「まず確認するけど、たけるくんはサッカーは好きかい」
「え、ええ。好きです」

 どういう意味があるのかはわからなかったけれど、素直に答えてみる。
 先生は深々とうなづくと、それからゆっくりと僕に告げる。

「何よりも一番好きかい」

 先生の言葉にうなづこうとして、それから少しだけ不安がよぎった。
 確かに僕にとってはサッカーが生きがいであり、大好きなものだった。病気のためにサッカーが出来なくなって、サッカーがしたくてたまらなくて。だから一番好きなものだと思う。

 思うのだけど、僕はなぜか素直にうなづけなかった。答えられずにいた。
 何か違う気がした。一番好きなものは他にある。なぜだかそんな気がしていた。
 先生はそんな僕に何か納得したようで、すぐにこはるの方へと向き直る。

「じゃあ、そっちの女の子。えっと」
「坂上こはるです。こはるでいいです」
「了解。じゃあこはるちゃんは、彼のこと。彼の病気のことを知っているってことでいいのかな」
「はい。たけるくんのお母さんにききました。最初は何が起きているのかわからなくて混乱していて、たけるくんがふざけているのかと思っていました」

 こはるの言葉に僕は思わず目を見開く。
 こはるは僕だけでなくて、母とも会ったことがあるというのだろうか。いつの間に母と話したというのだろう。
 先日出会った後に話したという可能性はほぼない。そうするとやはりずっと以前からこはるは僕のことを知っているし、その時に母と話したのだろう。僕がこはるのことを忘れてしまっているということで間違いはなさそうだ。
 どうして忘れてしまっているのか。病気のせいなのか。はやく先生に答えを聞きたいと思った。

「それは辛かっただろうね。でもこうしてこはるちゃんがたけるくんと一緒に診察室に訪れたことは、たぶん奇跡に近い確率だと思う。ここから少しでも良い方向に向かうといいのだけど」

 先生は何かに期待しているかのようにこはるに声をかけると、それから今度は僕の方へと向き直った。

「たけるくんは、こはるちゃんとはいつ知り合ったのかな」
「……僕が覚えているのは、昨日です。でも、たぶんそうじゃないんですよね」

 僕は忘れていることに気がついていると示そうとして、あえてそう告げてみた。先生は深々とうなづいて、なにやらカルテに記入しているようだった。

「たけるくんは、どうやらこはるちゃんの事を忘れていることに気がついているみたいだね。どういうきっかけで気がついたのかな」

 先生は僕に問いかけてきていた。
 だからいじめられていたこはるを助けたこと。その後に少し話したこと。
 たまたまその時に妹のかなみからライムが届いた時に、ライムの履歴にこはるの名前があることに気がついたこと。それぞれ話していた。

「なるほど。それでいま君はこはるちゃんのことをどう思っているのかな」
「どうって……」

 変なことを訊かれたと思う。いやなんで医者に、しかも本人が隣にいるところでどう思っているかを答えなきゃいけないのかと、眉を寄せる。
 でも先生は至って真面目な顔で、僕の答えを促していた。

「これは病気の治療に必要な話なんだ。隣に本人がいるから言いづらいとは思うけれど、これは治療の一環なんだ。だから本心を答えて欲しい。病気を治したいと思うなら、くれぐれも嘘はつかないで」

 先生は少しすごみを効かせた声をもらして、じっと僕を見つめていた。
 なんだか恐いとは思うものの、病気に関係することだと言われれば、答えない訳にもいかなかった。
 嘘をついてはいけない、とはいってもこはるが隣にいては言いづらいけどなとは思う。それでも本当の気持ちを告げるしかない。

「そうですね。可愛い女の子だとは思います。でも知り合ったばかりで、まだよくわからないというのが本音です。だけどライムの履歴をみるかぎり、僕は彼女のことを知っているはずで、たぶん、その。恋人同士だったんだと思うのですが、僕は実感がありません。むしろ何が起きているのかわからなくて、彼女のこともふくめてそれが少し恐いと思っています」

 それでも僕は嘘偽りのない今の気持ちを答えていた。
 病気を治すためと言われたら、そうせざるを得なかった。
 でもなんで僕は病気を治したいと思っているのだろう。

 サッカーが出来ないから? こはるのことを思い出せないのが気持ち悪いから?
 でもそんなことじゃない、何かが胸の中にひっかかっている。
 わからない何かが。でも僕にとってそれは大事なことのはずで。

 だから。

 ちらりと横目でこはるの方をみると、彼女は少しだけ顔を伏せているようだった。何かを耐えているのかように目をつむっている。
 そんな彼女の顔をみていたら、それではいけない気がしていた。彼女をそんな顔をさせたくはなかった。
 だから僕は思い出さないと。思い出さなきゃいけない。
 だって。彼女は。
 僕の頭の中はぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような気がして。目の前がふらふらと揺れているように思えた。

「たけるくん! まいったな、このままじゃまずい」

 先生が何かを告げていた。でも僕の頭はもう先生の言葉をまともにきこうとはしていなかった。
 こはるを悲しませたくない。こはるを大切に思っている。
 君の悲しい顔は見たくないんだ。
 だから、だから思い出さなきゃいけない。でも何を。僕は彼女のことをどう思っている。
 頭の中でぐるぐると回る。

「こはるちゃん。君にとって、とても辛いことになると思う。だけどこれはどうしてもしなくちゃいけないことなんだ。ごめんね」

 そう声が聞こえた。
 先生の言葉にこはるの顔が伏せるのが見えた。
 こはるを悲しませないでくれ。それはいやなんだ。こはるが悲しむことなんて、したくないんだ。笑っていて欲しいんだ。
 やめてくれ。こはるを悲しませないでくれ。
 そう思うものの、なぜか声を出せなかった。

「たけるくん、君はね――」

 そこまで告げた先生の声は、それ以上には聞こえなくなっていた。
 だめだ。だめなんだ。それはだめなんだ。
 僕の中の焦る気持ちが、頭の中にもう一人の僕を作って声が聞こえてくる。どうか得体も知れない気持ちが、僕を不安に包まれていく。
 だけど先生の言葉は止まらなくて。でも僕の頭の中には届いていなくなって。

 嫌だ。嫌なんだ。
 それをしたら、僕はまた消えてしまう。こはるのことを忘れてしまう。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。やめてくれ。やめてくれ。
 忘れたくない。覚えていたいんだ。こはるのことを忘れたくない。

 強い感情が僕を捉えて放さなかった。
 先生が何かを話していた。こはるのこと。僕の病気のこと。声は聞こえなくから頭には入ってこないけれど、なぜかそのことを話しているのだということだけはわかった。
 僕はこはるのことを思い出していた。

 大好きだった人のこと。僕と出会って、彼女を助けて。一緒にサッカーをして。
 こはるに告白をされて、僕はそれを受け入れて。
 でも僕は忘れて。それでも何度もこはるのことを好きになって。
 こはるが好きだった。大好きだった。今も変わらず大好きだと思った。

 こはるとの思い出。一緒に歩いた道。過ごした時間。
 大好きで、何よりも大切な宝物。
 思い出していた。こはるのことを大切に思っていたたんだって。世界一好きなんだって。

 でもだめだ。この方法じゃだめなんだ。

 僕が忘れている事実を突きつけられただけじゃ、僕がこはるのことを好きだと思っていたことを知るだけじゃ、この方法ではだめなんだ。
 忘れたくない。忘れたくない。大好きな君のことを。
 覚えていたいのに。

 僕は君のことを思い出してしまった。大好きな記憶を思い出してしまった。
 思い出していた。何よりも、こはるのことを大切に思っていたんだって。

 だから。だから僕は。

 こはるのことを、忘れていた――