「なぁ。何があったのかわからないけど、話だけでも聞かせてくれないか。何か力になれるかもしれないしさ」

 彼はいつもよりも優しい声で告げる。
 ああ、いつもの様子はボクが素っ気ない態度ばかりをとっているせいで言葉が荒くなってしまっただけで、本当はこれが彼の素なのかもしれない。
 こんな風に優しくされたら、気持ちが揺れてしまう子も多いだろうと思う。
 だからこそ、ボクは彼に頼る訳にはいかない。

「ごめん。悪いけど何も話せることはないよ」

 ボクは頭を振るう。
 目の前で泣いておいて、この態度はひどいことをしているなとは思う。だけど彼はボクのことを好きだといってくれているのだから、変に期待を持たせるようなことをしてはいけないとも思う。
 だから彼の優しさに甘える訳にもいないんだ。
 そう思うボクに、だけど彼はもういちど笑いかける。

「たけるのことだろ?」
「え……」

 問いかけにボクは言葉を失っていた。
 もちろんわかりやすくはあっただろうとは思う。ボクがたけるくんと一緒にいるために、いろいろしていたのはたぶん彼も知っているはずだ。でもだからこそ、そんなことを言われるとも思っていなかった。

「俺はさ、もうお前のことは諦めたよ。あいつには勝てないって。あいつならお前を任せられるって。そう思っている。でも好きな気持ちが綺麗さっぱり無くなった訳でもない。やっぱり目の前で好きな子が泣いているのに放ってはおけないんだ。だからさ、あいつがお前のことを思い出すための手助けがしたいと思っている」

 彼は少し照れたような表情でそう告げていた。
 まさかそんなことを言われるとは思ってはいなかったから、考えがまとまらない。何と答えていいのだかわからなかった。
 ボクのことを本当に考えてくれているんだと思って、とても嬉しく感じていた。ただこれを受け入れていいものだろうか。
 ボクは気持ちを返せないのに、ボクのことを好きだといってくれる人の好意に甘えるのは卑怯な気がする。だけどボクが近づくことが、たけるくんの心を不安定にさせるのであればボクにとれる手はもうあまり多くない。彼が手助けしてくれるのであれば、できることは増えるだろう。
 だとすれば受け入れるべきなのだろうか。でもボクは人の気持ちを利用するようなことはしたくなかった。
 だけどためらうボクに、彼はゆっくりとこう告げていた。

「これはさ。お前のためでもあるけど、たけるのためでもあるんだ。あいつはお前のことが一番に好きだから忘れてしまうんだろ。一番好きな人のことを覚えていられないなんて、悲しいじゃないか。俺はさ、正直あいつに嫉妬していたんだ。でも記憶がなくても好きな人のことを助けたのってさ、きっと偶然じゃない。たぶん意識しなくても、深層心理でどこかで見ていたんだと思う。だから救えたんだと思う。そんなあいつにさ、もういちど好きな相手とつながって欲しいんだよ」

 彼の言葉にボクは何も言えなかった。
 でも彼が本当にボクとたけるくんを救いたい、助けになりたいんだって思ってくれていることは伝わってくる。
 そこまで言ってくれるのなら、そしてボクだけのためでないのなら。彼の力を借りてもいいのかもしれない。
 ボクは心を決めていた。
 そしてそれとともに彼に告げなければならないことがある。正直言っていいのかわからないけれど、助けを借りるのであれば言わなければならない。
 ボクは意を決して、彼にたずねる。

「ありがとう。そう言ってくれるなら、ボクに手を貸して欲しい。でも、ごめん。悪いんだけど教えて欲しい。キミの名前ってなんだっけ」

 正直こいつ、とか、あいつ、とか言っていたけど。ボクは彼の名前を覚えていない。
 野球部のエースだということは知っていたんだけど、興味がなかったから名前は覚えていなかった。
 こんなこといったら気分を悪くするかなと思って、彼の顔を上目づかいで覗いてみる。
 しかし彼は最初はぽかんとした顔を浮かべていたけれど、すぐに大きな声で笑い始めていた。

「そうか。お前、俺の名前も知らなかったのか。確かに名乗ったことはなかったけど、そりゃ、いくら言い寄ってもなびかない訳だよな。俺は武田。武田祐二だよ」

 武田と名乗った彼は何がそんなにおかしかったのか、お腹を押さえがら笑っていた。
 たぶん彼は自分が学内の有名人であることはわかっていて、だから当然知っていると思って名乗らなかったのだろう。
 プロから誘いがあるとか、ないとかで。ボクもどこかでは名前を聞いたことはある。それに何回か表彰されているところを見たこともあった。ただ興味がないから全く覚えていなかった。

「そうか。名前も知らないんだもんな。そりゃ俺があいつに勝てないのも当然だよ」

 正直失礼なことを言った自覚はある。でも彼はなぜかむしろ楽しそうに笑っていた。
 ただ何となくこれで一つの形はついたのかもしれない。
 彼、武田くんは今こそたぶん本当にボクのことは諦めてくれたのだろう。そしてたけるくんにボクのことを取り戻してくれるための協力をしてくれるのだろう。それは確かに感じていた。

 武田くんとこんな風な関係になるだなんてことは、一度も考えたことがなかった。
 でもそんな事態が起きるのなら、たとえ奇跡だと言われようが、たけるくんの病気を治すことだって出来るのかもしれない。
 ボクは心の中に誓っていた。絶対にたけるくんを取り戻すんだって。
 ひとつの懸念が消えて、そして前向きな気持ちを取り戻していた。
 なんとなく何もかもうまくいく。そんな気すらしていた。

 後にして思えば、ボクは無意識のうちにそうしてしまっていたのだろう。
 だからこのとき、ボクはすっかり忘れていた。
 あいつがこの街に戻ってきているということを――