「この子の人生に沢山のめばえがありますように、芽。この子の人生に良い風が吹きますように、薫」
「素敵……沢山の願いがこもってる」
芽、薫。
芽、薫。
心の中で何度も繰り返す。優しくて温かい響きだ。
たくさんの人にこの名前を呼んでもらって、二人はきっと素敵な大人に育つ。名前に負けないくらい、素晴らしい人生を生きるはずだ。
「芽、薫」
「そんなに何度も別の男の名前呼ばれたら、流石にちょっと腹立つなぁ」
「息子たちに何言ってんの」
バカ、と肩を叩いて笑う。
隆永に頭を引き寄せられてその肩に寄りかかった。
その日は突然訪れた。
隆永が朝から仕事で外へ出掛けていて、幸は最近日課にしていた本殿の参拝に出掛けていた。
今朝起きた時からいつもよりもお腹が張っている気がしていたが、突然襲った下腹部の痛みにその場に蹲る。
すぐに社頭の掃き掃除をしていた神職が駆けつけて部屋へ戻ると、すぐにお産の用意が整えられた。
予定日が近づくにつれ、隆永がどんどんやつれていくのが目に見えて分かった。隆永は「3人とも俺が助ける」という約束を果たそうと懸命にその方法を探してくれていた。
昨日の夜もそうだ。こちらに背を向けて文机に向かう姿があまりにも切なくて、そっとその背中に寄り添った。
────隆永さんは私のわがままのために最善を尽くしてくれた。でも、叶わなかった。
「真言さん……っ」
部屋の外に控えているであろう真言に声をかけた。すぐに返事がある。
「隆永、さんは……?」
「もうあと二、三時間で戻られます。ご安心ください」
聞こえた真言の声が湿っぽく震えているのに気が付き小さく笑った。
長い夜が始まる前に隆永が駆け付けた。
乱れた服のまま部屋に飛び込んできて抱きしめられる。隆永は何も言わない。ただひたすらに震える手で離すものかと力いっぱいに抱きしめる。
「隆永さん……」
「……俺はまだ諦めてない。三人とも助ける」
幸の身体を離した隆永はその白い手を両手で握り祈るように額に当てた。
「掛も畏き大神の御前に白さく 我家の妻毎月の障りを 見る事なく身重り來て 今其れを産むべき月に當りて 親族家族もろもろ深く思ひ煩ひて 一向に大神の恩頼を仰ぎ奉るとして 種々の物奠り 乞ひ祈み奉るが故に 其の腹の 堪へ難ちなるに及ては────」
痛みの中で子守唄のように心地よい声を聞いた。
ここ最近、夜にふと目が覚めて夢と現の狭間でぼんやりしている時に聞こえてきた声だった。
ずっと夢かと思っていたけれど、そうか、この声は隆永さんの声だったんだ。
「……悩む事なく苦む事なく 安けく平らかに愛き眞玉なす子を 産み出でしめ給ひて 母の身も 病しき事なく 嬰児も悩しき事なく 諸共に健全に 日毎に麗しく 日立ち行きて事なく 榮へあらしめ給へと 恐み恐み 白す───」
最後の一語が囁かれた後、またすぐに同じ言葉を繰り返す。
「安産祈願祝詞……」
お産の手伝いでそばに控えていた巫女のひとりがそう呟く。
安産祈願祝詞……?
幸は聞き返そうとしたが新たに襲い来る痛みに唇を噛む。
隆永の手をきつく握り返した。
耳に痛いほどの静かな夜に、小さな産声が上がった。
その瞬間、産声を中心にふわりと優しい風が生まれて社中を吹き抜ける。
その風は、隣室に集まっていた神々廻家の一族の元にも届く。いち早く気がついた真言が喜びの表情を浮かべ、すぐに顔を曇らせた。
「生まれたか!」
「この風……やはり言祝ぎは兄に偏ったか」
「ならば今すぐ二人目を抹消すべきだ!」
「凶兆だ。我々の手には負えんぞ」
立ち上がった神職たちに、真言が障子の前に立つ。
「まだ二人目のお子はお生まれになっておりません!」
「退け、真言。言祝ぎが偏ったということは、次に生まれるのは"呪い"だ。被害が出る前に抹消する」
「"呪い"ではございません、宮司と幸さまのお子です!」
「このままでは大勢の者がその子供に呪われることになるんだぞ!」
「ですが……ッ!」
強く押しのけられた真言は部屋の隅に転がった。壁に背中を打ち付け呻き声を漏らす。
くそ、と己の非力さに拳を握った。
「────隆永さ……今の、何」
震える声でそう問いかける幸に、隆永は奥歯をかみ締めた。
「ねぇ……どう、いうこと? 抹消って、何……?」
「ごめん……っ」
「どうして、謝るの……?」
幸には黙っていたことがあった。生まれた二人目の子供についてだ。
一人目が生まれた瞬間その子に言祝ぎが偏った場合、二人目の子供は生まれた瞬間文字通りその場で即時抹消される。
二人目に産まれてくる子供の呪が強すぎるあまりの措置だった。
そんな事を幸に伝えられるはずがなかった。自分の命をかけてでも、二人揃って産むことを誰よりも望んでいたのが幸だった。
再び下腹部の激しい痛みに幸は歯を食いしばった。
「幸さま、頑張って下さい!」
巫女たちが励ましの声をかける。
幸の目尻から涙が溢れた。
「殺さないで、お願い。隆永さん、お願い……っ」
呻き声の合間に、息を切らしながら幸が叫んだ。
「お願い、この子には……薫には、幸せになって────……ッ!」
これまで下腹部の痛みとは違う、まるで内側から全身を蝕む様な感覚に息が止まった。身体中が燃えるように熱いのに手の震えが止まらない。
訳が分からずただひたすら胸の中を悲しみと恐怖が支配する。
目の前が真っ暗になって力が抜けていく。
「宮司! 幸さまに呪いが……!」
力の抜けた手が隆永の手からするりと滑り布団の上に落ちた。
「幸! 幸!?」
薄れていく意識の中で、隆永が泣きそうな声で名前を呼ぶのを聞いた気がした。
1999年、春。
わくたかむの社敷地内の最奥にある、ひと気のない小さな離れの廊下を歩く小さな人影があった。
白衣に白袴姿のその子供は、何度も鼻をすすり目尻を強く擦りながら歩き続ける。
最奥の部屋にたどり着いて障子の前に立つと、中から衣擦れの音がした。
「薫……? どうしたの、入っておいで」
中から声を掛けられて、薫はそっと障子を引いた。
開け放たれた縁側からふわりと桃の花びらが舞い込む部屋の中に、布団の上に座る女性がいる。
「ふふ、また泣いてるの?」
目を細めて両手を差し出せば、薫は駆け寄ってその胸に飛び込んだ。
「お母さん……っ! もうやだ……!」
火がついたように泣き出した子供を何も言わずに抱きしめる。
「まだお稽古の時間でしょ? 逃げ出してきたの?」
「だって、だって、痛いんだもん……! 血でたの、もうヤダっ!」
「どこ? みせて」
泣きじゃくりながら自分で袴をまくって見せた薫に眉根を寄せた。
まだ小さく細い二の腕を刃物で切った様な痛々しい切り傷がある。それだけではなく、治りかけの青アザや蚯蚓脹れが至る所にある。
痛々しいその傷跡を労わるようにそっと撫でた。
絆創膏を貼ってやれば、また胸に顔を埋める。
「いつものやって……」
唇を尖らせてそうねだる姿に微笑む。
「ふふ、はいはい。……痛いの痛いの、飛んでいけ。痛いの痛いの、飛んでいけ」
優しく背を叩きながら囁くように言葉を紡ぐ。
この声でこの子の痛みが和らぎますように。
自分に特別な力は無いけれど精一杯そんな気持ちを込めて囁く。
暫くそうしているうちに、安らかな寝息が聞こえ始める。そっと顔を覗き込めばあどけない寝顔があった。
自分の布団に寝転がらせてそっと腹に布団をかける。
ちょうどその時、廊下側の障子に人影がさして、すっと開いた。
「幸?」
「隆永さん」
「またここに逃げ込んでたのか」
心地よさそうにすやすやと眠る姿に険しい顔をした隆永は息を吐いて歩み寄った。
「ここに逃げてくれば、助けてもらえると思ってるのよ」
「甘やかしちゃダメだっていったろ。薫には必要な事なんだ」
そうは言いつつ、隆永がいつも薫が疲れて眠った後に様子を見に来ていることを知っている。
「ふふ、分かってるよ。でも、薫を甘やかしてくれる大人も必要だと思うから」
そう笑って薫の頭をそっと撫でる。
呆れたように息を吐いた隆永は、幸の隣に腰を下ろした。