***
目の前を茶色いふさふさが何度も横切る。
(ああ……やはり可愛らしい)
触ってもふもふしたいとつい思ってしまう。
駄目だと思うのに、触らせてなど貰えるわけがないのについ目が行ってしまう。
(いえ、でも駄目よ。最近私我が儘がすぎるわ)
目を閉じ軽く頭を振って欲求を自制する。
そうして意識を切り替えようとしていると、その少女たちから指摘が飛んできた。
「美鶴様? 手が止まっておられますよ?」
「小夜姉さまが戻るまで、その歌を書き写すようにと言われていたのではないのですか?」
はっとして目の前の文机を見る。
置かれた紙屋紙には文字が一行書かれているだけで止まっていた。
小夜は引っ越し先である弘徽殿を整えるために宣耀殿を離れている。
その間に手習いとして用意された歌を書き写すように言われていたのだ。
「ごめんなさい、少しぼうっとしてしまったわ」
素直に謝ると呆れのため息を吐かれた。
「まったく、しっかりして下さいませ」
「一瞬予知の白昼夢でも視られているのかと思ったではありませんか」
袿の五つ衣の色合いが違うだけの、まったく同じ姿で叱られると申し訳ないと思う反面可愛らしいと思ってしまう。
そんな自分を内心𠮟りつけながらもう一度ごめんなさいねと微笑む。
筆の墨を付け直し、手習いを再開しようと向き直ったとき。
(あっ……これは)
先に書かれていた文字が揺らいで見え、慣れた感覚にまた筆を置く。
予知だ。
白昼夢の中視えたのは、おそらくこの七殿五舎のどこか。
どこからか入り込んだのか、野犬の凶暴な吠え声が聞こえてくる。
その野犬が吠えている先には妖狐の双子。灯と香だ。
野犬に追い詰められたのか、大きな木を背後に手を取り合い震えている。
それでもどうにか現状を打開しようとしたのだろう。
二人は青く揺らめく炎を手のひらの上に出し、涙目で野犬を睨む。
だが、逆に野犬の方も何かの危機を感じ取ったのだろう。
がうっ!
ひと際大きく吠え、その大きさに驚いた双子はびくりと震え炎も消えてしまう。
すると野犬は双子に飛び掛かり、どちらかに咬みついた。
「っ! 灯! 香!」
「っ……美鶴様?」
思わず声を上げながら覚醒した美鶴。
声をかけてきたのはいつの間にか戻って来ていた小夜だ。
「大丈夫ですか? 見たところ予知をされていた様でしたのでお声掛けしませんでしたが……」
「小夜……灯と香はどこ?」
今視たばかりの光景が頭から離れない。
咬みつかれたところで終わったのだから死んでしまうことはないだろう。
だが怪我はしただろうし、その怪我が原因で患ってしまうかもしれない。
予知は七日以内に起こる。
だから今すぐ起こることではないかもしれないが、二人の姿が見えないことで不安が増した。
「灯と香ですか? 私が戻って来たからと洗い物を雑仕女に言いつけてくると殿を出ましたが?」
「……小夜、二人を見ていてくれないかしら? あと、出来れば弧月様にお知らせしていただきたいの」
予知は弧月を通さなければ変えることは出来ない。
とはいえ弧月本人でなくても良い。弧月の命を受けた者が助けになってくれれば予知は変えられると今では分かっている。
忙しい弧月の手を僅かでも煩わせるのは気が引けるが、だからと言って二人が怪我をすると分かっているのに見過ごすことは出来ない。
小夜に今視た予知を告げ、とりあえず伝えてもらうように頼んだ。
美鶴を一人にするわけにはいかないと渋る小夜だったが、小夜の力を使えば伝達だけはすぐに出来る。双子も遠くにまでは行っていないだろうからすぐ見つかるだろうと説得し探しに行ってもらう。
「では主上にお知らせし、灯と香を探してきますので美鶴様は大人しく部屋にいてくださいまし」
「ええ」
不安気な小夜に大丈夫だと頷いた。
自分一人で行動しても良い結果になるわけではない。大人しく待っているのが一番だ。
だが、小夜を見送り手習いを再開した少し後。
一行だけだった文字が三行になる程度しか経っていない頃に、犬の鳴き声が耳に届いた。
その鳴き声が先程聞いたばかりのものと重なり、胸に靄のような不安が現れる。
(まさか……そんなはずないわよね? これほど早く予知の出来事が起こるなんて今までなかったもの)
きっと予知とは関係のないものだ。
それに、万が一予知した出来事であっても自分が出来ることはない。
予知を変えられるのは弧月だけなのだ。
そう言い聞かせながら響く犬の声を聞いていたが、どうしても気になる。
(少し、様子を見に行くだけなら……)
小夜には大人しく部屋で待つと言ったが、野犬の鳴き声は宣耀殿に程近い場所から聞こえてくる。
部屋からは出てしまうが、宣耀殿からさほど離れた場所でないなら様子見くらいしてもいいのではないかと思った。
「す、少しだけ」
誰にするでもない言い訳を口にし、美鶴は筆を置いて立ち上がる。
供もつけずに出歩くなどみっともない行為だと小夜に叱られるだろうか?
だが、妖帝である弧月の妻が美鶴一人だけという現在の後宮は単純に人が少ない。
ましてやこの宣耀殿の周囲は弧月の命によって人払いがされている。
信用できない者の出入りを避けるため、“用事のないものは近付くな”と言ったのだと以前弧月が話していた。
それでも念のため、と扇を開き顔を隠すようにして縁側に出る。
先ほどから止まぬ吠え声は美鶴の胸に靄として今も宿る。
その靄は焦燥に代わり、進む足を急かした。
今は大事な時期だからあまり動くなとも言われていたが、灯と香が心配だ。
とはいえ腹の子も大事なので本当に様子見をするだけの予定だった。
だが、吠え声を頼りに玄輝門が見える方へと足を運ぶと。
がうっがうっ!
正に先程視たばかりの光景が広がっていた。
怯えて震える妖狐の双子。
その二人を追い詰め威嚇する野犬。
現状を変えようと手のひらに青い炎を出現させる灯と香。
がうっ!
吠えられ、炎を消してしまうところまで見た美鶴は考えるより先に動いてしまう。
「っ……このっ」
持っていた扇をぱちんと閉じ、野犬めがけて投げつける。
ばしっと軽い音を立てて当たった扇は地面に落ち、野犬の意識がこちらに向く。
「美鶴様⁉」
「何故ここに⁉」
双子も美鶴の存在に気付き驚きの声を上げるが、美鶴はそれに応える余裕は無かった。
こちらに意識を向けた野犬が唸りながら近付いて来る。
縁側は地面より高さもあるし高欄もあるので飛び掛かられても届かないとは思うが、威嚇する野犬は相当気が立っているのか形相だけでも恐ろしい。
がうっ!
「っ!」
ひと吠えした野犬は美鶴の方へと走ってくる。飛び掛かってくる気でいるようだ。
助走をつけられれば高欄も飛び越えてしまうかもしれない。
美鶴は思わず腹を守る様に腕を回し、身構えた。
「美鶴様⁉」
「このっ、させるものか!」
野犬の意識が逸れたからか、声に覇気が戻った双子がまた手のひらに青い炎を出す。
二人揃って投げた炎は、今にも美鶴に飛び掛かりそうだった野犬に当たった。
ぎゃんっ!
悲鳴のような鳴き声を上げた野犬はそのまま止まってしまう。
恐ろし気な形相だった顔も穏やかになり、可愛らしさすら出てきた。
炎に包まれているのに熱くはないのだろうか? と不思議に思っているうちに灯と香が美鶴のいる縁側へと上って来る。
「なんて無茶をなさるのですか⁉」
「何故お一人なのですか⁉ 小夜姉さまは⁉」
「あ、それは……」
小夜との約束を破った状態なので口ごもるが、ちゃんと説明しなければ二人は納得しないだろう。
今の出来事を予知したこと、予知した未来を変えるため弧月に伝えて欲しいと小夜に頼んだため一人であることを伝えた。
「供もつけず、小夜との約束も破って来てしまったことは申し訳なく思うわ。でも、あなた達が怪我をしたらと思うといてもたってもいられなくて」
「美鶴様……」
「私たち、美鶴様に助けられたのですね……」
毒気を抜かれた様に二人が呟くと、焦った声が美鶴を呼んだ。
「美鶴様⁉ 何故部屋を出ていかれたのですか⁉ お約束したではありませんか!」
見ると、焦りを隠しもしない小夜が近付いて来るところだった。
いつも落ち着いた様子の小夜が焦り憤っている様子に、本気で心配させてしまったのだと申し訳なくなる。
どんなお叱りでも受けようと、唇を引き結んだ。
だが、更に叱る言葉を口にしようとする小夜の前に二対の狐耳が立ち塞がった。
目の前を茶色いふさふさが何度も横切る。
(ああ……やはり可愛らしい)
触ってもふもふしたいとつい思ってしまう。
駄目だと思うのに、触らせてなど貰えるわけがないのについ目が行ってしまう。
(いえ、でも駄目よ。最近私我が儘がすぎるわ)
目を閉じ軽く頭を振って欲求を自制する。
そうして意識を切り替えようとしていると、その少女たちから指摘が飛んできた。
「美鶴様? 手が止まっておられますよ?」
「小夜姉さまが戻るまで、その歌を書き写すようにと言われていたのではないのですか?」
はっとして目の前の文机を見る。
置かれた紙屋紙には文字が一行書かれているだけで止まっていた。
小夜は引っ越し先である弘徽殿を整えるために宣耀殿を離れている。
その間に手習いとして用意された歌を書き写すように言われていたのだ。
「ごめんなさい、少しぼうっとしてしまったわ」
素直に謝ると呆れのため息を吐かれた。
「まったく、しっかりして下さいませ」
「一瞬予知の白昼夢でも視られているのかと思ったではありませんか」
袿の五つ衣の色合いが違うだけの、まったく同じ姿で叱られると申し訳ないと思う反面可愛らしいと思ってしまう。
そんな自分を内心𠮟りつけながらもう一度ごめんなさいねと微笑む。
筆の墨を付け直し、手習いを再開しようと向き直ったとき。
(あっ……これは)
先に書かれていた文字が揺らいで見え、慣れた感覚にまた筆を置く。
予知だ。
白昼夢の中視えたのは、おそらくこの七殿五舎のどこか。
どこからか入り込んだのか、野犬の凶暴な吠え声が聞こえてくる。
その野犬が吠えている先には妖狐の双子。灯と香だ。
野犬に追い詰められたのか、大きな木を背後に手を取り合い震えている。
それでもどうにか現状を打開しようとしたのだろう。
二人は青く揺らめく炎を手のひらの上に出し、涙目で野犬を睨む。
だが、逆に野犬の方も何かの危機を感じ取ったのだろう。
がうっ!
ひと際大きく吠え、その大きさに驚いた双子はびくりと震え炎も消えてしまう。
すると野犬は双子に飛び掛かり、どちらかに咬みついた。
「っ! 灯! 香!」
「っ……美鶴様?」
思わず声を上げながら覚醒した美鶴。
声をかけてきたのはいつの間にか戻って来ていた小夜だ。
「大丈夫ですか? 見たところ予知をされていた様でしたのでお声掛けしませんでしたが……」
「小夜……灯と香はどこ?」
今視たばかりの光景が頭から離れない。
咬みつかれたところで終わったのだから死んでしまうことはないだろう。
だが怪我はしただろうし、その怪我が原因で患ってしまうかもしれない。
予知は七日以内に起こる。
だから今すぐ起こることではないかもしれないが、二人の姿が見えないことで不安が増した。
「灯と香ですか? 私が戻って来たからと洗い物を雑仕女に言いつけてくると殿を出ましたが?」
「……小夜、二人を見ていてくれないかしら? あと、出来れば弧月様にお知らせしていただきたいの」
予知は弧月を通さなければ変えることは出来ない。
とはいえ弧月本人でなくても良い。弧月の命を受けた者が助けになってくれれば予知は変えられると今では分かっている。
忙しい弧月の手を僅かでも煩わせるのは気が引けるが、だからと言って二人が怪我をすると分かっているのに見過ごすことは出来ない。
小夜に今視た予知を告げ、とりあえず伝えてもらうように頼んだ。
美鶴を一人にするわけにはいかないと渋る小夜だったが、小夜の力を使えば伝達だけはすぐに出来る。双子も遠くにまでは行っていないだろうからすぐ見つかるだろうと説得し探しに行ってもらう。
「では主上にお知らせし、灯と香を探してきますので美鶴様は大人しく部屋にいてくださいまし」
「ええ」
不安気な小夜に大丈夫だと頷いた。
自分一人で行動しても良い結果になるわけではない。大人しく待っているのが一番だ。
だが、小夜を見送り手習いを再開した少し後。
一行だけだった文字が三行になる程度しか経っていない頃に、犬の鳴き声が耳に届いた。
その鳴き声が先程聞いたばかりのものと重なり、胸に靄のような不安が現れる。
(まさか……そんなはずないわよね? これほど早く予知の出来事が起こるなんて今までなかったもの)
きっと予知とは関係のないものだ。
それに、万が一予知した出来事であっても自分が出来ることはない。
予知を変えられるのは弧月だけなのだ。
そう言い聞かせながら響く犬の声を聞いていたが、どうしても気になる。
(少し、様子を見に行くだけなら……)
小夜には大人しく部屋で待つと言ったが、野犬の鳴き声は宣耀殿に程近い場所から聞こえてくる。
部屋からは出てしまうが、宣耀殿からさほど離れた場所でないなら様子見くらいしてもいいのではないかと思った。
「す、少しだけ」
誰にするでもない言い訳を口にし、美鶴は筆を置いて立ち上がる。
供もつけずに出歩くなどみっともない行為だと小夜に叱られるだろうか?
だが、妖帝である弧月の妻が美鶴一人だけという現在の後宮は単純に人が少ない。
ましてやこの宣耀殿の周囲は弧月の命によって人払いがされている。
信用できない者の出入りを避けるため、“用事のないものは近付くな”と言ったのだと以前弧月が話していた。
それでも念のため、と扇を開き顔を隠すようにして縁側に出る。
先ほどから止まぬ吠え声は美鶴の胸に靄として今も宿る。
その靄は焦燥に代わり、進む足を急かした。
今は大事な時期だからあまり動くなとも言われていたが、灯と香が心配だ。
とはいえ腹の子も大事なので本当に様子見をするだけの予定だった。
だが、吠え声を頼りに玄輝門が見える方へと足を運ぶと。
がうっがうっ!
正に先程視たばかりの光景が広がっていた。
怯えて震える妖狐の双子。
その二人を追い詰め威嚇する野犬。
現状を変えようと手のひらに青い炎を出現させる灯と香。
がうっ!
吠えられ、炎を消してしまうところまで見た美鶴は考えるより先に動いてしまう。
「っ……このっ」
持っていた扇をぱちんと閉じ、野犬めがけて投げつける。
ばしっと軽い音を立てて当たった扇は地面に落ち、野犬の意識がこちらに向く。
「美鶴様⁉」
「何故ここに⁉」
双子も美鶴の存在に気付き驚きの声を上げるが、美鶴はそれに応える余裕は無かった。
こちらに意識を向けた野犬が唸りながら近付いて来る。
縁側は地面より高さもあるし高欄もあるので飛び掛かられても届かないとは思うが、威嚇する野犬は相当気が立っているのか形相だけでも恐ろしい。
がうっ!
「っ!」
ひと吠えした野犬は美鶴の方へと走ってくる。飛び掛かってくる気でいるようだ。
助走をつけられれば高欄も飛び越えてしまうかもしれない。
美鶴は思わず腹を守る様に腕を回し、身構えた。
「美鶴様⁉」
「このっ、させるものか!」
野犬の意識が逸れたからか、声に覇気が戻った双子がまた手のひらに青い炎を出す。
二人揃って投げた炎は、今にも美鶴に飛び掛かりそうだった野犬に当たった。
ぎゃんっ!
悲鳴のような鳴き声を上げた野犬はそのまま止まってしまう。
恐ろし気な形相だった顔も穏やかになり、可愛らしさすら出てきた。
炎に包まれているのに熱くはないのだろうか? と不思議に思っているうちに灯と香が美鶴のいる縁側へと上って来る。
「なんて無茶をなさるのですか⁉」
「何故お一人なのですか⁉ 小夜姉さまは⁉」
「あ、それは……」
小夜との約束を破った状態なので口ごもるが、ちゃんと説明しなければ二人は納得しないだろう。
今の出来事を予知したこと、予知した未来を変えるため弧月に伝えて欲しいと小夜に頼んだため一人であることを伝えた。
「供もつけず、小夜との約束も破って来てしまったことは申し訳なく思うわ。でも、あなた達が怪我をしたらと思うといてもたってもいられなくて」
「美鶴様……」
「私たち、美鶴様に助けられたのですね……」
毒気を抜かれた様に二人が呟くと、焦った声が美鶴を呼んだ。
「美鶴様⁉ 何故部屋を出ていかれたのですか⁉ お約束したではありませんか!」
見ると、焦りを隠しもしない小夜が近付いて来るところだった。
いつも落ち着いた様子の小夜が焦り憤っている様子に、本気で心配させてしまったのだと申し訳なくなる。
どんなお叱りでも受けようと、唇を引き結んだ。
だが、更に叱る言葉を口にしようとする小夜の前に二対の狐耳が立ち塞がった。