マフラーはまるで背びれのように、彼女の後ろで揺らめいていた。
「今日も散歩?」
声をかけると、弾かれたように彼女が振り向いた。
その目はいつかのように透明な膜で覆われていて。
声をかけたナツキの顔を見て、彼女は安心したように表情を緩めた。
「うん。奈津川さんは?」
「図書館で勉強してた。そうしたら姿が見えたから」
答えながら、彼女の隣に並ぶ。
彼女の目は相変わらず赤く腫れていた。きっと、今日も恋人を思って泣いていたのだろう。
もしも秋田アキヒコがいなくなったら、ナツキはここまで悲しむことができるのだろうか。
ナツキにはわからない。そこまで彼にのめり込むことも怖いと思う。
だから、真っ直ぐに恋人のことを思える彼女が、ほんの少し羨ましかった。
「あのさ、ちょっと聞いてもいい?嫌なら答えなくていいから」
「うん、何?」
「……いつから、その晴野さんのことが好きだったの?」
輪郭をゆっくりなぞるように、いつから、と彼女が小さく口を動かした。
「……1年の時から」
「中学は一緒だったの?」
「ううん。高校で会って、同じクラスになって。特に仲が良かったわけではなかったんだけど、ある日一緒に帰ることになって」
大切な思い出を丁寧に紐解くように、ぽつぽつと彼女は話しだした。
「冬で、雪が降ってる日で。晴野さん、雪が嫌いだって聞いたから、一人で辛い思いをしてほしくなくて。だからって僕が何かできるわけじゃないけど、横に誰かがいることで、ちょっとでも気が紛れたらいいなって思って、一緒に帰ろうって声をかけたんだ」
「自分から誘ったの?すごいね」
ナツキだったら、いくら心配でも、友達でもない人に自分から声をかけることはなかなかできない。せいぜい、後ろからこっそりついていくくらいだ。
「でも僕、話もそんなうまくなくて、質問にもうまく答えられなくて、結局晴野さんに気まずい思いさせてしまったんだ。それで落ち込んでたんだけど、晴野さん、そんなことないよって言ってくれて」
「優しいね」
「……うん、晴野さんは優しいんだ。そんな僕に、明日も一緒に帰ろうって言ってくれて」
びっくりした、と、その時の何かを思い出したのか、彼女は泣きそうな顔で笑った。
「それでまた一緒に帰ることになったんだけど、今度は晴野さんがたくさん話してくれて。多分、気まずくならないように、たくさん話題を探して来てくれたんだと思う。すごく嬉しくて、こんな僕のために頑張ってくれた晴野さんは、すごく優しいんだと思った。そして別れ際に晴野さんが、『本当は不安だったから、一緒に帰ってくれて嬉しかった、ありがとう』って言ってくれて」
真っ赤に腫れた目の縁から、また涙が膨れ上がるのが見えた。
「僕、いろんなことがあまり得意じゃなかったから、そんなふうに真っ直ぐに感謝されたのは初めてで。嬉しくて、気付いたら晴野さんのことで頭がいっぱいになった。もっと晴野さんと話したいと思ったし、晴野さん本人にも、晴野さんはこんな僕に優しくしてくれるくらい、すごい優しい人なんだよって伝えたくなった」
鼻を啜る音が静かな夜の道に響く。
彼女ははたと気付いて、慌てて袖で目を擦り、泣いてごめん、と誤魔化すように笑った。
ナツキは思う。
彼女達は、きっとお互い相性が良くて、惹かれあったのだろう。だけど、その恋人は彼女を残していなくなった。取り残された彼女はひとりで毎日泣き暮らしている。
これが振られたとかだったら、彼女もしばらく泣いた後、また立ち直れたのかもしれない。
でも、現実は違う。『晴野さん』は若くして、突然死んでしまったのだろう。
そんな悲劇が、テレビやネット越しではなく、こんな身近にもあったなんて。
ナツキは、きゅ、と小さく唇を噛み締める。
そんなナツキに構わず、彼女がボソボソと話を続ける。
「晴野さんがいなくなって、悲しくて悲しくて。本当は喜ぶべきことだったのに、全然そうは思えなくて。……僕は本当に出来損ないだ」
喜ぶべきこと、という言葉に引っかかりを覚えたが、口を挟める雰囲気ではなく、ナツキは黙っていた。多分、ただの言い間違えだろう。悲しんでいる彼女に、いちいちそんな言葉の間違いを突っ込めるほど、ナツキは空気の読めない人間ではない。
小さく震える肩を、ナツキは静かに見下ろす。
彼女と違って、ナツキは彼に告白するつもりはない。現状を変える勇気もないし、例え彼に恋人ができて、自分の恋が駄目になってとしても、彼女のように泣くことはできないだろう。
彼女は、ナツキがどこかで諦め、捨ててきた何かを、きちんと全部持っていた。
自分とは全く違う形で恋をしている彼女。
そんな彼女のことを、ナツキはもっと知りたいと思った。



放課後の美術室。
今日もナツキはひとり、作りかけの彫刻と向かい合っていた。
粘土で肉付けされたせいで、作品はだいぶ人らしい形になってきた。あとは衣装部分を作り込めれば、完成が見えてくる。
だが、そこで、不意にナツキの手が止まった。
正直、最近はいろいろなことがありすぎて、あまり作品作りに集中できていなかった。
気を抜くと、泣いている佐藤チトセの顔が頭を過ぎる。そこから芋づる式に秋田アキヒコのことを考えてしまい、手がぴたりと止まってしまうのだ。
これがスランプというやつだろうか。
ナツキが溜め息を吐いた時、廊下が俄に騒がしくなった。最終下校時間が近くなったから、残っていた生徒が帰ろうと昇降口に向かっているのだろう。
もうそんな時間になったのか、と視線を上げれば、ちょうど彼が扉の向こうを通り過ぎるところだった。
彼の目が一瞬こちらを見て、そのまま扉の影に消えていく。
今日は手を振ってもらえなかった。それが当たり前だ。その姿が見れただけでも幸せだと思おう。期待なんかしたところで、どうせ碌なことにはならない。
視線を手元に戻す。ナツキの前に鎮座する台座にいるのは、まだナツキの頭の中にあるものとは程遠い。早く作らなくては。この部屋を使える時間は限られている。ぼんやりしている暇などないはずなのに、ナツキの手は一向に動いてくれなかった。
たいしてかわいくもなくて、性格も良くなく、勉強だってそこまで得意ではないナツキが誇れるのは、この彫刻くらいしかなかった。
だが、それすらもできないとなると、一体、自分に何の価値があると言うのだろう。こんな自分を、一体誰が愛してくれると言うのか。
思考と共に頭も重くなる。思わず俯きかけた時、がらりと美術室の扉が開く音がした。
美術部の顧問だろうか。それともまた高橋が何か頼みに来たのだろうか。
面倒だと思いながら、のろのろと顔を上げる。
そしてそこにいた人物を見て、ナツキは目をむいた。
「遅くまでお疲れ様ー。調子はどう?」
秋田アキヒコがナツキの前でにこやかに手を振っていた。
あまりに突然のことにナツキは言葉を失った。
固まってしまったナツキに、邪魔してごめん、と彼は苦笑いをしながら、手に持っていたものをトン、とナツキの前に置いた。
「いや、さっき自販機で飲み物買ったら違うもの出ちゃって。俺、甘い紅茶飲めないから、よかったらもらってよ」
机の上に置かれたのはペットボトルのミルクティー。
彼から初めて何かをもらった。
その事実だけで、ナツキの頭は今にも弾け飛びそうにだった。
使い物にならなくなった頭のまま、とにかく礼を言わなければとナツキはなんとか口を開く。
「あ、ありがとう。ちょうど喉乾いてたから……」
「本当?よかったぁ」
安堵するように笑う彼に、ナツキの体の奥がきゅうと締まる。
どうしよう。急に顔が熱くなってきた気がする。心臓の音もいつもよりもうるさいし、膝の上に置いている手もかすかに震えている。
とりあえず変なことだけはしないよう、ナツキは腹の奥に力を込めた。
「奈津川さん、毎日残ってるよね?コンクールとかでもあるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。夏休み入っちゃうと受験で忙しくなっちゃって、ゆっくり作品を作る暇もないだろうから、最後になんか作っておこうかなって……」
どうして自分は今、彼と2人きりで話しているのだろう。
ナツキは混乱しながら必死に考える。
そんなナツキの緊張など露知らず、そうなんだ、と彼は感心するような声を上げた。
「そうやって何かを作れるのって、本当すごいよね。俺、奈津川さんのファンだから、応援してる」
ファンという彼の言葉に、ナツキは一瞬どきりとした。
だがすぐに深い意味はないはずだと思い直し、ありがとう、と笑って頭を下げる。
「冗談でも嬉しい。秋田くんにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」
「冗談なんかじゃないって。俺、本当に奈津川さん作ったもの、好きだからさ」
彼は当たり前のような顔で、そう言ってきた。
今度こそナツキは言葉を失う。
違う、違う。その好きはあくまでナツキの作ったものに対してであって、ナツキに対してではない。余計な気が起きないよう、ナツキは何度も自分に言い聞かせる。
だけど、彼の口から出た、好き、という言葉に、どうしても動揺が隠せない。
何か言わなくては。彼に変だと思われてしまう。
ナツキが必死に言葉を探していると、彼が扉を見て、あ、と声を上げた。
そこには、四角い窓の向こうで、ひらひらと手を振る鈴木がいる。
「一緒に帰る約束してたんだった。ごめんね、渡してすぐ帰るつもりだったのに邪魔しちゃった。じゃ、また明日」
そう言い残し、彼は慌てるように美術室から出ていった。
ぴしゃりと閉じられた扉をナツキは呆然と眺める。
今日は一体どうしたのだろう。わからない。だけど、彼と2人きりで話すことができた。
嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、そのまま体が燃えて消えてしまいそうだった。
思い返すだけで、耳の奥まで熱くなる。
こんな日はもう来ないかもしれない。そう思えるくらい、すごく恵まれた時間だった。
熱に浮かされたまま、ナツキはふらりと立ち上がる。
ここを片付けて帰らなければ。でも、体がふわふわしてあまり現実感がない。放っておくと、顔が勝手ににやけてしまいそうだ。
だけど喜べば喜ぶほど、愚かな期待をしている自分が否応にでも浮き彫りになっていく。
馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずはないのに。
そう自分に言い聞かせるナツキを嘲笑うかのように、それから彼は、ナツキしかいない美術室にたびたびやってくるようになった。



「こんばんは」
図書館の前で、ひとりでふらりと歩いていたチトセに、ナツキは声をかける。
「こ、こんばんは」
ナツキに気付いたチトセが、はにかんだような笑顔を見せた。
はじめは呼びかけるたびにビクついていた彼女も、日を追うごとにナツキに慣れてきたのか、今ではが表情も随分柔らかいものに変わっていた。
彼女にプリントを届け、言葉を交わした日から数日。
ナツキは彼女を見かけると、こうして声をかけるようになった。
美術室で最終下校時刻まで過ごした後、図書館に向かい、チトセがいれば彼女と話して家に帰るまでの時間を潰す。それがナツキの新しい日課になっていた。
彼女との話題のほとんどは、『晴野さん』との思い出話だった。
正直、人の恋愛話には興味がなかったナツキだったが、不思議と彼女の話は聞きたいと思った。
それは、彼女の思いはあまりに真っ直ぐで、生々しかったからかもしれない。
生々しいというのは、ドラマのような作りものじゃない、という意味ではない。多かれ少なかれ、人は本音を隠して生きている。こんなことしたらみっともないとかかっこ悪いとか。特に大人になればなるほど、みんなカッコつけたがる。かっこいいと思っても素直にそう言わないし、欲しいものがあっても強がっていらないふりをする。ナツキだって、彼のことが好きなはずなのに、好きという態度はとれない。
だけどチトセは違う。恋人のことを素直に好きだといい、亡くしてしまったことを心から悲しんみ、外聞など気にせず涙を流す。
そんな彼女の生々しさが、ナツキは少し羨ましかったのかもしれない。
どうしたらそんな素直でいられるのか。どうしてそう、好きなものを好きだと真っ直ぐに言えるのか。
その疑問から、ナツキはチトセに色々なことを聞いた。恋人との馴れ初めだけではなく、その好きなところや、恋人といて何を思っていたかなども。
一度、さすがに根掘り葉掘り聞きすぎてしまった、と彼女に謝ったこともある。
すると、彼女は慌てたように首を横に振った。
「ううん、僕も晴野さんのことたくさん聞いてもらえて嬉しいんだ。今までこんなこと誰にも言えなかったし。それに、奈津川さん、いろんなことを聞いてくれるでしょ?だから、話すたびに僕もいろんなこと思い出すことができる。晴野さんとこんなことも話したなぁとか、あの時、晴野さん、こんな顔してたなぁって。晴野さんのこと、たくさん考えることができた。ひとりだと悲しい時のことばかり思い出しちゃうから、奈津川さんのおかげで悲しい時じゃない、楽しかった時の晴野さんをたくさん思い出すことができたんだ」
謝ったはずなのに、逆に、ありがとう、と言われてしまい、ナツキはどういう顔をしていいかわからなくなった。
そんな裏も表もない彼女に引きずられるように、気付けばナツキは彼女に自分の片想いを打ち明けていた。
同じ学年の人に恋をしていると。秋田アキヒコの名前は伏せて。
「その人、2年の前期の委員会が一緒でさ」
ナツキが偶然入った美化委員会。そこに秋田アキヒコもいた。
はじめは、クラスも違うこともあって、彼と特に関わりはなかった。ナツキとしても、あれが人気と噂の秋田アキヒコか、くらいにしか思っていなかった。
急接近したのは夏頃のことだ。
「その頃、委員会でポスターを作ろうって話になったんだ。当然、美術部の私に話が来たんだけど、私、彫刻以外は本当に何もできなくて。でも、周りはそれを謙遜としか思ってないみたいで、いくら断っても大丈夫だよって励まされるばっかり。どうしようかと思ってた時、前の席に座ってた彼が『じゃあ、俺がやります』って手を挙げてくれたの」
その時の真っ直ぐに伸びた背中と白いシャツを、ナツキは今日のことのように思い出せる。
ナツキにとって、それは救いの声だった。
描きたい人がいるなら是非そっちに。そう言うナツキに、周りの生徒達は、じゃあ、せっかくだから2人にお願いしようかな、と笑顔で言い放ち、結果、ナツキは彼と2人でポスターを作ることになったのだ。
「はじめは2人で作業するのがすごい気まずくて。そもそもあまり関わりのない人だった上に、かっこよくて人気のある人だったから。彼に好意を持っている人から睨まれたらどうしようって不安だった」
だが、彼はそんなナツキの壁を、あっさりと笑顔で飛び越えてきた。
彼はよく喋った。ナツキが気まずく感じる暇もないくらい、いろんなことをナツキに聞き、話してくれた。ポスターも彼が率先して色々動いてくれ、ナツキはほとんど絵を描かずに済んだ。
彼がナツキに気を遣ってくれていたのはすごくわかった。その優しさに、ナツキは心から感謝した。
「だから、ポスターが完成した時にお礼を言ったの。何から何まで本当にありがとうって」
その時、彼は言ったのだ。
『実は俺、前に奈津川さんが作ったやつ見たことあってさ。去年、美術室に飾ってあった踊ってる女の人のやつ』
ナツキはいつも、バレリーナがモチーフの作品を作っている。
彼が言っているのは、去年ナツキが作ったもので、コンクールに出すために美術室においていたものだろう。
『俺、あれがすごい好きでさ。あれ見た時から、ずっと奈津川さんのファンだったんだ』
だから、ちょっと張り切っちゃった、と彼は子どものように笑った。
その言葉はナツキにとって信じられないものだった。
だって、相手は学年トップクラスの人気者だ。そんな関わりのない相手が、ナツキが作った粘土彫刻を見てくれていたなんて。
「もちろん、彼の言葉はただのお世辞かもしれない。だけど、それでも嬉しかった。私の知らないところで私が作ったものを見て、好きだと思ってくれる人がいてくれたことが」
それがナツキの恋の始まりだった。
「その人に、好きって言ったの?」
チトセが無垢な目で聞いてくる。
「まさか。私は、チトセみたいに告白する勇気はないよ」
「どうして?」
不思議そうに彼女が首を傾げる。
どうしてって。そんなの、言えるわけがない。
だって、言ったところで、何にもならない。むしろ失うものの方が多すぎる。
だから言わない。何も言わない。今のままでいるほうがいい。
「……さっきも言ったけど、その人、人気あるんだよね。私なんか相手にされるわけない。むしろ、私が横に立ってたらおかしいし。だから」
言わないし、言えない。
ぽつりと漏らしたナツキの本音。それに彼女からの返事はない。
変に重くなってしまった空気に、ナツキは慌てて付け加える。
「ほら、今から受験だし。受験前にお互いに変なことしたくないしね。心穏やかに受験したいじゃん。だから別に言わなくても。それに、最近、彼がよく美術室に顔を出してくれるんだ。そんな長い間じゃないけど、毎日ちょっとだけ2人で話せる時間が増えた」
あの飲み物をもらって以来、彼は毎日帰り際に美術室に入ってくるようになった。
調子はどう、と言いながらナツキの手元を眺め、軽い世間話をして、また明日、と去っていく。
そんな夢のような時間が続いている。
だからこそ今、変なことを言って、この時間を壊したくはなかった。
「それだけで十分。欲張っても、いいことなんかない」
「でも」
チトセの声が、わずかに滲む。
「言えるうちに言っておいたほうがいいよ」
いつ言えなくなっちゃうかわかんないから。
彼女の言葉が、夜の空気に重く響く。
でも、とナツキは思う。
もし彼がナツキの思いを伝える前にいなくなったとしても、おそらくナツキは後悔しないだろう。
だって、こんな醜い下心を彼に知られずに済んだのだ。ナツキの面目は保たれる。
チトセはきっと、その綺麗で真っ直ぐな想いを受け止めてもらえた経験があるから、そう思うことができるのだ。
ナツキは、この思いの行先がゴミ箱であることを知っている。
だけど、それを純粋なチトセに言うことはできない。
「……そうだね」
いつかそうできたらいいな、とナツキはチトセに笑いかける。
彼女は何も言わず、悲しそうにそっと唇を噛み締めた。



誰もいない、放課後の美術室。
作りかけの彫刻の前で、ナツキは額を机に押し当て、小さく唸る。
彫刻の進捗が芳しくない。
こんなに彫刻に集中できないのは、高校になってから初めてだった。
原因など考えなくてもわかる。秋田アキヒコのことだ。
ただでさえ、毎日チトセと恋愛の話をしているせいで、いやでも自分の恋愛感情に向き合う羽目になっているのに、そこにきて、恋する相手が毎日ナツキのいる美術室に来るようになってしまった。短い時間とはいえ、ナツキの冷静さを失わせるには十分だ。
文字通り寝ても覚めても彼の顔が、声が、頭をよぎってしまう。
「どうしたの?大丈夫?」
突如頭の上から降ってきた声に、ナツキは慌てて体を起こした。
ずっと机に押し当てていたせいで額が少し痛いが、今はそれどころではない。
目の前に、心配そうにこちらを見る秋田アキヒコがいた。
いつの間に美術室に入って来たのか。考え込んでいたせいで全く気付かなかった。
ナツキは慌てて前髪を整え、姿勢を正して彼を見る。
「……ごめん、なんでもない」
「そうなの?奈津川さんが机に突っ伏してたからさ。もしかして具合でも悪いのかと思って焦っちゃった」
なるほど、どうやら彼にはナツキが倒れているように見えたらしい。
やっぱり彼は優しい、という思いと、好きでもないなら放っておいてくれ、という思いが胸の中でぐちゃぐちゃになる。
ナツキは唇を引き締め、大丈夫、とそっけなく答えた。
「なかなかうまく作れなくて悩んでただけだから。気にしなくていいよ」
「えー、気になるよー。俺、奈津川さんのファンだし」
言ったじゃん、とへらりと笑われて、どきりとする。
わかってる。彼はファンという言葉を、ナツキが思うよりも軽い意味で使っている。深い意味はなく、ナツキが期待する意味もない。その証拠に彼は何度もファンだと言ってくる。
それでも、好きな人から好意的な言葉をかけられて、喜ばない人間はいないだろう。
ナツキは緩みそうな頬に力を込め、どうも、と小さく答えた。
「そういえば、奈津川さんがいつも作ってる、あの踊ってる女の子って、誰かモデルいるの?」
「……いるっていうか、いないっていうか」
ナツキの返事は歯切れが悪かった。
ナツキがいつも作っているバレリーナのモデルは、ナツキの悪夢の中に出てくる子だ。死にかけた自分が想像している、過去の自分。だから、彼女のモデルはいるのだが、誰かと聞かれると説明に困る。
どう答えていいかわからず言葉を濁していると、彼は近くに置かれていた椅子を引っ張ってきてナツキの前に、すとん、と腰を下ろした。
完全に話を聞く体勢だ。
これで何も話さないと、アーティストぶって秘密にしている、と思われるかもしれない。
ナツキは恐る恐る口を開いた。
「……夢に出てくる子で」
「夢?」
こてんと首を横に傾げる彼に、ナツキはこくりと頷いた。
「うん、夢。……あの子にはずっと踊っていてほしいから」
彼女が踊っている限り、不幸なことは襲ってこない。全ての悪夢は、彼女が舞台を降りてから始まったのだ。彼女の踊りは、ナツキにとって幸せの象徴だった。
でも、それをどう彼に説明していいのかわからない。
きょとんとした顔をしている彼を見ていると、だんだん居た堪れないような気持ちになり、ナツキは慌てて誤魔化した。
「意味不明でキモイよね。ごめん、忘れて」
「えっ、なんで?」
「なんでって……、だってキモいでしょ。夢に出てくる子を作ってるとか」
言えば言うほど、自分の行動の気持ち悪さが明確になっていくような気がする。
やはり言わないほうが良かったと悔やむナツキに、彼は真剣な顔で言った。
「キモくなんかないよ。ね、そのことって他の誰かに言ったことある?」
「彫刻のモデルが夢の中の子だって?まさか、言うわけないし。絶対引かれる」
今だって、本当は正直に言う気なんてなかったのだ。ただ彼が期待したような目で見るから、思わず言ってしまっただけ。
「じゃあ、このこと知ってるのって俺だけ?」
「うん」
すると彼は、目を輝かせて笑った。
「やった、嬉しい」
彼の予想外の反応に、ナツキは目を瞬かせた。
嬉しいってどういうこと。その言葉を、どういう風に受け止めたらいいかわからない。
驚きのあまり、言葉を発せずにいるナツキを置いて、彼はひとり、子どものように喜んでいる。
「奈津川さんの作品の秘密を知ってるのが俺だけって、すごい特別感があっていいね」
ただひたすら上機嫌な彼に、ナツキは、はぁ、としか返せない。
おそらく彼は、誰も知らない秘密を一番に知ったから喜んでいるのだろう。
そこで、ナツキははたと気付き、慌てて彼に懇願した。
「ま、周りに絶対言わないでね。キモいって思われたくないし」
「大丈夫、絶対言わない。だって、もったいないじゃん。せっかく2人だけの秘密なんだし」
そう言って、悪戯っ子のように笑う彼に、ナツキの頭は真っ白になった。
期待してはいけない。期待するだけ無駄だ。そう何度も言い聞かせてきたのに。
どうしよう。溢れてしまって止まらない。もしかしたら、と思ってしまう。
だって、現に彼はナツキと秘密を共有できたことに喜んでいる。そしてそんなことを、好意のない人間相手に思うはずがない。
違う、違う。そんなはずない。そんな奇跡、そんな『もしも』があるはずない。
だが、いくら理性が叫んでも、溢れる熱が全てを溶かしていく。
『言えるうちに言っておいたほうがいいよ』
チトセの言葉が、ぐらりと頭を揺らす。理性を崩す。その気遣いの言葉を、今、ナツキは愚行の言い訳にしようとしている。
からからに乾いた口を、ナツキは開いた。
「あの」
「あ、もうこんな時間じゃん」
時計を見た彼が立ち上がった。
ガタリという音が、茹で上がったナツキの頭を現実に引き戻す。
どく、どく、とうるさい鼓動が、ようやくナツキの耳に届いた。
危なかった。熱に浮かされて、変なことを言いそうになった。
ナツキは動揺を落ち着かせるために、机の下でぎゅ、と手を握る。
「もしよかったらさ、途中まで一緒に帰らない?」
その瞬間、おさまったはずの鼓動が再び大きく鳴った。

「下駄箱で待ってるから」
彼はそう言って美術室を出ていった。
その背を見送った後、ナツキはどこか夢見心地のまま、最速で片付けをした。
何があるわけでもないけれど、粘土で汚れた手をいつもより念入りに洗い、無駄に丁寧に机の上を綺麗に拭いた。そして出していた筆箱を鞄に投げ入れ、美術室を後にした。
夏の夜の廊下は、教室から漏れ出るエアコンのおかげで涼しかった。
走り出したいのを我慢しながら、ゆっくりと一歩一歩進んでいく。
彼を待たしているから、本当は走っていきたかったが、走るほど一緒に帰りたかったのかと思われるのも恥ずかしかった。
この廊下の角を曲がれば昇降口だ。
そうして慎重に一歩を踏み出した時、彼が誰かと話している声が聞こえた。
ナツキは思わず曲がり角の影に隠れる。
「俺は後で帰るから、先に行ってていいよ」
「ふぅん、わかった」
返ってきた声は、ナツキにも馴染みのある鈴木の声だった。
彼らはよく一緒に帰っているようだった。だから、今日は鈴木に先に帰るように言っているのだろう。
ナツキと帰るから一緒に帰れない、と暗に伝えていることが、なんだか気恥ずかしかった。
鈴木がいなくなってから彼の元に行こう、とナツキは心に決めた。
「そういや、アキヒコ。お前、奈津川に聞いたの?幽霊の話」
唐突に耳に入ってきたその言葉に、ナツキは思わず彼を見た。
だが、ナツキの場所からだと彼の表情は下駄箱に隠れてしまっていて、よくわからない。
「……まだ、聞いてない」
彼の答えに、なんだかひどく嫌な予感がした。
「なんで?やっぱり口固い?」
「そうじゃなくて、急に美術室に行って、そのこと突然聞いたら変だろ」
「え、じゃあ、何?お前、最近よく美術室に行ってるけど、何も聞かずにただ世間話してただけ?」
「そう」
「マジで?」
呆れるような鈴木の声。
これは一体何の話をしているのか。
どくり、どくりとナツキの心臓が大きな音を立てる。
「でも、気になるなら俺を使わないで自分で聞けよ。席も隣なんだし」
「えー、俺が聞いても奈津川は答えないって。アキヒコの方が絶対いい。この学校でお前を嫌ってるやつなんていねぇし」
「そっちも同じだろ」
めんどくさそうに彼が息を吐く音がする。
「なんでテンション下がってんだよ。そっちだって、奈津川があの幽霊と2人で歩いてたって話を聞いた時は乗り気だったくせに」
「そうだけどさぁ」
つまり、彼が美術室に来てナツキと話すのは鈴木の差し金で。
「何?あいつと2人で話すの、そんなに嫌?別に変な奴じゃないと思うんだけど」
「嫌っていうか、騙してるみたいだし」
「騙してねぇだろ。アキヒコがさっさと幽霊とのこと聞けば終わりじゃん」
彼の目的は、ナツキが仲良くしているという噂の幽霊の話を聞くこと。
ここ最近、美術室に来てナツキと話してくれたのも、全部幽霊とのことを聞き出すためで。
ナツキは、それを知らずに馬鹿みたいにひとり喜んでいただけ。
「だって、奈津川さんに、『幽霊?何それ』って言われたら、俺、馬鹿みたいじゃん」
「そうしたら俺が慰めてやるから」
「全然嬉しくないし!」
下駄箱の向こう側で、楽しそうな笑い声が上がる。
どうしよう。視界がゆらゆらと揺れている。だけど、ここで泣くわけにはいかない。
泣いているところをもし彼らに見られたら、なぜ泣いているのか不思議がられるだろうし、そんなことで泣いてるのかと思われるのも嫌だ。
ナツキは音を立てないよう慎重に踵を返し、今来た廊下を戻る。
そして、再び美術室の中に入り、後ろ手で扉を閉めた。
ぱたり、と足元に雫が落ちた。
馬鹿みたい。馬鹿みたい。馬鹿みたい。
勝手に期待して、馬鹿みたいに喜んで。
馬鹿みたいではない。馬鹿だ。本当に。救いようもない、ただの馬鹿だ。
あの彼が用もなく自分の話しかけてくれることなんてあるはずない。なかったのだ。それなのに、馬鹿な自分は勝手に盛り上がって浮かれてた。
ついさっきまでの自分を鈍器で殴りたい。そんなことあるわけないだろうと水を被せてやりたい。
現実を見ろ。よく考えろ。自分が彼につり合うとでも思っていたのか。彼が好きになってくれるような人間だと、思っていたのか。
そんなのただの思い上がりだ。自分なんてたいしたことない。彼のように人気者でもない。
今、彼と話せるのは、彼と仲のいい鈴木と席が近いから。それだけ。席替えをして離れてしまったら、きっともう話すこともなくなる。そのまま受験になって、大学はきっとバラバラになる。そうして、ナツキは彼に忘れられていくのだろう。
ひくりと喉が鳴る。歯を食いしばっても、嗚咽が喉の奥から溢れてくる。
どうしよう。こんな状態で彼と帰れない。さっきまですごく幸せだったのに。この上ないくらい嬉しかったのに。
今はもう羞恥で死にそうな気分だ。
どうしよう。どうしたら。
剥き出しの腕でぐい、と目を擦った時、背中にある扉が、コンコン、と叩かれた。
「奈津川さん、大丈夫?」
彼の声だった。
きっといつまで経っても玄関に来ないナツキを心配してきたのだろう。
いつもだったら感動する優しさだ。だが、今は鬱陶しい以外の何ものでもなかった。
ナツキはゆっくりと息を吐き出し、お腹に力を込めた。
「ごめん、忘れ物ないか確認してただけ」
そうしてくるりと振り向き、扉の向こうにいる彼に向き直る。
「大丈夫、なんでもない」
自分に強く言い聞かせるように、そうはっきりと言った。
なんでもない。そう、全部なんでもないことだ。
こんなもの、たいしたことではない。よくある話だ。そもそもナツキの恋がうまくいく可能性は限りなく低いのだ。優しい彼の言葉で勝手にナツキが舞い上がっただけ。
誰も何も悪くない。ナツキが馬鹿だっただけだ。
ただそう自分に言い聞かせても、一度萎んでしまったナツキの心がすぐに戻るわけではない。
こんな状態で一緒に帰れるわけがない。
ナツキはがらりと扉を開け、彼に向かってにっこりと笑った。
「ごめん、やっぱりもう少し作業したいから、先に帰っててくれる?」
ナツキが笑顔のままきっぱり言うと、彼は戸惑ったように目を瞬かせた。
「え、そうなの?」
「うん、ごめんね、また明日」
手をひらひらと振ると、彼は戸惑いながらも頷いてくれた。
これで今日のところは大丈夫だろう。そう思ったのも束の間、先程の彼と鈴木の会話が蘇る。
もし、彼が今日ナツキから幽霊の話を聞き出せなかったら、彼はまた明日も美術室に来るのだろう。そしてナツキはまた、今日のこの気持ちを味わう羽目になる。
だったらもう、今日終わらせてほしいと思った。ナツキのことが好きじゃないのなら、もう一切関わってほしくなかった。
「そうだ、秋田くん、私が噂の幽霊と仲が良い話が聞きたいんだって?」
そう聞けば、彼は悪戯がバレた子どものように、大きく目を見開いた。
「えっ、なんで……」
「まぁ、いいじゃん。で、何が聞きたいの?言っとくけど、あの子、幽霊じゃないよ」
あなたも知っている佐藤チトセだ、と胸の中で付け足す。
そこまで言ってやろうかとも思ったが、言ってしまうと、彼女が学校に戻ってきたときに変な噂が立つかもしれない。
今のところ、あの幽霊の正体を知っているのは、教師とナツキくらいだ。噂関係に敏感な鈴木も、あれが同じクラスで不登校になっている佐藤チトセだとわかってはいないようだった。むしろ正体を知らないからこそ、仲良くしているナツキに探りを入れようとしたのだろう。
だからこそ、これからの彼女のために、ナツキはその名を言うわけにはいかなかった。
「じゃあ、何?」
開き直ったのか、彼も固い声で問い返してきた。
「何って……、ただの同い年の女の子だよ」
「うちの制服着てるってことは、うちの生徒?」
「どうだろうね」
はぐらかすように、ナツキはへらりと笑う。
「なんで冬服着てるの?」
「ああ、それ知りたい?」
ナツキの嗜虐性に火が灯る。
口元にうっすらと笑みを湛えて、ナツキは答えた。
「あれ、あの子の恋人が最期にしてた格好なんだって。恋人が死んじゃって悲しくてどうしようもなかったけど、あの服装をしてると、恋人がまだそばにいるような気がするんだって」
その言葉に、彼は少なからずショックを受けたようだった。
そんな理由であの格好をしているなんて思いもせずに、鈴木に言われて軽い気持ちで踏み込んできたのだろう。ナツキ自身も、チトセから聞いた時は驚いた。
傷付いた表情を浮かべる彼に、ナツキは心の中でざまあみろ、と罵る。
鈴木に唆されて、聞いてこなければよかったのに。そうしたら、そんなにショックを受けずに済んだのに。
ナツキは嘲笑うように口の端をあげる。
「もういいかな?作業したいから、そろそろ出てってくれる?」
感情を置き去りにして、口だけがペラペラと動く。
棚に置かれた物言わぬ粘土の塊達が、それを黙って見つめている。
「……奈津川さん」
「出てって。これ以上、私の邪魔をしないで」
目も向けずにそう告げれば、少しの間の後、彼が唇を噛むように俯き、こちらに背を向けた。
そのまま廊下の向こうに消えていく背中を、ナツキは立ち尽くしたままぼんやりと眺めた。
夢の時間は終わってしまった。
その事実がナツキの心を容赦なく突き刺した。


別にいいのだ。
ナツキはそう胸中で呟きながら、再び作りかけの彫刻に向き合う。
もともと彼とどうこうなれると思っていなかった。彼がナツキの作品を気に入ってくれたと言ってくれたのも、多分リップサービスのようなものだし、真に受ける方が馬鹿馬鹿しい。最近よく話していたのも、たまたま彼と仲のいい鈴木がナツキの隣の席にいたからで、席替えがあればその縁も簡単に切れる。
だから、これでナツキは彼と適正な距離感に戻れることができるのだ。
そう自分に言い聞かせながら、ナツキは必死に手を動かす。
頭の中では、いつもの少女が舞台の上でひとり踊っていた。
彼女を作らなければ。ずっとずっと彼女に踊っていてもらわなくては、幸せは続かない。そうだ、今日のこれも、彼女をもっと早く作らなかったから起こったのかもしれない。
プリエ。前の足を伸ばして、そこに体重を乗せる。手を上に。胸も腹も全て引き上げて。
そしてアラベスク。
上から差し込む白い光。その中で、彼女は伸びやかに手足を伸ばす。
気付けばナツキの目から、ぽろりと涙が溢れていた。
ぽろぽろとこぼれ落ちたそれはナツキの膝に落ちて、スカートの醜い染みになる。
それでもナツキは頬を拭うことなく、粘土を指で伸ばし続けた。
手は天に引っ張られるように高く真っすぐ。背中を弓形に反って、美しい曲線を描いて。足を後ろに。
「奈津川さん?」
名前を呼ばれて、反射的に振り向く。涙のせいで視界がぶれた。
そこにいたのは司書の高橋だった。手には鍵束を持っている。
そのままゆるりと視線を壁の時計に向ける。
もう8時半をとっくに過ぎていた。
「……すみません。帰ります」
ガタリと立ち上がれば、高橋は慌てたように、ゆっくりでいい、と答えた。
泣いている生徒にはきつく言いにくいのだろう。
ほんの少しの申し訳なさを抱えながら、ナツキは手を洗い、黙々と片付けを始めた。
ずっと後ろから高橋が見ているのが気になるが仕方がない。気まずいのはあっちも同じだ。
特に話すこともなく、無言で手を動かしていると、不意に高橋が口を開いた。
「あのね、先生は超能力者なの」
突然何を言い出すのかと、ナツキは泣いているのを忘れて高橋を見る。
一体なんの冗談かと思ったが、その顔は至って真剣だった。
「実は人の記憶を消すことができるの。やり方も簡単。人の頭に手をかざすだけで、その人の消したい記憶を消せることができるの」
「はぁ」
すごいでしょ、と言わんばかりの口調に、ナツキはどう返していいかわからず、口から気の抜けた声が漏れる。
この人は不思議ちゃんの属性もあったのか。
半ば呆れながら眺めていると、だからね、と高橋が意を結したように言った。
「奈津川さんがやりたいようにやって大丈夫だから。もし何かあっても、先生が超能力で記なんとかしてあげる。……だから、どうか悔いのないようにね。何があっても、先生達は、先生は」
あなたの味方だから。
その言葉で初めて、この司書が、泣いているナツキを励まそうとしていたことを知った。


学校を背に、とぼとぼと暗い道をひとり歩く。
空に輝く白い星が、そんなナツキを無言で見下ろしていた。
今日はさすがに図書館に寄るつもりはなかった。本当はチトセに会いたかったけど、学校に遅くまでいたせいで、普通に帰るだけで9時近くになってしまうだろう。
門に向かいながら、ナツキは彼との美術室でのやりとりを反芻する。
彼に、あそこまでキツく言う必要はなかったかもしれない。
彼に言ったことを思い出し、今になってナツキは少し後悔した。
正直、あの時は動揺して、頭に血が上っていた。もっと違う言い方をすればよかった。そうすれば明日以降、彼と会っても気まずい思いをせずに済んだだろう。それどころか、ナツキのやりようによっては、今まで通り、彼と美術室で話すこともできたかもしれない。
だが、ナツキはそれを選ばず、全て壊すことを選んだ。
好きになってもらえる保証がないのなら、これ以上、優しくされることが辛かった。
いっそのこと、ナツキのことを嫌ってくれた方が気が楽だ。その方が、ナツキだって諦めがつく。そう思っていた。
だけど。
楽しかった美術室での記憶が、ナツキの胸の中を掻き乱す。
彼がナツキに話しかけていたのは、ナツキから噂の幽霊の話を聞き出そうとしていただけ。
そうとは知らず、馬鹿みたいに浮ついていた自分が恥ずかしくて、彼にあんな冷たい態度を取った。
でも逆に、彼の方から近寄ってきてくれたことをチャンスと捉えて、彼との距離を縮めることだってできたはずだった。
そっちの道を選べなかった自分の短慮さに、ナツキはなんだか笑いたくなった。
止まったはずの涙が、苦い後悔と共にまた込み上げてくる。
どうか悔いのないようにね、と高橋は言った。
言うのが遅すぎる、とナツキは胸中で高橋を罵る。
もし明日、彼に謝ったら、彼は許してくれるだろうか。
優しい彼はきっと許してくれる。だけど、何もなかったことにはならないだろう。
あんなこと言わなければよかった。そうしたら、これからも彼と話し続けられたかもしれない。
あの時、自暴自棄にならなければ。そうすれば、もしかしたら全部今まで通りでいられたかもしれないのに。
「奈津川さん」
まさかの声に、ナツキは思わず振り向いた。
そこにいたのはナツキが恋する男。
「……秋田くん」
学校の門の影に、彼は無表情で立っていた。
それは、いつも快活な表情をしている彼からは結びつかないような険しいもので。
どうしてそんな怖い顔をしているのか。
そう思った瞬間、彼の姿に、見知らぬ大人の男の姿が重なった。
え、と思う間もなく、唐突に、ナツキの頭に知らない記憶が蘇った。
あれは、習っていたバレエで初めてソロの舞台に立った時のことだ。
出番が終わり、楽屋に戻ると、いつもそこで待っていてくれた母親の姿がなかった。
代わりに先生達がバタバタしていた。他の子の親達が変な目でこっちを見ていた。
どうしたんだろう。明らかにいつもと違う。何があったのか。
ナツキが困惑し始めた時、楽屋にスーツ姿の父親が現れた。
そして言ったのだ。お前の母親はもういない、と。
『お前も俺もあいつに捨てられたんだ。くだらないバレエも今日でおしまいだ。さっさと帰るぞ』
そう言って父親は、ナツキの手を無理矢理引いた。
その父親は今の優しい父親とは全く違う。でも自分の父親なのだとナツキは知っている。
ナツキの生活は、それから一変した。
『一体何をやってたんだ。男と遊んでいたのか』
父親が仕事から帰ってきた時に、ナツキが食事の準備や掃除が終わらせてないと、ひどく怒られるようになった。違うと言っても聞いてくれなかった。ナツキは今まで踊ることばかりで、家事をしたことがなかった。だから、学校から帰った後に買い出しや料理をしていたら間に合わなかっただけ。でも、母親に捨てられ、ひどく傷付いた父親にそんな娘を慮る余裕はなく、そのうち父親もあまり家に帰って来なくなった。中学生になったばかりのナツキを、ひとり家に残して。
後から聞いた話だが、母親はバレエ教室の若い男のスタッフと駆け落ちしたらしい。ナツキをバレエに熱心に通わせたのも、その男に近付く為だったそうだ。
「驚かせてごめん。俺、奈津川さんに、どうしても言いたいことがあって」
聞こえてきた声が、果たしても誰のものか、ナツキにはもうわからなくなっていた。
ナツキは無意識に一歩下がる。
聞いてどうする。それを聞いたら、ナツキは不幸になるかもしれない。彫刻もできなくなり、またひどく怒られる日々が続くかもしれない。そして最後、ナツキはひとりで苦しんで、床に、溶けて。
恐怖が蘇り、ナツキの体が小刻みに震え出す。
まだ間に合う。これ以上聞いてはいけない。逃げなければ。逃げなければ。
じゃないと、またナツキは不幸になる。
「待って!」
気付けば、ナツキは彼から逃げるように駆け出していた。
すぐ後ろから誰かが追いかけてくる音がする。
怖い。怖い。怖いものが追ってくる。
ナツキを不幸にするために。夢のように、ナツキを正しく不幸にするために。
ずっと思っていた。この世界は平和すぎると。親も同級生もみんな優しくて、出来過ぎている。
だから多分、あの夢の中がきっと現実なのだろう。
こんな都合のいい夢を見るな、いい加減目を覚ませと、あの夢がナツキを追ってきているのだ。
「奈津川さん!」
時間も遅いせいか、道には人がいなかった。とはいえ、周りは住宅街だ。助けて、と叫べば誰か出てきてくれるかもしれない。だが、今のナツキにそんな余裕はなかった。
逃げなければ。その思いだけがナツキを突き動かしていた。
足音が、後ろから追いかけてくる。
走っても走っても、後ろの足音は止まらない。
その時、再び覚えのない記憶が蘇る。
ナツキは走っていた。今のように制服を着ていて、あたりには誰もいなくて。
後ろから追ってきているのは若い男だった。黒い服を着ていて、中学から一人で帰るナツキの前に現れて突然腕を掴んだ。近所で不審者が出ているから気を付けろと、学校で言われていたのを瞬時に思い出し、反射的に通学カバンを相手の顔にぶつける。その隙に逃げたけれども、怒った男が追いかけてきた。
怖くて声も出ない。助けを呼ぶこともできない。
とにかく早く家に帰りたかった。家に帰って鍵をかければ安全だと思った。
記憶の中のナツキは必死に走って、誰もいない家に飛び込んだ。震える手で鍵をかけ、それでも恐怖がおさまらず、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもろうと、慌てて階段を駆け上がった。
そうだ、その時だ。その時、足を滑らせて、ナツキは。
「……奈津川さん?」
知っている声に誘われるように、ナツキの意識が今に戻ってくる。
気付けばナツキは、見覚えのある部屋の前に立っていた。
声をかけてきたのは、佐藤チトセだった。
いつの間にここまで走ってきたのだろう。全く覚えていない。
チトセはいつもの制服姿で。扉を開けた状態のまま、自分の部屋の前にいるナツキを不思議そうな顔で見ている。
「たすけて!」
ナツキは咄嗟に叫び、彼女の胸に飛び込んだ。
2人の体が玄関に倒れ込む。
その後ろで、重い扉が閉まる音がした。

玄関の中は、いつかのように暗く、蒸し暑かった。
鍵をかけなければ。でないと、怖いものが入ってくる。
はたと気付いたナツキは、鍵をかけようと慌てて体を起こした。
「……あれ?」
そこでふと、そばに佐藤チトセの気配がないことに気付いた。
ナツキは彼女の体に飛び込むようにして部屋に入ってきた。だから、彼女がここにいないはずはない。
一体、どこに行ったのだろう。
ナツキは扉から目を離し、恐る恐る視線を部屋の中に向ける。
そこにあるのは漆黒だった。一切の光のない闇。
ナツキは暗く、蒸し暑い家の中にひとりでいた。それは、夢の中の光景にひどく似ていて。
恐怖で、ひゅ、と喉の奥から息が漏れる。
これは夢だ。きっと走り過ぎて酸欠になり、あのまま倒れてしまったのだ。それで、おかしな夢を見ているのだろう。
必死にそう自分に言い聞かせながら、ナツキは額の汗を拭おうと右手を持ちあげた。
べちゃ。
嫌な音がした後、不快な匂いが鼻についた。
暗くて見えないはずなのに、それが何かわかった。
ナツキの右腕が、腐って落ちたのだ。
思わず、音の方に目をやる。
腕は暑さでぐじゅぐじゅに溶けていた。皮は醜く破れて、腕の形を留めることもできていない。暗闇の中で、剥き出しになった骨が、異様に白く光っていた。
ナツキは叫んだ。腹の底から。叫んだはずだった。
だけど声が出ているのかはわからない。だって、腐っているのは右手だけではない。制服から伸びる左手も、両足も、ナツキが声を上げるたび、みるみるうちに崩れていく。
顔からもぼたぼたと液体が垂れてくる。涙じゃない。それも混ざっているかもしれないが、大体は耐え難い匂いを放つ不快なもの。
床に落ちた自分の体だったものから逃げようと体を捻る。だけど、胴体が腐り落ちた今、体を起こしていることなどできず、ナツキはそのままべしゃりと床に倒れこんだ。
体が動かない。見えるのは暗い天井だけ。夢で見たものと同じだ。
だからこれもきっと夢なのだ。そうじゃないと、おかしい。こんなひどいこと、現実で起こるわけがない。
ナツキは何度も自分に言い聞かせる。
「奈津川さん!」
遠くで誰かが呼んでいる。
これが誰の声であったか、ナツキはもうよくわからない。
ずっと求めていた母親の声でもない。ナツキに押し付けるだけ押し付けて、碌に帰って来なくなった父親のものでも。疎遠になった友達の声でもない。
こんな声の知り合いはいただろうか。
顔の横に耳がぼたりと落ちる。音がさらに遠くなった。
「奈津川さん、しっかりして!ここは夢の中じゃない!」
ここが夢の中じゃないとしたら、これが現実だというのだろうか。
不審者に追いかけられ、逃げ帰ってきて、家の階段から落ちて動けなくなり、そのまま誰にも見つけられず腐り落ちていく。そんなひどいことが現実だとでもいうのだろうか。
「ちゃんと見て!奈津川さん!」
誰かが肩を強く掴んだ。
そんなに掴んだら体が崩れてしまう。どろどろの肉に指が食いこみ、ナツキの体をさらに崩れさせていく。
ふと、何かが頭に触れたような気がした。
「奈津川さん!思い出しちゃ駄目!今思い出したこと、全部忘れて!今すぐに!」
稲妻のような声が暗闇を切り裂いた。
その瞬間、腐った肉の匂いも、ぼろぼろになった体も、何もかもがかき消されていく。
真っ白な空間に、突然放り出されたような感覚。
それと同時に、ナツキの意識がふわりと遠のいた。
『実はね、先生は超能力者なの』
不意に、高橋の言葉が頭に浮かんだ。
『もし何かあっても、先生が超能力で記憶を消してあげる』
そうか、この子も超能力者だったのか。
そんなことを思いながら、ナツキの意識は泡のように消えた。
そして。

「奈津川さん!」
呼びかけられて、パチリと目を開ける。
明るい天井が見える。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなり、慌てて体を起こして辺りを見回す。
そこでナツキは自分が見慣れない玄関に座り込んでいることに気付いた。
「だ、大丈夫……?」
すぐ横には、チトセが泣きそうな顔でこちらを見ている。
一体自分はここで何をしているのか。
きょとんと目を瞬かせていると、彼女がおどおどと説明してくれた。
チトセがいつものように外に出ようとした時、部屋の前にひどく怯えた表情のナツキが立っていた。声をかけたら突然ナツキが飛び込んできて、一緒に玄関の倒れ込んでしまったらしい。
その時、咄嗟にナツキの体を支えようとしたがうまくいかず、勢い余ってナツキは玄関の壁に頭を打ちつけてしまい、数秒ほど意識を失っていたそうだ。
そう説明されて、ようやくナツキは、秋田アキヒコに追われて、ここまで走ってきたことを思い出した。
そういえば、どうしてあの時はあんなに焦っていたのだろう。
今となっては遠い昔のようで、あまりうまく思い出せない。頭をぶつけた影響で、少し記憶が飛んだのだろうか。
とにかく、突然押しかけ、挙句勝手に倒れてしまったことを彼女に詫びると、彼女は慌てて首を横に振った。
「ぼ、僕も受け止めきれなくてごめん……。頭痛くない?大丈夫?」
「うん、平気。たんこぶとかもできていないみたい」
そう答えれば、彼女はよかった、と安堵したように笑った。
「それで、何かあったの?」
「あー、うん。実は……」
ナツキはのろのろと立ちあがり、美術室であったことを説明した。
片思い相手が一緒に帰ろうと誘ってくれて、少し期待してしまったこと。だけど、それは全部ナツキから話を聞き出すためのものだったこと。
「全部、私の勘違いだったんだよね。美術室に来てたのも、人に言われて、私から話を聞き出そうとしてただけだし。それがわかって、私、なんかすごく恥ずかしくなっちゃって。誤魔化すために彼にもうここに来ないでって言っちゃった。……せっかく仲良くなれるかもしれなかったのに、自分から突き放しちゃった」
それでも彼はナツキと話そうとしてくれた。だから、門のところで待っていたのだろう。でも、ナツキはその時、恐怖に駆られて逃げてしまった。
一体、自分は何に怯えていたのだろう。今となってはよくわからない。
「……突然押しかけて本当ごめんね。帰る」
「あっ」
気まずくなって、部屋から出ようとした時、チトセが呼び止めるように声を上げた。
振り向くと、彼女は迷ったように視線を左右にさまよわせ、ひどく申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、僕が言うことじゃないけど、謝りたいのなら、早いうちにやったほうがいいと思う。それができるうちに」
そう、彼女は言った。
それは彼女が言うからこそ重みのある言葉で。
「僕でよければ、いつでも話を聞くから。奈津川さんが僕の話を聞いてくれたように、いくらでも話を聞くから、だから」
どうか自分の気持ちを諦めないで、と彼女は震える声で言った。
「……なんで、そっちが泣きそうになってんのよ」
ナツキは思わず笑ってしまった。
笑った勢いで、目尻からぽろりと涙が溢れる。
それを誤魔化すように、ナツキはさらに笑った。笑って出た涙だと言うかのように。
笑って、笑って、笑って。
堪えきれず、ナツキは両手で顔を覆った。
「……話、聞いてくれる?」
「うん」
チトセの声に嘘はなかった。
「どんなみっともない話でも、聞いてくれる?」
「もちろん。僕の方が、みっともない話いっぱいしてるよ」
「……そんなことない」
ナツキは顔を覆ったまま、答えた。
「あんたの気持ちは、いつもまっすぐで綺麗だったよ。私も、あんたみたいになりたいと思ってた」
今からでも間に合うかな、とナツキはチトセに尋ねた。
もちろん、と彼女は笑って答えた。彼女はいつもまっすぐで、絶対に嘘は言わない。だから、きっとそうなのだろう。ナツキは素直にその言葉を信じることができた。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫」
優しい彼女の言葉が、ナツキの背中をそっと押した。


チトセの部屋を出て、ナツキは夜の道を進む。
大嫌いな生暖かい風が身体中にまとわりついていたが、不思議と心は落ち着いていた。
今日は本当にいろいろなことがあった。
彼と話して、彼の嬉しそうな顔を見て、彼に一緒に帰ろうと誘われて舞い上がって、そして聞きたくないことを聞いて悲しくなった。それで彼の話も聞かずに逃げ出した。
こう見ると、自分は本当に馬鹿だなと思う。勝手に期待して勝手に落ち込んで、それに彼を付き合わせて。
多分、ナツキが謝るべきなのだろう。突然怒ってごめん、と。その一言さえ彼に言えたら、もしかしたら、もう一度やり直せるかもしれない。
でも、本当にそうだろうか。いくら優しい彼でも、ナツキに呆れたんじゃないか。
臆病な自分が、そう囁く。
だったらもう、そんな面倒なこと放っておけばいい。別にもういいじゃん。言ったところで彼がナツキのことを好きになってくれるわけじゃない。
そう逃げようとする心を、優しいチトセの声が否定する。
大丈夫、きっと大丈夫。
心の中でそう呟きながら、ナツキは大通りを渡り、田んぼの横の道を抜け、コンビニの前を通る。
その時だ。
「あれ、奈津川じゃん」
いつかのように、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、白い袋を持ってコンビニから出てくる鈴木がいた。そしてその後ろには。
「……秋田くん」
思わず、ナツキの口からその名が溢れた。
彼はナツキの顔を見た途端、ぴたりと足を止め、気まずそうにその顔を伏せた。
謝ろうと意気込んでいたナツキも、突然のことになんと言っていいかわからずに押し黙る。
その間で、なんの状況もわかっていない鈴木が、おかしな雰囲気の2人に眉を顰めた。
「お前ら、どうしたんだ?」
鈴木の問いに、ナツキも彼も答えなかった。
その態度が何かあったことを物語っているのだが、冗談で誤魔化せるほどまだ傷は癒えていない。
何か言わなくては鈴木が変に思うだろう。だけど、そもそもの発端は、鈴木が彼を使ってナツキからチトセのことを聞き出そうとしたことだ。
それを今この場で詰めてもいいのだが、流石に彼の前ではやりにくかった。
一向に口を開こうとしない2人に、鈴木が小さく息を吐いた。
「あのさ、何があったか知らねぇけど、今日あったことは今日のうちに始末つけといた方がいいぞ。先延ばしにしても、いいことなんか何もねぇし」
言えるうちに言っておいた方がいい、と鈴木がぼそりと付け足す。
それは奇しくもチトセが言ったことと似ていて。
そう言えば、高橋にもどうか悔いのないように、と言われたのだった。
みんな同じことを言うのだな、とナツキはなんだか笑い出したい気分になった。みんな、まるで明日にでもナツキが死ぬと思っているようで。
それとも、鈴木も高橋も、チトセのように何かを喪って後悔したことでもあるのだろうか。それで、同じ間違いを起こそうとしているナツキに忠告しているのかもしれない。
そう思うと、ナツキの悩みなどひどく贅沢なものに思えてきた。
確かに、彼らの言うように、こういうのは早い方がいいのだろう。もういい。さっさと終わらせて帰ろう。後のことなんて知るもんか。何があっても、優しいあの子はちゃんと聞いてくれる。
だから、大丈夫。
腹を決めたナツキは、鈴木の後ろに立っている彼に向かって、深く頭を下げた。
「さっきはごめんなさい」
そう謝れば、頭の上で、奈津川さん!と彼が慌てたような声を上げるのが聞こえた。
「せっかく誘ってくれのに、あの時はちょっと色々あって苛ついてて。逃げたのも、失礼だったと思う。本当にごめん」
「……俺の方こそ、ごめん」
沈んだような彼の声が降ってきて、ナツキは恐る恐る顔を上げる。
そこには何かを堪えるように唇を噛み締めた彼がいた。
ぱちりと目が合った後、彼はゆっくりと頭を下げた。
「追いかけて、ごめん。どうしても話を聞いてほしかったんだ。怖がらせてごめんなさい。ゴロウからも怒られた。……本当にごめん」
当の鈴木は、少し離れたところでスマホをいじっていた。こんな状況になってしまって、帰るに帰れなくなったのかもしれない。
「ただの好奇心で、奈津川さんに探りを入れてるって思われたくなかったんだ。嫌われてもいいから、そこだけは誤解を解きたくて、奈津川さんの気持ちも考えずに、追いかけてしまった」
「……誤解って?」
尋ねると、彼がゆっくりと顔を上げた。
「ゴロウに言われて、奈津川さんから話を聞き出そうとしたのは本当。だけど、それだけじゃないって言いたかった」
コンビニから漏れる明かりが、彼の顔を照らしている。
真剣な眼差しが、真っ直ぐにナツキを見ていた。
その迫力に、ナツキは思わずごくりと唾を飲む。
すると、彼の表情が不意に緩んだ。
「奈津川さんってさ、その幽霊の子と結構仲良くなったんだね」
「……仲良くっていうか、私が勝手に話しかけてるだけだけど」
質問の意図がわからず、戸惑いながらナツキは答えた。
そうなんだ、と彼は眉を下げて笑った。笑っている顔なのに、どこか寂しそうにも見えた。
「なんか珍しいね。奈津川さん、特定の誰かとあまり仲良くしないから」
「……それ、友達いないって言ってる?」
「違う違う、そうじゃなくて。……羨ましいなぁって」
彼の口から漏れたどろりとした感情に、ナツキは思わず目を瞬かせた。
彼は構わず続ける。
「あの子と、いつもどんな話してたの?」
「……あの子の恋愛の話かな」
そうなんだ、と彼が目を輝かせた。
その表情はいつもの彼のもので。さっきのは気のせいだったのかと、ナツキは密かに胸を撫で下ろした。
「それって奈津川さんも話したの?いいなぁ。俺も奈津川さんの恋愛話聞きたい!奈津川さんって、どんな人がが好み?」
「えっ、いや、好みとかないよ」
そもそも片想いしている本人にそんなこと言えるわけがない。
ナツキは誤魔化すように笑って、顔の前で手を振った。
「じゃあさ、当てていい?」
「当てるって?」
「奈津川さんのタイプ。奈津川さんさぁ」
俺みたいな誰にでも良い顔してる奴、好きじゃないでしょ。
彼は無邪気に笑ったまま、そんなことを言った。
「変なこと言ってごめん。でも、そうでしょ?こんな俺は奈津川さんの好みじゃないってわかってた。でも、こんな俺じゃないと、奈津川さんに話しかけることもできなかった」
そんなことない、とナツキは言おうとした。現に、ナツキは彼に恋をした。だけど、彼の雰囲気に飲まれてしまい、その言葉は喉の奥で止まってしまった。
「それでも、俺は奈津川さんと話したかった。俺、奈津川さんの彫刻見て、すごい好きだって思ったんだ。これを作った人はどんな人なんだろうって気になった。委員会で話してみると、俺なんかと違って大人で、しっかりしててかっこいいんだけど、照れたりするとすごく幼くなって可愛くて。そんな奈津川さんのこと、もっともっと知りたいって思ったんだ」
だけど、と彼の声が弱まる。
「奈津川さん、いくら話しかけても全然で、ファンだって言っても警戒解いてくれないし。もっと仲良くなりたいけど、クラスも違うし、委員会も変わってしまって、話すきっかけがどんどん減っちゃって。どうしていいかわからなくて悩んでたら、ゴロウから奈津川さんが幽霊と仲良くしてる話を聞いたんだ。……すごく羨ましかった。なんで俺じゃないんだろうって思った。頑張って明るくなったのに、どうしてって」
そこで彼は力無く笑った。
「俺さ、ずっと明るくなりたいって思ってたんだ。子供の頃からよく見る夢があって、その夢の中の俺は、いわゆる引きこもりだった。角部屋のベッドの上。誰もいない家の2階の部屋で、ずっと蹲ってた。外から聞こえてくる同い年くらいの子どもの声が全部気持ち悪くて、いつもイヤホンをつけてた。外で普通に過ごせている子達が羨ましくて妬ましくて大嫌いだった。なんでみんな普通にできているのかわからなかった。でも、ある時、隣の家の子が死んじゃって。僕はずっと家にいたのに気付けなくて、ただでさえ混乱してたのに、お前が何かやったんじゃないかって、みんなから疑われて」
はくり、と彼が喘ぐように息を吐いた。
「……普通じゃないから、なすりつけられた。普通じゃないと、簡単にみんな疑ってくる。僕がもっと明るかったら、絶対そんなことはなかったのに。だから、次は絶対明るくなろうと思った。僕が明るかったら、あの子だって、何かのタイミングで仲良くなれて、助けられたかもしれない。一緒に遊べたかもしれない。だから、明るくなったのに。そうしたら全部うまくいくって思ってたのに」
全然だったなぁ、と彼は口の端を歪めた。
「……さっき、追いかけて本当にごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、あのまま奈津川さんに嫌われたくなかった。ゴロウから美術室に入る口実をもらったのに、いくら話しても全然奈津川さんと距離が縮まってる気がしなくて、この間にも幽霊の子とどんどん仲良くなってるのかと思うと焦ってきて。このままだと、幽霊の子に奈津川さん、とられちゃうんじゃないかって」
「だ、大丈夫だって」
彼を落ち着かせるように、ナツキは笑って大袈裟に言った。
彼が何をそんなに気にしているのかよくわからなかったが、おそらく、彼に対するナツキの態度が良くなかったのだろう。
もともとナツキは素直な方ではないし、自分の好意が漏れるのが嫌だったから、彼に対してそっけない態度をとっていた。
それが彼の何かに引っかかってしまったのかもしれない。
「秋田くんを嫌う子なんて、あの学校にいないよ。私もそうだよ」
嫌うなんてありえない。事実、ナツキはずっと彼のことが好きだったのだ。
「本当に?」
「本当。すごく優しい人だなって思ってるよ」
そう告げると、彼の顔が悲しげにぐにゃりと歪んだ。
「そうじゃない。そんなみんなが言うような言葉がほしいんじゃなくて、俺はあの子みたいに、奈津川さんの特別になりたかった」
「……秋田くんも特別だよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないって」
本当だよ、とナツキは言う。
だって、それ以外言いようがない。本当に好きだった。憧れていた。それ以上、どう言えばいいかわからない。
「そっちこそ」
気付いたらナツキは言い返した。
「秋田くんにそっけない私が珍しくて、気なってるだけでしょ」
「違う」
「違わない」
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃあ、なんで私のことは名前で呼ばなかったの」
ずっとナツキが気にしていたこと。自分だけ名前で呼ばれなかったこと。
一度でも話したことのある子のことを、彼は必ず名前で呼んだ。同じ委員会になって、それなりに話をしたはずのナツキ以外は。
確かにナツキは彼に対してそっけない態度をとっていたかもしれないが、彼だって、ナツキを弾いていた。他の子と同じように扱ってくれなかった。
「それは」
彼が迷うように口を開いた。
「……気にしてくれるかなって」
言っている意味が分からず、ナツキは首を傾げる。
彼はうっすらと頬を赤くして、気まずそうに目線をそらした。
「女々しいからあんまり言いたくないんだけど、だって、俺だけ奈津川さんのこと気にしてるとかすごく嫌で、奈津川さんにも俺のこと気にしてほしくて。だから意地でも名前で呼ばなかった。……呼びたかったけど」
「いや、名前くらい好きに呼んだらいいじゃん」
「嫌だよ。だって」
俺ばっかり好きみたいで。
恥ずかしそうにぽつりと付け足した彼に、ナツキは言葉を失ってしまった。
「待って、特別ってそういうこと?そういう意味なの?冗談じゃなくて?」
「本当だよ。俺は、ずっと奈津川さんが好きだったんだ。幽霊の子みたいに俺とも話してほしかったし、バレンタインにチョコだって欲しかった。バレンタインの日、ちょっと期待して奈津川さんのクラスに行ったし」
「いや、だって、秋田くん、あの日、チョコいっぱいもらってたじゃん」
ナツキは覚えている。チョコが沢山つまった袋を持って、ナツキのクラスの来ていた彼のことを。
「もらったチョコの自慢してんだなぁと思ってた」
「違うよ、ああやっていけば、あのタイミングでチョコくれる子もいるから、奈津川さんも勢いで来てくれるかなって思ったのに」
「いや行けるわけないよ、そんなノリで本命には渡せるわけない」
ナツキだってあの日、きちんとチョコレートを用意していたのだ。委員会が一緒だったし、おせになったお礼だという建前もあったから、渡せるかと思った。でも、あまりに多くもらっている彼を見て、ナツキは怯んでしまった。
「……じゃあ、今年はちょうだい。ちゃんと一人で受け取るから」
「2月とか受験で一番忙しい時だよ」
「じゃあ今度、俺の誕生日あるから、その時に」
「バレンタインにしては随分と早くない?」
「じゃあ誕生日プレゼントでもいい。なんでもいい。だって、ずっと好きだった。委員会で仕事引き受けて、頼りになるって思われたかった。奈津川さんと話したくて、わざとゴロウに教科書借りにいったりもした。少しでも奈津川さんの視界に入りたかった。奈津川さんの特別になりたかった。特別にしてほしかった。だから、いつのまにか奈津川さんの特別になってたあの子が、ひどく羨ましかった。事情も知らずに、一方的に妬んでた」
ぽろりと彼が言葉をこぼした。
「ずっと好きだった。奈津川さんに俺のことを好きになってもらいたかった。奈津川さんの特別に、なりたかった」
そう言って泣きそうに顔を歪める彼を、ナツキは呆然と眺めるしかできなかった。
ナツキの頭は盛大に混乱していた。
まさか突然告白されるだなんて誰が予想しただろう。
いや、彼に告白される妄想をしたことがないと言ったら嘘になる。好きになった日から、ちょっとくらいは考えた。でも、それはこんなんじゃなかった。もっと自分には余裕があって、彼もいつも通りにこにこしていて。
顔が熱い。おそらくナツキの顔は真っ赤になっているだろう。
夜でよかった。こんな顔、彼に見られたくない。
でも、どうしたらいい。これからナツキは何を言ったらいい。
頭の中がぐるぐるしている。何も言葉が浮かばない。でも、何か言わなくてはいけない。でも何を。何を言えばいい。一体何を。
「奈津川さん」
彼がナツキの名前を呼ぶ。
その声の奥に込められた熱が、ナツキにはわかってしまった。
彼が答えを待っている。ならばナツキは応えなくてはいけない。
大丈夫。
頭の中で、あの子が優しく笑った。
「私も」
気付いたら、言葉がぽろりと口から飛び出していた。
「明るいからとかじゃなくて、困ってた私を助けてくれた、優しい秋田くんが好き」
ずっと好きだった。
そう言うと、彼が大きく目を見開いた後、泣きそうな顔で笑った。



「こんな時間に学校に行っていいの?」
不安そうな声を出すチトセに、ナツキは大丈夫、と声をかける。

ナツキが告白したあの夜から、あっという間に1週間が経った。
あの後すぐ、チトセに好きだった相手と付き合うことになったと伝えれば、彼女はこぼれ落ちそうなほど目を大きく開いて驚き、そして泣きそうな顔で喜んでくれた。
正直、こういうことを彼女に伝えていいのかはすごく悩んだ。だけど、彼女の家に押しかけて気を失うという迷惑までかけてしまったのだから、最低限の報告はしておいた方がいいだろうと思ったのだ。
それからナツキはなんだかんだ慌ただしく、そのせいか、今日までチトセに会えていなかった。
だから、彼女と話すのは随分と久しぶりだった。
「本当に勝手に学校に入っていいの?もう最終下校時刻を過ぎちゃったんじゃ……」
いつもよりも早く学校を出て、ようやく会えたチトセに今から学校に行こうと声をかけたのはナツキだった。彼女はついて来てくれるものの、その目はずっと不安そうに揺れていた。
「大丈夫。高橋先生が鍵開けて待っててくれるって」
「高橋先生が?」
ナツキがこれを思いついた時、駄目もとで高橋に話を持っていったら、大丈夫、と快く許可をくれた。あの噂から一方的に高橋に対して敵意を持っていたナツキだったが、その寛大な対応に少しだけ見る目を変えたのは秘密だ。
「というか、チトセって鈴木と知り合いだったんだね」
そう言うと、チトセは気まずそうな顔をして黙り込んだ。
ナツキの告白が終わった後、帰るタイミングを失い、離れたところで話が終わるのを待っていた鈴木に、どうしてチトセのことを探ろうとしていたのか聞いたのだ。すると鈴木はこう言った。
『実は、あいつのことは前から知ってたからな。急に塞ぎ込んで学校に来なくなったから気になって。でも、あいつ、俺が話を聞こうとすると、ごめんなさいしか言わなくなるんだよ。だから、俺じゃない奴から聞き出した方がいいなって』
だから、仲良くしていたナツキから情報を得ようとした。でも、直接ナツキに聞くと、何故仲がいいことを知っているのかと警戒されそうだから、ナツキが好意を持っている相手に頼んだ、ということらしい。
つまり。ナツキの恋心は鈴木にはお見通しだったようだ。
「ごめんなさい……、鈴木くんのこと、言ってなくて」
「いや、チトセが謝ることじゃないよ。というか、同じ学年だし。どっかで繋がってはいるでしょ」
言いながら、ナツキはチトセを先導するように前を歩く。
いつもは隣に並んでいるのだが、今はなんとなく、自分の顔を見せたくなかった。
それは、これから彼女が言う話を知っているから。
「あの、じゃあ、鈴木くんから聞いてるかもしれないけど、僕」
2学期から、別のところの行くことになって。
きらめく街灯の下、彼女の言葉が浮かんで消えた。
「知ってる」
振り返らずにナツキは答える。
ナツキがそれを聞いたのは、告白した日の夜。鈴木が言っていたのだ。
本人はまだ知らないから、という前置きで、ナツキにそのことが伝えられた。
何故チトセ本人が知らないことを鈴木が知っているのか、という疑問もあったが、顔の広い鈴木のことだ、きっとどこかから聞いたのだろう。
チトセの引越しについては、ナツキもどこかでそうした方がいいんじゃないかと思っていた。ここにいたら、彼女はずっと恋人の影に囚われることになる。だから、心機一転、新しい場所に行くのはいいだろう。
だけど。
学校の明かりが見えてきた。教室は全て真っ暗なだが、玄関だけはナツキ達を待っているかのように煌々と明かりが灯っていた。
「こっち」
それだけ声をかけて、ナツキは玄関に入る。
高橋の姿はない。もしかしたら気を利かせて、どこかに隠れているのかもしれない。
夜の学校は静かだった。最終下校時刻もとっくに過ぎているため、人の気配はない。
ただ、ナツキのために付けられているであろう廊下の明かりが、2人の到着を待っていてくれていた。
ナツキは靴を脱いで、上履きに履き替える。チトセには用意してあった来客用のスリッパを出した。
申し訳なさそうにそれに足を入れるチトセを確認して、ナツキは歩き出す。
目的地は、美術室だ。
「あんたが引っ越すって聞いてから、ちょっと色々考えちゃって」
ぱたぱた。パタンパタン。
誰もいない廊下に2人の足音が響く。
「正直なところ、私、自分の恋が叶うなんて思ってなかった。相手が相手だったし、ずっと諦めながら恋してた。恋バナするような相手もいなかったし、ずっと心の中で気持ちをぐるぐるこねくり回しているだけだった。……だから、チトセがいて、話を聞いてもらえたの、すごく嬉しかった。話を聞いてくれるって言ってくれたのも。あんたがいなかったら、私は今もずっと彼に何も言えずにいたかもしれない。だから、そんなあんたに、私も何か返したいって思った」
本当は彼女がいなくなることが寂しい。でも、もう子どもじゃないのだから、わがままなんか言えない。ここから離れるのは、彼女のためなのだ。
だからこそ。だからこそ、彼女に何かをしたいと思った。
遠くにいっても、絶対にナツキを忘れない何かを、彼女に渡したかった。
そんなこと、と小さな声が後ろから返ってくる。
「話を聞いてもらってたのは僕の方だよ。僕はずっと泣いてただけで……。奈津川さんにお礼を言われるようなこと、何もしてない」
「してたんだよ。あの日だって、パニック起こして突然押しかけた私を、あんたは受け入れてくれたじゃん」
「あれは……」
チトセはそう言ったっきり、再び黙ってしまった。
ナツキは足を止めずに振り返る。
困ったような顔でチトセがこちらを見ていた。
「なんでもいいよ。私があんたのおかげで助かったって思ってるんだから、それでいいの。それで、私が勝手に何かをあんたに返したいと思っただけ。……ほら、ここ。入って」
見せたいものがあるの。
そう言って、ナツキは美術室の扉を開ける。
中はまだ明かりが灯っていた。
綺麗に片づけられた机の中、いつもナツキが座っていた机に、ひとつの粘土彫刻が置かれていた。
この1週間、ナツキがいつものバレリーナの彫刻を放り出してまで、ずっと作り続けていたもの。
それに気付いたチトセがふらりと机に一歩近づく。
「たいしたものじゃないの。私が作りたくて作っただけ。本当は家に持ってこうかと思ったけど、こんなの突然持ってこられたら嫌かと思って」
黒い台座の上に立っていたのは、白い粘土で作られたお団子頭の少女だ。デフォルメされた制服を着て、隣に立つ人物と手を繋いでいる。ただもう1人の人物は少女に比べて作り込まれておらず、同い年くらいの人物、としかわからない。だけど、2人とも楽しそうに笑っている。
「あんたと晴野さんを作ろうと思ったの」
チトセは、『晴野さん』がみんなから忘れられていく、と嘆いていた。それを聞き続けていたナツキは、だったら忘れても思い出せるように何か物があればいいと思った。と言っても、ナツキはその晴野という人物の顔を知らない。だからきちんと表現できたのはチトセだけだった。想像で勝手に作ってもよかったのだが、それだとチトセにこんなの晴野さんじゃない、と言われるかもしれなかったから、あえて作り込まなかった。
いつもナツキは自分のために彫刻を作っていた。
だから、こうして誰かのために作ったのは初めてのことだった。
「晴野さん……」
チトセはぽつりと呟いて、その彫刻に近寄った。
「やっぱり、晴野さんの顔もちゃんと作った方がいい?でも、想像で作っても変になりそうで……」
「ううん。これがいい。これが……」
どこかぼんやりとした口調。その目はナツキが作った粘土の少女に釘付けになっている。
不意に、その目の淵から、ぽろりと涙が溢れた。
「嬉しい。すごく嬉しい。晴野さん、晴野さん」
そう言って、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
「晴野さんのこと、みんな忘れちゃって、写真も、物も何もかもがなくなって、晴野さんの存在自体がこの世界消えてしまって、すごく悲しかった。だから、この世界に晴野さんを残すには、自分が晴野さんになるしかないって思ってた。でも晴野さんがいる。ここに、晴野さんが……」
彼女の目から次から次に涙が溢れていく。
だけど今までの彼女の泣き顔とは違い、その表情はどこか晴れやかだった。
濡れた目が、ナツキを見て、柔らかな弧を描いた。
「ありがとう、奈津川さん。晴野さんなんて知らないって、否定しないでくれて。ありがとう、僕の言葉を信じてくれて。晴野さんがいたって、認めてくれてありがとう。たくさん、僕の話を聞いてくれてありがとう。笑わずにいてくれて、ありがとう」
ぐす、と彼女が鼻をすすった。
ナツキの鼻の奥も、つられてツンとした気がした。
「僕、頑張る。泣いてばかりで何もできなかったけど、この小さな晴野さんの前でかっこ悪いこと出来ないから。頑張る。頑張るよ。晴野さんとの約束を果たせるように」
幸せそうな笑みを浮かべながら、彼女は涙を流す。
その顔が一瞬、見知らぬ男の子のものに見えたような気がした。