夢見をした夜から三日。
 弧月は今、紫宸殿(ししんでん)にて本日入内する莢子を迎え入れる儀式をしている。

 その間美鶴は自身の殿から出ず、儀式が終わるまで大人しくしている様にと言われていた。
 少し離れた場所にある紫宸殿から雅楽(ががく)の音がわずかに聞こえてくる。
 普段ならば雅な音色に聞き耳を立てたくなるが、今はそのような余裕は無い。

 何故なら。

「お初にお目にかかる、弘徽殿の中宮殿。……いや、まだ更衣だったか?」

 衣擦れの音すら密やかに、見知らぬ藍色の髪の男が酷薄な笑みを浮かべ美鶴のいる弘徽殿に侵入してきたからだ。

 検非違使(けびいし)達は何をしてるのか。儀式の警護に集中しているとはいえ、外部の者に侵入を許すとは。
 ……いや、この男は内裏にも味方がいるらしいので逆に招き入れた可能性が高い。
 おそらく、莢子の入内自体この男が侵入する隙を作るために仕組まれたことなのだろう。

 男は他にも頭巾を被った供を二人連れ、許可もなく縁から庇へと入って来た。

 一つ一つの仕草は洗練され、ゆったりとした物腰は貴族のそれだ。
 一見質素だが、よく見ると上質な絹の狩衣に身を包んでいる。
 無遠慮に母屋にまで入り込む男の迷いのなさは、勝手知ったるという様子。
 男にとって弘徽殿は慣れた場所なのだと知れた。

「何故ここに? 都を出たのではないのですか? 碧雲(へきうん)様」

 扇で顔を隠しながら、小夜が凛とした声で問いかける。
 男――碧雲は取り繕ったような笑みを消し、嘲笑するように鼻を鳴らした。

「都を出たのはあの忌々しい狐が治めている土地だからだ。妖帝には私の方が相応しいというのに」

 故妖碧雲。
 先帝の実子で、弧月が生まれその妖力の強さが知られるまではこの男が今代の妖帝となるはずの東宮であったと聞いた。
 妖狐の弧月が妖帝であることを良く思っていない筆頭で、その座を奪おうと虎視眈々と狙っているのだと。

 碧雲は鬼の証である金の目を細め、淡々と語り出した。

「少しづつ追い詰め確実にあいつの息の根を止めてやろうと思っていたというのに……まさか子を成すとは思わなかった。(つがい)の存在を知らないあいつに子が出来るとは思わなかったからな」

(番? どういうこと?)

「まったく忌々しい。あいつの子であれば次代の妖帝となり得てしまう。このままその腹の子が生まれてしまうのは私としては困るのだ」
「っ!」

 語りながら、目に宿るのは憎しみの感情。
 その視線が膨らんだ腹に向けられ、思わず美鶴は身を縮こませた。

「なに、腹の子さえ死ねばお前まで殺しはしない。今日のうちに弧月にも死んでもらうからな」
「ひっ⁉」
「させませぬ!」

 恐れる美鶴を守る様に小夜が間に入る。
 だが、男の力に敵うはずもなく簡単に押しのけられてしまった。

「きゃあっ」
「小夜っ⁉」

 倒れる小夜を心配する美鶴だったが、すぐに碧雲に捕まってしまう。
 首に腕を回され、顎の部分を乱暴に掴まれる。

「うぐっ」
「さあこれを飲め、堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ」

 頭を固定された状態の美鶴の口元に竹筒が近付けられた。

「確実に子が死ぬようにまじないも加えた。なに、通常であっても死産など珍しくはないのだ。気にすることでもなかろう?」

(なにを……勝手なことを!)

 あまりの言いように怒り以外の感情など吹き飛んだ。
 確かに流産も死産も珍しくはない。
 だが、だからこそ大事に産み育てるのだ。

(命を何だと思っているの!)

 美鶴は生まれて初めて、燃え上がるような怒りを感じた。
 でも、今はその怒りを声に出すわけにはいかない。

「そら、口を開け」
「ぐっ」

 口を開けたとたんにその堕胎薬を流し込まれてしまうだろう。
 グッと歯を食いしばり、唇が開かぬように力を込めた。

「まったく、手間をかけさせる」

 重くため息を吐いた碧雲は、美鶴の顎を掴む手にさらに力を込める。

「ぐぅっ」

 顎骨を締められ、閉じていられなくなった美鶴の口にはすぐに薬が流し込まれてしまった。
 飲みこまぬようにと吐き出そうとするが、今度は鼻も含めて大きな手のひらで口を塞がれてしまう。
 息も出来ぬ状態。
 飲みこまずにいることは無理だった。

 ごくり

 苦し気に呻く美鶴の喉が動く。
 嚥下したのを確認した碧雲は笑みを浮かべた。

「飲んだか。ふむ、念のためもう少し飲ませておくか?」
「止めなさい!」

 一先ず美鶴が堕胎薬を飲みこんだことで気が緩んだのだろう。
 小夜の叫びと共に放たれた風の刃に碧雲は反応するのが遅れた。

 ひゅっと風の切る音がしたと思うと、碧雲が持っていた竹筒が真ん中から真っ二つに割れる。
 中に残っていた薬が落ち、(しとね)に染み込んでいった。

「ちっ、まあいい。少しでも飲んだのなら効果はあるだろう」

 少々不服そうにしながらも目的は果たしたと碧雲は美鶴の拘束を解く。
 その隙を突くように、美鶴の手から(・・・・・・)青い炎が出現し碧雲を襲った。

「なにっ⁉」

 驚き、警戒した碧雲は青の炎に包まれながらも美鶴をつき飛ばす。

「かかりましたね! 残念でした。私は美鶴様ではありません!」

 してやったりと笑みを浮かべた美鶴は、直後狐の耳としっぽを持つ灯の姿になった。

 狐と狸の妖は化けるのが得意なのだそうだ。
 予知のことを話し、対策を練っていると灯が身代わりになると申し出た。
 そのとき初めて灯と香が変化するところを見たが、見た目だけは本当にそっくりで鏡でも見ているのだろうかと思ったほどだ。

 しかし身代わりは危険ではないかと美鶴は案じた。
 だが薬を飲まされることは分かっていたので、その薬さえ無くしてしまえば予知の未来は覆るはずだという双子の意見に小夜も同意したため、このような作戦になったのだ。

 一部始終を隠れて見ていた美鶴は、薬が使い物にならなくなったのを確認して安堵の息を吐く。

 予知は覆った。
 とにかく、これで腹の子が死んでしまうということは無さそうだ。

 だが、碧雲という脅威が去ったわけではない。
 もう一度気を引きしめようと息を吸い込んだ美鶴は、そのまま呼吸を止めてしまう。
 凍えそうなほどに冷たい感情が乗せられた金の瞳と、目が合ってしまった。

「まったく……薬で穏便に済まそうとしてやったというのに」

 淡々と呟く碧雲は軽く腕を振り灯の幻火を払う。
 幻火は幻を見せるらしいが、碧雲には効果がなかったらしい。

「小賢しい。子狐の幻火など私に効くものか」

 淡々と告げる声からは怒りの感情などは伝わってこない。
 ただ、冷たい視線だけが美鶴に突き刺さる。
 その氷柱(つらら)の様な視線に凍らせられたように身動きが出来なくなった。

 碧雲はゆったりとした足取りで本物の美鶴がいる塗籠(ぬりごめ)へと近付いて来る。

「なりません!」

 小夜が身を起こして塗籠と母屋を隔てる御簾の前に立ちふさがるが、碧雲は「退()け」と軽く告げた。
 それだけで小夜の袿の裾に赤い火が点く。
 火はすぐに燃え広がり、小夜の衣を焼いて行った。

「ひっ」
「小夜!」

 流石の小夜も青ざめ、美鶴は思わず声を上げる。

 予知は、自分が碧雲によって薬を飲まされ死産となってしまうというもの。
 それ以外は視なかったため、少なくも酷い目に遭うことはないのではないかと思ってしまっていた。
 だが、碧雲が腹の子の死を願っている以上それだけで終わるはずがなかったのだ。

「小夜姉さま!」

 慌てて袿を脱ぎ捨てようとする小夜を手伝う灯。
 そんな二人の横を通り、碧雲は御簾にも火を点け焼いていく。
 上手い具合に御簾だけが焼き消えると、妻戸の裏に隠れていた美鶴の衣が見えてしまった。

「美鶴様!」

 反対側の妻戸に共に隠れていた香が美鶴を守ろうと出てくる。
 だが、ただでさえ大人と子供の差。簡単に押し飛ばされてしまった。

「香!」

 思わず駆け寄ろうと妻戸の陰から出るが、香の元に行く前に腕を掴まれてしまう。

「手間をかけさせるな」
「っ!」

 碧雲の強い手に、美鶴はそのまま母屋の方へ引きずり出されてしまった。

 どくどくと血流が早まる。
 これから一体どうなってしまうのか。
 恐怖に震えそうになるが、子を守るためにも冷静に見極めなくてはと叱咤した。

(大丈夫、少なくとも薬はもうないはずよ。今ここで御子が殺されてしまうようなことにはならないわ)

 腹の子以外の誰かが死んでしまうのであれば、予知はその人の死を視せるはず。
 だから、誰かが死んでしまうほどの酷いことにはならないはずだ。

 自分に言い聞かせるように考え心を落ち着かせる。
 だが、なんとか冷静な思考を取り戻した美鶴に碧雲はまたかき乱すような言葉を放った。

「薬が使い物にならなくなったのでは仕方あるまい……生まれたらすぐ殺してやろう」
「っ⁉」

 今は殺せなくとも、結局殺すつもりなのは変わりないということだ。
 我が子の命が奪われる危険が去ったわけではないことに動悸が激しくなる。

(だめ、落ち着いて。少なくとも今は大丈夫よ)

 呼吸を整え、気力を奮い立たせる。

 弧月は儀式のためこちらには来られない。
 だが、いざというときにはどれほど大事な儀式であろうとも放り出して助けに来ると言ってくれた。

(弧月様は絶対に来て下さる。だからそれまで冷静に対処しなければ)

 強く優しく愛しい夫を思い浮かべ、心を強く持つ。
 未だにあれほど素晴らしい帝の唯一の妻が自分で本当にいいのかと思うことはあるが、その素晴らしい妖帝が言うのだ。

『美鶴、俺の妻はそなただけだ』

 と。

 なればその妻に相応しくあろう。
 完璧にとはいかずとも、自身のすべてを持って弧月の隣に在れるよう尽力しよう。
 だから、恐ろしくとも負けるわけにはいかない。
 なにも出来ないか弱い赤子を殺そうなどとのたまう、卑怯な男などに!

 きっ、と冷たく恐ろしい金の目を睨み返す。
 そして怯まず声を上げた。

「この子は殺させなど致しません。この子は現妖帝・弧月様の御子。弧月様の妻として、御子の母として、何を置いても守り通します!」

 声は僅かに震えてしまったが、強い意志だけは貫き通す。
 足に力を込め、負けるものかと背筋をのばした。

「――っ」

 美鶴の凛とした様子に碧雲はわずかに息を吞む。
 だが、すぐに鼻を鳴らして吐き捨てた。

「ふん、平民がよく吠える。お前ごと殺してしまえれば話は早かったのだがな」

(それは、どういうこと?)

 まるで自分のことは殺せないというような言葉に軽く眉を寄せる。
 碧雲という男のことはよく知らないが、今見ただけでも平民の女一人を殺せない男だとは思えない。
 子を殺そうなどと言う男だ。妊婦だからという理由でもないだろう。

 美鶴の疑問に、碧雲は問いかけるまでもなく話し出した。

「内裏に入り込むために藤峰の娘・莢子の入内を推し進めた。入内の儀式の方に警備が集中している今の内に、その腹の子を殺すためにな」

 こうして身代わりを用意するくらいだ、勘付いていたのだろう? と碧雲は少々自虐気味に笑う。

「その莢子の入内に必要な品を用意すると協力を申し出た平民がいるのだ。協力する代わりに、お前を生きたまま渡してくれとな」
「協力した、平民?」

 誰のことだろう? と疑問に思う。
 自分のことを知る人物は今も昔もあまり多くはない。
 平民と聞いて真っ先に思い浮かぶのは家族だが、自分を必要だと思ってもらえるとは思えない。
 何より、大門の火事の後消息を絶ったのだ。死んだと思われてるに決まっている。

 なのに碧雲は楽し気な笑みを口元に戻し、連れてきていた頭巾を被った二人を見た。

 そういえばこの二人は来てからずっと庇に留まり動いていない。
 まさかこの二人がその平民なのだろうか?

 視線を向けると、背の高い方から男の声がした。

「……まったく、何故お前が妖帝の妻などに……帝とはいえ、妖にくれてやるつもりで育ててきたわけではないというのに」
「っ!」

 もう聞くことはないと思っていた声。
 だが、生まれてからずっと聞いてきた声だ。聞き間違えるとは思えない。

「本当に。大体生きていたなら帰って来なさいよ、姉さん」
「……はる、ね?」

 もう一人からは同じくもう聞くことはないと思っていた妹の春音の声がする。
 信じられない思いで見つめると、二人は頭巾を取り顔を晒す。

 そこには、二度と会うことはないと思っていた父と春音の姿があった。