僕は君の事を忘れるけれど、ボクはキミの事を忘れない

「こはる。なんか死んだ魚のような目してるよ。大丈夫?」

 かけられた声に振り返ると、友人の美希がボクを見下ろしていた。
 ほとんど沈み込むようにして机の上につっぷしていたボクをどうやら心配してくれたようだ。

「なんかいろいろあって、疲れちゃってて」

 あまり深い内容を告げる訳にもいかなくて、ボクはため息と共に答える。

「よくわかんないけど、大変そうだ。じゃあさ、たまには気分転換にカラオケでもしない? 最近ぜんぜん一緒に遊びにいってないし」

 美希の言葉にボクは少し考える。
 確かに最近はつきあいが悪かったかもしれない。たけるくんのことで頭がいっぱいだったこともあるし、いろいろと絡まれていたりしたせいもある。
 いまのところあれ以上にからんできた子達に絡まれることはなかった。あのときにばれそうになってこりたのかもしれないし、そもそもあいつがボクに振られたってことは、完全にフリーになったということでもある。一時の感情で変に私にかまうよりかは、直接本人にアプローチした方がいいと思い直したのかもしれない。

 まぁこの間のことなのでまだわからないけれど、少なくとも今のところは問題はない。さすがにボクも警戒はして、一人にはならないようにしていることもあるかもしれない。
 そういう意味では美希のお誘いはありがたいともいえた。クラスが違うだけに何か仕掛けてくるとすれば放課後になる可能性は高い。その時に一人にならずに済むのは助かる。
 それに何よりもボクのことを気にかけてくれている事実が嬉しかった。美希とは今のクラスになってからの友達だけれども、今では何でも話せる友達だと思う。

「確かにそうだよね。たまにはいいかな」

 ささやかな笑みと共に答える。

「んじゃ決まりね。他に誰か誘う? 結衣とか、真琴とか。あー、でもあいつら部活あるからなぁ。急な誘いだと難しいか。んじゃ、誰誘うかな~。うーん、じゃあいっそ男子とか呼んじゃう?」

 笑いながら言う美希に、ボクも思わず笑みを返す。
 口では男子とか呼ぶとかいっているけれど、たぶんそうしようと答えたら動揺するのは美希の方だろう。彼女は口ではいろいろ言うものの、男子と話すと途端に緊張しているのはみてとれる。美希のそういう反応は見ていて可愛らしいとは思う。
 とはいえ実際に男子に来てもらっても困るし、たけるくん以外の男の子と仲良くしようとも思っていないので、そこは適当に断っておく。

「うーん。それなら美希と二人でいいよ。男の子は好きじゃないし」
「そう? でもそだね。じゃあたまには夫婦水入らずで過ごすとするか」
「いつからボク達夫婦になったの」
「それは出会った時からだぜ」

 美希はおかしそうに笑う。
 こういう美希の明るさは、いまのボクにはありがたかった。一人でいたら、悪い方向にばかりいろいろと考えてしまっていたかもしれない。

「んじゃ、放課後よろしくね」

 美希は手をふりながら自分の席に戻っていった。
 友人はありがたいな、と素直に思った。




 美希と二人街中をぶらぶらと歩いていた。
 ひさしぶりに友達と出歩くのはとても楽しくて、落ち込んでいた気持ちを癒やしてくれたと思う。
 たけるくんにとってボクはもう邪魔な存在になってしまったのかもしれない。いくらたけるくんがボクのことを好きだと思ってくれているからこそ、ボクのことを忘れてしまうのだとしても。たけるくんの負担になるのであれば、ボクはもう身を引くしかない。

 たけるくんを刺激しないように過ごしていこう。
 いつか病気が治ることがあれば、ボクのことを思い出してくれるかもしれない。
 あるいはボクよりも好きな何かが出来たのなら、ボクのことを思い出してくれるかもしれない。正直に言えば病気が治るよりも、そちらの方が可能性としては強いようにも思う。
 でももしもいちばん好きなものが、ボクのことでなくなるのだとしたら。それはボクよりも好きな人ということかもしれない。
 そうしたときにボクのことを好きになってくれるだろうか。
 心の中で問いかけるけれど、答えはおのずと理解していた。

 おそらくそれはないのだろう。
 大好きだという深層意識までが無くなった訳じゃないから一番好きなものを忘れる病気なわけで、もしも好きな人が他に出来たのであれば、ボクへの気持ちは薄れてしまうはずだ。
 それにもしもボクよりも好きな何かが出来たとして、それでボクへの気持ちを取り戻してくれたとして。それで本当にボクは満足出来るだろうか。
 たぶんそれもないと思う。

 ボクはたけるくんに一番を求める。一番好きでいてほしいと思う。
 そしてもしもそれが叶ったとしたら、ボクのことを再び忘れてしまうのだ。
 それでは意味がない。
 だからボクに出来ることはたけるくんに負担をかけないために、病気が治ることを祈ることだけ。何度となく繰り返してきたたけるくんへのアプローチは、たけるくんの心に負担をかけてきただけだった。
 それならばただ遠くから見守り続けるしかないのだろう。

「ほら。こはる。また額にしわがよってるよ。せっかくの可愛い顔が台無し」

 美希の言葉にボクは現実へと引き戻される。
 いつの間にかまたいろいろと考え出してしまっていた。いけないいけない。今は美希と一緒にいるのだから、美希と楽しむことを考えないと美希にも失礼だ。
 でも美希はそれ以上には何も言わない。たぶんボクの悩みの正体なんてお見通しなんだろう。美希はたけるくんのことも知っているし、何度か一緒に遊んだこともあるから、あえてそのことには触れないでくれてるのだろう。
 このときばかりは美希の優しさに甘えていようと思った。少しだけ気持ちが晴れるような気がしていた。

「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてた。えっと次はあっちのクレープ屋さんいこうよ。クレープたべた……」

 ボクはそこまで告げてクレープ屋の方へと向き直った瞬間、次の言葉を失っていた。
 驚きのあまり時間が止まったのかと思った。
 信じられなかった。あまりのことにボクの意識は一瞬固まって何も考えられなかった。

 そこにはもう会うことはないと思っていた元父親がたっていたから。
 一見するとどこにでもいそうなごく普通の風貌。優しそうにすら見える笑顔は、だけどボクにとっては恐怖の対象でしかなくて、強い感情を呼び起こしていた。
 かつての記憶がまざまざと思い浮かんでくる。

 ボクに触れた手の気持ち悪さ。ボクを殴った腹部に感じた痛み。
 それはボクの頭を止めてしまうには十分すぎて、ボクは何も考えられなくなっていた。
 なぜあいつがここにいるんだ。なんで。

 たけるくんを何度も殴っていた姿がボクの頭の中に再び現れていた。
 たけるくんを何度も何度も殴りつけた姿は、まるで別の世界の人間のようにも思えた。その記憶はボクの心を締め付けて捉える。
 恐れで体が震える。ここからまったく動けなくなっていた。

 心がそこにいる男を否定していた。
 なのにあいつはボクを見つけると、笑顔でボクの方へと近づいてくる。

「やぁ、こはる。今日は友達と遊んでいたのかな。楽しそうで何よりだね」

 優しそうに笑うあいつが、でもボクの心を引き裂いていく。
 なんで、なんでここにいるんだ。
「でも悪いけれど、お父さんはちょっと急ぎの用事があるんだ。少しつきあってくれないか」

 あいつはまるで本当に父であるかのように振る舞うと、美希の方へと向き直る。

「あれ、こはる。その人、こはるのお父さん? へー、優しそうなお父さんでいいね」

 何も知らない美希が見た目から受けた印象を口にしていた。
 優しい。こいつが。美希は何を言っているの。こいつはそんな奴じゃないんだ。
 心の中で思うものの、それがどうしても言葉にならなかった。ボクの口はまるで壊れてしまったかのように、声を漏らすことが出来なかった。

「こはるのお友達かい。仲良くしてくれてありがとね。この子はしっかりしていそうで、意外と抜けているところもあるから、気をつけてあげてくれると嬉しいよ」

 あいつはにこやかに笑いながら、やっぱりまるで父親のようなそぶりで告げる。
 もうお前は父親じゃない。何父親ぶった顔をしてるの。
 そう思うのだけど、やっぱり何も言うことができなかった。ただ驚きと恐怖だけが、ボクの心を破裂しそうになるほど満たしてふくれあがっていた。

「でも遊んでいるところ悪いけど、ちょっとこはるに急ぎの大事な用があるんだ。今日は遠慮してくれないかな?」
「え、そうなんですか。それなら仕方ないですね。わかりました。こはる、じゃまた明日ね」

 美希は完全にこの男がボクの父親なのだと思い込んでいるようだった。もともと男性が少し苦手だというのもあってか、さっさと離れてしまおうということだろう。
 だから疑いすらせずに、手を振って去って行く。
 まって。いかないで。ここにいて。ボクをひとりにしないで。助けて。
 強く思うのに、ボクの口から漏れたのは、言葉にはならないかすれた声だけだった。

「あ……あ……」

 絶望がボクの心の大半を占めていく。
 どうして。どうして。
 何に対してなのかもわからないけど、ただボクの心はそうつぶやいていた。

「会いたかったよ。こはる。元気にしていたかな」
「…………」

 親しげに語りかける男に、ボクは何も答えない。答えられなかった。
 ボクの体は張り付いたように動かない。
 だけどその瞬間。

「こはる。返事はちゃんとしなさい。私はいつもそう教えただろう」
「ひ……その…………はい」

 男の言葉にボクは無意識のうちに答える。
 こいつがかつてボクに、そしてたけるくんに振るった暴力の様子に、ボクの体が震えていた。ボクをおそった卑怯な振る舞いに、ボクの心が震えていた。
 怖い。それがボクの正直な気持ちだった。

「よろしい。実はね。いろいろあってしばらくこの街から離れていたけれど、最近戻ってきたんだ。それでこはるにまずは挨拶をしておこうと思ってね。キミは私の大切な娘だからね」

 何を言っているのだろう。ボクには何も理解できなかった。
 だけど突然のことにまだボクの心は混乱していて、何を言えばいいのかわからなかった。
 息が苦しい。息を吐き出すことができなかった。
 それでもかすれるような声で、ボクは何とか言葉を紡ぎ出していた。

「お……おかあさんと、あなたは……もう離婚したから……。もうボクは……あなたの……娘じゃない」

 絞り出すような声で、それでも何とか思ったことを言えた。
 それと共に大きく息を吐き出す。もはや呼吸すらまともに出来ていなかった。
 だけどそんなボクの様子に気がついているのかいないのか、こいつは何とも言えない嫌らしい笑みを浮かべたまま、ボクが思ってもいない話を始めていた。

「ふむ。確かにキミのお母さんとは離婚をすることになった。だがね。キミは結婚した時に私の養女になっているが、養女縁組は解除していない。だからキミはまだ私の娘のままなのだよ」
「……え?」

 こいつの言う言葉は心では理解できなかった。何を言っているのかわからなかった。
 ボクが? まだ? 娘のまま? そんな馬鹿な。そんなことあるわけない。
 必死でこいつの言葉を否定しようとしている自分がいた。しかしそんなことはお構いなしに、こいつはボクをみて満足そうにうなづく。

「だから私はまだキミに話をする権利もあるし、義務もある。だから私は父親として、キミと話をする必要がある」

 こいつの言葉が理解できなかった。まだこいつと関係を持たなければいけないのだろうか。こいつは父親なんかじゃない。だけど法律はまだこいつを父親だとして認めているのだろうか。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌なのに。避けられないのだろうか。
 どうして。どうしたらいい。どうすれば。

「い……いや……」

 なんとか絞り出した声。ほとんどかすれてしまっていた。
 それでもこいつはボクをみて、嬉しそうに笑う。

「嫌だといっても、キミは私の娘だ。それは逃れられない。法がそう決めているのだからね」

 こいつは嫌らしい目でボクを上から下までなめるように眺めていた。
 蛇のようにねっとりと絡みつく視線が、ボクの体を震え上がらせる。
 こいつはボクが自分のものだと思い込んでいる。ボクを好き勝手していいと考えている。こいつのはりつくような目から、はっきりと感じられていた。
 胸の中で心臓が激しく音を立てていた。警告を発していた。
 その音はボクの世界を大きく崩れていくのを告げているかのようで、目の前が真っ暗になって消えていこうとしている。

「さぁ、お父さんと一緒に……」

 こいつはボクの手をつかもうとして、しかし次の瞬間。
 何かに気がついたようで、ボクの手をつかむのをやめていた。

「……今日のところは挨拶だけにしておくよ。でも忘れちゃいけないよ。キミは私の娘だ。私からは逃れられないよ」

 それだけ言うとすぐにきびすを返して、こいつは慌てて雑踏の中へと消えていった。
 助かった? ボクは何が起きたかもわからなかったけれど、大きく息を吐き出す。
 そして次の瞬間。
 たけるくんがボクの隣を通り過ぎていた。

 それでボクはどうしてあいつが急にどこかにいきだしたのか、やっと気がついていた。あいつはたけるくんに気がついて、また前と同じようになることを恐れて逃げ出したんだ。
 もしたけるくんが大声を出したりすれば、絶対に騒ぎになるだろう。ここは家とは違って人通りが多い。そうすれば目的を果たせなくなると、たけるくんに気がつかれる前にここを去って行ったんだ。

 あいつはたけるくんが病気にかかっていることは知らない。たけるくんがボクのことを覚えていないことも。だからたぶんボクに気がつかないことはわからなかった。
 ああ。ああ。たけるくんは、ボクのことを忘れていても。ボクのことを知らなくても。いつだってボクを助けてくれる。
 たけるくんはやっぱりボクにとってのヒーローだよ。

 ボクの気持ちはどんどんキミのことばかり考えているよ。
 キミが好きだ。大好きだよ。
 ボクのことを忘れていても、知らなくても。
 ボクには、キミしかない。
 ボクはキミが好きなんだ。

 でも。

 ボクは息を飲み込む。今日はこうしてたけるくんがボクを助けてくれた。
 でもこれからずっとたけるくんにそばにいてもらう訳にはいかない。
 ボクはどうすればいいんだろう。出来るだけあいつの目につかないようにしなくちゃ。
 それにしてもあいつが言っていたことは本当なのだろうか。お母さんはあまり法律だのなんだのに詳しい人じゃない。離婚の時もいろいろともめたのは知っている。

 最終的にあいつは執行猶予になっただか何からしくて、刑務所にはいかなかったけれど、どこか遠い場所に引っ越していったはずだった。ただボクはあいつの話をきくのが辛くて、あまり細かいことは聴いていなかった。もう関係ない相手だと思っていたから、それでいいはずだった。
 でも今になってこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
 今にして思えばお母さんが法律手続きなどにうといことを知っていて、わざと離縁した際にボクとの関係を絶たないようにしたのかもしれない。そうしてほとぼりがさめたころにボクのもとに現れたのかもしれない。
 ボクをいつも助けてくれたのはたけるくんだった。

 今日も知らないうちにボクを助けてくれた。
 でももうボクはたけるくんを頼れない。たけるくんの心をこれ以上にかき乱してはいけないんだ。

 ならボクは。
 どうしたらいいのだろう。
 お母さんとは話が出来ない時間が続いている。お母さんに言うべきだろうか。
 でもお母さんだって、ボクのことで心を痛めているんだ。これ以上にボクのことでわずらわせてはいけないと思う。

 だからボクはひとりで戦うしかない。
 でもボクは、あいつに立ち向かえるのだろうか。
 ボクの体はただ震えていた。
 数日が過ぎた。
 たけるくんとはあれ以来話せていない。たけるくんへ負担をかけたくないから、たける君の前には現れていない。でもこんな話、他の誰にも出来ない。
 お母さんに話すべきかも迷っていた。でもあれからお母さんとは顔を合わせていないし、お母さんともこれ以上に溝を作りたくない。
 だからボクは何も出来なかった。ただどうしたらいいかわからなくて、ふらふらと心をさまよわせるだけだ。

 なかば抜け殻のようになっていたけれど、それでも学校では普通に過ごしていた。普通のふりをしていた。
 幸いあれ以後にあいつとも出会うことはなかったし、ボクにからんできた彼女らからの反応も他には特になかった。
 ある意味では平穏な日々を過ごしていたが、だけどボクの心はずっと安まる時はなかった。

 放課後。どうすべきかもわからず、ボクは無駄に教室に残っていた。
 ため息をひとつもらす。どこにも行きたくなかった。でもどこかに消えてしまいたかった。
 何をしたらいいのかもわからなくて、ただボクはここにいることしか出来なかった。

「よう」

 その声は不意にボクの元に届いた。
 顔を上げると、いつのまにボクの隣に野球部のエースのあいつが立っていた。

「ボクに何か用?」

 思わずつっけんどんに返してしまってから、そういえばこの間のことを謝るのを忘れていたなと思う。さすがにちょっと言い過ぎだったとは思っていた。
 だからこそ彼女らがボクにからんできたんだろうし、反省はしている。でもボクのことはともかく、たけるくんのことを悪く言ってもらいたくはなかった。
 そんなボクの思いがつい態度に出てしまっていた。

「そんなに警戒するなって。今日はちょっとお前に謝ろうと思ってさ」
「……うん?」

 思わぬ彼の言葉に、ボクは頭の上にはてなマークが浮かんでいた。
 正直彼のことは言い寄られるのは面倒だなとは思っていたけれど、謝られるようなことをされた覚えもない。強いて言うならたけるくんのことを少し悪く言われたことくらいだろう。でもそれはあくまでボクの主観によるもので、彼からしてみれば事実を告げていくそう見えるのは仕方ないことだとも思う。
 だから彼から謝られるようなことは何もないはずだった。

「話に聴いたんだけど、俺のファンがお前を校舎裏に呼び出して、何か意地悪をしようとしていたんだってな。すまなかった。まさかそんなことになるだなんて思っていなかった」

 彼は深々と頭を下げていた。
 思わぬ展開にボクはどうしたらいいものか困惑していた。
 確かに彼のファンから呼び出されて、いじめられたのは確かだ。でもたけるくんがボクを助けてくれたし、それに悪いのはあくまで彼女達であって、彼が何かした訳ではない。
 そもそもボクが彼に口悪くののしってしまったからこそ、あんな事態になった訳で彼が謝るのは筋違いだと思う。

「いや、それはキミが悪い訳じゃないし。そもそもボクが言い過ぎてしまったせいでもあるから。むしろキミがボクのことを心配してくれていたのはわかっていた。だから言い過ぎたと思って謝ろうと思っていたんだ。ボクこそ悪かったよ」

 ボクも彼と同じように頭を下げる。
 自分のことでないにもかかわらず、自分に原因があると思って謝ってくれるというのは、やっぱり彼は少し口調は荒いけれど本当はいいやつなんだろう。

「たけるが助けてくれたんだってな。ちょうどみてたやつがいてさ。話を聞いたんだ。あいつは記憶を失っているっていうのに、ちゃんとお前のピンチに駆けつけて助けてやっていた。それにひきかえ、俺はお前を傷つける原因を作ってしまっていた。これは負けたなって。思ったんだ」

 彼はどこか悔しそうな、でもそれでいてスポーツマンらしいさわやかな顔をしてボクをじっと見つめていた。

「なんであんな奴を好きなんだよって、正直に言えば思っていた。俺が負けているところなんて一つもないってうぬぼれてた。でも、違った。お前が好きになるだけの理由がちゃんとあったんだなって。好きな子をちゃんと守ってやれる。そんなすごい奴だったんだなって、そう思った。あいつのことを悪く言って悪かった」

 もういちど頭を下げる。
 やっぱり彼は根はいい奴なんだろう。なんでボクのことを好きになったのかはわからないけれど、こんな風に素直に謝れて、自分の非を認められる。そんなことが出来るのは、いい奴に違いない。
 だからボクが彼のことを好きになれれば、何もかも丸く収まっていたのかもしれない。

 でもボクはやっぱりたけるくんが好きなんだ。
 昨日のピンチもたけるくんはボクを助けにきてくれた。いや、実際にはそこにいただけでたけるくんはボクを助けようだなんて思ってはいなかったと思う。
 それでもその場にいてくれた。ボクを助けてくれた。たけるくんはボクのヒーローなんだ。ボクにはやっぱりたけるくんしかいない。
 だから。だからこそ、ボクは思わず涙をこぼしていた。

「あ、え……!? ど、どうしたんだよ。ごめん。俺が何か変なことをいったか?」

 彼はボクの突然の涙に困惑していただろうと思う。
 でもボクはいちどこぼれてしまった涙を止める事も出来ずに、ただ泣き続けることしか出来なかった。
 ボクにとってはたけるくんは救いだった。大好きな人だ。
 でも今のたけるくんにとって、ボクは邪魔にしかならない。たけるくんの心を乱してしまう原因でしかないんだ。
 ボクはたけるくんの近くにいてはいけない。たけるくんを傷つけてしまう。たけるくんの心を乱してしまう。
 それが悲しくて悔しくて。でも何とか抑え続けていた気持ちは、いまの彼の言葉で堤防が壊れてしまった。
 ボクのことを好きになってくれた人が、ボクが好きな人のことを認めてくれた。
 だけどボクは好きな人と一緒にいることは出来ない。
 それがずっと抑え続けていた気持ちを壊してしまった。
 いちどこうなると、もう感情が溢れてきて止まらなかった。

「違う……違うんだよ……。ごめん。ごめんね。キミのせいじゃないんだ。ボクはボクは。だって」

 気持ちがあふれてしまって言葉にならない。
 彼は何も言わずにそのままボクの隣にたっていた。
 本当は部活もあるはずだから、ボクのせいでサボらせてしまった。
 彼に気持ちを返せる訳でもないのに。

 ボクはどれだけ自分勝手なのだろう。
 だけどそれでもボクは泣き続けていた。
 たけるくんの病気のこと。いじめにあいそうになったこと。彼がボクのことを好きになってくれたこと。
 そして『あいつ』が再びボクの前に現れたこと。

 それらがすべて波のようになって、ボクを押し流していく。
 だからその気持ちがすべて流れてしまうまで、ボクはただ泣き続けることしか出来なかった。
 それからどれくらいの時間がたったのだろう。
 外は日が沈んできていた。あかね色の空が、教室の中に西日を差し込んでくる。
 やっと気持ちは落ち着きを取り戻してきて、ボクは涙をぬぐう。

「ごめんね。キミのせいじゃないんだ。でもいろいろと気持ちが抑えきれなくなってしまって」

 ボクは彼に向けて頭を下げる。
 彼の顔を見ることも出来なかった。自分のことを好きだといってくれた相手に気持ちを返すこともできないのに、ただ自分の感情をぶつけてしまって、申し訳がないと強く思う。
「なぁ。何があったのかわからないけど、話だけでも聞かせてくれないか。何か力になれるかもしれないしさ」

 彼はいつもよりも優しい声で告げる。
 ああ、いつもの様子はボクが素っ気ない態度ばかりをとっているせいで言葉が荒くなってしまっただけで、本当はこれが彼の素なのかもしれない。
 こんな風に優しくされたら、気持ちが揺れてしまう子も多いだろうと思う。
 だからこそ、ボクは彼に頼る訳にはいかない。

「ごめん。悪いけど何も話せることはないよ」

 ボクは頭を振るう。
 目の前で泣いておいて、この態度はひどいことをしているなとは思う。だけど彼はボクのことを好きだといってくれているのだから、変に期待を持たせるようなことをしてはいけないとも思う。
 だから彼の優しさに甘える訳にもいないんだ。
 そう思うボクに、だけど彼はもういちど笑いかける。

「たけるのことだろ?」
「え……」

 問いかけにボクは言葉を失っていた。
 もちろんわかりやすくはあっただろうとは思う。ボクがたけるくんと一緒にいるために、いろいろしていたのはたぶん彼も知っているはずだ。でもだからこそ、そんなことを言われるとも思っていなかった。

「俺はさ、もうお前のことは諦めたよ。あいつには勝てないって。あいつならお前を任せられるって。そう思っている。でも好きな気持ちが綺麗さっぱり無くなった訳でもない。やっぱり目の前で好きな子が泣いているのに放ってはおけないんだ。だからさ、あいつがお前のことを思い出すための手助けがしたいと思っている」

 彼は少し照れたような表情でそう告げていた。
 まさかそんなことを言われるとは思ってはいなかったから、考えがまとまらない。何と答えていいのだかわからなかった。
 ボクのことを本当に考えてくれているんだと思って、とても嬉しく感じていた。ただこれを受け入れていいものだろうか。
 ボクは気持ちを返せないのに、ボクのことを好きだといってくれる人の好意に甘えるのは卑怯な気がする。だけどボクが近づくことが、たけるくんの心を不安定にさせるのであればボクにとれる手はもうあまり多くない。彼が手助けしてくれるのであれば、できることは増えるだろう。
 だとすれば受け入れるべきなのだろうか。でもボクは人の気持ちを利用するようなことはしたくなかった。
 だけどためらうボクに、彼はゆっくりとこう告げていた。

「これはさ。お前のためでもあるけど、たけるのためでもあるんだ。あいつはお前のことが一番に好きだから忘れてしまうんだろ。一番好きな人のことを覚えていられないなんて、悲しいじゃないか。俺はさ、正直あいつに嫉妬していたんだ。でも記憶がなくても好きな人のことを助けたのってさ、きっと偶然じゃない。たぶん意識しなくても、深層心理でどこかで見ていたんだと思う。だから救えたんだと思う。そんなあいつにさ、もういちど好きな相手とつながって欲しいんだよ」

 彼の言葉にボクは何も言えなかった。
 でも彼が本当にボクとたけるくんを救いたい、助けになりたいんだって思ってくれていることは伝わってくる。
 そこまで言ってくれるのなら、そしてボクだけのためでないのなら。彼の力を借りてもいいのかもしれない。
 ボクは心を決めていた。
 そしてそれとともに彼に告げなければならないことがある。正直言っていいのかわからないけれど、助けを借りるのであれば言わなければならない。
 ボクは意を決して、彼にたずねる。

「ありがとう。そう言ってくれるなら、ボクに手を貸して欲しい。でも、ごめん。悪いんだけど教えて欲しい。キミの名前ってなんだっけ」

 正直こいつ、とか、あいつ、とか言っていたけど。ボクは彼の名前を覚えていない。
 野球部のエースだということは知っていたんだけど、興味がなかったから名前は覚えていなかった。
 こんなこといったら気分を悪くするかなと思って、彼の顔を上目づかいで覗いてみる。
 しかし彼は最初はぽかんとした顔を浮かべていたけれど、すぐに大きな声で笑い始めていた。

「そうか。お前、俺の名前も知らなかったのか。確かに名乗ったことはなかったけど、そりゃ、いくら言い寄ってもなびかない訳だよな。俺は武田。武田祐二だよ」

 武田と名乗った彼は何がそんなにおかしかったのか、お腹を押さえがら笑っていた。
 たぶん彼は自分が学内の有名人であることはわかっていて、だから当然知っていると思って名乗らなかったのだろう。
 プロから誘いがあるとか、ないとかで。ボクもどこかでは名前を聞いたことはある。それに何回か表彰されているところを見たこともあった。ただ興味がないから全く覚えていなかった。

「そうか。名前も知らないんだもんな。そりゃ俺があいつに勝てないのも当然だよ」

 正直失礼なことを言った自覚はある。でも彼はなぜかむしろ楽しそうに笑っていた。
 ただ何となくこれで一つの形はついたのかもしれない。
 彼、武田くんは今こそたぶん本当にボクのことは諦めてくれたのだろう。そしてたけるくんにボクのことを取り戻してくれるための協力をしてくれるのだろう。それは確かに感じていた。

 武田くんとこんな風な関係になるだなんてことは、一度も考えたことがなかった。
 でもそんな事態が起きるのなら、たとえ奇跡だと言われようが、たけるくんの病気を治すことだって出来るのかもしれない。
 ボクは心の中に誓っていた。絶対にたけるくんを取り戻すんだって。
 ひとつの懸念が消えて、そして前向きな気持ちを取り戻していた。
 なんとなく何もかもうまくいく。そんな気すらしていた。

 後にして思えば、ボクは無意識のうちにそうしてしまっていたのだろう。
 だからこのとき、ボクはすっかり忘れていた。
 あいつがこの街に戻ってきているということを――



 『僕』はいつも通り学校に通っていた。
 いつもと変わらない毎日。特にこれということもない日々。何も起きることのない平穏な暮らし。
 病気のせいでサッカーが出来なくなってから、つまらない生活が続いていると思う。
 彼女がいる訳でもなかったから、癒やしのない生活をしている。
 クラスの女子と話すことくらいならあるけど、はっきりと親しいといえるような女子はいない。嫌われてはいないと思うけども、特に好かれてもいないとは思う。

「はー。つまんないな。なんか面白いことないかな」

 僕はため息をもらすと、教室の中で背伸びをしてみせる。
 それを見ていた学が、僕の方へと向き直る。

「なら俺とゲームでもするか?」
「ゲーム。ゲームねぇ……。まぁ悪くはないけど、もうちょっとなんか違うものないかね」

 何となく気がのらず、僕は机の上につっぷしていた。ゲームは嫌いじゃないけれど、今はそんな気分でもなかった。そもそも今からゲームを始めたところで、昼休みもすぐに終わってしまうだろう。

「なんか面白い話でもないか?」

 学に向かって、期待を込めた目を向けてみる。
 無茶ぶりにもほどがあるが、学ならきっと答えてくれる。そう信じてみる。
 いや、まぁ実際のところ学に話をさせると訳のわからない妄想が返ってくると思われるのだが、今のつまらなさから解放されるのであればそれも良いかなとは思う。

「ふむ。面白い話な。それじゃあひとつ俺が知っている話をしよう」

 学はなにやら思案した顔を見せると、口元になんだかいたずらな笑みを浮かべている。
 早まったかなと思うものの、それでもこちらからふった訳だしと思いながら、学の話をじっと待ち続ける。

「あるところに記憶を失った男がいたんだ。だけどそいつは記憶を失ったことすら忘れているから、忘れていることにすら気がついていないんだ」

 突然始まった話は、想像していたのとは違う方向の話だった。
 ただ何となくどこかで聴いたことがあるような気もする。まんがか何かで見た話だろうか。

「だからそいつは毎日普通に暮らしていたんだが、ある時に不意に目の前に可愛い女の子がやってきて、好きだと言ってくるんだ」
「お。いいな。僕も可愛い女の子と出会いたいな」

 思わず告げた言葉に、何となく学の目が細く狭まる。

「でもそいつはその子のことを何も知らないから、毎日避けるように暮らしていたんだ」
「なんだ。贅沢なやつだな。可愛い女の子と知り合えて、何が不満なんだ」
「まぁ、本人の立場になってみれば、今までもてなかったのに急に女の子に言い寄られたら、裏があるんじゃないかと思うんだろうな」
「なるほど」

 ありそうな話だ。正直僕がその立場になっても、突然のことに罰ゲームか何かじゃないかと疑ってしまう気がする。

「でも女の子はそれでも諦めずに、そいつの前に現れては気持ちを伝え続けた。いつしかそいつの周りもその子がいることが当たり前のようになっていったんだ。そうしてとうとうそいつもその子を受け入れて、つきあい始める」
「おお。うまくいったんだ。良かったな。そいつは騙されているとかじゃないよな」

 うそとかじゃないのだったら、ハッピーエンドだろう。二人が幸せになったのだったら、それに越したことは無いだろう。

「だがそれは悲劇の始まりだったんだ」

 学がもったいぶってつげる。学の妄想ではあるものの、思ったよりも興味をひく話だった。やっぱり僕達くらいの年齢だと、恋愛話は気になるというものだろう。

「なんだと。実はすごいヤンデレだったとかか? 浮気した男を滅多刺ししたとか」
「いやいや。そういうのじゃない。女の子は変わらず可愛く優しい子だったさ。悲劇は男の方から始まったんだ。なんとそいつは好きになった人のことを忘れてしまう病気にかかっていたんだ」
「なんだ、それ」

 学の言葉に、思わず口を挟む。
 それはあんまりな病気じゃないだろうか。誰かを好きになったのに忘れてしまうだなんて、あまりにも悲しすぎる。
 学の言葉に納得出来なくて眉を寄せていた。

「悲しいよな」

 学は淡々と告げるが、僕はその声に何かえもしれない感情が強く胸の中でうずきはじめていた。
 好きな人のことを忘れてしまう。それは悲しいことだと思う。
 ただ僕には特に好きな人はいない。だから自分がそんな病気にかかったとしても、今は何も起きない。起きないはずだ。
 だけどそう思うと共に、胸がずきずきと痛む。
 なんだか何かを見落としているような気がする。何かが心の中にじわじわと迫ってくる。
 喉の奥に何かがつまったかのような、強烈な違和感を覚える。

「そのあとどうなったんだ?」

 この先の未来に何が待っているのか。微かに期待をこめて訊ねるが、学は首を振るう。

「そのままさ。もしかしたら繰り返させる事態に彼女も諦めてしまったのかもしれないな」
「そうか」

 何となくその答えに落ち込んでしまう。何か幸せな未来が待っているんじゃないかと想像してしまっていた。悲しい結末に悲しくしてしまった。
 でもどうして僕はこんな話に感情移入してしまったのだろうか。所詮は学の与太話だ。自分と関わりがあるわけでもなければ、知った人物の話でもない。気にするような話でもないはずだ。

「でも。俺はさ、信じているんだ。きっとそいつは思い出すはずだって。だって物語なら愛と正義が勝つものだろう」

 学があまりにも真面目な顔をして言うものだから、なんだかおかしくなってしまい笑みをこぼす。

「そうか。そうかもな。そうだといいな」

 僕も学の言葉を信じたくなった。
 あくまで学のしてくれた面白い話に過ぎないけれど、幸せな結末が来てくれるのが楽しみになった。
 きっとそいつは大好きな人のことを絶対に思い出すはずだと。必ず何かあるはずだと。何となく信じられた。

 この話がどうしてこんなに気になったのかはわからない。そもそも学の作り話に過ぎないし、面白い話といったものの、考えてみるとさほど面白い話でもない。
 ただなぜか心の中に染みいるような、そんな気持ちを感じさせていた。
 もし自分にそんなことが起きたのであれば、きっと悲しくて、辛くて。でもきっと奇跡を信じていくのではないかと思った。

 何となく自分と重ね合わせてしまう。
 もしかしたら僕も何かを忘れてしまっているのかもしれない。そんなことを思わせるくらい、それがまさに起きている話のようにも感じていた。
 いやいや、いま聴いた話と自分を重ね合わせてしまうだなんて、おかしなことだ。ありえない。声には出さずにつぶやく。
 ただこの話はずっと僕の心の中に残り続けていた。
 放課後になっても、僕の心の中には何かもやもやとしたものが残り続けていた。
 どうして学の話がそんなにも気にかかるのかわからないまま、僕はぼんやりと教室の外を見ている。すでにクラスメイトのほとんどは帰宅しているか、あるいは部活にいっていて、教室には他に二人残っているだけだ。

 なんとなく窓から中庭の方を見つめてみる。
 特に誰も人はいない。だけどそこで何かがあったような気がする。大切な何かが、大切なものがあったような気がする。
 大切なものって何だろう。僕にとってはサッカーだろうか。でもサッカーをするなら中庭ではないだろう。それにサッカーはもう出来ない。病気で止められている。

 体には特に影響はない。ないと思う。走ったからって、ひどい息切れがするなんてこともないし、ボールを蹴っていたら足が痛むようなこともない。
 じゃあなんで僕はサッカーが出来ないんだろう。サッカーが好きなのに。ボールを蹴る楽しみは他に勝るものはないのに。
 そこまで考えてから、本当にそうだっただろうかと頭の中に何かがひっかかっていた。

 何かもう少し大切なものがあったような気がする。それは中庭でみた何かとも関係がしている。そんな気がしていた。
 そう。僕は忘れている。何かを忘れている。でもそれが何なのかわからない。僕は何を忘れているんだろう。
 デジャブみたいな奴だろうか。かつて何かどこかで見たことがあるような気がする現象。学の話に影響されてしまって、何かを忘れている気がしているだけかもしれない。
 でももし学の言っている話が自分に関係するのだとしたら、諦めずに何度も僕のもとにきていた女の子は今はどこにいるのだろう。もう諦めてしまったのか。それまで何度もきていたというのに、いま僕のそばにいないというのもおかしいだろう。
 ただこの退屈な気持ちが、自分の中でありもしない現象を作り出している。それだけのことだろう。だっていまここにその子はいないのだから。

 僕にとって一番大切なものはサッカーで、それ以上のものは何もないはず。見たこともない女の子なんかじゃないはずだ。サッカーが出来ないから、退屈に思っている。それだけだと思う。
 なのにかつてほどサッカーに胸が躍らないような気がするのはなぜだろう。病気で出来なくなってしまったからだろうか。
 いや、よく考えるとそもそも僕は何の病気なんだ。ストレス性適応障害。曖昧な病名は、僕をはぐらかしているだけのような気もしていた。
 もしかしたら僕が抱えている病気は、学がいうように一番好きな人のことを忘れてしまう病気なのか。そこまで考えて僕は首を振るう。いやいや、それはおかしい。もしそうなのだとしたら、いま僕がサッカーが出来ない理由にはならない。好きな人を忘れてしまったとしても、サッカーが出来る出来ないには関係ないだろう。医者に止められている理由にはならない。

 冷静に考えてみれば自分のことではないはず。学のいつもの妄想話のはずだ。
 でもなぜだかそれが他人事のようには思えなかった。
 自分の中に何かがある。僕が知らない何かが、どこかでうごめいている。
 僕は何かをつかもうとしている。何かを知ろうとしている。もう少し手を伸ばせば届くはずだと、よくわからない感情が僕を突き動かしていた。

 僕は知らなければいけない。知る必要がある。
 何かを忘れてしまっているのなら、その何かを思い出さなきゃいけない。
 思い出せ。思い出すんだ。僕は思い出さなきゃいけない。
 不思議な熱情にかられて、僕は鞄をもって廊下へと向かっていた。
 外から帰宅する人達の姿が見える。いつもの風景だ。

 でもそこに何かが足りないような気がしていた。何が足りないのかもわからない。
 何かをしなければいけない。不安と焦燥が僕の中を駆け回っていた。本当に何かを忘れているかなんてわからないのに、僕の中ではいつの間にかそれが確定した事実のように感じられていた。
 頭の中で何かが揺れる。ズキズキと側頭部が痛む。
 思わず手を当てるが、痛みはひくことはない。もう少し。もう少しで手が届きそうなのに、届かない。僕の記憶には蓋がされたままだ。
 そのせいか痛みをこらえながらも、僕はふらふらと歩き出していた。

 気がつくと病院のそばの公園にやってきていた。今日は病院の日ではないのに、どうしてこんなところに来てしまったのだろうか。無意識のうちに先生に話をききたいと思っていたのだろうか。
 でも今日は先生は休診だったと思う。だから話を聞くわけにもいかない。
 ふと見るとサッカーボールが落ちていた。この公園にはよくサッカーボールが落ちている。誰かが忘れていくのか、それとも近所の子達が遊ぶために、もうずっと置きっ放しにしているのかはわからなかった。でも何となく落ち着かなくて、僕はボールを蹴り上げて軽くリフティングを始めていた。

 一回、二回、三回と繰り返すうちに、少しずつ心が落ち着いていく。
 やっぱりサッカーが好きだと思う。もう僕はサッカーが出来る。体には何も問題はない。休んでいる間には練習はしていなかったから、感覚は少し衰えたかもしれない。それでも体に染みついた技術は、そう簡単に忘れられるものでもない。
 サッカー部に戻りたいな。ふと思う。
 いや。馬鹿なことを考えている。サッカー部に戻れるはずもない。病気とはいえ、何回も迷惑をかけているんだ。戻れるわけ……。
 いや僕は何の迷惑をかけたんだ。そもそもどうして僕はサッカー部をやめたんだ。
 病気のため。それはわかっている。でも具体的に何があって、何をしたのだっけ。記憶が曖昧だった。でも何もなければ部活をやめるはずもない。
 やっぱり僕は何かを忘れている。何かを忘れている。もしかしたらそれはサッカーのことだったのだろうか。
 ただ何もわからないまま、リフティングを続けていた。

 特に邪魔が入らなければ、十回や二十回は軽い。百にも二百でもやれば続けられるだろう。でもこの間は確か邪魔が入ったんだよな。ふと思う。
 ただその感じたことに愕然として、僕はボールを落としていた。
 邪魔ってなんだ。誰に邪魔されたんだ。
 そうだ。確か後ろからすっと足が伸びてきて、ボールを奪い取られた。そして同時にふわりと紺色のスカートが舞って、長い髪が後からついてきていた。
 木々の間から差す木漏れ日が、彼女をきらきらと彩っていた。
 綺麗だと思った。
 そんな幻が僕の前に現れて消えていた。
 今のはいったい何だったんだ。
 僕はいま見えた景色に、頭の中が混乱してわからなかった。
 僕の妄想なのか。いや妄想にしては、はっきりと姿を見て取れた。確かに彼女はそこにいたんだ。

 僕の知らない少女。いや、本当に知らないのか。もしかして今の幻の中の彼女こそが、僕が忘れている大好きな彼女なのか。
 いやもしかしたら僕が妄想の中で作り出してしまったのかもしれない。
 学の話に影響されて、学と同じように何かを生み出してしまったのかもしれない。
 ボールはそのまま地面を転がっていく。まだ暖かな日差しは、僕とボールを照らしていた。
 春のぬくもりのせいだったのだろうか。僕が見た幻は、あまりにもはっきりとしていて、確かにそこにいたことを感じさせる。

 僕は彼女のことを知らない。だけどもしかしたら僕は彼女のことを知っているのだろうか。彼女こそが学の言う面白い話の忘れてしまった少女のことだったのだろうか。
 いやありえないだろう。忘れているなんて。忘れてしまっているだなんて。
 僕が学に影響されて作り出してしまった幻想の少女なのだろう。
 ここにいることが、なぜだか辛く感じて僕はまた再びふらふらと歩き出していた。
 気がつくと繁華街の方にきていた。
 この辺りは駅も近いので、帰宅中の学生達の姿も見える。たぶんこのくらいの時間に帰っている人達は部活帰りだろう。すでにもう日も沈んでいる。
 誰かとすれ違うたびに、幻でみたあの子かもしれないとつい目で追いかけてしまう。

 もし彼女が本当にいるのだとしても、こうしてすれ違うとは限らない。ましてや実在すら疑われる人物の影を探して歩くなんて、何をやっているのだろうと思う。
 学の言葉を信じれば、好きな人のことを忘れてしまう病気だということだ。もし僕が張本人なのだとすれば、僕は彼女のことを好きだということになる。

 でも正直に言えばそんな気持ちは全く浮かんでこない。
 ただボールを奪われた時の驚きだけが、僕の中に残っていた。大好きなサッカーとからんでいたからだろうか。ボールをうまく扱う彼女の姿だけが僕の脳裏にはっきりと思い浮かべられた。
 好きではない。でも何か彼女のことが気にかかって仕方なかった。素人にしてはボール扱いのうまい彼女。僕からボールを奪った彼女。なぜか気にかかって、あたりを気にしていた。

 そして気がつくと、僕の目線は通りのむこう側で長い髪が風に揺れるのを目にしていた。
 まさか、本当に!? 思わず胸が高鳴るのを感じていた。慌てて僕はその後ろ姿を追いかける。
 幻想の中でみた彼女だ。本当に実在したのか。僕の妄想の中だけに存在した訳では無かったのか。
 僕は彼女のことを知っているのか。彼女は僕のことを知っているのか。

 わからない。わからないけれど、彼女に話しかけるべきだろうか。いやだとしてもなんと話せばいい。本当に彼女が僕のことを知っているかなんてわからない。やっぱり僕が作りあげた妄想の中なのかもしれない。
 とても可愛らしい子だったと思う。だからもしかしたら学校で見かけた彼女を無意識のうちに登場させただけかもしれない。むしろそう考える方が自然だと思う。

 だけどそうではないかもしれない。あれは本当にあったことで、僕が忘れてしまっているだけなのかもしれない。学が話した面白い話は、僕にそのことを気がつかせようとして話していたのかもしれない。
 わからない。わからなかった。
 思い切って声をかけてみれば、はっきりするだろうか。
 変な奴と思われるかもしれない。ナンパと勘違いされるかもしれない。でも話さなければ僕の中にうずまく不安は解決できそうにない。
 だから僕は彼女へと駆け寄って。いや、駆け寄ろうとして歩みを止めていた。

 彼女の隣に背の高い男の姿が見えた。あれはたぶん野球部の武田だと思う。確か女の子に人気でファンクラブみたいなのがあるとかないとか噂されるイケメンだ。
 二人はなにやら楽しそうに会話を続けている。
 その姿を見て、僕は思わず肩を落とす。
 ああ、そうだよな。もしもあの子が僕の好きだった子だとしても、僕は彼女のことを忘れてしまっているんだ。今は特別な感情は持ち合わせていない。

 あんな可愛い子が僕のことを好きになるなんていうのもそもそもおかしいけど、もし本当にそうだったとしても、僕が忘れてしまっているのに、いつまでも好きなままでいてくれると思う方がおかしい。あれだけ可愛い子なら、他の人が放っておかないだろう。
 武田はさわやかなイケメンだし、ちょっと鼻につく部分もあるけど、案外いい奴だ。僕とあいつのどちらがあの子に釣り合うかと言われれば、圧倒的に武田の方だろう。

 そもそも僕が見た妄想は、本当にあったことかどうかも疑わしい。クラスも違うはずだし、話しかけたら「誰?」と言われてもおかしくはない。
 何を一人で盛り上がっていたのだろう。
 彼氏と一緒にいるところに、下手な話をする訳にもいかない。余計なもめ事を引き起こすだけだ。
 もしも僕が本当に彼女のことを忘れてしまっているのだとして。それを今更思い出す必要なんてないのかもしれない。

 僕はその場に立ち尽くしていた。
 姿が遠くなっていく彼女を見送って、それから僕はきびすをかえして、家への帰路を歩き出していた。
「ただいま」

 家に戻るなり、荷物を部屋に放り投げる。
 それからベッドの上へと倒れこむようにして寝転んでいた。
 なぜかものすごく気分が落ちていた。もやもやした気持ちが晴れずにいる。それは彼女に新しい彼氏がいたからなのだろうか。
 そもそも僕は本当に好きな人のことを忘れる病気なのだろうか。先生に聞いてみるべきだろうか。そこまで考えて、ふと思いつく。いや、そもそも僕が本当に病気なのだとしたら、先生じゃなくても知っている人はいるはずだ。
 僕は思い立って立ち上がる。
 隣の部屋をノックすると、返事もきかずに扉を開ける。

「あ、もう。お兄ちゃん。ノックするのはいいけど、ちゃんと返事してからドアをあけてよね」

 すぐに妹のかなみの声が響く。勉強をしていたのか、机に向かっていたようだ。

「別にいいだろ。家族なんだし」
「ま、いいけど。それで何。どうしたの?」

 かなみは珍しく僕が部屋にきたことに訝しんでいるようだった。確かにかなみの方から僕の部屋にくることは多いけれど、僕がかなみの部屋にいくことはあまりない。

「ちょっとききたいことがあるんだけど」
「何?」

 かなみはきょとんとした様子で僕のことを見つめていた。

「僕の病気のことを教えて欲しい」
「え?」

 想像もしていなかったのか、かなみは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべていた。

「急になにいってるの、お兄ちゃん」

 あからさまに挙動不審になりながらも、かなみは僕から顔をそらす。やっぱりかなみは何かを知っているらしい。

「僕の病気は好きな人のことを忘れてしまう病気なのか?」

 考えてみると家族も僕に対しては変に気を遣っていたような気がする。
 ストレス性適応障害。よくわからない病気だ。体に問題はないのに、サッカーをしてはいけないというのもよくわからない。ストレスのせいだったら、もうそれなりに休んでいるので、それほどあるとも思えない。むしろサッカーが出来ないことこそがストレスになっている。
 ただ学の言う好きな人のことを忘れてしまう病気というのも、何か違うような気がする。それならサッカーが出来ないこととは関係がない。
 何かを隠されている。そんな気がしていた。
 たぶん両親にきいてもうまくはぐらかされてしまうだろう。でもかなみなら、少し強く当たれば白状するんじゃないだろうか。

「ええっと、何言っているんだかわからないかなぁ」

 そんな目星を知ってか知らずか、あからさまにあたふたとした様子で目を白黒とさせていた。かなみは正直隠し事はうまくない。何かを隠していることは明らかだった。
 学も何かを知ってはいるのだろう。でもたぶん核心的な何かは知らないのだとは思う。そもそも僕の家族とさほど接点がある訳でもない。どこからか噂のようなものを聴いたのか、それとも実際に僕が「好きな人のことを忘れる」ところを見てきたのかもしれない。

「本当は知っているんだろ。僕の病気のこと。教えてほしい」
「え、えーっと」
「お願いだ。思い出したいんだ」

 僕は真剣にかなみに向けて頭を下げる。
 こんな風に妹に頭を下げたのは、これが初めてかもしれない。何なら土下座したっていい。僕の中のもやもやを晴らすことができるなら、プライドなんて大したことはない。

「もう。お兄ちゃんやめてよ。知らないって」
「僕はもう何かを思い出しはじめている。でも頭の中がもやもやとして、思い出しきれないんだ。このままじゃおかしくなってしまいそうなんだよ。なぁ、かなみ。だから教えてほしい。僕は好きな人のことを忘れる病気なのか。好きな人のことを忘れてしまっているのか。僕の中に知らないはずの髪の長い女の子の記憶があるんだ。それは僕の妄想なのか。知りたいんだ。頼む」

 真剣なまなざしをかなみへと向ける。
 かなみはしばらくはどうしたらいいのかわからずに、きょろきょろと辺りを見回していたが、やがて観念したかのように大きく息を吐き出していた。

「はぁ……。わかった。でもね。私だってほとんど知らないんだよ。お父さんお母さんは話してくれないし。だからあんまり細かいことには答えられないからね」

 かなみはもういちどため息をもらして、それから僕の方へと視線を合わせる。

「あのね。お兄ちゃんの病気は、好きな人のことを忘れてしまう病気じゃない。少し違うんだ。あのね。好忘症といって、一番好きなもののことを忘れてしまう病気なんだ」
「一番好きなものを忘れる?」

 僕はかなみの言葉を思わず繰り返していた。
 それって、どういうことなんだろうか。

「あのね。お兄ちゃんはサッカーが好きでしょ」
「あ、ああ。そうだね。小さい頃からずっとやってきたしね」
「うん。でもね。この間までお兄ちゃんはサッカーのことを忘れていたんだ」
「は?」

 かなみの言葉が信じられなかった。僕がサッカーを忘れる。何を言っているんだと思う。何年も続けていた競技を忘れるだなんてあり得ないと思う。

「でもね。忘れてたんだよ。だからお兄ちゃんはサッカーをしちゃだめだってことになってるの。好きなサッカーをしたら、もういちど好きになる。そうすると、また忘れてしまうの。それは頭に強い衝撃を残しちゃうからだめなんだって」

 かなみの言う事は、まだ頭の中に入ってきていなかった。
 今の僕はサッカーのことを忘れてなんかいない。もちろんプレーしていなかったから、多少は技術が衰えてはいるだろう。でも好きな気持ちは前と変わってはいないと思う。

「でも僕はサッカーのことを忘れてなんていないよ。ちゃんと覚えている」

 僕の言葉にかなみは大きくため息を漏らす。何か思うところがあったのかもしれない。すぐにその言葉につなげるように、かなみは話し続ける。

「それね。思ってもいなかったことが起きたのは。この病気はね。一番好きなものを忘れてしまう病気なの。だからお兄ちゃんは一番好きなサッカーのことを忘れてしまったの。だけど」

 かなみは少しためらいを見せるけれど、それからすぐに言葉を続けていた。
「あの日ね。急に思い出したの。だからさ、私達は最初は病気が治ったんだと思ってた。でもそうじゃなかった。お兄ちゃんには他に一番好きなものが出来ただけだったの。それが」

 だんだんかなみの言いたいことがわかってきた。
 僕が一番好きだったものはずっとサッカーだった。でもそれ以上に好きになったものがあった。

「それがその女の子ってわけか」
「そうだよ。好きなものが変わったから、女の子のことを忘れて。その代わりにサッカーのことを思い出したの」

 かなみの言葉に思い返してみる。
 彼女の姿は何とか思い出していた。それはもう好きじゃなくなったからなのだろうか。それとも病気が治りかけているのだろうか。それとも一度忘れてから思い出したサッカーとからんでいたからなのだろうか。
 あの子は僕からリフティングをしていたボールを奪い取った。だからサッカーとからめた記憶だからこそ、サッカーで忘れた記憶の一部として思い出したのだろうか。
 まだ彼女を好きだったという記憶は思い出していない。それどころか、名前なんかも思い出していない。ただ彼女に何かを確かめなければいけない。そう強く思う。
 あれだけ可愛い子なら、名前なんかは調べればすぐにわかるだろうし。何なら学なんかも知っているかもしれない。
 いやそもそもかなみが何か知っているんじゃないだろうか。目の前のかなみに続けて問いかける。

「かなみは、僕が好きだった人のことを知っているか」
「……知ってる」

 僕の問いに少しためらいがちに答える。何かごまかそうとしたけれど、もういまさら嘘をついても仕方が無いと思ったのかもしれない。

「お兄ちゃんが好きだった人は。坂上こはるさん。うちにきたことあるから、私も会ったこともあるよ」
「そうなのか。それなら、もしかして僕とその子は」
「恋人同士だったよ」
「そうなのか……」

 坂上こはる。彼女の名前を知って、そして彼女と恋人同士だったと知ってなんだか余計にもやもやとする。
 もしそうだとするのなら、もう彼女は僕のことは忘れてしまったのだろう。あるいは忘れてしまう僕のことは、もう諦めてしまったのかもしれない。
 そもそも自分にもやっぱり好きだという気持ちは浮かんでこない。なんとなくしっくりとこない過去の出来事に、頭の中にまた霧がかかったような気分になる。

「なんで秘密にしていたんだ」

 何となく想像はつくけれど、かなみに訊ねてみる。
 かなみはその質問も想定の範囲内だったのか、すぐに首を振るう。

「今までだって教えたこともあるよ。でもね。お兄ちゃん、忘れちゃうんだ。一番好きなものに関することだと、その時は覚えていてもどこかで忘れちゃう。だから話しても無駄っていうかさ。教えた方がより早く忘れてしまうの。だから、たぶん今教えたことも、何日かしたら忘れちゃうと思う。だから」

 かなみは少し言葉を途切れさせると、それから僕の方をじっと見つめていた。

「こはるさん。お兄ちゃんが忘れてしまっていても、何回もうちにきていたよ。どうやってでも思い出してもらうんだって言ってた。でもうまくはいかないね。何回だってお兄ちゃんは忘れちゃう」

 かなみはため息をもらす。
 たぶんこうして何度もかなみから説明を聴いたのだろう。でもそれも僕は忘れてしまうのか。やっぱりもやが晴れずに、陰鬱な気分になる。
 自分の気持ちがよくわからなかった。

 彼女、坂上さんのことをどう思っているのか。かなみの言葉によれば、僕はまだ彼女のことを一番好きだから忘れているのだろう。でも好きなはずなのに、僕は坂上さんのことを何とも感じてはいない。ただ知らないサッカーがちょっとうまい子のことを少しだけ思い出したというだけの記憶だ。
 かなみの話していることが自分のことだとは思えなかった。
 坂上さんのことについても、あんな可愛い子が自分と恋人同士だったと言われても信じられない。嘘だと言われた方がしっくりとくると思う。

 だけどかなみの言葉が嘘だとも思えなかった。
 やっぱり僕は病気なのだろうなとは感じられた。僕の中の何かが壊れてしまっているのだろう。
 薄っぺらい紙か何かで、頭の中を包み込まれて見えない。そこに何かがあるのはわかるのだけれども、それが何かがわからない。そんな感覚が僕を包んでいた。

 ただもしも僕と坂上さんとつきあっていたのだとしても、僕の奥底にある気持ちがまだ彼女を好きなのだったとしても、彼女はもうそうではないのかもしれない。
 もし何度思い出させようとしても、忘れてしまう相手のことをいつまでも想い続けるなんて難しいと思う。僕だったら諦めてしまうかもしれない。

「さすがに諦めちゃったってことか」
「え?」

 ぼそりとつぶやいた言葉にかなみが何か驚いたような声を漏らす。

「いや、さっきさ。坂上さんか、彼女のことをほんの少しだけ思い出した。でもなんで彼女のことを思い浮かべたのかわからなくて。何となく気になっていたんだ。そこに彼女を見つけたんだけど、話しかける前に彼氏らしき男と歩いているのをみかけてさ。だから」

 ついさきほど見かけた坂上さんと武田の話をする。お似合いの二人だったとは思う。
 病気の僕と一緒にいるよりも、違う彼氏を作った方が彼女にとっても良いことじゃないかとは思う。
 だから。これでいいんだろうとは思う。
 ただそれでも頭の中に何かが残っていて、僕の気持ちは晴れなかった。
 好きな気持ちもないのに、なんだか未練がましい感じだなと思う。

「思い出した? え、こはるさんのことを?」

 しかしかなみは驚いた様子で、目を開いて僕の顔を見つめていた。
 そんなにおかしなことを告げただろうか。

「そう。少しだけね。この前にリフティングしていたらさ、途中でボールを奪われたことがあったなって」

 そう。思い出したのはそれだけ。
 サッカーのことは思い出しているから、その関係でここだけ思い出したのかもしれないとは思った。
 思い出したボールを扱う彼女は可愛かったなとは思う。
 ただそれは芸能人を見るのと同じような感覚だ。自分の近くにいる存在のようには思えなかった。
 なのにかなみは何かあり得ないことが起きたかのように、僕の顔を見つめていた。

「それって、おかしいよ。一番好きなことは忘れてしまうはずなんだから。今までそんなことなかった。忘れてしまったら、また一からこはるさんと出会うしかなかったの。あ、もしかしてお兄ちゃんの中で新しく何か好きになっているものがあるとか」

 かなみは本当に仰天しているようで、僕のあちこちを触ってみたりしていた。
 何かおかしなことがないかどうか、探しまわっているように思えた。
 ただ言われてみて、確かに一番好きなものを忘れるのであれば、他に好きなものが出来ているのであれば思い出すこともあるのかもしれない。そう思うものの、最近特に好きになったものなんてなかった。

「いや、特にないけど」
「サッカーの方が好きにもどっているとか」
「うーん。僕の中では今もサッカーが一番好きだと思うんだが。でもそうしたら忘れてしまうんだよな」
「うん。そうだね。だからそうじゃないはず。何かが起きているのかも。先生にきいてみたらわかるかもしれないけど、週末は先生休みだから早くても週明けか」

 かなみの様子はなぜかどこか嬉しそうにも感じられた。
 もしかしたら坂上さんのことは少し思い出しただけだけれど、それでも何か良い兆しだったりするのだろうか。
 何にしても確かに病気のことは先生に見てもらわなければ、はっきりとしたことはわからないだろう。

 坂上さん、か。少なくともクラスには彼女はいない。
 だとしたら他のクラスだろう。いちど彼女の話を聞いてみた方がいいのだろうか。
 でもなんと言えばいいのだろうか。僕とつきあっていましたかときくのだろうか。それはちょっとハードルが高い気がする。
 もしも別れたんだから、もう近づかないでとか言われたら、さすがにショックが大きいとは思う。
 正直女の子は苦手だ。どう扱っていいかわからない。
 だから。たぶん僕は坂上さんに声をかけることは出来ないだろう。
 それでも。僕の中に何かふわふわとした気持ちが生まれて、それは決して消えずにまとわり続けていた。