偽りの花嫁~虐げられた無能な姉が愛を知るまで~

あれは、呪結式のあと。

東雲家へ向かうため、白無垢姿から着物蔵で見つけた桜色の着物に着替えたときのこと。


『お待たせいたしました、東雲様』


歩み寄ってきた和葉を見て、玻玖がつぶやいたのだ。


『…瞳子?』


――と。


あのときは、とくに気にもとめなかった和葉。

しかし、二度も名前を聞くとなると、ただの偶然ではないのかもしれない。


「…瞳子、…待ってくれ……」


――また。


しかも驚いたことに、玻玖はそうつぶやきながら涙を流していた。

狐の面から流れる一筋の涙は、和葉の膝の着物を濡らす。


「……ん…。ああ…、いつの間にか眠っていたのか…」


すると、玻玖が目を覚ました。

そして、自分の頬が濡れていることに気がつく。


「涙…?俺はなにか、うなされてでもしていたか?」
玻玖に尋ねられ、和葉はとっさに首を横に振る。


「い…いえ、なにも…!」


『瞳子』という名前が気にはなっていたが、玻玖本人に直接聞けるわけがなかった。


「夢の中で乙葉に酒を注がれて、断ることができずに困っていらっしゃったのではないですか?」

「ハハッ、そうかもしれないな」


いつもと違う素振りもなく笑う玻玖。

どうやら、『瞳子』とつぶやいたことには自覚はないようだった。


「そういえば、着物の懐になにか入れているのか?寝返りしたとき、硬いものがあったんだが」

「硬い…もの…!?」


和葉はごくりとつばを呑んだ。


玻玖の顔が当たったところには、貴一から渡されたあの短刀がある。


その暗殺用の短刀の存在を玻玖に知られてしまったら――。

やさしい玻玖だって、きっとさすがにこの屋敷から和葉を追い出すことだろう。
一度だけではなく、二度も騙すことになるのだから。


処分も、追い出す程度で済まされるとも思ってはいないが。


「こんなところに、隠すものでもあったか?」


玻玖は、そっと和葉の着物に手を伸ばした。

適当な言い訳も見つからない和葉。


…もうだめだ。

玻玖に気づかれる。


和葉はギュッと目をつむり、潔く覚悟を決める。


「…なんだ、これは?」


ついに見つかってしまった。

第2の暗殺計画が――。


震える和葉。

おそるおそる目を開けると――。


「これは…、手鏡…か?」


そうつぶやきながら、玻玖は丸い鏡の部分が抜け落ちた朱色の漆で塗られた木の枠を持ち、不思議そうに眺めていた。


それは、ずっと前に乙葉とぶつかったときに落として割れた、和葉が大事にしていた手鏡の枠だった。
和葉は、幼少期の幸せな思い出の詰まったその手鏡が、鏡の部分が割れて抜け落ちたというのに、その日から変わらず着替えるたびに帯に挟んでいたのだった。


これを見ると両親の顔も思い出されるが、それよりもこの10年以上毎日帯に挟んでいたため、和葉の中では習慣化していた。


入れておかないと、落ち着かないというか。

入れない理由も見つからないから。


「…前に落として、割れてしまった手鏡です。いつも帯に入れていたので、わたしのお守りと言いますか…。鏡としては使えないのに、どうしても手放すことができないのです」

「そうか。細かい花の絵も描かれて、きれいなものだな。手放したくない気持ちもわかる」

「はい…」


和葉は、玻玖から渡された手鏡の枠を再び帯にしまう。


「そうだ。あの娘に、うちにいると黒百合さんに文を飛ばすように伝えておいてくれるか?」
「あの娘…とは、乙葉のことですか?」

「ああ。きっと黒百合さんも心配していることだろう。しかし、前に啖呵を切った手前、俺から文を飛ばすのは気が引けるからな」

「旦那様が気に病まれることではありません…!乙葉にはそう伝えておきます」

「ああ。そうしてくれると助かる」


玻玖は、いつだって和葉のためを思っている。

さらに、乙葉の心配までも。


それなのに、自分はなんてことを考えているのだろうか――。


和葉は、短刀が仕込まれている着物の懐に手を添えた。


「どうかしたか?」

「い…、いえ…!」

「それでは、そろそろ寝るとするか」

「はい」


玻玖は和葉を部屋へと送り届けたあと、自分の部屋に戻るのだった。


翌日、乙葉は和葉に言われたとおり、黒百合家に嫌々ながら文を飛ばした。
乙葉がいなくなって、貴一も八重も心配していたことだろう。

まさか、東雲家の屋敷に家出にきたとは予想外だろうが。


乙葉は、そのうち帰るという内容を書いていたため、貴一や八重が無理やり連れ戻しにくることもなかった。

そもそも、玻玖とは顔を合わせられないだろうから。


そして、乙葉がきて5日ほどがたった。


「和葉様、今日の夕食はさんまにいたしましょうか」


買い物から帰ってきた菊代が和葉に声をかける。


「旬もののさんまはこれで最後とのことなので、買ってまいりました」

「いいですね。それじゃあ、塩焼きにしましょうか。七輪はありますか?」

「七輪…でございますか?」

「はい。実家では、それでさんまを焼いていましたので」


洋食好きな乙葉でも、旬のさんまの塩焼きは大好物だった。
玻玖にも、おいしいものを食べてもらいたい。


そこで、七輪の炭火でじっくり焼こうと思っていた和葉。

しかし、なぜか菊代は渋っていた。


「あの…わたし、なにかおかしなことでも…」

「…い、いえ!そういうわけではございませんが…。七輪となると、外で火を…」


狐の面で菊代の表情は読み取れないが、困っているということはわかる。


「…そうですねぇ。玻玖様が戻ってこられるのもまだ先ですし…」


つぶやく菊代。


「わかりました!それでは、和葉様にお任せしてもよろしいでしょうか」

「はい!任せてください」

「それでは、すぐに七輪の準備をいたしますね」


渋っていた菊代だったが、なにを思ったのかすぐに外に七輪と炭を用意した。


うちわで扇ぎながら、ゆっくりじっくりさんまを焼く和葉。
その匂いは風にのって、乙葉を呼び寄せてきた。


「あら、おいしそう。今日の夕食はさんまの塩焼きね」

「そうよ。…ところで乙葉、いつまでもお客様気分ではなく、少しは菊代さんたちのお手伝いをしたらどうなの」

「まあ!お姉ちゃんったら、わたくしに使用人の仕事をしろとおっしゃるの?」

「そういうわけではなくて、乙葉も結婚するのだから…。清次郎さんにおいしい食事を作るための練習くらい――」

「だから今は、清次郎さんの話も出さないで!」


乙葉を諭すつもりが、逆にへそを曲げてしまった。


そもそもは自分が悪いというのに、貴一と八重に叱られる原因となった清次郎に、乙葉は腹を立てていた。


「それにわたくし、まだ清次郎さんと結婚すると決めたわけではないから」

「え…?この前、結納を交わしたというのに?」
「あれは、お父様たちが勝手に取りつけただけ。たしかにお顔はまあ悪くはないけれど、わたくしの着る着物にまで指図するなんてありえないわ!」

「そこは…2人で話し合って折り合いを――」

「妻の着物ひとつひとつに口を挟まないと気がすまないのかしら。あーあ、清次郎さんって女々しいお方」


乙葉の話を聞いていると、結納は交わしたものの、婿として気に食わないことがあれば、この婚約を白紙に戻せると思っているようだ。


結納のときに見た清次郎は、どちらかというと乙葉に気があるように見えた。

そんなつもりで着物のことを言ったわけではないのだろうけど、相手はこれまで人の気持ちなど考えずにわがまま放題に育てられた乙葉。


姉としては、清次郎が不憫に思えて仕方がなかった。


「それに比べて、東雲様は…」