暖房をつけているのに、スマホを持つ指が震えている。
 画面には、先日私が受験した、国公立大学の合格発表のページが表示されていた。合格者が発表される時刻から、三十分ほど経ってようやく画面を読み込めたのだ。たくさんの人が同時にアクセスしているせいか、なかなかページを読み込むことができなくてもどかしい思いをしていた。
 私は、たくさんの受験番号が表示された画面を見つめ、ごくりと唾を呑み込んだ。震える指先で、慎重にページをスクロールしていく。祈るような気持ちで、数字を目で追った。

 507

 その受験番号を視界に捉えた瞬間、身体の奥底から熱がこみ上げた。
「……受かった…………?」
 学習机の椅子に腰かけたまま、熱に浮かされたように呟いてしまう。なにかの間違いじゃないかと、何度も何度も見返すが、しっかり「507」という、私の受験番号があった。
 見間違いじゃない。本当に合格したんだ。
「よかった……っ!」
 うれしさのあまり、思わず椅子から立ち上がって、スマホを抱きしめてしまう。
 この一年がんばって勉強したかいがあった……!
 受験当日は、時間配分を間違えて英語の長文問題が最後まで解けなかったから、もしかしたら落ちたかもしれない、と焦燥に駆られ結果に怯える毎日を送っていたのだ。まさか受かるなんて……!
「あっ、そうだ……、お母さんにも報告しなくちゃ」
 合格者発表のページを閉じて、あわててLINEの画面を開く。出張中のお母さんから、すでにメッセージが数件届いていた。
 
【小春、合格発表どうだった?】
 
【たしか、今日の十二時だったでしょ?】
 
 相変わらず心配性だ。眉を八の字にしているお母さんの顔が目に浮かんだ。
「えっと、【受かってたよ】……っと」
 込み上げてくる笑みをこらえながら、ぽちぽちと文字を打ってメッセージを送った。すると、ずっと私からのLINEを待っていたのか、あっというまに既読がついた。すぐに通話がかかってくる。応答をタップする。
「もしもし、お母さ……」
『よかったああああ! 合格したのね!! あんた頑張ってたもんねぇ、本当によかったねええええ!』
 相当気を張っていたらしい。耳に当てた画面の奥から、泣き出しそうな声が響いた。今、どこから電話をかけているのかは知らないが、道端でかけているとしたら、母の声量に通行人は皆、驚いてると思う。
『小春、がんばってたもんね! これで卒業したら、春からは大学生だね! 本当はすぐにでも帰って合格のお祝いしたいんだけど、お母さん、出張で仙台にいるから、二週間は帰れないの! もちろん卒業式の日は休みとってあるから安心して!』
「その話は何回も聞いたって……」
 苦笑いしながらそう言葉を返す。
 私が幼いころに父が病死して以来、お母さんはバリバリ働きながら、一人娘である私を女手一つで育ててくれた。授業参観や運動会といった学校行事にも顔を出してくれていたし、外食やデリバリーに頼ることもほとんどなく、いつもちゃんとご飯をつくってくれた。
 受験期も、仕事が忙しいのに夜食におにぎりと味噌汁を用意してくれたり、風邪予防にいいのだとお風呂に柚子を浮かべてくれたり、受験生としての私を見守ってサポートしてくれていた。いいお母さんだと思う。
『ねえ、小春。そろそろお昼ごはんの時間でしょ? 昼ごはん食べた?』
 画面の奥から、お母さんが浮かれた声音で尋ねてくる。
「ううん。まだだよ」
『そうなの、じゃあ今日くらいは、小春の好きなもの買って食べていいよ』
「え、いいの? コンビニのごはんとかは高いし栄養が偏るから、手料理が一番っていつも言ってるのに」
『いいの、いいの! 今日くらいめでたい日もないでしょう!? お母さんの寝室の机の引き出しに一万円入れた封筒が入ってるから! それ使いなさい!』
 興奮気味にお母さんは言うと、『じゃ、これから取引先に行かなきゃだから!』と通話を切ってしまった。
 ふう、と息をつく。
 私、ほんとうに受かったんだな……。
 ものすごく喜んでくれていたお母さんのおかげで、合格した実感がわきあがってくる。またしても自然と表情がほころんだ。
 うれしい。これで春からは晴れて大学生だ。高校はもう自由登校期間に入ってるし、あとは卒業式を迎えるだけ。なんだかんだ三年間ながかったなぁ……。
 少しの間、感慨にふけった後、空腹を感じて椅子から立ち上がった。部屋から出て、お母さんの寝室へ向かう。ベッドのそばにある机の引き出しを開けた。言っていた通りそこには茶封筒があり、中身を見ると本当に一万円札が一枚入っていた。
 これで好きなもの買って食べていいんだ。なに食べようかな。エビフライとか食べたい気分。
 わくわくしながら部屋に戻り、コートを部屋着の上から着こんでいると、ピンポン、とインターホンが鳴った。
 思わず、肩が跳ねて玄関の方向を振り向く。
 ……なんだろう? 郵便かな?
 階段を降りていって、玄関の戸を開ける。
 しかし、そこにいたのは、配達の人ではなかった。
 小豆色のピーコートを着た、白髪交じりの知らないおばさんだ。年齢はおそらく五十代か六十代くらいだろう。
「ど、どちらさまでしょうか……?」
 警戒心をほどききれないまま、私はこわごわと尋ねた。よほどおびえたような表情をしてしまっていたらしく、おばさんは「いやだ、そんなに怖がらないでちょうだい」と笑ってみせた。悪い人ではないのかな……?
「突然、ごめんなさいね。ちょっとお聞きしたい事があって」
「なんですか?」
「あなた、神様って信じるかしら?」
「えっ? えっと……。……いるかいないかで言ったら、いるんじゃないでしょうか……?」
 お正月に、絵馬に「第一志望の大学に、合格できますように」と願いを書いてつるしたことや、受験当日の朝にお母さんが御守りを手渡してくれたことを思い出す。実際に今日合格を果たせたのが、それらのおかげだと言い切るつもりはないが、でも、一ミリくらいは神様の力もあったかもしれないし……?
 曖昧でありながらも神を肯定するような返答に、おばさんはとてもうれしそうな顔をした。
「そうよね、神様はいるわよね。じゃあ――」
 そう言って、おばさんは肩から下げた大きなトートバッグから、古ぼけた分厚い聖書を取り出した。鈍器としても使えそうな分厚さに、私は面食らう。
「私と一緒にこの聖書を読みましょう」
 おばさんが瞳を輝かせながら、そう言った。
 そこまで言われて私はようやく気づいた。
 しまった、これ宗教勧誘ってやつだ……!
 実際に遭遇したのは初めてだった。しかも聖書はとっても分厚くて辞書と変わらない。
 思わず顔がひきつった。
 私、はやくお昼ごはん買いに行きたいんだけど……。
 何を隠そう、かなりお腹がすいていた。昨晩から合格発表が近づいているという緊張で食欲が減退し、昨日の夕飯も今朝の朝食もほとんど食べれていなかったのだ。
「聖書……。私と一緒に読みましょ? あなた、神様を信じるんでしょ?」
 おばさんはキラキラとした目で私を見つめ返している。
 どうしよう……正直、すごく断りたい。嫌だって言いたい……! だいたいどうして私なの? ついさっき第一志望に合格して、せっかくすごく嬉しい気分だったのに……。
「ねえ、読みましょうよ。お願いよ。ね? あなたも神様はいるって思うんでしょう? 今日もう三十軒くらいお家をまわったんだけど誰も一緒に読んでくれないのよ」
 おばさんは私の手をにぎって頼み込んできた。カサカサで冷たい手だ。どれだけ長い間、外を歩いているのだろう。
 私は当惑してしまう。
 でも、早くムリだって言わなきゃ。「これからお昼ご飯買いに行かないといけないから無理なんです」って。『お腹すいてるから早くごはん食べたいんです、ごめんなさい』って。ほら、言わなきゃ。がんばれ。がんばるんだ、小春……!
 内心で己を鼓舞しまくり、私は気が付くと、こう口を開いていた。
「いいですよ、読みましょう…………!!」
 

 
「めっちゃお腹すいた……」
 極度の空腹状態の私は、嘆きながらコンビニへ向かっていた。ブーツの下で雪がキュッキュとかわいい音を立てる。吐く息が凍りそうだ。お腹をすかせて歩いているからか、寒さがいつもより余計に骨身にこたえる気がした。
 さすがに聖書を全部は読まされることはなかった。でも、あれから十ページほどを玄関先で音読したのだ。おばさんは聖書を読み上げる私をほほえんで見ていたし、終わった後は満足そうに「これからも神様への信仰を忘れずにね!」と生き生きした様子で去っていった。
「なんで断れないんだろう……」
 はあ、とため息をつきながら呟いてしまう。
 私は昔から、いやなことをいやと言えないのだ。
 中学の時は、「掃除当番代わって」とか、「日直代わって」、とか「宿題みせて」とか、そういう頼みも断り切れずに引き受けてばかりいた。そのせいで、「あいつなに言っても逆らわないぜ」と思われて、男子たちから良いように雑用を押し付けられてばかりだった。いじめられていたわけじゃないけど、人見知りで仲のいい友達もできなかったから、かばってくれる人も特にいなかったのだ。
 高校生になったらさすがにこの弱気な性格も治るはず、と期待と共に高校に入学したが、特に性格は改善されることがないまま気づけば三年が経ち、もう一か月後には卒業だ。時の流れの速さを痛感する。
 この調子だと私は、一生、嫌なことを嫌と言えないままの人生を送るんだろう。
 大学に入ったら、誰かに「今日、合コン行かない?」と誘われ、行きたくないのに「いいよ」と二つ返事で了承してしまったり、会社に入って「この仕事、代わりにやって」と押し付けられ、ほかの仕事に手いっぱいの状況でもきっと「はい」と了承したりしてしまいそうだ。
 そして、行きたくない合コンに参加したり、やりたくない仕事を押し付けられた私は、ずっともやもやした思いをかかえながら、嫌だと言えなかった過去の自分を呪いながら「早く終わって……」と願うことだろう。
 ああ……将来の自分が目に浮かぶようだ……。
 ため息がこぼれた。
 でも、仕方ない。私は、そういう性分の人間なんだ。十八年もこの性格で生きてきたのに、今更この性格をどうこうできるわけがないんだから。
 あと二週間ほどすれば、高校の卒業式がある。できることなら、「高校生の自分」からだけじゃなくて、「断われない自分」からも卒業してしまいたかったな……。
 なんとも言えない気分でしばらく歩いていると、コンビニが見えてきた。
 目的地にたどりついたことでホッとする。お昼のピークを過ぎたのか、コンビニの駐車場には数台くらい車が停まっているだけで、思ったよりも混んではいなかった。
 自動ドアをくぐって、一番最初に視界に入ってきたのは。
 
「ねー、いいでしょお兄さん! LINEくらい教えてよー」
 
 緩く巻かれたグレージュのロングヘアに、ピンクのフワフワのコート。派手ないでたちの女性客が、レジカウンターを隔てて、男の店員さんに絡んでいる場面だった。
 うわあ、昼間から逆ナンしてる人がいる……。すごい。元気だな……。
 でも、たしかにレジに立っている若い男の人は、顔立ちが整っていて格好が良かった。無表情を貫いているせいでとっつきにくそうな印象を受けるが、目が切れ長だからかクールでミステリアスな雰囲気が醸し出されている。セットはしているけど染めてはいない真っ黒な髪が、色白な肌に映えている。
「ね~、無視しないで~。めっちゃ悲しいんだけど~」
 女性客がそう言うのを無視して、お兄さんはもくもくと袋に商品を詰め込んでいる。
 すごい……目の前で喋りかけられてるのにフルシカトしてる。なんか、こわそうな店員さんだな……。
 ちょっと圧倒されながらも、私はお弁当のコーナーへ向かった。しかし、からあげやミックスフライのお弁当を眺めつつも、レジのほうが気になってつい聞き耳を立ててしまう。
「三点で七八二円になります。レシートは要りますか?」
「要らない! けどお兄さんの連絡先は超ほしい!」
 男店員の淡々とした声に半ば被せるようにして、派手なお姉さんがはしゃいだ。ちらっと様子をうかがうと、店員さんは無表情ながら、かすかに眉間にシワを刻んでいるところだった。お姉さんは「ちょっ、めっちゃ微妙そうな顔してんじゃん、やば!」と何が面白いのかケラケラ笑っている。
 あんなに嫌そうにされてるのに諦めないなんて、鋼のハートの持ち主と見た……。
「ねえ、連絡先教えてよ~! いいじゃん! なんでもするから、マジで! お願いお願い!」
「じゃあ今すぐ帰って。さすがにうるさすぎる」
 耳を疑った。
 ずっとチラ見するだけに留めていたけど、私は思わずレジの方向を振り返って、ガン見してしまった。お姉さんは、「自分が何を言われたのかよくわからない」、と言った感じに口の片端を引きつらせ、「え……?」と首をかしげている。
 それを見る限り、先刻の言葉は間違いなく、店員さんの口から放たれたもののようだ。
 私はプチパニックになる。
 え、あの男の人って店員さんだよね……!? 店員がお客さんにそんなこと言っちゃって大丈夫なの……!?
 他人事なのにも拘わらず、見ている私のほうがハラハラしてしまう。
「え、ちょ、待って今なんて言った?」
「いや、だから、きみに興味ないし連絡先とか交換する意味がわからないから早く帰ってほしい。店の中で騒がれたら、ほかのお客さんにも迷惑だし。そんなことぐらい小学生でも分かると思うけど」
 呆然とするお姉さんに、男店員さんは再度ぴしゃりと言った。
 ほかのお客さん、と言うときに男店員と目が合って気づいたけど、店の中にはお姉さん以外のお客さんは私だけしかいなかった。駐車場にあった車は、全部従業員のものだったのだろうか。
 お姉さんは少しの間ポカンとしていたけど、やがて羞恥と怒りで顔を赤くした。商品とおつりを男店員から乱雑に受け取ると、「マジつまんな」とだけ言い、不機嫌に店を出て行ってしまう。
 ええ、ほんとに帰っちゃった……!
 お兄さんは気まずそうなそぶり一つもなく、「ありがとうございましたー」と、事務的にお姉さんの背に声をかける。
 すごい……。あんなにハッキリ断れるなんて……。
 感心していたが、男の店員さんと目が合ってハッとなった。私、お弁当買いに来たんだった……!
 店員さんから目をそらし、お弁当の売り場に向き直る。どれにしようか悩んで、結局、からあげ弁当をひとつ手に取った。空いているレジには休止中の札が出ているので、おそるおそるさっきのお兄さんのレジに持っていく。
「いらっしゃいませ」
 彼はやはり仏頂面で言い、お弁当をバーコードリーダーでピッと読み込んだ。
「温めますか?」
「あ、おっ、お願いします……!」
 男店員は無言で自分の後ろにあった電子レンジにお弁当を入れ、ボタンを押すと「一点で六八五円になります」とレジに表示された金額を、短く読み上げた。
 愛想のない淡々とした接客……。なんか、こわい……。
 そう思いながら会計を済ませ、おつりとレシートを受け取ってしまうと、レンジが稼働する音だけが店内に響いた。無言。
 レジカウンターを隔てて向かい合いながらも、沈黙がつづく。
 この瞬間ってちょっと気まずいんだよな。
 なんかこの人、なに考えてるのかもよくわからなくてちょっとこわいし……。
「うるさくてすみません」
 ふいに上から声が降ってきた。
 驚いて顔を上げると意外なことに、向こうから話しかけてきてくれていた。
「え?」
 うるさい? なにが?
「さっきのお客さん。たまに来るんですけどいつも騒いで帰っていくので。すみません、ご迷惑をおかけして」
「えっ、い、いえそんな……!」
 無表情で謝罪してきた店員さんに、私はあわてて首と手をばたばた振って否定した。
「そうですか? でもレジのほう見てましたよね」
「いや、それはべつにうるさかったからとかじゃなくて……。その、お兄さんが……」
「俺が?」
「きっぱり断ってたので。あんなにハッキリ言えるのすごいなって思って、つい……! 私なんか、嫌なことは嫌って言わなきゃ、ちゃんと断らなくちゃって思っててもぜんぜんダメなので……」
 言いながら、力なく笑いを浮かべてしまう。
「そうなんですか?」
「はい……今日、出かける直前に宗教勧誘の人が来て『一緒に聖書を読みましょう』って誘われたんですけど、断れなくて結局読んじゃって……。どうやったら断れるようになるのかなーって……」
「断われるようになりたいんですか?」
「そりゃ、まあ……。私ももう、四月から大学生になりますし、ちゃんと嫌なことは嫌って言えるようになりたいなって……。でも、もうずっとこんな性格だし無理かなぁって思っちゃったりもしてて……。って、こんな話いきなりされても困りますよね、すみません……」
「なんで無理だと思うんですか?」
 謝った私にお兄さんが、真顔でそう尋ねかけてきて、私は一瞬、当惑した。
「え、いや……」
「頑張ってみたら、できるかもしれないじゃないですか」
 やや首をかしげて、店員さんがそう言ってくれる。それでも崩れないポーカーフェイス。
「い、いや、ムリです。私、ほんとに昔からこうですもん。これからも、きっとこのままなんですよ」
 店員さんから目をそらして、私は自嘲気味に笑った。
 中学生のときは、高校生になるころにはさすがに変われてるかもと、未来の自分に淡い期待をしたりもしていた。でも、私は高校生になっても変われないまま……嫌なことを嫌と言えない、弱虫のままだ。高校もあと二週間で卒業なのに。だから、きっとこれからも私は……。
「からあげ弁当、好きなんですか?」
 またしても唐突に、店員さんが尋ねてきた。今まさに私が買ったからあげ弁当が温められている、電子レンジを指差しながら。
「え、普通に好きですけど、からあげ……」
 突拍子もないその質問に、私は瞬きを繰り返した。
「普通に好きなんですね。じゃあ、一番好きなのはなんですか?」
 重ねて店員さんが訊いてくる。
「え、ま、迷うけど今日はエビフライが食べたい気分でしたね……」
「お客さんが店にくる十分前には一個だけ売れ残ってたんですよ、エビフライ弁当」
「え? そうなんですか?」
「そうです。もし、お客さんがもう少し早く家を出ることができていれば――勧誘をちゃんと断れていたら――エビフライ弁当が買えたかもしれません」
「あ……」
「きっと、断れない性格を直せなかったら、今回みたいに、自分でも気づかないうちに小さな損をすることがこの先でてくるんじゃないですか」
 小さな損――。
 その言葉は、棘のように私の胸にちくりと刺さった。思い当たる節があったからだ。中学のとき、掃除当番を押し付けられて断れなくて、真っ暗な夜道を一人で怖い思いをしながら帰ったこと。小学校の時、本当は飼育係になりたかったのに、「小春ちゃん、新聞係でいいよね?」と言われて、つい頷いてしまって、文章を書くのは苦手だったのに、一年間、新聞を書きつづけたこと……。
 私はこの性格のまま、緩やかに損をする人生を送るんだろうか。
 そんなの――……そんなの、やっぱり嫌だ。
「……あの、どうやったら断われるようになるんですかね?」
「え、俺に訊かれても……」
 無表情だった店員さんが、微かにたじろいだ気がした。
「で、でも、すごいきっぱり断れてたじゃないですか、さっき。かっこいいって思ったんです。断り方のコツとか何かありませんか?」
 けど、諦めきれず、私は前のめりになって尋ねてしまう。
「特に意識してやってることはないんですけど……。でも、ああいうふうに言い寄ってくる人にはハッキリ言わないと、勘違いされてストーカーとかになるかもしれないですし。そうなったら俺が困るなって思って断ってるから……だから、強いて言うなら、『今これを断らなかったら、このあと自分はどうなってしまうんだろうか』ってよーく考えると、断れるかもしれないです」
「そ、そうなんですか……! なるほど……!!」
 目から鱗だった。
 そういう考え方があるんだ……!
 私は今までずっと、ただ、その場の雰囲気に流されて「まあ、しかたないか」と泣き寝入りしてばかりだった。断れなかったら、自分がこの後どうなるかなんて全然考えられてなかったのだ。
「ちょ、ちょっと今の言葉、スマホのメモ帳に書き留めておきます、忘れないうちに……!」
 コートのポケットからスマホを取り出す。メモ帳アプリに「断わらなかったらこの後の自分がどうなるかよく想像する」と書き留めていると――。
「ふ」
 笑いをこらえきれなかったみたいな、微かな声が降ってきた。
 顔を上げると、店員さんが左手を拳にして口元に当てていた。ほぼ仏頂面のままだったけど。微かに肩が震えている。
 ……え、もしかして笑ってる? ていうか、私、笑われた……!?
 びっくりしたけど、すぐに我に返った。
 そりゃ、そうだ。会計の途中でいきなりスマホにメモしだすとか、へんだよね……!
 そう気づいて、頬が熱くなってきた。
「す、すいません。そうやって考えればいいのか~って感心しちゃって、つい」
 頬を搔きながら、スマホをコートのポケットへとしまった。はずかしい……。
「なんか、君おもしろいね」
 真顔で言いながらも、彼の口元には微かに笑みが浮かんでいる。しかも、敬語がとれていた。普段、店員さんにタメ口で話しかけることなんて無いし、この人なかなか顔が整っているしで、何だかちょっとドキリとしてしまう。
「そ、そうですかね? 面白いですか、私……?」
「はい。なんだかんだ言いつつ、変わりたいと思ってるのは本当なんだなって伝わりました」
「……それは、そうですね。ほとんど諦めかけてましたけど、でもやっぱり、私、変わりたいみたいです」
 自分はどうせ、一生この性格のまま生きていくんだって思ってた。だけど、本当は心のどこかでこの性格を治せたらいいのにって思う自分もいたのだ。
「あ、あの、私、お兄さんみたいに、きっぱり断れる人になりたいです……! もうすぐ高校卒業しますし、この機会に、嫌なことを嫌って言えない自分からも卒業してみせます」
「そうですか。がんばってください」
「はい……!」
 ちょうど私が返事したそのタイミングで、レンジが鳴った。店員さんがレジから離れてレンジからお弁当を出して、袋に入れていく。
「明日もここに来たら、いいことがあるかもしれませんよ」
「いいこと、ですか?」
 レジ袋に入った弁当を手渡されながらそう言われ、私は首をかしげた。
「はい。またのご来店お待ちしてます」
 彼はほとんど真顔に戻っていたので、なにを考えてそんなことを言ったのかはわからなかった。彼のエプロンの胸元には、「雪森」と書かれた名札があった。
 雪森さんって、悪い人ではなさそうだけど、何かよくわからない人だな……。



 翌日の昼下がり、私はまた雪森さんのいるコンビニへ向かっていた。
 お母さんからもらったお金がまだ九千円も余っていたのと、あと昨日コンビニで買ったお弁当が美味しかったから、また食べたくなった……というのも理由として大きいが、なによりも、雪森さんの言葉の真意が気になって仕方なかったからだ。「明日もここに来たら、いいことがあるかもしれませんよ」なんて、そんなこと言われちゃったら普通に気になる。
 大体、いいことって一体なんなんだろう……? お弁当のセールとかやってるのかな?
 私はあれこれ想像しながら、コンビニまでの道中を歩いた。目当てのコンビニにたどり着き、自動ドアをくぐると、今日も雪森さんはしっかり働いていた。
「あ、昨日の。いらっしゃいませ」
 床をモップがけする手を休め、雪森さんは挨拶してきた。昨日と変わらぬ不愛想な顔つきで。
「こ、こんにちは」
 ぺこりと会釈すると、視線をそらされてしまった。
 ……明日も来たらいいことがあるって言ってたけど、店のなかも特段、きのうと変わってるところはないし、雪森さんも昨日と変わらずそっけない。
 困った私は、とりあえずお弁当のコーナーへ向かう。そのままエビフライ弁当を手に取った。
 よくわからないし、とりあえず会計だけしてしまおう……。私は、不可解に思いながらもお弁当をレジへ持っていった。
「いらっしゃいませ」
 私がレジ前に立っていることに気づいた雪森さんがレジへ入ってきた。ていうか、このお店、人手不足なのかな。昨日も来たけど、雪森さん以外の店員をまだ見てないんだけど……。
「また来てくれたんですね」
 バーコードリーダーでお弁当のバーコードを読み込みながら、雪森さんが言った。
「あ、はい。明日も来ればいいことがあるかもって、おっしゃっていたので……」
「ああ、言いましたね確かに」
 簡素に肯定すると、彼は「一点で五七九円になります」と無感情そうな声色で告げた。
 私は財布から小銭をとりだしながら、ちょっと拍子抜けした気分になる。
 い、いいことがあるって昨日は言っていたけど、べつに特になくない……? もしかして私、からかわれたのかな……?
「お客さん」
「え、はい」
「ただいま冬の和菓子フェアやっておりまして、よろしければご一緒にご購入いかがですか?」
 顔を上げると、雪森さんがレジ横の棚に並べられたお饅頭や大福を手のひらで示していた。
「え、えと……」
 私べつにそこまで和菓子すきじゃないんだけどな……かといって別に嫌いってわけでもないけど。でも、どちらかといえば、洋菓子の方が好きだ。それに、今は甘いものの気分ってわけでもないし……。
「どうされますか? いまだけそちらの和菓子、二割引きとなっておりますが」
 二割引き。微妙だ。せめて半額とかだったら買ったかもしれないけど、食べたくないものをわざわざ買うのもお金もったいないし……。正直断りたい。
「どうされますか? こちらの和菓子どれも賞味期限が近いので、もうすぐ処分することになってしまうのですが」
「えっ」
 私は脳内で葛藤した。
 和菓子は別に好きじゃない。甘いものが食べたい気分でもない。でも……、たぶんこの人は買ってほしいんだよね……。それなら……。
「じゃ、じゃあ買います……!」
「だめですよ、断らないと」
「えっ!?」
 食い気味に言われ、驚いた。雪森さんが眉を八の字にして私を見ている。
「お客さんに、嫌なことをしっかり断れるようになってほしいな、って思ったんですけど……。ほんとに断れないんですね……」
 しかも、若干あきれてる感じっぽくて、ショックを受ける。え、あれ? ていうか、もしかして……。
「あの、まさか、昨日言ってたいいことって、こ、これのことなんですか?」
「そうです」
 相変わらずの無表情で、雪森さんが頷いた。
「昨日の話聞いて、本当に困ってるんだろうなって思ったので。ちゃんと嫌なことは嫌って言えるようになれるように、そのために俺が練習台になってあげようかなと思って……でもよく考えてみれば余計なお世話ですね」
「い、いえそんな余計なお世話とかは全く思ってないんですけど……で、でも昨日知り合ったばかりの私に、どうしてそんなに親切にしてくれるんですか……?」
 私はこわごわと尋ねた。
 協力してくれるのはそりゃうれしいけど、でも困惑する気持ちのほうが大きかった。ただの店員とお客さんなのに、しかも昨日知り合ったばかりなのに、こんなことしてもらう義理なんてない。もしかして、なにか企んでる……!?
「いや、そんな不安げな顔しないでください」
「えっ」
 どうやら、顔に出てしまっていたらしい。
「べつに邪な動機があるわけじゃないんです。ただ、俺も高校生の時、自分のことが嫌で、変わりたいとは思ってたけど、なかなか変われずにいた時期とかあったので。なんだかお客さん見てると、昔の俺を見てるみたいで放っておけないっていうか……」
「そ、そんなことがあったんですか……? 店員さんにも?」
「はい。だから、昨日『私なんて、一生このまま』みたいなこと言ってるの聞いて、昔の自分に重ねてしまって……。なんかちょっと『この先も、小さな損をすることになる』とか、きついこと言っちゃったかもしれません。すみません」
「いや、そんな、この性格のせいで損してきたのは事実なので気にしないでください」
「いや、本当に言いすぎました……」
 さっきまで無表情だった彼は、ちょっとだけ申し訳なさそうな表情を浮かべてうなだれていた。
 でも意外だ。この人も、「変わりたい」と思ったことがあるなんて……。美形だし、性格もサバサバしててカッコよくて、コンプレックスなんかまるでなさそうなのに。
「あと、お客さん『もうすぐ高校卒業するし、この機会にこんな自分からも卒業したい』っておっしゃってたので……、ここらへんの高校って、どこも卒業式は三月一日ですよね。もう卒業式になるまで二週間切ってますし……、卒業式の日までに自分を変えるためには、一人で頑張るよりも誰かに協力とかしてもらって頑張った方が、効率いいんじゃないかなって思ったんです。俺ちょうどコンビニの店員やってますし、こういうふうな形だったら断る練習台になれるかなって思ったんですけど。……でも、やっぱ余計なお世話でしたよね。すみません、変に首つっこんで」
 そう言った雪森さんは、シュンとしょげたように見えた。
「そっ、そんなことないです……!」
「……本当に?」
「はい!」
 本心だった。余計なお世話どころか、見ず知らずの私のためにそこまで親身になって考えてくれてることが嬉しかった。
「正直、ちょっとびっくりしましたけど……! でも……私みたいな一人のお客さんにそんなふうにいろいろ考えてくれてたの、感動しました……!」
 口にしたそれは、遠慮とか、お世辞とかがいっさい混じらない本音だった。雪森さんは一瞬面食らったようだったけど――
「……良かった」
 ややあって、彼はホッとしたように、表情をゆるめてみせた。
 思わず、心臓がドキッとした。
 び、美形の笑顔の破壊力ってヤバい……!
「あ、あの、明日も練習しに来ても、いいですか……? きょ、今日はダメでしたけど、明日こそはちゃんと断れるように頑張りますので……!」
「え、逆に来てくれるんですか。俺、結構おせっかいなことしちゃったと思うんですけど」
「そんなことないです……! 私、ほんとに弱い自分からいい加減卒業したいって思ってるので……練習台になってくださると、むしろ助かります……!」
 前からずっと、変わりたいって思ってはいたけど、どこか諦めがちで、大して変わる努力もしてこなかった。でも、せっかくこの人がここまでしてくれるのだ。
 高校の卒業式までに、今までの弱い自分からも卒業するんだ……!
「わかりました。明日も待ってます」
 雪森さんは、ふだんの無表情ではなく、微笑みを浮かべてくれた。その顔を見たら、胸に明かりが灯ったように、温かい気持ちになった。



 その翌日から、私のコンビニ通いが始まった。お昼ごはんのお弁当を買うのを口実にレジへ行き、雪森さんに断る練習につきあってもらうのだ。この日は日替わり弁当を持ってレジへ向かった。
「お、おねがいします」
 レジのカウンターにお弁当を置き、ドキドキしながら私は言った。
「いらっしゃいませ」
 相変わらずお昼時なのにお客さんは少なく、雪森さんは一人で無表情でレジに立っている。
「お弁当あたためますか?」
「は、はい……!」
 雪森さんが、自分の背後にある電子レンジにお弁当を入れる。レンジが稼働する低い音がした。
 よし、今日こそは、断るんだ……!
 私は財布を握りしめながら、緊張しながら雪森さんの言葉を待った。
「お客さん、一番くじご購入いかがですか」
 雪森さんが淡々とした口調で言った。
 よ、よしきた……! これを断ればいいんだ。
「いや、えっと、や、やめときま」
「一番くじですが、残り少なくなっております」
「え、そ、そうなんですね……」
「本日でくじ終了となっております」
「そ、そうです、か……」
「本日分の在庫がなくなりますと、次回入荷はありませんが本当によろしいですか?」
 雪森さんが真顔で、私の瞳をじっと見つめてくる。
 な、なんでそんなに畳みかけてくるの……!? 断りづらいよ……!
「え、えっと、その……じゃ、じゃあ一回分だけ……」
「だめじゃないですか、『買いません』って言わないと」
 雪森さんが呆れた顔をしてみせた。
「う、だって雪森さんがいっぱい言うから、余計に断りづらくなっちゃうんじゃないですか……!」
「でも、しっかり断れるようになりたいんですよね?」
 きょとんとした表情で首をかしげる雪森さんを見て、私はハッとなった。
 たしかに……。これから先、簡単に断れるようなことだけじゃなくて、一筋縄じゃ断れないようなことだって出てくるかもしれない。そういうときに断れなかったら困るのは私だ。そうだ、今ちゃんと練習して、どんな断りにくいことでも、ハッキリ嫌ですって言えるようになっておいたほうがいい……!
「あ、明日こそは! 明日こそは頑張りますので!」
「お待ちしています」
 私は、翌日もコンビニへ行った。この日もお客さんはいなくて、私はからあげのお弁当を選んでレジへと持っていった。
「ただいまからあげ揚げたてとなっておりますが、ご一緒にご購入いかがですか?」
 からあげ弁当をレジに通しながら、ホットスナックの什器に入った五個入りのからあげを、雪森さんは手のひらで示した。軽く衝撃を受ける。
 からあげ弁当買ってるのに、さらにからあげなんか買って食べたらさすがに胃がぐったりしちゃうよ……! これは、絶対断らなきゃ……!
「い、いえ、けっこうで……!」
「揚げたてです。とても美味しいですよ」
「え、ええ? いや、でも……」
「俺が揚げたんです。二年くらいコンビニ店員やってますけど、こんなに美味しく揚げられたのは初めてです」
「うぅ……」
「……ご一緒にご購入いかがですか?」
 じっと無感情な目で見つめられ、気が付くと私は――
「はい……」
 首を縦に振ってしまっていた。
「どうして断れないんですかね……?」
 私の様子を見た雪森さんが、不可思議そうに言った。
「ゆ、雪森さんがめちゃくちゃ畳み掛けてくるからじゃないですか~……!」
「ははっ、その通り」
 苦悶の表情を浮かべる私とは対照的に、雪森さんは、楽しそうに笑っていた。
 私は何度も目を瞬いた。
 いっつも表情筋死んでるのに、雪森さん、めっちゃ笑顔だ……。
 年上の男の人に対してこんな言い方をするのはおかしいのかもしれないけど、私はこの時の雪森さんのことをかわいらしいと思ってしまったのだ。
 ていうか雪森さん、そんなふうに笑えたんだ……。
 いつもは無表情なのに、笑っても微笑むくらいなのに、そんな明るい顔もできたんだと思うと、なんだか胸がドキドキと高鳴って、ちょっと困ってしまう。
 


 それからも私は、毎日コンビニへ通い続けた。だいたい店にはほかのお客さんがいなくて、いつもレジでは雪森さんが断る練習につきあってくれた。けれど、一向に上手く断ることはできないまま、卒業式までとっくに一週間を切っていた。
 そろそろちゃんと断れるようにならないと、さすがにまずい。今日こそは断らなきゃ……!!
 この日も、そんな確固たる意志でコンビニに入店しようとした、そのときのことだった。
 店の裏口から私服姿の雪森さんが出てきたのは。彼は、私を一目見て「あ」、と声を上げた。
「あれ? ゆ、雪森さん?」
 私は目を白黒させてしまう。いつもは店の制服を着てレジに立っているのに、今日は私服で外にいる。
 ふと、ガラス越しに店内を見ると、レジには知らないおじさんが退屈そうに立っているところだった。
「あ、あの雪森さん、もう帰っちゃうんですか?」
「ああ……、きょう俺、非番なのに間違えて出勤しちゃって、今から帰るとこです」
「え! 雪森さんでも、そんなミスするんですね……」
「俺って、そんな隙なさそうに見えるんですか?」
 雪森さんが無表情で首を傾げた。
 でも、そうか。今日は、雪森さんと断る練習できないんだ……。
「何もそんなにシュンとしなくても。そんなに俺と喋りたかったんですか」
「えっ、いや、練習ができないのが残念なのであって、雪森さんと喋れないのが残念とか思ってるわけじゃ……!」
「ああ、本当に、〈断れない自分〉からは卒業したいと思ってるんですもんね」
「そうです、そうなんです……!」
 何度も顎を引いて頷く。
 多少、早口になってしまった。雪森さんと喋れないのが残念と思っているというのは、何を隠そう半分くらい図星だったのだ。断る練習ができないということもそうだけど、レジを隔てた雪森さんとのやりとりがなくなってしまったことにも、少し落ち込んでいた。その気持ちを見透かされて、気恥ずかしかった。
「で、でもシフト入ってないなら、練習のしようがないですし、しょうがないですもんね。じゃあ私、今日はこれで帰ります……!」
「え、弁当は? 買ってかないの?」
 踵を返そうとした私に、雪森さんがきょとんとして声をかけてきた。
「あ、家に一応ごはんはあるんです。でも、雪森さんと断る練習するためには、レジに行かないといけないじゃないですか。だから、その練習のついでにお弁当買ってたって感じなので……お弁当美味しいですし……」
「そうなんだ。普通に弁当が目当てで練習がおまけって感じなのかと……」
 どこか意外そうに、雪森さんはつぶやいていた。
「それじゃあ、私はこれで……」
「まって」
 背中を向けたら、また呼び止められた。私が振り向くと、彼は相変わらずの仏頂面で言った。
「せっかく来てくれたんだし、外で断る練習してみる?」
「えっ! い、いいんですか?」
「いいよ。ついてきて」
「わ、わかりました……! え、て、ていうか、外で練習って、まずどこに行くんですか……?」
「内緒」
 こわごわと訊いても彼はそれしか言ってくれなかった。雪森さんは行き先を明かさないまま、しれっと歩き出す。
「ついてくれば分かるから」
「ま、待ってください……!」
 ていうか雪森さん、今日はタメ口が多い気がする。今は非番で、店員さんじゃないからかな?
 距離が少し縮まったようで、私はそれが嬉しかった。
 置いて行かれないように、早歩きで雪森さんの後を追った。べしょべしょになった溶けかけの雪のせいで、ちょっと足元がおぼつかない。



 五分ほど歩くと中心街にたどりついた。
 雲を割るような高さのビルやショッピングモール、有名な系列の飲食店などが立ち並んでいる。私がまだ二年生だったころ、クラスの子たちと文化祭や体育祭の打ち上げなんかで、何回かここらへんのカラオケに遊びに来たのを覚えている。最近は受験勉強でいっぱいいっぱいで、遊びに行く余裕なんて全然なかったけど……。久々に来た街はびっくりするくらい何も変わっていなかった。
「あそこ」
 きょろきょろと周囲を見回しながら道を進んでいると、前を歩いていた雪森さんがいきなり立ち止まった。私もあわてて足を止める。危うく、目の前の大きな背中に額をぶつけてしまうところだった。
 雪森さんが指差した先には、広告入りのポケットティッシュを配っているお姉さんがいた。この寒空の下、薄い生地のフリフリのメイド服を身に纏っている。頭にはイヤーマフの代わりにはならなさそうな、ヘッドドレスを着けていた。明るい色の髪の毛は高い位置でツインテールに結われていて、可愛らしい。年齢は私と同じくらいか少し上くらいだろうか。
「あのお姉さんが、どうかしたんですか?」
「あの人の前を通って、ティッシュをもらうのを断って帰ってくるのはどうかなって」
「えっ、それが、断る練習ってことですか!? で、でも私にできますかね……?」
「だって、弱い自分から卒業したいって言ってたし、何事も当たって砕けろの精神でやってみたほうがいいと思う」
 雪森さんはけろっとしていた。
 それは、そうだけどこんないきなり行けって言われても……。
 戸惑っている私を見て、彼は諭すように言う。
「ほら、あの人なら優しそうだし、同性だし、断りやすそうじゃない?」
「え……わざわざ、断りやすそうな人さがしてくれたんですか?」
「いや、来る途中たまたまあの人を見かけて。君、俺が相手だと全然断れてなかったし。俺みたいなとっつきにくそうな男より、ああいうタイプの人が相手だったほうが断りやすいのかなって、そう思っただけだよ」
 そっけない口調だったけど、ジンと胸が熱くなった。雪森さん、私のこといろいろ考えてくれてるんだ……。非番なのに、わざわざ練習にも付き合おうとしてくれてるんだから、私もしっかりしないとダメだ。
「が、頑張ってきます……!」
「いってらっしゃい」
 意を決して、私はメイド服の女性の元へと近づいていった。
 ポケットティッシュが入ったカゴを腕から下げた女の人は私を見て、サッとポケットティッシュを差し出してきた。
「メイドカフェ『RIBON』、本日オープンでーす。よろしくおねがいしまーす」
「あ、ありがとうございます」
 一瞬、自分でも何が起きたのか分からなかった。
 私は、流れるような手つきでポケットティッシュを受け取ってしまっていたのだ。
 こ、断れなかった……! あまりにも可愛い笑顔に、ほだされてしまった……!
「あのぅー」
 軽く自己嫌悪になっていると、メイドさんが話しかけてきた。びっくりして顔を上げる。
「あっ、な、何ですか?」
「高校生ですかぁ?」
 メイドさんが笑顔で尋ねてきた。
「そ、そうですけど……」
「へ〜、そうなんですねぇ。うちの店、スタッフ募集してるんですけど、メイドとか興味ないですか? 十八歳以上なら雇えるんですよ。うち今、オープンしたばっかなんですけど、超人手不足でやばくってぇー。お姉さん、メガネとってメイクとかしたらメイド服めっちゃ似合いそうかなって思ったんで声かけちゃいましたぁ」
「え、いや、そんな……!」
 私は両手をばたばたと振って否定した。
 皆に言ってるのか、それとも本気で言ってくれてるのかはわからないけど、でもメイドなんて私にできるわけないし、フリフリした服着て接客なんて絶対ムリ……! 絶対向いてないよ、私なんて……!
「よかったら、お話だけでも聞いてくれません? ちょうど今日、店に店長もいてぇー」
「て、店長?」
「はい。お店、あっちにあるので行きましょう~」
「え、ちょ、ちょっと待ってください……!」
 私は慌てて制止しようとした。それでも、メイドの女性は私の腕をつかんで、歩き出そうとする。これはさすがにダメだ。ちゃんと、はっきり言わなきゃ……!
「あ、あのわたし、メイドとか向いてない、と思いますし……」
「えー、いいじゃないですかぁ」
 女の人は私の腕をつかんだまま、にこにこ笑っていた。口元は笑っているけど、目の奥が笑ってない。どこかゾッとする笑みだった。その圧力に、それ以上なにも言えなくなってしまう。
 ど、どうしたらいいの……。
 こちらがなんと言っていいのか分からずにいると、メイド服を来た女性はスマホを取り出して、通話をかけ始めた。
「あ、もしもし店長? 良さそうな子ひとりみつけたんですけどー。今から連れてっていいですか? 新しい子みつけたら報酬上乗せしてくれるんですよね? ていうか、この前の新人がマジ秒で辞めるからですよね、こんなことになったのー。でもやっぱしょうがないですよね、ほんと使えなさすぎてやばかったですもん、あの女ー」
 メイドの女性は、明るい色の唇を歪ませてけらけらと笑っていた。この隙に逃げ出そうかとも思ったが、逃すまいとばかりにがっちりと腕を掴まれていて動けない。
 どうしよう……何か、こわい……!
 心細くなって、ギュッと目をつむったそのときだった。
「手、離して」
 聞き慣れた男の人の声が降ってきた。
 目を開けると、メイドさんの前に雪森さんが立っていた。
「は? え、何ですかぁ? てか、あなた誰?」
 メイドの女性は、怪訝そうに眉をひそめてみせる。
「手離して、って言ってんの。その子から」
「はあ? あんたには関係ないでしょ。うちの店マジで人手なくて大変なんだから。ちょっと顔良いからって調子乗んなし」
「嫌がってるのに無理やり手つかむって悪質だと思うんだけど」
「意味わかんない。ていうか、超しつこいね。あんた、この子の彼氏か何かなわけ?」
「そうだよ。俺のだから離せよ早く」
 イラついているのか、少し早口だった。
 俺の、と言われた瞬間、私の頬には熱が昇った。
 わかってる。私たちはそんな関係じゃないことくらい。助けるために、嘘をついてくれてることくらい、わかる。でも、嘘でもうれしかった。
「そういえば、すぐそこにパトロール中の警察官いたけど、大丈夫?」
「え! やばっ、うそ!?」
 やはり違法な営業をしている店だったのか、女性は私からパッと手を離して雪森さんが指した方向を振り返る。
 刹那、雪森さんが私の腕をつかみ、駆け出した。
「あ! ちょっと!?」
 後ろから女性の声が聞こえた気がしたけど、私たちは振り返らずに走った。
 

 
「ここまで来れば大丈夫なはず……」
 雪森さんが立ち止まり、息も絶え絶えに言った。私も息が乱れている。つながれたままの手が熱い。女性は追いかけてこなかったけど、勢いのままにずいぶん遠くまで走ってきてしまった……。
「何か、色々ごめん……。俺のせいで」
 責任を感じているようで、雪森さんは少し気まずそうだ。でも、ちがう。雪森さんが悪いんじゃない。悪いのは、うまく断れない私だ。
「大丈夫なので、そんな気にしないでください……」
 自己嫌悪に苛まれ、少しうつむきがちに答えた。
「……本当に大丈夫?」
 ふいに横から顔を覗き込まれる。心臓が跳ねた。
 近い。
 顔のパーツが整っていることがよく分かる。綺麗な眉が、かすかに八の字になっていた。いきなり距離を詰められたことに驚いて、私の鼓動は一瞬、速まった。
「だ、大丈夫、です」
 顔を上げて、何度も頷く。
 雪森さんは、どこかホッとしたように息を吐いた。
「……けしかけた俺が一番悪いけど、でも、ああいう危ない時は、ちゃんと嫌だって言えるようになったほうがいいよ。絶対」
「そうですよね……雪森さんが守ってくれたので、助かりました」
「俺は、君とずっと一緒にいれるわけじゃないから……」
 その言葉に、どこか突き放されたような気がした。でも、至極真っ当すぎて、ずきりと胸が痛んだ。
 そうだった。私は、「高校卒業と同時に、『嫌なことを嫌と言えない自分』からも卒業する」ために、雪森さんに協力してもらっているだけだ。もともと私と雪森さんは、ただのお客さんと店員さんの関係。友達でも家族でも恋人でもないから、ずっと一緒にいれるはずないんだ。
「俺は、君が一人でしんどい思いをするのは嫌だから、ちゃんと断れるようになってほしい」
 雪森さんが口にしたその言葉を聞いて、何だか、ぐっと胸がつまった。



 その日の夜、私は夕飯を食べる気になれず、部屋のベッドに横になって天井を見上げていた。


 ――君が一人でしんどい思いをするのは嫌だから、ちゃんと断れるようになってほしい。


 帰宅してからも、あの雪森さんの言葉はずっと胸に残り続けている。
 私一人が嫌な思いをしていると、悲しい気持ちになる人がいるんだ……。そんなこと、考えたこともなかった。
 今までずっと、断れないせいで結果的な嫌な思いをしたり、損をしたりするのは私だけだと思っていた。でも、本当は違ったんだ。
 お母さんには嫌なことを嫌と言えないって悩みを、相談したことはなかったけど……、もし私が嫌なことを嫌と言えなくて、そのせいで面倒な役目を押し付けられたり、しなくてもよかった苦労をしていたんだって知ったら、きっとお母さんにも雪森さんと同じような悲しそうな顔をされるだろう。
『自分を大切にする』ってことは、『自分のことを大事に思ってくれてる人を大切にする』のと同じことなのかもしれない。
 私が今まで、変われなくても仕方ないやって、どこか諦めがちだったのは、自分さえ我慢すれば場が丸く収まるって思ってた節があったから。でも、それじゃダメなんだ。私が私のことを大切にしなかったら、私のことを大事に思ってくれてる人たちが、傷つくんだ。私が嫌なことを嫌って言えないままでいたら、悲しい人がいる。雪森さんに、あんな顔であんなこと、もう言わせたくない。
 やっぱり私、変わらないと。卒業してみせなきゃいけない。弱い自分からは。



 そう決意を固めた翌日のことだった。
 昼近くになってコンビニにでかける支度をしていると、インターホンが来客を報せた。
 こんな朝早くから誰だろう……。
 一抹の不安を覚えつつ玄関に出ると、そこに立っていたのは、前に一度、うちにやってきた宗教勧誘のおばさんだった。
「どうも、お嬢さん」
 戸惑う私に、彼女は、にっこりと柔和な笑みを浮かべてみせた。
 思いがけない人の来訪に、たじろいでしまう。どうしよう、またこの人が来るなんて……。
「あなた、たしか神様を信じるって、前に言ってたわよね?」
 おばさんは、カバンから分厚い聖書を取り出すと、そう尋ねてきた。
 嫌な予感は的中してしまいそうだった。そして、その予想は当たった。
「今日も、一緒に聖書を読みましょう? きちんと信仰の言葉を口に出すことで、神様はあなたのことを敬虔な信者だと認めてくださるわ。そうなったら、いざというときに、きっと神様はあなたのことを助けてくれるのよ。ね、あなた、神様のこと信じるって前に言ってたものね」
 どうやら、前に私が「神を信じるか」というおばさんからの問いに、何の気なしにイエスと答えてしまったせいで、信者に引きずり込めるのではないかと期待させてしまったようだった。
 おばさんは、にっこりと笑んでいる。断られることなんか、微塵も想像してなさそうな顔。
 ここで私が「わかりました」とさえ言ってしまえば、きっと丸く収まる。
 でも……。


――君が一人でしんどい思いをするのは嫌だから、ちゃんと断れるようになってほしい。


 雪森さんの言葉が、脳内でリフレインした。
 気が付くと、私は口を開いて言っていた。
「すっ、すいません、そういうのはちょっと……!」
 やんわりとだが断った私に対して、おばさんは、予想が外れたような、きょとんとした表情になった。でも、一番驚いているのは私だった。
 言えた……、言えた……! 自分でも何でかよくわからないけど……!
 おばさんのきょとんとした表情を見て、手応えを覚えた。いける、大丈夫。私は断れる。
「わ、私、そこまで真剣に神様を信じてるわけじゃないんです……! だから、聖書とかは、読みません……!」
 声が震えそうになりながらも、どうにか自分の気持ちを伝える。
 おばさんが片眉を上げて見せた。
「あら、そうなの……? でもね、神様はいるのよ。きちんと信仰を捧げていれば困った時に手を差し伸べてくださるんだから」
「い、いるかもしれないですけど、私は、あなたほど真剣に信じてませんので……! 本当にすみません……!」
 繰り返し、同じことを伝えた。胸がドキドキと鼓動を打っていて、心臓が口から飛び出しそうだった。
 お願い。どうか、わかってもらえますように。
 心臓が胸の内で暴れるのを感じながら、ひたすら、それだけを祈っていた。
「あら、そう……。じゃあ、仕方ないわね……。これだけ渡しておくわ」
 おばさんは残念そうに、息をついてみせると、「神様への祈り」というタイトルが書かれた小さな冊子だけ渡してきて、そのまま去っていってしまった。
 私は、おばさんの姿が見えなくなってからも、その場から動けなかった。
 私、もしかして今、はっきり断れた……?
 冊子は押し付けられるままに受け取っちゃったけど、でも、聖書を読むのは断れた……!
「やった……っ!」
 緊張の糸が切れたせいか、玄関に膝をついてしまった。湧き上がってくる喜びと達成感を、一人でしばらくの間、噛み締めていた。



「ゆ、雪森さん聞いてください!」
「いらっしゃいま、せ……」
 雪森さんは慌ただしくコンビニに現れた私を見て、目を丸くした。
「どうしたの」
「こっ、断われたんです……!」
「……え?」
「さっき家にまた宗教勧誘の人が来て、一緒に聖書読もうって言われたんですけど、でも聖書読むの断れたんです……! 冊子は流されるまま受け取っちゃったんですけど……」
 雪森さんが目を見張った。
「すごいじゃん。昨日のティッシュ配りは断れなかったのに……」
「雪森さんの言葉を思い出したら、何かいけました。今だったら私、なんでもできちゃう気がします……!」
「本当? じゃあ、今から俺から言うことも断れる?」
 意気込んだ私に、雪森さんがそう訊いてきた。
「内容によると思いますけど……頑張りますよ!」
「そっか。じゃあ――」
 和菓子も、一番くじも、からあげも、どれを勧められたとしてもちゃんと断れる気がした。けど、雪森さんが言ったのはそのどちらにもあてはまらないことだった。


「――俺とデートして」


 そう言った雪森さんは、照れるそぶりなんか全くなくて、普段通りの真顔だった。
「はい……」
 やや間をおいて、私は自然とそう返事していた。
 すぐにハッとなった。
「あれ、何で断らないの」
「い、嫌じゃないから、です……」
 しばし沈黙が場を占めた。
 頬が熱くなってくる。
 しばらくして我に返った。
 な、なに言ってんだろ私。雪森さんが、本気で私とデートしたいと思ってるはずない。きっとナンパされたときのための断る練習とか、そういう意味で言ったに違いないのに……!
 恥ずかしくなって、何も言えずにいたが。
「俺、あと三十分で上がるからちょっとまってて」
「え」
 びっくりして顔を上げた。
「え? 行きたいんじゃないの?」
「え、あ、あの本当に……?」
「うん」
 雪森さんが頷いて見せる。
 完全に予想外のことに、信じられない気持ちでいっぱいになった。



 本当にデートすることになっちゃった……!
「どこか行きたいところある?」
 車の助手席でドギマギしている私をよそに、雪森さんがサラリと尋ねてくる。
「と、特に……!」
「じゃあ俺が行きたいとこ行っていい?」
「はい……!」
「お昼ご飯、食べに行こうか」
 そう言って、雪森さんは車を出した。どこに連れていかれるんだろうと、私はドキドキするばかりだった。
 やがて、車が停まったのは洒落たカフェだった。
 赤レンガの壁に、植物のツタが走っている。窓越しに店内の様子が見えるけど、内装は椅子もテーブルもアンティーク調で統一されていて、全体的にちょっと落ち着いた雰囲気だ。大学生のカップルとか、仕事してる人が昼休憩にやってきそうな感じ。
 えっと、ここ? 私、こんな大人っぽいところ来たことないけど……。
 車の中でぽかんとしていると、雪森さんが「入ろう」と入り口を指差した。
「え、は、はい」
 二人で車から降りて、雪森さんの後ろについていって店内に入る。
 中に入ると、ドアベルが頭の上で軽やかに鳴った。暖房の温かい空気が顔にふれて、ホッと息をつく。
 店内には耳にやさしい落ち着いたジャズがかかっていて、ほかのお客さんは、カウンター席で新聞を読んでいるおじさんと、奥の席でパソコンで作業している若い男の人だけだった。雪森さんは私が入るとき、ドアを押さえててくれた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 店の制服を着たお姉さんが微笑んでくれる。
 雪森さんは会釈して、一番奥の席へ向かう。私も後へとつづく。
 私と雪森さんはコートを脱いで椅子の背もたれに掛けると、向かい合うようにして席に着いた。
「こ、こんなお店があったんですね。全然知りませんでした」
「静かでいいとこでしょ。いつ来ても、ガラ空きだから落ち着いて過ごせるんだ」
「あ、あんまりそういうこと言うと店員さんに良い顔されませんよ……」
 繁盛してない、と遠回しに言ってるみたいなものだもの。
 雪森さんは「……たしかにそうかも」と同意し、腕を伸ばしたかと思うと、テーブルの端のラックに立てかけられたメニューを開いた。ラミネート加工されたそれを私に手渡してくる。
「なに食べたい? ケーキもあるし、軽食もあるよ。俺のおすすめはね、この『シェフの気まぐれグラタン』。ナスがいっぱい入ってるときもあるし、トマトでアレンジされてるときもあって面白いよ。あつあつで美味しいし……」
「え、あ、あの、ちょっと待ってください」
「グラタン嫌い?」
「そうじゃなくてですね……、あの、私、そんなにたくさんお金持ってないですし……」
「高校生に払わせるわけないでしょ。俺が奢るよ」
 雪森さんは何でもないことみたいにサラッと言ってのけた。ポーカーフェイスで。
「い、いや、そんなの悪いです……!」
「いいよ。連れてきたの俺だし、お金くらい出すよ。それに、お店に入ったのに何も利益に貢献せず帰る方が、後ろめたい気持ちにならない?」
「う、それはまあそうですが……」
「でしょ。気にしないで。ここの会計くらいは出せるから」
 やっぱり、雪森さんって優しい。
 なぜだか、じんわりと胸が熱くなる心地がした。
「……そこまで言ってくれるんなら、今日は、お言葉に甘えさせていただきます……」
 そう呟いて両手でメニューを受け取ると、雪森さんは満足そうに少し笑っていた。
 結局、私たちは、グラタンとスープのセットを注文した。注文を待つまでの間、ほとんど会話はしなかった。けど、不思議と居心地はとてもよかった。沈黙が心地いいなんて初めての経験だった。
 ちなみに待っている間に対話したのは一回だけ。窓の外を眺めていた雪森さんが、「秋田犬かな」と呟いた。見ると、毛糸の帽子を白髪頭にかぶったおじいさんが、犬を散歩させていた。「柴犬かもしれませんね」と私は答えた。
 ちょうど、そのタイミングで料理が運ばれてきた。
「お待たせしました、ご注文の品お待ちいたしました」
 お姉さんが私たちの前にグラタンの器を置きながらそんなことを言う。
 ふわっといい匂いが鼻先にただよう。
 いい塩梅に焦げ目のついたチーズが、私を見つめている。きっと、フォークでこの表面のかりっとしたチーズを割ったら、とろっとしたホワイトソースやマカロニ、玉ねぎが顔を出すんだろう。
「こちら、グラタンのほうたいへん熱くなっておりますのでお気をつけください」
 私がグラタンに釘付けになっていると、お姉さんはそれだけ言って去っていった。
「お、おいしそうですね……」
「ちょっと時間おいてから食べた方がいいよ。口の中やけどするから」
「え、そんなに熱いんですか」
 私が尋ねると、雪森さんは顔をしかめながら深く頷いた。あ、たぶん経験者は語るってやつだ。
「じゃあ、スープから飲んだほうがいいですか」
「そうだね」
 そう言われた私は、グラタンの器の隣の、小さな木のボウルへ視線を移した。コンソメスープなのか、色の薄い透き通った水面にハーブのようなオシャレな草が浮かんでいる。
「いただきます」
 両手で器をもって、口元に近づけ、スープを口に含む。やさしいうまみが口いっぱいに広がって、ホッと胸があたたかくなった。
 おいしい……!
 ふと、正面の雪森さんを見ると、彼はスープをスプーンをすくって、冷まそうとして息を吹きかけていた。
 猫舌なんだろうか。そして、その飲み方は成人男性がするにしては何かちょっと……。
「かわいい飲み方ですね」
 可笑しくて、つい、言ってしまった。
 雪森さんが顔を上げて、スッと、器に両手を添えている私のほうを指さした。
「そっちこそ、可愛い飲み方」
 やさしい口ぶりだった。彼は、微笑していた。
 胸がドキッとなる。
 私は何と言っていいのかわからずに、赤くなった頬を隠すように、スープの器を口元に寄せた。また一口飲んで、少し落ち着いてから言う。
「わ、私なんかより、雪森さんのほうがかわいい飲み方ですよ」
 面映い気持ちになりながらもそう口にして、「あれ、男の人にかわいいって褒め言葉じゃないのでは?」と気づいてハッとなった。もしかしたら、不快にさせてしまったかもしれない。そう不安になったが、雪森さんは顔色ひとつ変えなかった。
「俺は、普通に君のほうが可愛いと思うけど」
 一瞬、時間が止まったような心地がした。
 可愛い、って……!
 じわじわと顔に熱が集まってくる。
 ヘンな意味で言ったわけじゃないってことくらい分かってるのに、なんだか妙に照れる。
 きっと今、私の頬は秋色に染まっているだろう。
「そういえば俺、君の名前まだ知らなかった。今さらだけど名前聞いていい?」
「こ、小春です」
「へえ、小春か……。……あ、ごめん呼び捨てにしちゃった」
「い、いや、あの、べつに、私のほうが年下なので、呼び捨てでも全然……!」
「本当に嫌じゃない……? 小春、嫌なこと嫌って言えないほうだし、なんでもオッケーしちゃいそうで心配なんだけど」
 形の整った眉を、左右で互い違いにしてみせる雪森さん。そんなふうに気にかけてもらえると思ってなかったので、少し驚いた。
 やっぱり雪森さんはすごく優しい人だな。
「いえ、ほんと大丈夫です……!」
 普通は年上の人に呼び捨てにされたら威圧感があると思うけど、雪森さんの「小春」と呼ぶときの声音は穏やかで、ちっとも怖くはなかった。
「大丈夫ならいいんだけど……。小春と一緒にいると落ち着くから、気が緩んで呼び捨てになっちゃった。いきなりでびっくりしたでしょ」
「いや、雪森さんほんと、ほんとに大丈夫なので、そういうのやめてください」
「え? なんで?」
 雪森さんに気遣われれば気遣われるほど、なんだか心臓の鼓動が、とくとくといつもより少しだけ早くなってしまうから。
「……いや、それは、な、なんとなく…………?」
「へんなの」
 首を傾げてごまかした私に、雪森さんは、相好をくずした。
 いつもほぼ無表情だし、普段もほとんど微笑するような表情しか見たことなかったから、久々に見た笑顔の破壊力はすさまじかった。
 まともに顔を上げられなくなって、私はひたすら、ちょうどいい温度になったグラタンを食べ進めた。
「……今日、デートしてって言ったのはさ、話したいことがあったからなんだ」
 食事をする手を休めて、雪森さんがぽつりと口にした。
「話したいこと……ですか?」
「俺、バイト辞めたんだ」
「え……」
 瞬間、文字通り、私は言葉を失ってしまった。
 ……辞めた? バイトを?
「どっ、どうしてですか……!?」
「俺、三月には引っ越して地元に帰るから」
 思ってもみないことだった。
 何も、ずっと一緒にいれると思ってたわけじゃない。でも、こんなに早く別れが来ると思ってなかった。呆然とする私に、雪森さんは言った。
「俺、高校の時、人間関係がうまくいってなかったんだ。クラスメイトからは、なに考えてるのかわからないとかよく言われたし、何でもかんでもハッキリ言いすぎて女子泣かしちゃったりもしてて……」
 たしかに、雪森さんはあんまり表情のバリエーションが豊かな方とは言えないし、逆ナンされてたときも、私が絡まれてたときもちょっとキツめの言い方だった。気の弱い女子が相手だったら泣かれててもおかしくはないかも。
 妙にぼんやりとした頭で、私はそんなことを思った。
「傷つけたいと思ってるわけじゃないのに、俺の言動で傷ついたり怒ったりする人がいるから。それで、『自分が変わらないといけない』って、自覚してはいたんだけど、具体的にどうしたらいいのか分からなくて、当時はモヤモヤしてたっていうか……」
 そうだ。前に、私のことを、「高校の頃、俺も変わりたいのに変われなかったことがあるから、昔の自分を見ているみたいで放って置けない」と言っていた。
「環境を変えてみたら、自分の性格も変えられるかもって思って。高校卒業してからすぐに実家出て、親戚がいるこの県に引っ越してフリーターやってたんだ。で、そういう生活するうちに、高校の頃よりは少しだけ人との適切な接し方とか、ようやくわかってきて。親と電話とかするときに、『高校の時に比べて、だいぶ丸くなったね』って言われることが多くなってきた。ようやくこの土地にも慣れたんだけど、この前、父親が若年性のアルツハイマーってわかって、俺が地元帰って面倒見ないといけなくなったんだ。うち、片親だし、父さんには男手一つで育ててもらったから感謝してるから」
「そうなんですね……」
 それ以上、言葉が出てこなかった。
 ああ、「俺はずっとそばにいられるわけじゃない」ってこういう意味だったんだ。
 そのことを、私は今になって実感していた。
「……雪森さんの地元って、どこなんですか?」
「北海道」
 遠い。ここからじゃ、飛行機で軽く一時間はかかる距離だ。
「三月一日の夕方には、帰るつもりなんだ」
 呟くような声量だった。その日は、私の卒業式の日だった。明日だ。あっというまにその日は来てしまう。
 黙った私に、雪森さんは続けた。
「結構働き詰めで、こっちで全然知り合いとかできなかったから、最後に思い出がつくれてよかった。短い間だけど、楽しかったよ。ありがとう、小春」
「はい……、私のほうこそ。二週間も練習につきあってもらって、ありがとうございました」
 何とかお礼が言うので精一杯だった。ちゃんと笑えていたかはわからない。
 雪森さんとは、たった二週間の付き合いなのに。なんで、こんなに胸が痛むんだろう……。



「ただいま! 明日はとうとう卒業式ね~。ぎりぎりだけど帰って来れてよかったわ~」
 帰宅して、ソファーでぼんやりしていると、夕方になってお母さんが出張から戻ってきた。
「どうしたの、部屋の電気もつけず暗い顔して! そんなに卒業式が憂鬱なの? でも、小春そんなに仲いい子いた? 友達は広く浅く〜って感じだったし、むしろクラスメイト以上知り合い未満って感じの人付き合いしかしてなかったじゃない? ほら三年生になってからはずっと塾とか学校の勉強ばっかりでほとんど誰とも遊んでなかったよね?」
「……ある人ともう二度と会えないかもしれなくて」
 私は、消え入りそうな声でそう告げた。お母さんが怪訝そうな顔になる。
「もう会えないって……連絡先とかは?」
「交換してない」
「じゃあ交換してって言えばいいじゃない」
「そんなこと言えないよ……」
「言わなかったら、もう会えないよ」
「嫌だ……」
 ソファーに座ったまま、うつむく。うっかり涙が滲みそうになった。
「小春」
 上から優しい声が降ってくる。両手を握られた。
「あのね、当たり前だけど、思ってることは言わないと伝わらないの」
 お母さんは、困ったような顔で笑っていた。小春に気が弱いところがあるのは知ってるけどね、と。
 思ってることは、言わないと伝わらない。
「そっか……」
 お母さんの言葉は、妙に腑に落ちた。
 頼まれごとをされたとき、嫌だと思ってても嫌だって言わなくちゃ、何も伝わらないのと一緒なんだ。
 私は、雪森さんのこと何にも知らないけど、下の名前も知らないし、ちゃんとした年齢だって知らないけど。
 でも、これから知りたいとは思ってる。
 それをちゃんと伝えたい。離れてても、仲良くしたいって伝えたい。
「お母さん、私ね、明日卒業式終わったら行きたいところがある」
 お母さんの顔を見て、私はしっかりとそう伝えた。
「うん、わかったよ」
 明日、卒業式が終わったら、雪森さんが働いてたコンビニに行って、住所聞いて、会いに行こう。教えてもらえるかな。迷惑だって思われないかな。もう二度と会えなかったら、どうしようかな……。



 高校の卒業式は恙なく進行し、あっという間に終わった。
 校歌を斉唱している間、もう二度とここで過ごすことはないのだと改めて実感した。三年間の思い出が走馬灯のように脳内をかけめぐり、次第に、しみじみと寂しさがこみ上げてきた。
 けれど、私は呑気に切なさに浸っている場合でもなかった。
 式が終わった後は、雪森さんに会いにいかないといけないと思っていたからだ。
 最後の帰りのホームルームが終わり、クラスの皆が別れを惜しんで写真を撮ったり涙ぐみながらお喋りしているときに、私とお母さんは急いで教室を出て、生徒玄関に向かっていた。
「やっと終わったね。小春、このあと行くところあるって言ってたけど、どこ行くの?」
「あのね、会いたい人がいるんだけど、居場所とかわかんないから、とりあえず元勤務先のコンビニ行って住所とか聞いてみようと――」
「ええっ、そんなの教えてくれるもんなの?」
「わかんないけど、でも会いたいから」
 私たちは急いで靴を履き替えて、校舎の外にでた。
 冷たい風が頬をなでて、身が引き締まる。その瞬間、私は立ち止まってしまった。
 裏門のところに、ある人が立っているのを見つけたのだ。
 見覚えのあるコートを着ている男の人だった。
 なんで……?
 見間違いではないかと、思わず、凝視してしまう。視線に気づいたのか、雪森さんが私の方を振り向いた。
「雪森さんだ……」
「会いたい人って、あの人?」
 小声でお母さんが尋ねてくる。
「うん……」
 呆けたような声が出た。
 でも、何でここに雪森さんが。
 嬉しい気持ちと、当惑する気持ちがないまぜになって、動けなくなる。
「お母さん、先に車もどってるね」
 にこやかに私の肩を叩くと、お母さんは駐車場へと向かっていった。
 雪森さんが、私の方へ歩を進めてくる。
「ごめん、いきなり来て」
「雪森さん、なんで……」
「最後に、小春の晴れ姿を見ておこうかなって思って」
「いや、それは全然うれしいんですけど、私の学校、何でわかったんですか?」
「……コンビニ来て会計する時に、いっつも財布の中の学生証がガッツリ見えてた」
「え!」
「見ちゃった俺も悪いけど、念のため気をつけた方がいいよ……」
 ちょっと気まずそうに言われ、申し訳ない気持ちになる。
「でも、雪森さんに会えてうれしいです……!」
「そっか。それなら、よかった。小春なら絶対、この先も大丈夫だと思ってるから、大学でも頑張ってね」
 それを言うために、出発当日で忙しいだろうに、わざわざ学校まで来てくれたんだ……。
 胸が熱くなる。
「ありがとうございます……」
「言いたかったのは、それだけ。元気でね」
 雪森さんが私に背を向けた。そのまま歩きだす。
 行っちゃう。
 このとき、初めて雪森さんに出会った時のことが頭を掠めた。
 嫌なことが嫌って言えなくて、と私が悩みを明かした時、あの人は、雪森さんはなんて言ってくれたんだっけ? 嫌なことをはっきり嫌と言うために大切なことは——。
 
 今ちゃんと言わなかったら、この後の自分がどうなってしまうか、よく考えることが大事。

 目の前が開けたような感覚だった。
 そうだ、お母さんも言ってた。思ってることは、言わないと伝わらないんだって。
 雪森さんと、私の距離はどんどん開いていく。
 もし、いま私がハッキリ言わなかったら、雪森さんにはもう、絶対に二度と会えない。連絡先も知らない。住んでる場所も離れている。そんなの、そんなの……。
 ぐっと、太ももの横で拳を握りしめた。
 そんなの、やだ。
 気がつくと私は、今まで味わったことのないような衝動に突き動かされていた。


「待ってください!」


 こんなに大きな声を出したのは、一体いつぶりだろうか。
 数メートル先にいた雪森さんが、足を止めてこちらを振り返った。引っ込み思案の私がいきなり大音声を出したからかかなり驚いたようで、目を見開いていた。あの、感情変化の乏しい雪森さんが。
「……どうしたの?」
 そう尋ねられて、喉の奥がぐっと狭くなった気がした。ちゃんと言いたいことがあるのに、それでも、こんなこと言ったら迷惑って思われるんじゃないか、わがままって思われるんじゃないか。そんな不安が掻き消えない。
「…………何もないんなら、俺もう行くけど……」
 こんなこと口に出して、どう思われるのか怖い。けど、今なにも言わなかったら二度とこの人とは会えなくなっちゃう。それは、絶対イヤ。
「い……」
「い?」
「っ嫌なんです!」
 本心を思い切り大きな声で口に出せたら、胸のつかえが取れたような気がした。
「いっ、行っちゃ嫌です……! 北海道になんて、行かないでください……!」
 それが、私の本当の気持ちだった。
 感情の変化が乏しい雪森さんが、ぼかんと口を開いて私を見つめている。
 その様子を見て、涙がにじんできた。
 ああ、やっぱり、なに言ってんだこの子って思われてるのかな。
 でも、それでも行ってほしくない。離れたくない。弱い自分から卒業した後も、一緒にいたい。
「雪森さんともう会えないの、嫌なんです……っ!」
 途中から自分の声がかすれた。
 視界がくもって、喉の奥があつくなる。目の縁を涙が乗り越え、頬を伝って顎に留まって、落ちていった。
 涙による視界不良のせいで、雪森さんがどんな表情を浮かべているかもわからない。
 呆れてるだろうか。困っているだろうか。
 でも、この人ともう二度と会えないのは嫌なんだ。
「行っちゃ、嫌です……。さみしい……」
 唇の間から、本音がこぼれて、涙がとめどなく次々にあふれてきた。
 こんなに、自分の気持ちを、はっきり言ったことあったかな。
 やがて、雪を踏む足音が近づいてきて、目の前で止まったと思って、顔を上げたら、雪森さんに抱きすくめられた。
 驚きすぎて、呼吸が止まるかと思った。
 ダウンの冷たいつるっとした生地が頬に当たった。背中にまわされた腕が力強かった。
「ゆ、雪森さん……」
「そんな顔で泣かれたら、行けなくなるって……」
 このときの雪森さんは呆れてるとか困ってるわけではなくて、なにか葛藤しているような声音だった。
「何で、俺が北海道行くのがそんなに嫌なの?」
「離れ離れになるからです……」
「俺と離れるのが泣くほど嫌なの?」
「はい……」
「なんだ。もう会えないのが嫌なの、俺だけなんだと思ってた……」
「え……?」
 雪森さんからの思ってもみない言葉に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「気弱そうに見えるのに、毎日俺がいるコンビニ来て自分の弱点克服しようとしてて頑張ってて、根性あるなって思ってた。デートしてって言ったとき照れてたのも、ウブで可愛いと思った。……ずっと、もっと小春のことが知りたいと思ってたよ」
「それって……」
「スマホ出して」
「え、はい……っ!」
 私はコートのポケットからスマホを取り出した。
「これ、俺のLINE」
 雪森さんが、QRコードを出した。
 え、うそ。
 簡単には信じられなくて、雪森さんと、差し出された画面を交互に見てしまった。
「欲しくないの?」
「ほ、ほしい、ほしいです!」
 私はQRコードを読み取った。「雪森朝陽」という新しい連絡先が追加された。
「離れてても、これで連絡とれるよ」
「うれしいです……」
「小春が、嫌なことをハッキリ嫌ですって言えてるの見て、正直ちょっと感動した。でも、嫌ですって言われても俺は行かなきゃいけないわけなんだけど……でも、行ってほしくないって言われたのすごくうれしかった。……ていうか、」
 雪森さんが、じっと私のスマホの画面を見て、言った。
「LINEの登録人数、一桁の人はじめて見た……」
 ハッとした。
 私がLINEに追加している人は、お母さんと、親戚の人と、あとは数少ない友達のみ。
「小春、友達いないの……? 卒業式なのに一番乗りで学校から出てきたし……級友と別れを惜しんだりとかしなかったの?」
「えっ、いや、それはその、三年で仲良かった子達みんなクラス替えで離れちゃって、うち進学校だし私が目指してるとこ結構レベル高いしで、毎日、受験勉強と塾でいっぱいいっぱいで……! 二年の時には普通にいましたよ、友達……!」
「へえ……」
「絶対、信用してないですよね!?」
「大学では友達いっぱいつくりなよ」
 雪森さんは柔らかな笑みを浮かべると、私の髪をくしゃりと撫でた。
「遠くからだけど、応援してるから」
「はい……! 私も、雪森さんのこと応援してます……!」
「ありがとう。俺、そろそろ飛行機の時間だから、名残惜しいけどもう行くね。これ、あげる」
 渡されたのは、あのコンビニのお弁当の割引券だった。
「卒業おめでとう」
 雪森さんが相好を崩した。
 私は、きっと、この卒業式の日にあったことを、ずっと覚えているだろう。
 雪森さんとは、しばらく会えないけど。それでも私、頑張らないと。
 これからは、嫌なことがあったらハッキリ断る。嫌だって言う。自分のことを、自分を大切に思ってくれてる人のことを、もっと大事にする。〈高校生の自分〉からも、〈弱い自分〉からも卒業したんだから。
 澄み渡った空の下で、私と雪森さんはしばらく見つめ合って笑った。
 梅の蕾が膨らみ、路肩の雪が溶けかかった季節だった。