『僕』はいつも通り学校に通っていた。
 いつもと変わらない毎日。特にこれということもない日々。何も起きることのない平穏な暮らし。
 病気のせいでサッカーが出来なくなってから、つまらない生活が続いていると思う。
 彼女がいる訳でもなかったから、癒やしのない生活をしている。
 クラスの女子と話すことくらいならあるけど、はっきりと親しいといえるような女子はいない。嫌われてはいないと思うけども、特に好かれてもいないとは思う。

「はー。つまんないな。なんか面白いことないかな」

 僕はため息をもらすと、教室の中で背伸びをしてみせる。
 それを見ていた学が、僕の方へと向き直る。

「なら俺とゲームでもするか?」
「ゲーム。ゲームねぇ……。まぁ悪くはないけど、もうちょっとなんか違うものないかね」

 何となく気がのらず、僕は机の上につっぷしていた。ゲームは嫌いじゃないけれど、今はそんな気分でもなかった。そもそも今からゲームを始めたところで、昼休みもすぐに終わってしまうだろう。

「なんか面白い話でもないか?」

 学に向かって、期待を込めた目を向けてみる。
 無茶ぶりにもほどがあるが、学ならきっと答えてくれる。そう信じてみる。
 いや、まぁ実際のところ学に話をさせると訳のわからない妄想が返ってくると思われるのだが、今のつまらなさから解放されるのであればそれも良いかなとは思う。

「ふむ。面白い話な。それじゃあひとつ俺が知っている話をしよう」

 学はなにやら思案した顔を見せると、口元になんだかいたずらな笑みを浮かべている。
 早まったかなと思うものの、それでもこちらからふった訳だしと思いながら、学の話をじっと待ち続ける。

「あるところに記憶を失った男がいたんだ。だけどそいつは記憶を失ったことすら忘れているから、忘れていることにすら気がついていないんだ」

 突然始まった話は、想像していたのとは違う方向の話だった。
 ただ何となくどこかで聴いたことがあるような気もする。まんがか何かで見た話だろうか。

「だからそいつは毎日普通に暮らしていたんだが、ある時に不意に目の前に可愛い女の子がやってきて、好きだと言ってくるんだ」
「お。いいな。僕も可愛い女の子と出会いたいな」

 思わず告げた言葉に、何となく学の目が細く狭まる。

「でもそいつはその子のことを何も知らないから、毎日避けるように暮らしていたんだ」
「なんだ。贅沢なやつだな。可愛い女の子と知り合えて、何が不満なんだ」
「まぁ、本人の立場になってみれば、今までもてなかったのに急に女の子に言い寄られたら、裏があるんじゃないかと思うんだろうな」
「なるほど」

 ありそうな話だ。正直僕がその立場になっても、突然のことに罰ゲームか何かじゃないかと疑ってしまう気がする。

「でも女の子はそれでも諦めずに、そいつの前に現れては気持ちを伝え続けた。いつしかそいつの周りもその子がいることが当たり前のようになっていったんだ。そうしてとうとうそいつもその子を受け入れて、つきあい始める」
「おお。うまくいったんだ。良かったな。そいつは騙されているとかじゃないよな」

 うそとかじゃないのだったら、ハッピーエンドだろう。二人が幸せになったのだったら、それに越したことは無いだろう。

「だがそれは悲劇の始まりだったんだ」

 学がもったいぶってつげる。学の妄想ではあるものの、思ったよりも興味をひく話だった。やっぱり僕達くらいの年齢だと、恋愛話は気になるというものだろう。

「なんだと。実はすごいヤンデレだったとかか? 浮気した男を滅多刺ししたとか」
「いやいや。そういうのじゃない。女の子は変わらず可愛く優しい子だったさ。悲劇は男の方から始まったんだ。なんとそいつは好きになった人のことを忘れてしまう病気にかかっていたんだ」
「なんだ、それ」

 学の言葉に、思わず口を挟む。
 それはあんまりな病気じゃないだろうか。誰かを好きになったのに忘れてしまうだなんて、あまりにも悲しすぎる。
 学の言葉に納得出来なくて眉を寄せていた。

「悲しいよな」

 学は淡々と告げるが、僕はその声に何かえもしれない感情が強く胸の中でうずきはじめていた。
 好きな人のことを忘れてしまう。それは悲しいことだと思う。
 ただ僕には特に好きな人はいない。だから自分がそんな病気にかかったとしても、今は何も起きない。起きないはずだ。
 だけどそう思うと共に、胸がずきずきと痛む。
 なんだか何かを見落としているような気がする。何かが心の中にじわじわと迫ってくる。
 喉の奥に何かがつまったかのような、強烈な違和感を覚える。

「そのあとどうなったんだ?」

 この先の未来に何が待っているのか。微かに期待をこめて訊ねるが、学は首を振るう。

「そのままさ。もしかしたら繰り返させる事態に彼女も諦めてしまったのかもしれないな」
「そうか」

 何となくその答えに落ち込んでしまう。何か幸せな未来が待っているんじゃないかと想像してしまっていた。悲しい結末に悲しくしてしまった。
 でもどうして僕はこんな話に感情移入してしまったのだろうか。所詮は学の与太話だ。自分と関わりがあるわけでもなければ、知った人物の話でもない。気にするような話でもないはずだ。

「でも。俺はさ、信じているんだ。きっとそいつは思い出すはずだって。だって物語なら愛と正義が勝つものだろう」

 学があまりにも真面目な顔をして言うものだから、なんだかおかしくなってしまい笑みをこぼす。

「そうか。そうかもな。そうだといいな」

 僕も学の言葉を信じたくなった。
 あくまで学のしてくれた面白い話に過ぎないけれど、幸せな結末が来てくれるのが楽しみになった。
 きっとそいつは大好きな人のことを絶対に思い出すはずだと。必ず何かあるはずだと。何となく信じられた。

 この話がどうしてこんなに気になったのかはわからない。そもそも学の作り話に過ぎないし、面白い話といったものの、考えてみるとさほど面白い話でもない。
 ただなぜか心の中に染みいるような、そんな気持ちを感じさせていた。
 もし自分にそんなことが起きたのであれば、きっと悲しくて、辛くて。でもきっと奇跡を信じていくのではないかと思った。

 何となく自分と重ね合わせてしまう。
 もしかしたら僕も何かを忘れてしまっているのかもしれない。そんなことを思わせるくらい、それがまさに起きている話のようにも感じていた。
 いやいや、いま聴いた話と自分を重ね合わせてしまうだなんて、おかしなことだ。ありえない。声には出さずにつぶやく。
 ただこの話はずっと僕の心の中に残り続けていた。