僕は君の事を忘れるけれど、ボクはキミの事を忘れない

「ん? やっぱりたけるくんも食べる? はい、あーん」

 僕の方へといちごをすくったスプーンを差し出してくる。
 さすがにこれは恥ずかしい。そもそもさっきの彼女達は誤解しているようだったけれど、僕たちは特につきあっていたりする訳じゃない。

「いや彼氏彼女でもないんだし、あーんはないだろ」
「ん? 別にいいと思うけど。まぁたけるくんが嫌ならあーんはやめとくね」

 こはるはスプーンの柄を僕の方に向ける。自分で食べろという事だろうか。
 さすがにここまで断るのも気がひけて、スプーンを受け取ってパフェを口に運ぶ。
 冷たいクリームの甘みと、甘酸っぱいいちごの酸味が口の中に広がっていく。

「あ、けっこううまい」
「でしょー。キタミ亭のパフェは最高なんだから。チョコパフェも美味しいんだよ。ボク、大好きなんだよ。ほら、たけるくんも、もっとたべてたべて」

 こはるは僕が食べるのを見つめながら、うれしそうな笑顔を浮かべていた。
 そんな彼女を見ていると、何となく僕も楽しくなってきていた。
 ちょっと変わった出会いではあったけれど、こはるは普通に同じ学校の生徒だし、可愛い女の子だし。少なくとも悪い子ではなさそうではある。

「美味しい?」
「ああ、うん。美味しいよ」

 小首をかしげながら尋ねるこはるに答えると、こはるは満足そうに笑みを浮かべる。

「そっかー。良かった。それでボクとの間接キスはどうだった?」

 唐突な問いに思わずむせかえる。
 何を聞いているんだ、こいつは。
 確かに言われてみたらそうかもしれないが、それまではまったく気にもとめていなかった。しかしこうして言われてしまうと、妙に意識してしまうというものだ。
 確かにそうなんだが。そうなんだが。

 女子が苦手だというほどではないけど、普段はあまり接点もない。だから当然のことながら、キスなんてしたことないし。キスってどんな感じなんだろ。いや、そうじゃなくて。
 こはるは自分の口元に指先をあてていた。その先にある妙につややかな唇を意識せずにはいられなかった。

 ああああ。なんかもう振り回されているな。
 急に心臓がばくばくと音を立てて、顔が熱くなってくる。周りの空気が二度くらい急に上がったような気すらしていた。

「い、いや別に。そんなん気にならないし。たたた、たいしたことだろ」
「急にどもってるよ?」
「ああああ。もう、君は僕に何をさせたいんだ」
「ボクのこと、ちゃんと覚えて意識してもらいたいなって」

 こはるはいたずらな笑みを浮かべていた。
 小悪魔というのは、こういうやつの事を言うのだろうか。意識しました。しましたよ。僕は女の子になれていないんだから、もう少しお手やわらかにお願いしたい。
 僕の心はすっかりこはるにかき乱されている。
 だけどそれが嫌だとは思えなかったのは、こはるがのぞかせる朗らかな笑顔のせいなのだろうか。

 正直可愛い女の子にアピールされて嫌な男はあまりいないと思う。
 こはるは本当に僕の事が好きなのだろうか。罰ゲームじゃないのなら、どうして僕の事を好きだというのだろう。どこかにそんなきっかけでもあっただろうか。

「君は」
「あ、こはるって呼んでね」
「……こはるは、本当に僕の事が好きなの?」

 正直なところ僕はまだ信じられない。
 こんなに可愛い子が僕の事を好きになるなんて、天地がひっくり返ったとしてもあり得ないと思う。いやそれは言い過ぎか。言い過ぎだろ。うん。いや誰に言い訳しているんだか、わからないけど。

「うん。そうだよ。ボクはたけるくんのことが好き」

 当然のような顔をして答えるこはるに、僕は少しだけ眉を寄せる。
 やっぱり何かだまされているような気がする。

「僕のどこが好きなの?」

 意地の悪い質問をしてみる。

「……その質問は想定してなかったな……」

 こはるは震えるような小さな声でつぶやくと、少しだけ僕から視線を移す。
 やっぱり何か裏があるのだろうか。もしそうなら、それはそれでなんかむなしいと思うけれど。
 こはるは少しだけ目を伏せて、小さく息を吐き出す。

「キミはさ、もし自分の前にすごく悩みを抱えていたり、辛い想いをしている人がいたらどうする?」

 突然の問い返しに、少し言葉を失っていた。

「そうだな。その人との関係にもよるけど、悩みをきいてあげるかな」
「まぁ、そうだよね。でもさ、それって口で言うほど簡単じゃなくてさ。案外難しいことなんだ。そうは思っていてもいざそういう場面にあった時に実際に出来る人というのは、それほど多くない」

 こはるは顔を上げて、僕をじっと見つめていた。
 こはるが言いたい事はよくわからなかったけれど、彼女の真剣な表情におされて何も言えなかった。

「だからボクはキミが好きなんだ」

 まっすぐに僕をみつめて告げる。
 でも意味がわからなかった。
 僕は特に誰かを助けたりした覚えはない。いやちょっとした手助けくらいのことだったらもちろんあるけれど、こはるが言うのはそんな話ではないと思う。

「僕は君を助けた記憶なんてないけど」

 少しためらいを覚えながらも、僕はこはるにはっきりと告げる。
 だけどこはるはそれにもひるむこともなく、まっすぐに僕を見つめていた。

「そうだろうね。キミは覚えていないと思う。それでもボクは忘れない。ずっと覚えている。キミがボクを救ってくれたことは」

 彼女の目があまりにも僕を真剣に見据えていたせいか、僕は言葉を失ってしまう。
 何も言えずに固まったまま、僕はこはるを見つめていた。

 僕にはこはるを助けた記憶はない。でもそれは僕が覚えていないからなのだろうか。それともこはるのうそで、本当はそんな事実はないのだろうか。
 僕にはわからなかった。

 ただ彼女は言うことは言ったと思ったのか、再び何事もなかったかのようにいちごパフェを口に運び続ける。僕は馬鹿みたいにその様子をじっと見つめている事しか出来なかった。

「ん、どうしたの? あ、パフェもっと食べたかった。仕方ないなぁ。はい、あーん」

 僕に向けてスプーンを差し出してくる。

「い、いや。だからあーんはないだろ」

 何とか口に出した言葉に、こはるはにこやかに笑みを浮かべていた。

「いいじゃない。ボクとキミの仲なんだから」
「いや、どんな仲だよ。今日あったばかりだし。っていうか、このやりとり、さっきもしたぞ」
「むぅ。そんなに否定しなくても。こうして二人で一緒にキタミ亭でパフェ食べている仲じゃないか」
「いや、まぁ。確かに二人でパフェは食べているけど」
「知ってる? ここで二人でパフェ食べた男女は、絶対に結ばれるって言い伝えがあるんだよ」

 こはるは意地悪い顔をして、僕を見つめていた。

「聴いたことないな」
「そりゃそうだろうね。いまボクが作ったから」
「おい」

 にやけた顔を浮かべながら話すこはるにため息を漏らす。
 どこからどこまでが本気なのかわからない。
 ただこんなやりとりも楽しく感じ始めていた自分に気がついて、わずかながら苦笑を浮かべていた。
 この朝も気持ちの良い天気で、ぽかぽかと日差しが暖かい。
 春がきたなと、僕は思う。ちゅんちゅんとなくスズメたちの声が、さわやかな朝を演出していると思う。
 隣にいる不思議な女の子のことを除けば。

「たけるくん、おはよ」

 こはるが僕の隣でにこやかに微笑んでいた。
 当然のごとく隣に並んで歩いている。でもなんだかんだいいつつも、決して嫌な気持ちになっていないのは、やっぱり彼女が可愛いからだろうか。僕って奴はなんて現金なのか。

「あ、ああ。おはよう」

 どうしても少しどきどきとする。やっぱり女の子は苦手だと思う。どう接していいものかわからない。

「今日たけるくんのクラスでは、数学の宿題でてた? ボク、すごく時間かかっちゃって大変だったんだよね」
「……宿題。はて、なんだっけな」

 むろん宿題が出ているのは知っている。だけど正直、数学は苦手だ。自力で出来るとは思えない。なので学校についたら学に写させてもらう予定だ。

「あー。また斉藤くんのを写すつもりでしょ。ダメだよ、宿題はちゃんと自分でやらないと」
「いや、まぁ、そうはいっても人には向き不向きというものがあってなぁ」

 他の科目ならともかく、数学だけは、数学だけは苦手なのである。
 いやぶっちゃけ他も得意とは言い切れないが、数学は難しすぎるのだ。数式をみているだけでくらくらとする。
 ただそんな会話をしていると、どこかで以前にもこんな会話をした事があるような気がしていた。もっとも僕には親しい女の子の友達なんていないから、したとしても男友達とだろうけども。

「そうなんだ。もうすぐテストだけど大丈夫?」
「まあ……うん。大丈夫……ではないかな」

 心配そうなこはるに、曖昧に答える。正直テストなんて忘れていたし、全く自信はない。何とか赤点だけでも回避したいところだ。
 少しため息をもらす。そんな様子を見かねたのか、こはるが声を上げる。

「じゃあ、私が教えてあげるよ」
「君が?」
「キミじゃなくて、こはるって呼んでほしいな」

 こはるはじっと顔を寄せてくる。
 近い。近いから。
 慌てて上体を反らして、少し距離をとる。僕の事を気にかかるようにするとかなんとか言っていたけれど、もう十分に気になっているとは思う。
 ああ。もう。僕は、ちょろいな。可愛い女の子に少し近づいてこられただけで、もう意識がいっぱいになってしまっている。
 少し上目遣いになって僕を見上げている姿が可愛いと思う。
 いや、だ、だまされないぞ。これはきっと罰ゲームか何かなんだ。
 ああ。でも、こんな可愛い子ならだまされてもいい気もする。

「こ、こはるが教えてくれるのか」
「うん。こうみえても私、数学得意なんだ。さすがに今日の宿題は間に合わないけどさ。放課後、一緒に勉強しよ」

 にこやかに微笑む彼女に、それもありかなと思う。どうせ病気のせいでもう部活にも入っていない。時間は十分にある。

「わかった。じゃあお願いしようかな」
「うん。じゃあ放課後に教室に迎えにいくね」

 こはるは満面の笑みを浮かべていた。
 この笑顔が嘘だとは僕には思えなかった。




「たけるくん、ご飯一緒に食べよ」

 放課後を待つまでもなく、こはるは僕の教室にやってきていた。
 お弁当を手にしてにこやかに微笑みかけてくる。

「こはる!?」

 予想もしていなかった訪問に、思わず口をぱくぱくと金魚のように開けていたと思う。

「うん。こはるだよ」

 彼女は事も無げに言い放つと、それから問答無用とばかりに僕の机の前に腰掛ける。

「あ、たけるくんはやっぱり今日も菓子パン? 体に悪いよ。お弁当作ってきたから」

 言いながらお弁当を広げていた。そして二つのお弁当箱が置かれている。どうやら二人分用意されているようだ。
 たぶんこれ僕の分なんだろうな。
 そう思うとなんだか気恥ずかしくも思う。
 ただいきなりクラス外の人間が入ってきたにもかかわらず、軽く目をやった程度で他の誰も気にもしていないようだった。
 そのことになんとなく違和感を覚えるものの、それよりも目の前に広げられたお弁当の方に視線を奪われる。
 唐揚げに卵焼き、ウインナー。僕の好きなものばかりが詰まっている。

「これ、こはるが作ったの?」
「うん。ボクが作ったんだ。食べて食べて」

 こはるの差し出してきたお弁当から一つつまんで食べる。

「美味しい!?」

 見た目もかなり綺麗だと思っていたけれど、思っていたよりもさらに美味しい。意外と料理得意なんだなぁと思いつつ、ちらりと彼女の方へと視線を送る。
 こはるは僕の反応に満足したのかにこやかな笑顔を浮かべながら、僕の方を見つめていた。

「でしょー。ボク、がんばったんだよ」

 言いながら自分の分のお弁当をつまんでいた。
 なんだかこういうのも、どこかであこがれていた風景だとは思う。いつか出来たらいいなと思っていた形が、まさかこんな形で叶うとは思っていなかったけれど。

 だけど不意に僕の頭の中に何かひっかかるものがあった。
 あれ、何か。違和感がある。何かが違う。急に感じた気持ちに、僕はしばらく呆然として宙を見上げていた。
 どこかで、前にもこんな事があった気がする。

 いや、僕には今までつきあってくれた子もいなければお弁当を作ってきてくれる子もいなかった。アニメやマンガなんかでみる、仲良しの幼なじみもいない。
 強いていうならば妹はいるし仲は良い方だとは思うものの、当然ながらお弁当を作ってきてくれたりする事はない。
 だからこんな風に女の子と二人でお弁当を食べるなんて事はなかったはずだ。

 なのに僕はどこかでこんな事があったような気がして、だけど具体的な内容は何も思い出す事がなくて。わずかに頭が痛む。
 これがデジャブという奴なのだろうか。確かにたまに前にもこんなことがあったようなという感じを受ける事はたまにある。でも今感じている気持ちは、それどころではなくて、強く僕に訴えてくるような気すらしていた。

 思い出せない。思い浮かばない。
 だけどなぜか思い出さなきゃいけない。忘れてしまっていてはいけない。
 そう思えて、胸の中が強く鼓動していた。ばくばくと揺れる心臓を何とか落ち着けようとして深呼吸を始める。

「ど、どうしたの。たけるくん」

 こはるが心配そうに僕を見つめていた。
 そうだ。こんなことは前にもあった。
 誰かと一緒にお弁当を食べていた。
 だれと。こはると? いや、それはありえない。こはるとは出会ったばかりだ。
 学と? 確かに学と一緒にご飯を食べることはある。でも違う。それは友達と一緒の時間じゃなかった。どこか甘くて照れくさいような、そんな時間だったと思う。
 勘違いなのだろうか。普通に考えればそうだ。
 僕の頭の中は次第に困惑に満ちて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
 でもこうしている時間が、心地よい時間であることは間違いなかった。
 今日は一日ずっとこはるのことばかり考えていた気がする。
 彼女の策略にまんまとはまっているように思えるけど、まぁ、もうこれが罰ゲームによるものだったとしても、それはそれでいいかなってそういう気もしてきていた。

 騙されているのだとしても、彼女と一緒にいる時間は楽しくて。楽しい想いをさせてくれたのなら、もう十分におつりはもらった気がする。
 ほれっぽいのかもしれない。でも仕方ないじゃないか。僕はもうほとんど女子と縁がない生活をしてきていたんだ。あんなにぐいぐいこられたら、気になってしまうって。

 それにわざわざ罰ゲームのために、手作り弁当を作ってくるなんて出来るだろうか。僕なら出来ない。
 ならやっぱり彼女は僕の事を本当に好きだと思ってくれているんだろうか。

 彼女に惚れられるような心当たりは何もない。こはるの勘違いか何かなのかもしれない。
 でももし勘違いだったとしても、好きでいてくれるならそれでいいんじゃないかなと、少し思い始めていた。

 放課後、僕は教室で待ち続ける。こはるはまだこない。日直か何かで遅れているのかもしれない。
 しばらく時間が経つ。僕の教室にはもう誰もいなくなった。本来教室の戸締まりは日直の仕事なのだけど、鍵を受け取って、戸締まりは僕がする事にした。

「こはる……遅いな……」

 何かあったのだろうか。
 それともやっぱり僕はからかわれていただけなのだろうか。
 いや、さすがにそれは考えにくい。僕をからかうためだけにはしては手が込みすぎている。そうなるとこはるに何かあったと考える方が自然だろう。
 探しに行くべきだろうか。でももしかしたらすれ違うかもしれない。

 考えてみるとこはるの連絡先は知らない。ライムのアカウント交換くらいしておくべきだったかもしれない。ライムは普段ほとんど妹のかなえくらいとしか送りあわないけど、いちおうアカウントは持っている。

 とりあえず廊下に出て辺りを見回してみる。この辺りにはいないようだ。
 春先の暖かい空気が廊下を満たしていた。西日が射していて、それなりの陽気に満たされている。
 だけど今はなぜかどこか寒気すら覚えて、なぜだか不安を覚えていた。

 こはるを探しにいこうと思って、考えてみるとこはるのクラスが何組かも知らなかった。僕は本当に彼女の事を何も知らない。リボンの色から同じ学年だという事がわかっているだけだ。
 とりあえず他のクラスを覗いている。しかし他のクラスはどこもすでに戸締まりがすんでおり、人のいる様子はなかった。
 やっぱり先に帰ってしまったのだろうか。

 そう思った時にふと廊下から外をみた時に、裏庭の方にこはるの姿が見て取れた。
 先に帰ってしまった訳ではなかったのかとほっとするものの、すぐに様子がおかしい事に気がつく。
 他にも誰かいるようだったけれど、ここからでは陰になってよく見えない。
 とにかくそっちにいってみようと思って階段を駆け下りる。それから裏庭の方へと急いで向かう。

 校舎の角、裏庭の直前まできた。まだこはるの姿は見えない。
 だけど僕が裏庭にたどり着く前に、何か言い争う声が聞こえてきていた。

「いいかげんにしてくれよ。ボクは君とつきあう気はないって、なんども言っているじゃないか。ボクにはもうすでにちゃんと彼氏がいるんだ」

 最初に聞こえたのは、どこか怒りすら感じさせるこはるの声だった。
 だけどそれ以上に、彼女の言葉の方が気になっていた。彼氏がいる。その言葉の衝撃に思っていた以上に打ちのめされる。
 他に彼氏がいるというのなら、やっぱり僕をからかっていただけだったのだろうか。

 あんなに可愛い子が僕を好きだなんて、何かおかしいと思ったんだ。でも。
 彼女の事を信じてもいいかなって、少し思ってきたところだったのに。

 僕の足はそれ以上、前には進めなくなっていた。
 目の前がふらふらと揺れていた。心臓が強く胸を鳴らしていた。息が出来なくて、苦しい。
 強い衝撃に、僕の頭は混乱していた。

 どうして。たかだか数日前に知り合った女の子に少しばかりからかわれていた。それだけだ。それだけなのに、どうして僕はこんなにも取り乱しているのだろう。
 何かこの世の終わりとすら感じられていた。
 そりゃあ僕は女の子には慣れていない。本当に小さな頃を除けば、女の子に好きだなんて言われた事はない。
 だから舞い上がってしまったのはわかる。それは仕方ない。
 でもそうだとして、どうしてここまで僕は打ちのめされているのだろうか。
 わからない。わからなかった。

 だけどもういい。ここから立ち去ろう。
 きびすを返して背を向けようとした瞬間、続いて野太い男の声が響いた。

「彼氏って、あんな奴のどこがいいんだよ。お前がどれだけあいつの事を好きであろうが、お前の事を全部忘れてしまうんだろ。嫌なんだよ。お前がこれ以上に苦しむのは。あいつの記憶喪失に振り回されるお前をみていると辛いんだよ。もうあいつのことは忘れてしまえよ。俺だったら、お前を苦しませたりしない」

 声の主はどこかで聴いたことがある声だとは思う。でもすぐに誰のものかはわからなかった。いやその声の主が誰かだなんてことは僕にはどうでもよかった。

 その言葉の内容に、僕は何か強い衝撃を感じていた。忘れる。忘れるって何だ。何か、何かが、僕に刃を突きつけるように思えた。
 そして続いて伝わるこはるの言葉に、さらに僕は引き裂かれるような痛みを覚えていた。

「たけるくんの事を悪く言わないで。いいんだよ。覚えていなくたって。忘れられてしまったって。ボクは、ずっとたけるくんが好きなんだ。何回忘れられたって。ボクは」

 こはるの口から僕の名前が出ていた。
 その言葉に僕は頭の中が真っ暗になって、心の中をずたぼろに切り裂かれたような気がしていた。

 こはるの言う彼氏っていうのは、僕の事なのか。
 忘れている? 僕が? 僕の?
 いや、どういうことだよ。
 僕はこはるを知らない。こはるなんて知らない。覚えていない。記憶の中にはない。
 だけどこはるは。僕を知っている。僕のことを何でも知っている。

 僕と一緒にいた。
 僕のためにサッカーを覚えた。
 そうだ。僕は。こはると。サッカーをした。
 こはるがサッカーしようよって、急にいいだして。僕はサッカーなんて知らなかったから、戸惑うばかりで。でもやってみたらなぜか意外とうまく蹴れて。だからこはるに教えてあげ。
 いや。なんだ。この記憶は。僕がサッカーを知らない? そんなことあるわけないだろ。僕はずっと小さな頃からサッカーをやってきたんだ。
 病気でやめたけど、弱小部だったけど、これでもサッカー部のエースだったんだ。
 サッカーを知らない僕なんてあり得ない。なのに。なぜか脳裏に浮かぶ。

 こはるは、僕と一緒にいた?
 いや、わからない。
 僕は忘れてしまった? こはるのことを? 僕は覚えていない? わからない。
 こはると歩いた。こはると一緒に
 こはるが僕と一緒にやるためにサッカーを覚えた。どうして。いつそんなことが。どうしてそんなことを僕は思った。
 何が起きている。何が起こった。

 僕の頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱されていく。

「あ……ああ……」

 無意識のうちに声を漏らしていた。

「たけるくん!?」

 その声に気がついたのか、こはるの声が響いた。

 こはるが心配そうに僕にかけよってきていた。優しくて悲しそうな顔をしていた。
 こはるの顔が見えた。ああ、愛しいなって思う。大好きだよって思う。

 だから泣かないで欲しい。君が泣いているところは見たくないんだ。
 一緒にいたい。大好きだ。だけど。だから。

 ダメだ。思い出したらいけない。思い出すな。いま思い出してはいけない。

 僕の気持ちがあふれだすようで、気持ちが漏れ出すようで。
 そしてそのままそれは僕を飲み込んで、頭の中を津波のように押し消していく。

 やめてくれ。嫌だ。嫌なんだ。もう忘れたくない。忘れたくないんだ。
 なのに。その力には僕はあらがえなくて。

 頭の中を真っ白いもやが埋め尽くすようで。

 僕はこはるが好きだ。大好きだ。だから僕はこはるに好きだよって伝えて、僕とこはるはつきあい始めた。
 大好きだった。大好きだったから。

 僕は。

 こはるを忘れた。



「ただいま」

 家にたどり着くと同時に、『ボク』は声を漏らす。

 どうせ誰もいやしないんだけど。
 思ったとおり、部屋の中はしんと静まりかえっていた。

 他には人はいない。たぶんお母さんは今日も夜遅くまで帰ってこないだろう。
 ボクは一人部屋の中で宙を見上げる。

 あの後、たけるくんは忘れてしまった。もういちどボクの事をすべて忘れてしまった。
 今度こそ、今度こそボクのことを忘れないようにって。そう思っていたのに。
 たけるくんは再びボクのことを忘れてしまった。
 たけるくんは忘れてしまう。ボクのことを忘れてしまう。
 わかっていた。わかってはいたけど。思うだけで涙がこぼれてくる。

「どうして……忘れちゃうのかなぁ……」

 部屋の中にボクのつぶやきが漏れる。
 たけるくんはボクのことを忘れてしまう。もう何回繰り返しているのかわからない。
 キタミ亭で一緒に食べたパフェ。初めて食べた時の事は忘れられない。だからボクは何度でも繰り返す。キミがボクのことを思い出してくれるまで。

 そしてもういちどボクのことを好きになってくれるまで。
 でもそうしたら。またキミはボクのことを忘れてしまうのかな。

 ボクは胸の前で手を押さえる。

 たけるくんは何度もボクのことを忘れてしまう。たぶんこれからも何度でも。
 たけるくんは一番好きなもののことを忘れてしまうという病気だった。好忘症(こうぼうしょう)とか言うらしい。何なのその病気。訳がわからない。そう思うものの、たけるくんが病気なのは隠しようのない事実だった。

 ボクのことを助けてくれたこと。ボクがたけるくんに告白をしたこと。たけるくんもボクのことを好きになってくれたこと。ボクと彼氏彼女になったこと。たくさんの思い出を作ったこと。すべてすべて忘れてしまった。
 最初にたけるくんがボクのことを忘れた時は、冗談を言われているのだと思った。それからからかわれているのかと思って怒りもした。だけどすぐにそれは忘れたふりではないことを理解できたとき、ボクは絶望を覚えて、目の前が真っ暗になった。どうすればいいのかわからなかった。

 たけるくんがボクのことを知らない。目の前にいるたけるくんはボクがどれだけたけるくんに救われていたかしらない。そのことが恐ろしくて、苦しかった。
 もしその時にたけるくんのお母さんに、病気のことを聞かされていなければ、ボクはそのまま闇の中に取り込まれていたかもしれない。そう思えばたけるくんの発症に気がついたのが、たけるくんの家に訪れた時だったのは幸いだった。
 たけるくんのお母さんは何度もボクに謝ってくれていた。でもお母さんには何の非もないのだから、ボクには何も言えなかった。ただただうなづくことしか出来なかった。

 たけるくんの病気は『一番好きなもののことを忘れてしまう』。そして忘れてしまったことすら、たけるくんには理解が出来ないのだと言う。
 最初の発症はサッカーをしている時の事だったらしい。
 たけるくんはサッカーが大好きだった。だけど試合の最中に倒れて、それからサッカーのことを忘れてしまったらしい。サッカーのルールすらも曖昧で、サッカーに対する情熱や知識はすべて失われてしまっていたとのこと。
 もし忘れてしまった事実を教えたとしても、そのこと自体が引き金となって、再び好きなもののことをまた忘れてしまう。
 だから本人にはストレス性の適応障害という説明をしているとのことだった。

 好きなもののことを忘れてしまう。本人がもしそんなことを知ってしまえば、何かを好きになることを恐れてしまうようになるかもしれない。あるいはそうならなかったとしても、そのせいで好きなもののことを知れば教えたことも含めて再び何もかも忘れてしまう。
 だからたけるくん本人には説明せずに、周りの人にだけ説明をしているとたけるくんのお母さんから話を訊いた。ボクには事前に教えることができなかったことを、何度も何度もお詫びされてしまった。
 でもそれで良かったと思う。

 たけるくんが一番好きなもののことを忘れてしまうのなら、たけるくんの一番になろうだなんて思えなかったかもしれない。たけるくんとつきあおうなんて思えなかったかもしれない。
 そんなのは嫌だ。たけるくんの一番でいたかった。一緒にずっといたかった。だから一番好きなもののことを忘れてしまうというのなら、たけるくんがボクのことを一番好きだと思ってくれたってことだから。だからボクにとって嬉しいことだからって。

 半分は強がりだった。でもそれでもボクはたけるくんの気持ちを嬉しく思った。

 だからボクは心に誓った。
 何度忘れられても。覚えていなくてもいい。
 何度でもボクのことを好きになってもらうって。

 今日たけるくんがボクのことを忘れたのは、これで何回目になるだろうか。もうすっかりたけるくんが何を言う、どう接してくるかなんて予想がつくようになってしまった。
 こうして繰り返すことに慣れっこになってしまった。
 だけどそれでも忘れられることは。辛くて。悲しくて。何度もボクの心は引き裂かれそうになっていく。心の落とされた影は、ボクの気持ちを少しずつ蝕んでいく。
 少しずつ忘れられていくことに慣れていく自分がいた。

 忘れられてしまうのなら、諦めてしまえばいいじゃないかとささやく自分がいた。
 それが嫌で仕方なくて。忘れたくも諦めたくもなくて。なのに揺れてしまうボクは、情けなくて悲しくて。
 ボクはこれからも、ずっと繰り返していけるのだろうか。ボクはこれから何度も忘れられてしまっても、たけるくんのことを好きなままでいられるのだろうか。

 今回のように外からの情報によって急激に思い出した時には、強い衝撃を受けた分なのか、たけるくん自身もダメージを受けるようだった。
 それはめまいや吐き気といった身体症状をともなって、立っていられなくなるほどの状態に陥ってしまう。
 あのあともたけるくんは気を失って倒れてしまった。慌てて保健室の先生を呼んで、数人がかりで保健室へと運んでいた。

 少しずつ関係を深めて、もういちどボクのことを好きになってもらおう。そう思っていたけれど、たけるくんは自分が忘れていることに気がついてしまった。そのせいで急激に思い出してしまった。
 たけるくんはあのあとしばらくして気がついて、自力で家に帰ったみたいだったけど、今までの例からしたら明日は熱を出したりするかもしれない。

 明日は学校にはこられないかもしれないなって、心の中で思う。たけるくんがいない学校は、きっと冷たくて暗いと思う。だからきっとボクは沈んだ様子を隠せないだろう。

 そしてそんなボクの様子をみて、あいつも余計にボクの事を諦めてくれないのだろう。
 客観的に考えればあいつの言うとおりにたけるくんの事を忘れてしまって、他の人とつきあった方がいいのかもしれない。

 ボクはそれで苦しまずにすむ。たけるくんも余計な苦しみを受けなくてすむ。

 だけどボクはたけるくんが好きな気持ちを消し去ることなんて出来なかった。忘れてしまうことなんて出来なかった。たけるくんが何度忘れてしまうのだとしても、ボクは覚えてる。絶対に忘れない。
 ボクにはたけるくんしかいない。たけるくんが好きなんだ。
 でもたけるくんはボクの事を忘れてしまう。ボクの事を覚えていてはくれない。

 ボクはどうしたらいいんだろう。このまま何度も繰り返したとしても、ボクは前に進むことが出来るのだろうか。たけるくんの病気が治って、ボクのことを思い出してくれるのだろうか。
 不安がボクを包み込んで、いつも迷いを覚えさせる。
 いつかはたけるくんはボクのことを忘れないでくれる日はくるのだろうか。
 ボクはいつまでこうして繰り返せばいいんだろう。
 終わりの見えない日々は、ボクの心を少しずつすり減らしていく。

 泣き出しそうに、投げ出しそうになることもあった。何度となくこんなに辛い想いをして、どうして繰り返すのだろう。そう思ったこともあった。
 だけどボクは、たけるくんが好きだから。だから諦めることは出来なかった。
 ボクのことを助けてくれたたけるくん。たけるくんがいなければ、いまボクはここにいなかったかもしれない。
 だからボクはたけるくんのそばにいる。

 たけるくんはボクのことを一番好きになってくれた時に、サッカーへの気持ちを思いだしていた。それは本当に大好きだったサッカーよりも、ボクのことを好きになってくれたってことなんだろう。
 それはうれしいはずのことなのに、悲しいことでもあった。
 だったらボクのことを二番目に好きでいてくれれば、たけるくんはボクを忘れないでいてくれる。だからほどほどに好きになってもらえれば。そんなことも思ったこともあった。

 でもそれは出来ない。

 たけるくんはボクのことを忘れてしまった。だけど。いやだからこそ。たけるくんにとっては、ボクのことを一番好きだと。一番に考えてくれているってことだから。
 たけるくんはまだ忘れてしまった心の奥底で、ボクのことを好きでいてくれるはずだから。
 ボクはその気持ちに答えなければいけない。
 胸の中が痛い。
 ボクのことを忘れないでほしい。覚えていてほしい。
 だけど忘れてほしい。
 ボクのことを一番好きでいてほしい。
 だけど忘れないでほしい。

 むちゃくちゃな感情がボクの中を泳いでは消えていく。
 それはわがままで、自分勝手で、もしかしたらたけるくんに辛い想いをさせているだけなのかもしれない。
 それでもボクはたけるくんのことが好きだから。好きでいてほしいから。
 ボクはただ部屋の中から空を見上げた。
 何もない天井はボクの心の中に重くのしかかってくるように思えた。

 それでもボクはたけるくんのことが好きだから。たけるくんと一緒にいたいから。だから何度でもボクはキミの前に現れるよ。キミがボクのことを忘れてしまったとしても、ボクはキミのことを忘れない。
 大好きな君のそばにいるために。
 そしてキミがボク以外のことを忘れてしまわずに済むように。
 あのあとお母さんが帰ってきたのは、ボクが眠ったあとの深夜のことだった。そして今朝も、挨拶もそこそこに仕事に出て行ってしまった。
 たぶんボクと顔を合わせづらいのだろう。今でもまだぎくしゃくとしているように思う。

 それでも少しでも会話が出来るようになっただけ、マシなのかもしれない。

 ボクの名前は坂上こはる。でも少し前は戸田こはるという名前で、さらにその前は関根こはるという名前だった。
 ボクの血縁上の父の名前が関根だった。でも正直ボクはお父さんのことは殆ど覚えていない。ボクが物心つく前に事故で死別したらしい。だからボクにとって家族というのはお母さんだけだ。

 ボクが小学生の頃まではお父さんの姓を名乗っていた。でも中学生に上がる少し前にお母さんが再婚することになった。
 ボクにはお父さんの記憶がないから、自分にもお父さんが出来るということに少し期待していたと思う。でも反面どこかで恐れてもいた。知らない男の人と暮らすことに困惑していたと言ってもいい。

 そしてその恐れはむしろ悪い方で的中してしまった。

 最初からボクを見る目にどこか嫌な雰囲気は感じていた。それでもお母さんが選んだ人なのだからと、見ないふりをしていた。気がつかないふりをしていた。それでも初めのうちは特にこれという事はなかった。強いていうなら、女の子なのだから『ボク』はやめろと言われたくらいだろうか。

 でもなかば反発するようにしてボクはボクと言い続けた。ボクは女の子じゃなくて、ボク自身なんだと強く心の中で思っていた。

 でも何度か言われたその言葉の中には、時間と共に少しずつ違う空気を感じ出すようになっていた。
 絡みつくような嫌らしい何かは、だけど仮にも『お父さん』なのだから、気のせいだと、何かの間違いだと思い込んでいた。思い込もうとしていた。

 でもそれがいけなかったのだろう。
 最初はお風呂や着替えをしている時に、わざと入ってくるくらいだった。怒るとごめんごめんと大して謝る気もなさそうに告げて、それでも外には出て行ってくれていた。

 けど次第にそれはエスカレートしていって、あいつはやがてボクの体に触れるようになった。

 はじめのうちは偶然を装っていたけれど、すぐに露骨に触れるようになっていった。怖くて、でも何も出来なくてその時のボクは耐える事しか出来なかった。
 我慢していれば終わる。ボクが耐えなかったら、お母さんが苦しんでしまう。そんな風に思っていた。

 幸いなことにまだ多少体を触れられた以上の事はなかった。
 でももしもそのままの時間が過ぎていたのだとしたら、いつかはボクはあいつに汚されてしまっていたかもしれない。

 ただ体に触れられるのをこばもうとすると、あいつはボクを殴り飛ばした。だからボクは逆らうことができなかった。

 あいつはお母さんがいるところでは何もしてこない。お母さんから見えるようなところにも傷は作らない。お母さんにわからないようにしていて、だからボクも何も言えなかった。あいつはボクを服従させるかのように、ボクに暴力を振るった。

 だからやがてボクはなるべく家に帰らずに、お母さんが帰ってくる時間まで街中をさまようようになっていた。
 もしこの時に出会った人が悪い人だったのなら、ボクの未来は違ったものになっていたのかもしれない。

 でもボクが出会ったのは、たけるくんだった。
 たけるくんは何もできなくて公園で座り込んでいたボクに、話しかけてきてくれた。

『ずっとここにいるから、どうしたのかなって思って』

 たけるくんの言葉はおっかなびっくりで、すごくぎくしゃくとしていて、ぎこちなくって。たぶん女の子と話すのはなれていなかったのだろう。それでもこの時のたけるくんがボクを助けようとしてくれたことは十分にわかった。

 だからボクは思わず泣き出していた。
 泣きながらボクの身に起きたことを話し始めた。
 たけるくんはボクの話をじっと聞いてくれていた。何も言わずに、ただじっとボクの話を聞き続けてくれた。
 たけるくんはボクの話をきくなり、何かを考えているようだった。それからお母さんが帰ってくる時間をきくと、一緒に家にいくといってくれた。

 この時のたけるくんは知らない男の子だった。だけど誰よりもボクのことをみてくれる気がしていた。

 たけるくんは家に帰り着いたと同時に、あいつへとボクのことを問い詰めだしていた。
 あいつは最初はしらばっくれていたみたいだったけど、あんまりにもたけるくんがしつこいものだからとうとう我慢が出来なくなったのだろう。
 あいつはたけるくんを殴り飛ばした。
 たけるくんはそれでもあいつを問い詰めようとした。
 あいつはたけるくんを何度も殴り飛ばした。馬乗りになって、殴り続けていた。

 やめて。やめてとボクは大声を漏らす。だけどあいつはやめようとしなくて、ボクはでも止めたくてあいつに近づいたけど、はね飛ばされて。

 そしてあいつは何かをうめき声のように言葉を漏らしながら、たけるくんを殴り続けて。

 そこにお母さんが帰ってきた。
 あいつはいろいろとごまかそうとしたけれど、殴られ続けていたたけるくんがはっきりとした証拠になった。
 その場で警察を呼んで、あいつは逃げ出したけど、でもすぐに警察に捕まった。

 そのあとお母さんはボクの話をちゃんと聞いてくれた。警察もボクの言葉を疑いもしなかった。たけるくんが大きな怪我をしてでも、あいつの暴力の証拠を作ってくれたから。
 たけるくんはお母さんが帰ってくる時間をみはからって、わざとあいつを怒らせたのだと言う。たぶんそういうやつは我慢が出来ないから、自分が殴られれば疑いなく犯行が認められると思うといっていた。

 あぶないことはしないようにと警察には怒られていた。
 こどもの浅知恵で本当に何かあったら取り返しがつかなくなったかもしれないと言われた。
 確かにそうかもしれない。冷静に考えればもっとはやく大人を頼るべきだったのだろう。

 それでもボクにとってはたけるくんは救世主だった。
 ボクがただ話しただけなら、警察は信じてくれなかったかもしれない。お母さんも信じてくれなかったかもしれない。たけるくんがわざと殴られてでも証拠を作ってくれたから、事件になった。

 事件になったからこそ警察もお母さんも信じてくれた。いっけん優しそうにみえるあいつは外面はいいから、誰も信じてくれなかったかもしれない。

 そのあとはいろいろあったけど、お母さんとあいつは離婚することになった。
 あいつが今何をしているかは知らない。
 でもボクの目の前からは消えていなくなった。
 いまでもあいつのことを思い出すと、体が震えて止まらない。触れられていた時のおぞましさは、今でもボクの脳裏に焼き付いている。
 だけどそれでもたけるくんがいてくれたから、ボクは救われたんだ。

 ただこの事件以来、お母さんとボクの間にはちょっとした溝が出来た。
 お母さんはたぶんボクに負い目を感じているのだと思う。表面は変わらないけど、ボクと目を合わせてくれることが少なくなった。そして今までよりもより仕事に精を出すようになって、家には戻らなくなった。
 そんなお母さんにボクもどう接していけばいいのかわからなくなった。

 もちろん母子家庭に戻ってしまったから、生活する上で仕事を増やさなければならないというのもあるとは思う。もともとお母さんはキャリア系で仕事は忙しくて、あまり家にはいない人だった。
 でもボクと顔を合わせづらいからなるべく家にいないようにしている、というのも多分ある気がする。

 ボクはそのこともたけるくんに相談していた。
 たけるくんは自分のせいでお母さんとの間に溝を作ってしまったと、悲しそうにしていたけれど、それはたけるくんのせいじゃない。あくまでボクとお母さんの間のことだ。たけるくんがいなければ、ボクは心身共に壊されていたと思う。だからボクはたけるくんには感謝の気持ちしかない。

 だからボクはたけるくんを好きになった。好きにならないはずがないよね。
 たけるくんがボクを救ってくれた日から、ずっとずっと。もうずっと好きなままで。
 とうとう我慢出来なくなって、告白をした。
 たけるくんはボクを受け入れてくれて。ボクのことを好きになってくれて。
 一緒にデートを重ねるうちに、もっともっとボクのことを好きになってくれて。

 そして唐突にボクのことを忘れた。
 ボクのことを一番好きになってくれたことと、引き替えにして。

 大きく息を吸い込む。
 たけるくんはボクのことを忘れてしまった。だからボクもそのことは忘れよう。
 もういちどボクのことを好きになってもらえばいいんだ。
 少しずつ近づいて、あんまり強く刺激を与えないようにしたら、きっとたけるくんはまたボクのことを好きになってくれる。病気を乗り越えてくれる。

 だからもういちど一から始めよう。
 何度繰り返すことになったとしても、何度でも。
 何度でも何度でも。ボクのことを好きになってもらうんだ。
 もう忘れられないくらいに記憶に強く塗り重ねられるそのときまで。
 今日たけるくんは休みだった。
 たけるくんのいない学校はつまらなかった。

 友達はいる。だから一人でいる訳ではない。だけどたけるくんがいない。それだけで学校生活のかなりの部分が色あせて感じられた。
 今となってはたけるくんの病気のことはけっこうな人が知っている。最初は当然サッカー部の人達が知ることになったし、ボクとつきあいはじめてからはボクの交友関係はみな知ることになってしまった。

 そりゃあ急にサッカー部をやめたと思ったら、昨日まで恋人同士だったはずのボクのことを知らないといいだすのだから、皆がいぶかしがるのも当然だし、それが繰り返されるのだから知られないはずもなかった。
 そうして多数の人が知ることになれば、もう噂を封じることは出来なかった。だからあいつも含めて、相当多くの人がたけるくんの病気のことを知っているのだろう。

 どちらにしてもいつまでも隠し通せるような病気ではないにしても、ボクのせいでたけるくんの病気が知れ渡ってしまった。サッカーだけの話だったら、気が変わった、部活の中で何かあったくらいの話で済んでいたかもしれない。そのことは申し訳なく思う。

 たけるくんがボクのことを忘れてしまっても、ボクは何度も近づいていく。
 ボクがいつまでもたけるくんにまとわりついているから、そんな風になってしまった。
 ボクはたけるくんに迷惑をかけているんじゃないだろうか。
 だったらボクはたけるくんの近くにいない方がいいのだろうか。
 たけるくんのためを思うなら、ボクはたけるくんを忘れてしまった方がいいのだろうか。その方がたけるくんのためになるんじゃないだろうか。
 たけるくんがいないと、そんなことを考えてしまう。

 でもボクにはそれは無理なこともわかっていた。
 ボクにとってのたけるくんは、そんなことで忘れられるほど小さな存在じゃなかった。だからボクにはそんなことはできない。
 ずるいかな。勝手なのかな。ボクの都合でたけるくんを振り回してしまっているのかな。
 ボクの心もいつも揺れてばかりいる。

 でもたけるくんを手放したくない。たけるくんと離れたくない。
 ボクを救ってくれたたけるくん。やっぱりボクにはキミしかいない。
 とにかく帰路を急ぐ。たけるくんがいない学校はもうすぐにでも後にしたかった。

「よう」

 目の前にあいつが立っていた。相変わらず無駄に図体ばかり大きい。
 ボクは気がつかなかったふりをして、そのままその隣を通り過ぎようとする。

「無視すんなよ」

 少しばかり大きな声を出して、ボクの前に立ちふさがる。
 こうして向き合うと、やっぱりかなり体が大きい。さすがに野球部のエースだけはある。

「ボクに何か用?」

 つっけんどんに言葉を返す。
 ボクの態度に少しひるんだ様子ではあったけれど、でもすぐにあいつはすぐに口を開いた。

「今日あいつは学校休んだみたいだな」
「知ってる。そんなこと言いに来たの?」

 ボクは思わず言葉にトゲを込めてしまう。
 いい加減諦めてくれないのかな。何回振ったかわかないけど、ボクはたけるくん以外と恋人になるつもりなんてないんだ。心の中で思う。好きでもない相手から言い寄られるなんて、面倒以外の何者でもない。

「これでまたあいつはお前のことを忘れるんだろ。辛くないのか」
「……辛いよ」

 あいつの言葉にボクは思わず気持ちを吐露していた。
 改めて言われると余計に辛く思う。

「だったら俺とつきあっちまえばいいじゃないか」
「それは無理。ボクはたけるくんが好きなんだ」
「でもあいつはお前のことを忘れてしまうんだろ。ひどいと思わないか。こんなに思ってくれている人のことを忘れてしまうなんて」

 こいつはこいつでボクのことを考えてくれているのだとは思う。
 たぶん悪気はない。悪気はないのだろうけど。それでもたけるくんのことを悪く言われて、ボクは考えるよりも先に感情が爆発していた。
 たけるくんのことを何も知らないくせに。たけるくんだって、ずっと苦しんでいるのに。なんでこんなことを言われなきゃいけないんだ。

「それでも。それでもボクにはたけるくんしかいないんだ。キミとつきあうつもりはないし、これからも変わらない。もうこれ以上つきまとわないでくれないか。迷惑なんだよ。キミなんてボクの眼中には入っていないんだ」

 こいつがボクの事を心配してくれているのはわかっている。
 ボクのことを好きな気持ちもたぶん本物なんだろう。
 でも、それでもボクは言わずにはいられなかった。たけるくんのことを否定するこいつを認めたくなかった。ボクにとっての恋人は、たけるくん以外にはいない。だけどこいつの言葉はいちいちそれを否定していく。
 その言葉はボクを少しずつ傷つけていく。何度も傷つけられるなら、ボクの言葉で傷つけたっていいはずだなんて思ってすらいたかもしれない。

「ああ、そうかよ。わかったよ。わるかったな」

 さすがに眼中にないとまで言われては、気分を害したのだろう。吐き捨てるように言い放つと、あいつは背を向けて去って行く。
 ボクはその事にほっとして、そして少しだけ言い過ぎたかなとも思う。つきまとわれて迷惑しているのは確かだったけれど、あいつはあいつなりにボクのことを心配してくれていたのはわかっていた。

 傷つけられたからといって、傷つけていいはずもない。
 もし明日会ったのなら、言い過ぎたこと自体は謝ろうと思う。

 ただいまは少しでも早くこの場を離れたかった。たけるくんがいない学校から離れてしまいたかった。だから、ただ帰路を急ぐ。
 だけどこのときボク達を見ている人がいたことには、まったく気がついていなかった。
 翌日になった。今日は通学中には出会えなかったけれど、どうやらたけるくんは学校には来ているみたいだ。
 でももうボクの事は忘れてしまっているのだろう。

 そう思うと胸が痛む。気を抜くと涙がこぼれそうだ。もうたけるくんはボクの事を知らない。覚えてはいない。ボクはこんなにもキミのことを愛おしく思っているというのに。
 大好きな人に忘れられるということが、こんなに辛いなんてことは知らなかった。

 ドラマなんかで記憶喪失の話をみて、そんなものに嘆くほでのことかなって感じていた自分があさはかで仕方ないとも思う。
 少しでもたけるくんと会いたい。話をしたいと思う。でもさすがにボクの事を覚えていないうちに、昼休みに突撃する訳にもいかなかった。たけるにしても困ってしまうだろう。だから今日は放課後、帰宅時を狙って話しかけようと思っていた。
 そうして長い一日が終わって放課後になる。

 たけるくんの帰宅時のルートはいつも同じだ。タイミングさえとれれば、たけるくんとは出会いやすい。後はどういう風に話しかけようかなと思案を巡らせていた。
 やっと迎えた放課後。すぐにでもたけるくんのところに行きたかった。だけど三人の女の子達によって邪魔され、ボクは教室から出ることすら出来なかった。
 彼女たちは立ちふさぐようにしてボクの前に立っていた。

「ちょっと顔かしてよ」

 ひとりが有無を言わさない口調で告げると、いつの間にか残りの二人が左右にボクを挟み込んでいた。
 前にいるのは髪の長い細身の子で、右側に立っているのは少しぽっちゃりとしたボブカットの子。左側に立っているのはポニーテールの子だ。
 でもわかるのは髪型くらいで、ボクには彼女達に見覚えはない。たぶん知らない相手だと思う。
 少なくともボクには彼女たちにこんなことをされる覚えもなかったのだけれど、囲まれている状態で下手に逆らう事も出来なかった。

 朝に続いてまたすれ違っちゃうなとも思いつつも、仕方なくボクは彼女達に従う事にした。

 連れてこられたのは学校の裏庭だった。あまり人がくるところではない。こんなところに呼び出すなんていうのは、告白でもするか、さもなければいじめの現場にしかあり得ないだろう。
 告白といえば昨日あいつから、また俺とつきあえといわれたっけ。
 そのこと自体はボクは何とも思わなかったのだけれど、たけるくんを悪くいうのには腹が立った。だから思わず言い過ぎてはしまったとは思う。

 昨日のことを思い出して、そしてやっとボクは彼女達がしようとしている事に思い当たる。
 そうか。この子達はあいつのファンか。たぶんボクが昨日こっぴどく振ったことに対して、何か言おうと思っているのだろう。
 ボクの中ではあいつはただの顔見知りで、一方的に惚れられて迷惑している相手ではある。でも同時に野球部のエースであり、顔は良いからそれなりに女子に人気がある事は知っていた。

 たぶんあいつの性格からして本人が言いふらす訳もないから、たぶん誰かに見られていて噂になったのだろう。
 彼女達は鬼のような形相をして、ボクを取り囲んでいた。これはおとなしくついてきたのは失敗だったかもしれない。
 ただ逃げだそうにも三人で囲まれているから、簡単には逃げ出せそうもなかった。
 さすがに学校の中で大した事はされないだろうとは思うものの、彼女達が何を考えているかわからなくて内心では身を震わせていた。

「あんたさ、ちょっと可愛いからって調子のってんじゃないの」

 彼女達のうちの一人が最初の口火を切る。

「別に調子になんてのってな」
「だまれよ。あんた前から気にくわなかったんだよ。自分は可愛い、可愛いのわかってますみたいな態度がさ、鼻につくんだよ」

 ボクの言葉にかぶせるように告げると、目の前のロングヘアの子が目で合図を送る。
 するとボブカットの子とポニーテールの子が、ボクの手を押さえる。
 自分のことを特別に可愛いとは思ったことはないし、正直ボク自身はあまり気にしていない。ボクより可愛い子はたくさんいるし、特別に鼻にかけたこともないと思う。

 そもそも彼女らと話したこともないのだから、そんな態度を見せたことだってあるわけがない。単純にあいつの件でボクに嫉妬しているだけなんだとは思う。
 あいつに対する態度が少々悪かったのはボクも反省はしている。でもだからって彼女達にこんなことをされる筋合いはない。

「ボクに何するの。離してよ」

 捕まれた腕を振り払おうとはするものの、さすがに二人がかりで押さえられていたら抵抗は出来ない。
 目の前のロングヘアの子は鞄から中身の入ったペットボトルを取り出していた。すぐにキャップを取り外して、ボクの方へとむける。

「あんた頭ほてっているみたいだから、ちょっと頭冷やしてやろうと思ってさ」

 けらけらと笑いながら、ロングヘアの子がゆっくりとボクの方へと近づいてくる。
 その様子にボクの胸の中ははち切れそうなほど震えていた。

 怖い。

 今までこんな風に人に悪意をぶつけられた事はなかった。
 ペットボトルの中身をかけるつもりだろうか。中身は普通の水なのだろうか。それとも違うものなのだろうか。
 そういえばだいぶん前に通りすがりに突然硫酸をかけられたなんてニュースをみた覚えもある。

 体が震えていた。

 さすがにそんなものじゃないだろう。でももしそうだったら。
 体中が焼けてただれてしまうかもしれない。
 いくらなんでもそこまでするはずない。するはずはないけど。

 怖い。嫌だ。

 どうしてこんなことをするの。確かにボクはちょっと言い過ぎたかもしれない。
 でもそれはボクとあいつの間の話で、彼女らにこんなことをされる筋合いはない。

「やだ……。やめて……」

 ボクが弱々しい声を漏らすと、彼女らは嫌らしい笑みを浮かべていた。
 じわじわと近づいてくる。たぶんわざとゆっくり歩く事で恐怖を煽っているのだろう。
 そしていよいよ僕のすぐ前に近づいてきたとき、声は響いた。

「先生、こっちです!!」

 男の子の声とともに、誰かが走ってくる音が聞こえていた。

「やば!?」
「逃げよ!」

 女の子達は私を突き飛ばすように離すと、そのまま反対側へと駆けだしていた。
 それから少しして声の主が姿を現す。

「大丈夫だった?」

 かけられた声に、僕は思わず涙をこぼしていた。
 助けられたことに。そしてその声の主が、ボクがよく知っている人。たけるくんだったことに。
 こんな時までたけるくんはボクを助けに来てくれるんだ。
 今のたけるくんはボクの事を知らないはずなのに。
 胸の中がいっぱいになって、ボクは思わず涙をこぼしていた。

「ああ、怖かったよね。ごめん。先生は本当は呼んでないんだ。だから僕しかいないんだけど、本当に先生呼んでこようか?」

 たけるの言葉にボクは首を振るう。
 たけるくんがいてくれればいい。もう他には何もいらない。
 たけるくんにとっては見ず知らずの女の子なのに、いつもボクを助けてくれる。初めてあったあの日から、それは全く変わらない。そんな優しいたけるくんだからこそボクは好きなんだ。

「大丈夫。ありがとう、たけるくん」
「え。どうして僕の名前を知ってるの?」

 ボクが思わず呼んだ名前に、たけるくんは訝しげにボクの顔を見つめていた。

「ボクのこと覚えていないの?」

 だからボクは思わず聞き返してしまう。
 その答えはもうわかっているというのに。

「え、あ。うん。どこかで会ったことあったかな。ごめん。覚えていない」

 たけるくんは申し訳なさそうな顔で首を振るう。
 ボクのことを覚えていないことはわかっていた。
 わかっていたのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。その言葉はボクの胸の中をえぐるように突きつけてくる。ボクは思わず涙をこぼしていた。

 でも良かった。さっきのことがあったから、たけるくんはいまボクがこぼした涙はきっといじめによるものだと思っているだろう。
 たけるくんに覚えていて欲しかった。ボクのことを、忘れないで欲しかった。
 だけど。そんな気持ちを知られなくて、良かった。
 たけるくんにはボクのこんな気持ちは知らないでいて欲しかったから。




 僕が特に意識もせずに廊下から裏庭の方をみたとき、女の子達が別の女の子を囲んでいる姿が見えた。
 普段であれば気にもとめなかったかもしれない。だけど何となく不穏な空気を覚えて、僕は思わず駆け寄っていた。
 覗いてみたらどうやら囲まれていた女の子がいじめられているようだった。
 そのまま助けに入ることも考えたけれど、こちらは一人で相手は三人だ。それに相手は女子だから下手すると面倒なことになりかねない。そこでわざと大きく足音を立てて先生を呼ぶふりをしてみた。
 幸いうまくいって、いじめていた女の子達は逃げていったようだ。

 囲まれていた子は知らない女の子だった。
 かなり可愛い女の子だとは思ったのだけど、でも知らない子だ。なのにその子は僕の名前を呼んでいた。
 こんな可愛い子と知り合いになっていれば忘れないとは思うのだけど、だけど僕は全く覚えがない。でも名字ではなく名前を呼んだということは、ある程度親しい仲だったんじゃないかと思う。

 もしかしたらたとえば保育園のころの友達だっただろうか。
 保育園の頃の友達は校区が違っていて、小中学校では別の学校にいった子もいる。そういう相手だったのなら、もしかしたら覚えていない子もいたかもしれない。
 リボンの色からすれば僕と同じ学年だと思う。

 でももし知り合いだったのなら、もっと早く声をかけてくれていたらいいのに、とは思うけれど、まぁそんな昔の学友だったのなら声はかけづらいかもしれない。実際僕は覚えていなかったから、声をかけられたとしても誰だと不審に思っていたかもしれない。
 そのあと彼女は助けてくれたお礼ということで、いまは二人で喫茶店にきていた。

 お礼なんていらないよといったのだけれど、どうしてもといって押しきられた形だ。
 まぁ正直こんな可愛い子と二人でいられるのは嬉しいとは思うし、どうも彼女は僕のことを知っているみたいだから、話をするにはちょうど良かったかもしれない。
 少しアンティークな雰囲気の喫茶店は、どことなく特別な感じがする。
 確かキタミ亭という名前だったかな。初めてくるそこは、でもなぜかなつかしくすら感じさせる。

 珈琲の香りに包まれていて、優しい感じがのするお店だと思う。
 ちらほらとだけど他に学生のお客の姿も多い。こんな本格的な感じのする喫茶店のわりには値段が安いからかもしれない。
 彼女はパフェを頼んでいたけれど、僕は珈琲だけを頼む。
 おそらくこのお店はパフェが有名なのだろう。周りの学生もみんなパフェを頼んでいるみたいだ。

「今日は本当にありがとう。これはボクからのお礼」

 彼女、坂上こはると名乗った女の子は深々と頭を下げる。
 ただ名前を聞いてみても坂上こはるという名前に覚えはなかった。保育園の頃の友達なんてほとんど覚えていなかったけど、たぶん彼女はいなかったと思う。
 ただ一人称がボクなのはちょっと驚いた。見た目はどこからどうみても清楚な美少女にしか見えなかったから、かなり意外に思った。
 でもそんなところも可愛いなと思う。正直、棚からぼた餅というか。
 こんな可愛い子と知り合いになれてしまったのは、ラッキーだとも思う。
 いや別に下心あって助けた訳ではないんだけど、女の子にうとい僕が内心で浮かれてしまうのは仕方ないと思う。そうだよね。
 まぁ誰に向けて言い訳しているのかわからなかったけれど。

「いやほんと大した事はしていないんだけど」
「ううん。ボクにとって、たけるくんは本当にヒーローだよ」

 彼女はまるであこがれの人を見ているかのような目で僕を見つめていた。
 たまたま現場に遭遇しただけで、そんな大したことはしていないというのに、そこまで言われてしまってはものすごくてれくさい。

「そこまで言うほどのことはしていないよ」

 僕は恥ずかしさすら覚えて頬をかいた。
 実際ほとんど何もしていないに等しいのだけれど、泣くほど怖がっていたようだから、彼女にとっては救いの神のように思えたのかもしれない。

「えーっと、こはるは二年生でいいんだよね。僕も二年。あんまりみかけた覚えがないけど、何組なの?」

 照れくささのあまりに話をそらそうと思って彼女のことをたずねてみる。さっそく名前で呼んでいるのはこはると呼んでほしいと頼まれたからだ。そうでもなければ僕が女の子のことを名前で呼ぶなんてことはない。
 我ながらチキンな性格だとは思う。でも可愛い女の子と名前で呼び合うなんて関係に憧れていたから、千載一遇のチャンスだとも思った。
 こはるはにこやかな笑顔のまま僕に答える。

「うん、そう。二年生。二組だよ」
「そうなんだ。えっと、きいていいかわからないけど、あの絡んでいた子達は知り合い?」
「ううん。知らない子達。なんか急に呼び出されて」

 こはるはまたあの時の事を思い出して恐くなったのか、うつむきながら話し始める。
 知らない子から絡まれていたというのは意外だったけれど、彼女はかなり可愛いから変に目をつけられていたのかもしれない。

「まぁ、うん。たぶんだいたい理由の目星はついているんだけどね」

 そう言いながら、彼女は事の顛末を話し始める。

「ある人の告白を断っちゃったんだけど、その人けっこう女の子に人気がある人で、たぶんそれで恨まれちゃったんだと思う」

 こはるは困ったような顔をして、少しうつむいていた。
 確かにこれだけの美少女であれば、そういうこともあるかもしれないとは思う。もてるのも大変なんだなとは思う。いろいろ考えなきゃいけないことも多いのかもしれない。
 まぁ女の子には殆ど縁が無かった僕は考える必要がない事案だけど。
 ……我ながらむなしい。

「それは逆恨みなんじゃ」
「うーん。まぁ、断る時にちょっと言い過ぎちゃったから、ボクも悪かったところもあるとは思う」

 こはるは自分にも悪かったところがあったとは思っているようだった。自分にひどいことをされかけていたと言うのに、相手のことも思えるなんていうのは優しい子なんだなとは思う。こんないい子と知り合えるのは、やっぱり幸運なのかな。まぁでもかなりもてる子みたいだから、僕のことなんて歯牙にもかけないかもしれないけど。
 ただこはるも楽しく話しているようにも見えたから、もしかしたら僕にも少しチャンスがあったりしてなんて思う。
 まぁもてない男の妄想です。あり得ないかもしれないけどさ。それくらい許してくれよと、心の中の誰かに向かって言い訳していた。
 そのあとしばらくはとりとめのない話をしていた。
 それなりに長い間話していたけれど、そろそろ日も暮れ始めていた。名残惜しいけれど、さすがにお店を後にすることにした。

「今日は本当にありがとう。ボクは本当に感謝しているよ」

 お店を出て改めてこはるは頭を下げる。
 律儀な子だなって心の中で思う。こんな子が彼女だったら最高なのにと思うものの、ありえないことに僕は少し自嘲の笑みを浮かべていた。

「じゃあまたね」

 彼女は軽く手をふってから歩き始める。僕とは家の方向は違うみたいだ。