「あの日ね。急に思い出したの。だからさ、私達は最初は病気が治ったんだと思ってた。でもそうじゃなかった。お兄ちゃんには他に一番好きなものが出来ただけだったの。それが」
だんだんかなみの言いたいことがわかってきた。
僕が一番好きだったものはずっとサッカーだった。でもそれ以上に好きになったものがあった。
「それがその女の子ってわけか」
「そうだよ。好きなものが変わったから、女の子のことを忘れて。その代わりにサッカーのことを思い出したの」
かなみの言葉に思い返してみる。
彼女の姿は何とか思い出していた。それはもう好きじゃなくなったからなのだろうか。それとも病気が治りかけているのだろうか。それとも一度忘れてから思い出したサッカーとからんでいたからなのだろうか。
あの子は僕からリフティングをしていたボールを奪い取った。だからサッカーとからめた記憶だからこそ、サッカーで忘れた記憶の一部として思い出したのだろうか。
まだ彼女を好きだったという記憶は思い出していない。それどころか、名前なんかも思い出していない。ただ彼女に何かを確かめなければいけない。そう強く思う。
あれだけ可愛い子なら、名前なんかは調べればすぐにわかるだろうし。何なら学なんかも知っているかもしれない。
いやそもそもかなみが何か知っているんじゃないだろうか。目の前のかなみに続けて問いかける。
「かなみは、僕が好きだった人のことを知っているか」
「……知ってる」
僕の問いに少しためらいがちに答える。何かごまかそうとしたけれど、もういまさら嘘をついても仕方が無いと思ったのかもしれない。
「お兄ちゃんが好きだった人は。坂上こはるさん。うちにきたことあるから、私も会ったこともあるよ」
「そうなのか。それなら、もしかして僕とその子は」
「恋人同士だったよ」
「そうなのか……」
坂上こはる。彼女の名前を知って、そして彼女と恋人同士だったと知ってなんだか余計にもやもやとする。
もしそうだとするのなら、もう彼女は僕のことは忘れてしまったのだろう。あるいは忘れてしまう僕のことは、もう諦めてしまったのかもしれない。
そもそも自分にもやっぱり好きだという気持ちは浮かんでこない。なんとなくしっくりとこない過去の出来事に、頭の中にまた霧がかかったような気分になる。
「なんで秘密にしていたんだ」
何となく想像はつくけれど、かなみに訊ねてみる。
かなみはその質問も想定の範囲内だったのか、すぐに首を振るう。
「今までだって教えたこともあるよ。でもね。お兄ちゃん、忘れちゃうんだ。一番好きなものに関することだと、その時は覚えていてもどこかで忘れちゃう。だから話しても無駄っていうかさ。教えた方がより早く忘れてしまうの。だから、たぶん今教えたことも、何日かしたら忘れちゃうと思う。だから」
かなみは少し言葉を途切れさせると、それから僕の方をじっと見つめていた。
「こはるさん。お兄ちゃんが忘れてしまっていても、何回もうちにきていたよ。どうやってでも思い出してもらうんだって言ってた。でもうまくはいかないね。何回だってお兄ちゃんは忘れちゃう」
かなみはため息をもらす。
たぶんこうして何度もかなみから説明を聴いたのだろう。でもそれも僕は忘れてしまうのか。やっぱりもやが晴れずに、陰鬱な気分になる。
自分の気持ちがよくわからなかった。
彼女、坂上さんのことをどう思っているのか。かなみの言葉によれば、僕はまだ彼女のことを一番好きだから忘れているのだろう。でも好きなはずなのに、僕は坂上さんのことを何とも感じてはいない。ただ知らないサッカーがちょっとうまい子のことを少しだけ思い出したというだけの記憶だ。
かなみの話していることが自分のことだとは思えなかった。
坂上さんのことについても、あんな可愛い子が自分と恋人同士だったと言われても信じられない。嘘だと言われた方がしっくりとくると思う。
だけどかなみの言葉が嘘だとも思えなかった。
やっぱり僕は病気なのだろうなとは感じられた。僕の中の何かが壊れてしまっているのだろう。
薄っぺらい紙か何かで、頭の中を包み込まれて見えない。そこに何かがあるのはわかるのだけれども、それが何かがわからない。そんな感覚が僕を包んでいた。
ただもしも僕と坂上さんとつきあっていたのだとしても、僕の奥底にある気持ちがまだ彼女を好きなのだったとしても、彼女はもうそうではないのかもしれない。
もし何度思い出させようとしても、忘れてしまう相手のことをいつまでも想い続けるなんて難しいと思う。僕だったら諦めてしまうかもしれない。
「さすがに諦めちゃったってことか」
「え?」
ぼそりとつぶやいた言葉にかなみが何か驚いたような声を漏らす。
「いや、さっきさ。坂上さんか、彼女のことをほんの少しだけ思い出した。でもなんで彼女のことを思い浮かべたのかわからなくて。何となく気になっていたんだ。そこに彼女を見つけたんだけど、話しかける前に彼氏らしき男と歩いているのをみかけてさ。だから」
ついさきほど見かけた坂上さんと武田の話をする。お似合いの二人だったとは思う。
病気の僕と一緒にいるよりも、違う彼氏を作った方が彼女にとっても良いことじゃないかとは思う。
だから。これでいいんだろうとは思う。
ただそれでも頭の中に何かが残っていて、僕の気持ちは晴れなかった。
好きな気持ちもないのに、なんだか未練がましい感じだなと思う。
「思い出した? え、こはるさんのことを?」
しかしかなみは驚いた様子で、目を開いて僕の顔を見つめていた。
そんなにおかしなことを告げただろうか。
「そう。少しだけね。この前にリフティングしていたらさ、途中でボールを奪われたことがあったなって」
そう。思い出したのはそれだけ。
サッカーのことは思い出しているから、その関係でここだけ思い出したのかもしれないとは思った。
思い出したボールを扱う彼女は可愛かったなとは思う。
ただそれは芸能人を見るのと同じような感覚だ。自分の近くにいる存在のようには思えなかった。
なのにかなみは何かあり得ないことが起きたかのように、僕の顔を見つめていた。
「それって、おかしいよ。一番好きなことは忘れてしまうはずなんだから。今までそんなことなかった。忘れてしまったら、また一からこはるさんと出会うしかなかったの。あ、もしかしてお兄ちゃんの中で新しく何か好きになっているものがあるとか」
かなみは本当に仰天しているようで、僕のあちこちを触ってみたりしていた。
何かおかしなことがないかどうか、探しまわっているように思えた。
ただ言われてみて、確かに一番好きなものを忘れるのであれば、他に好きなものが出来ているのであれば思い出すこともあるのかもしれない。そう思うものの、最近特に好きになったものなんてなかった。
「いや、特にないけど」
「サッカーの方が好きにもどっているとか」
「うーん。僕の中では今もサッカーが一番好きだと思うんだが。でもそうしたら忘れてしまうんだよな」
「うん。そうだね。だからそうじゃないはず。何かが起きているのかも。先生にきいてみたらわかるかもしれないけど、週末は先生休みだから早くても週明けか」
かなみの様子はなぜかどこか嬉しそうにも感じられた。
もしかしたら坂上さんのことは少し思い出しただけだけれど、それでも何か良い兆しだったりするのだろうか。
何にしても確かに病気のことは先生に見てもらわなければ、はっきりとしたことはわからないだろう。
坂上さん、か。少なくともクラスには彼女はいない。
だとしたら他のクラスだろう。いちど彼女の話を聞いてみた方がいいのだろうか。
でもなんと言えばいいのだろうか。僕とつきあっていましたかときくのだろうか。それはちょっとハードルが高い気がする。
もしも別れたんだから、もう近づかないでとか言われたら、さすがにショックが大きいとは思う。
正直女の子は苦手だ。どう扱っていいかわからない。
だから。たぶん僕は坂上さんに声をかけることは出来ないだろう。
それでも。僕の中に何かふわふわとした気持ちが生まれて、それは決して消えずにまとわり続けていた。
だんだんかなみの言いたいことがわかってきた。
僕が一番好きだったものはずっとサッカーだった。でもそれ以上に好きになったものがあった。
「それがその女の子ってわけか」
「そうだよ。好きなものが変わったから、女の子のことを忘れて。その代わりにサッカーのことを思い出したの」
かなみの言葉に思い返してみる。
彼女の姿は何とか思い出していた。それはもう好きじゃなくなったからなのだろうか。それとも病気が治りかけているのだろうか。それとも一度忘れてから思い出したサッカーとからんでいたからなのだろうか。
あの子は僕からリフティングをしていたボールを奪い取った。だからサッカーとからめた記憶だからこそ、サッカーで忘れた記憶の一部として思い出したのだろうか。
まだ彼女を好きだったという記憶は思い出していない。それどころか、名前なんかも思い出していない。ただ彼女に何かを確かめなければいけない。そう強く思う。
あれだけ可愛い子なら、名前なんかは調べればすぐにわかるだろうし。何なら学なんかも知っているかもしれない。
いやそもそもかなみが何か知っているんじゃないだろうか。目の前のかなみに続けて問いかける。
「かなみは、僕が好きだった人のことを知っているか」
「……知ってる」
僕の問いに少しためらいがちに答える。何かごまかそうとしたけれど、もういまさら嘘をついても仕方が無いと思ったのかもしれない。
「お兄ちゃんが好きだった人は。坂上こはるさん。うちにきたことあるから、私も会ったこともあるよ」
「そうなのか。それなら、もしかして僕とその子は」
「恋人同士だったよ」
「そうなのか……」
坂上こはる。彼女の名前を知って、そして彼女と恋人同士だったと知ってなんだか余計にもやもやとする。
もしそうだとするのなら、もう彼女は僕のことは忘れてしまったのだろう。あるいは忘れてしまう僕のことは、もう諦めてしまったのかもしれない。
そもそも自分にもやっぱり好きだという気持ちは浮かんでこない。なんとなくしっくりとこない過去の出来事に、頭の中にまた霧がかかったような気分になる。
「なんで秘密にしていたんだ」
何となく想像はつくけれど、かなみに訊ねてみる。
かなみはその質問も想定の範囲内だったのか、すぐに首を振るう。
「今までだって教えたこともあるよ。でもね。お兄ちゃん、忘れちゃうんだ。一番好きなものに関することだと、その時は覚えていてもどこかで忘れちゃう。だから話しても無駄っていうかさ。教えた方がより早く忘れてしまうの。だから、たぶん今教えたことも、何日かしたら忘れちゃうと思う。だから」
かなみは少し言葉を途切れさせると、それから僕の方をじっと見つめていた。
「こはるさん。お兄ちゃんが忘れてしまっていても、何回もうちにきていたよ。どうやってでも思い出してもらうんだって言ってた。でもうまくはいかないね。何回だってお兄ちゃんは忘れちゃう」
かなみはため息をもらす。
たぶんこうして何度もかなみから説明を聴いたのだろう。でもそれも僕は忘れてしまうのか。やっぱりもやが晴れずに、陰鬱な気分になる。
自分の気持ちがよくわからなかった。
彼女、坂上さんのことをどう思っているのか。かなみの言葉によれば、僕はまだ彼女のことを一番好きだから忘れているのだろう。でも好きなはずなのに、僕は坂上さんのことを何とも感じてはいない。ただ知らないサッカーがちょっとうまい子のことを少しだけ思い出したというだけの記憶だ。
かなみの話していることが自分のことだとは思えなかった。
坂上さんのことについても、あんな可愛い子が自分と恋人同士だったと言われても信じられない。嘘だと言われた方がしっくりとくると思う。
だけどかなみの言葉が嘘だとも思えなかった。
やっぱり僕は病気なのだろうなとは感じられた。僕の中の何かが壊れてしまっているのだろう。
薄っぺらい紙か何かで、頭の中を包み込まれて見えない。そこに何かがあるのはわかるのだけれども、それが何かがわからない。そんな感覚が僕を包んでいた。
ただもしも僕と坂上さんとつきあっていたのだとしても、僕の奥底にある気持ちがまだ彼女を好きなのだったとしても、彼女はもうそうではないのかもしれない。
もし何度思い出させようとしても、忘れてしまう相手のことをいつまでも想い続けるなんて難しいと思う。僕だったら諦めてしまうかもしれない。
「さすがに諦めちゃったってことか」
「え?」
ぼそりとつぶやいた言葉にかなみが何か驚いたような声を漏らす。
「いや、さっきさ。坂上さんか、彼女のことをほんの少しだけ思い出した。でもなんで彼女のことを思い浮かべたのかわからなくて。何となく気になっていたんだ。そこに彼女を見つけたんだけど、話しかける前に彼氏らしき男と歩いているのをみかけてさ。だから」
ついさきほど見かけた坂上さんと武田の話をする。お似合いの二人だったとは思う。
病気の僕と一緒にいるよりも、違う彼氏を作った方が彼女にとっても良いことじゃないかとは思う。
だから。これでいいんだろうとは思う。
ただそれでも頭の中に何かが残っていて、僕の気持ちは晴れなかった。
好きな気持ちもないのに、なんだか未練がましい感じだなと思う。
「思い出した? え、こはるさんのことを?」
しかしかなみは驚いた様子で、目を開いて僕の顔を見つめていた。
そんなにおかしなことを告げただろうか。
「そう。少しだけね。この前にリフティングしていたらさ、途中でボールを奪われたことがあったなって」
そう。思い出したのはそれだけ。
サッカーのことは思い出しているから、その関係でここだけ思い出したのかもしれないとは思った。
思い出したボールを扱う彼女は可愛かったなとは思う。
ただそれは芸能人を見るのと同じような感覚だ。自分の近くにいる存在のようには思えなかった。
なのにかなみは何かあり得ないことが起きたかのように、僕の顔を見つめていた。
「それって、おかしいよ。一番好きなことは忘れてしまうはずなんだから。今までそんなことなかった。忘れてしまったら、また一からこはるさんと出会うしかなかったの。あ、もしかしてお兄ちゃんの中で新しく何か好きになっているものがあるとか」
かなみは本当に仰天しているようで、僕のあちこちを触ってみたりしていた。
何かおかしなことがないかどうか、探しまわっているように思えた。
ただ言われてみて、確かに一番好きなものを忘れるのであれば、他に好きなものが出来ているのであれば思い出すこともあるのかもしれない。そう思うものの、最近特に好きになったものなんてなかった。
「いや、特にないけど」
「サッカーの方が好きにもどっているとか」
「うーん。僕の中では今もサッカーが一番好きだと思うんだが。でもそうしたら忘れてしまうんだよな」
「うん。そうだね。だからそうじゃないはず。何かが起きているのかも。先生にきいてみたらわかるかもしれないけど、週末は先生休みだから早くても週明けか」
かなみの様子はなぜかどこか嬉しそうにも感じられた。
もしかしたら坂上さんのことは少し思い出しただけだけれど、それでも何か良い兆しだったりするのだろうか。
何にしても確かに病気のことは先生に見てもらわなければ、はっきりとしたことはわからないだろう。
坂上さん、か。少なくともクラスには彼女はいない。
だとしたら他のクラスだろう。いちど彼女の話を聞いてみた方がいいのだろうか。
でもなんと言えばいいのだろうか。僕とつきあっていましたかときくのだろうか。それはちょっとハードルが高い気がする。
もしも別れたんだから、もう近づかないでとか言われたら、さすがにショックが大きいとは思う。
正直女の子は苦手だ。どう扱っていいかわからない。
だから。たぶん僕は坂上さんに声をかけることは出来ないだろう。
それでも。僕の中に何かふわふわとした気持ちが生まれて、それは決して消えずにまとわり続けていた。