たどり着いたのは説教部屋である職員室じゃなく保健室で、私は静かに驚いた。

「他の生徒にけがはなかったみたいです。この手だけ手当てしないと」

 佐原先生は、私を丸椅子に促す。その向かい側の丸椅子に座ると私が起こした事件のことよりもガラスを割った時にできた私の左手のけがを心配して、佐原先生は救急セットをあさる。
 いつもと変わらない表情を見ていると、担任なのにどういう神経をしているのかと思った。そしてガラスを割っても怒鳴ろうとしない佐原先生に、私はひどく戸惑った。
 保健室の先生はいなくて、佐原先生と二人きりの空間。私の腕に優しく包帯を巻いてくれたその時、佐原先生はうつむく私に落ち着いた声ではっきりと言った。

「大丈夫です。駒田さんは将来、立派な社会人になれます」

 私は顔をあげる。一瞬言葉を失ってから、佐原先生の言葉を鼻で笑った。

「先生……見る目がないね」
「えっ?」
「私のどこを見て、そんなことを言ってるの?」

 はっきりそう聞くと、佐原先生は目をキョロキョロさせて戸惑った。

「どこって……言われても」
「私、もう高三なんだよ。頭の出来も悪いから今どき大学を行かずに高卒になるだろうし、ましてや校舎のガラスを割る不良品の私を誰が就職させてあげようと思うの? 私はもう手遅れになった」

 佐原先生はゆっくりと首をかしげて小さく口を開いた。

「手遅れ……?」
「卒業まで一年しかない。これから先も頑張ったところで無駄な人生しか送れないのが目に見えるでしょ? 私に期待するなんて勘違いもいいところだよ……」

 佐原先生は私の手に包帯を巻く。そしてなぜか、優しく笑みを浮かべた。

「勘違い、ですか? 嫌だな、悪いですが駒田さん、それが勘違いですよ」
「……え?」
「僕は父のように生徒一人一人に寄り添える先生になりたくて小さな頃から必死に勉強して教員の資格を必死で取ったんです。簡単な気持ちで教師を目指したわけじゃない」

 佐原先生は私の手を少し強く握りしめて言葉を重ねる。

「その僕が『大丈夫』って言っています。駒田さんは将来が有望な人です」

 佐原先生の言葉に、首をかしげた。

「……何言って……」
「例え高卒になったとしても関係ないです。学歴だけで人の良し悪しを決める大人には絶対にならないでください。ろくなことがありません」
「……佐原先生」
「駒田さんはきっと立派な社会人になれます。絶対になります。だから、これからは回り道をしないで、まっすぐに生きますね?」

 何……? 芯の強い瞳と目が合った。
 佐原先生の言葉には正直、絶対的な根拠は何もない。だけど、その時の佐原先生は、言葉にだせない私の心の中を知ってくれている気がした。
 立派な社会人に私にもなれる、絶対にできると唯一佐原先生だけは信じようとして、私の人生を私以上にあきらめてはいなかった。

『これからは回り道をしないで、まっすぐに生きますね?』

 その言葉には、佐原先生の温かくて優しい思いが強く感じ取れた。
 そして不思議なくらいに佐原先生の言葉が溶けて、理解する。
 ガラスを割って、不満をぶつけてる場合じゃない。そこで回り道をしていたら、本当の道がなくなるばかり。
 信じてくれる人はいる、こんな私にも絶対という形で。だから変わらなくてはならない。

「……うん」

 飽き性で何かあるとすぐに投げ出す私、でも珍しく先生の言葉で社会人になるという夢をやめずに済んだ。
 その日から、大丈夫だと思えたんだ。
 たった一人、私の将来を明るく強く願う人がこの世界にいると分かってから。
 その日から私を批判ばかりしていた周りの人の気持ちも理解してみようという考えも私の中に生まれて、卒業前に人とのつながりもたくさんできた。
 ――だから今がある。
 卒業してからもずっと思っていた。
 いつか会いに行く。
 願わくはあなたの一番になる。でもきっと先生と生徒という関係性が邪魔をして、明日にしようとか一ヶ月後にしようとか半年後にしようとか先伸ばしになって、『いつか』が遅すぎた。
 一年前のあの時も、今も、好きだっていえばよかった。佐原先生に面と向かって、結果はどうであれ、自分の気持ちに勇気を出して。
 どうして言えなかった?
 どうして言わなかったのか。
 答えは自分でもわからない。そして今日も後悔の渦に飲み込まれる。
 だけど、もう校舎に振り向かない。
 それはこの学校を訪れる前から決めていたこと。
 歩いていると、また涙があふれてくる。
そう、変わっていない。
 佐原先生が私を間違った道から正しく変えてくれた一年前と、気持ちは変わっていない。
 佐原先生が好き。その気持ちだけで、ここまで生きてこられた。
 私は、佐原先生の大切な人になりたかった。佐原先生の一番大切な人にしてほしかった。
 だけどその思いはしまう。
 佐原先生が一番に選んだ大切な彼女のために、言わないでおく。でも、私と一緒に過ごした日々を忘れてほしくない。
 気持ちに区切りをつけたい。
 だから私は今日ここに一人で、おめでとうとさよならの花束を……置いていくよ。