もう、朝は大分涼しくなってきた。しかし、昼間は夏と変わらぬ日もあって、コトには以前の海と同じように帽子と日傘を持ってもらった。過保護だと笑うが、修たちはいたって真剣だ。それに今日は、俊彦さんの眠る所へ行く。元気な姿を見せなければ心配されてしまう。

「車椅子じゃなくて平気?」
「平気よ。お寺までは歩くだけだし、坂道もたいして無いわ」

 コトと芽衣が歩く後ろを付いていく。並んでいる景色はまるで仲の良い親子にも見え、とてもこの一年間、他人として別々に暮らしていたとは考えられない。途中、休憩しようと提案したが、疲れていないとやんわり断られたので、殊更ゆっくり進んでいった。

 大通りから一つ奥まった所に、寺があった。修のアパートから二駅も離れていない場所だが、大学かコトの家ばかりの毎日だったから、こんな近くに大きな寺があるとは知らなかった。

「毎年、ここへお参りに来ていたはずなんですけど、何故でしょう。俊彦さんとつい最近、別れたばかりな気がして。いやね、年を取ると涙脆くなってしまって」

 ハンカチで目元を押さえる手に、自分のそれを重ねる。

「そんなことないです。いつだって、俊彦さんはあなたの傍にいますよ」
「そう、そうね。ぜいたくな女だわ、私」

 贅沢なものか。結婚も出来ず、いなくなってしまった最愛を想い、戦後の混乱の中赤子を抱えながら。どんな気持ちで過ごしてきたのだろう。近くにいられなかった歯痒さを感じる自分が、なんだかおかしくて、ただコトの手を握るばかりだった。

「おばあちゃん、始めちゃうよ」
「僕、手伝います」

 花を供え、ちょろちょろ生えている草を抜く芽衣に倣う。恥ずかしながら、墓参りは片手で足りる程しか行ったことがなく、親が作業しているのを見ているばかりだったので、芽衣の仕草を真似するに留まった。

 周りの墓と比べて雑草が少なく、誰かが世話をした跡が見てとれる。コトと住居を別にしてからも、一人できちんとしていたのだろう。

「ここ終わったら、私たちの方もお参りしよううね」
「そうね。せっかく来たのに挨拶しなかったら、あの子たちきっと拗ねてしまうわ」

――別、なんだな。

 当然、と言ったら当然なのかもしれない。婚約はしても、籍を入れていなかった二人は、名字が違えば入る墓も違う。それでも、俊彦さんとの息子を自分の手で育てられただけ、彼女は幸せだったのだ。

 コトの顔が、始終涼やかに俊彦を見守る。何年も、何十年も続けてきた、二人の逢瀬。

 人間、何が起こるか分からない。健康だった人がいきなり不治の病を宣告されたり、道を歩いていたら横からわき見運転の車が突っ込んでくるかもしれない。大怪我から治ったところへ、さらに流行り病をもらってしまうことだって。

「水汲みに行ってくるね」
「有難う御座います」

 いろいろなことがあった。二十年しか世の中を見てきていない修よりも、激動を生きてきたコトは実に穏やかで、きっと想像出来ない強さを秘めている。

「お参り出来て、よかったですね」

 長いこと手を合わせていた背中に、声をかける。振り向いて彼女が言う。

「ええ、久しぶりに俊彦さんと会えた気分だわ。大好きな人が私を選んでくれて、その人の子を産んで、可愛い孫まで。今になって、若いお友だちも出来たりしてね。ほんと私、幸せ者」

「僕も。趣味が同じ上品で美しい方と知り合えて、毎日が幸せです」
「まあ、お上手」

 平坦ではない、苦しい道を歩んできた。しかし、その中には確かに花が咲いていて、幸せと言える彼女と、出会えてよかった。

 なんとなく、今日言っておかなければならないと思った。一緒にいる意味合いは分かっている風ではあるが、しっかり言葉にして伝えていない。芽衣がすでに報告している可能性もあるが、それでも修自身が言わなければ。こんな時に、古めかしい責任感が募る。

「あの、コトさん。実は僕、芽衣さんと」

 そこで手のひらが顔の前に差し出された。まさか制止されるとは考えておらず、頭が白くなる。「違うのよ」反対しているわけではない、コトが首を振った。

「分かっています、修さん」

 胸を撫で下ろしていると、その手のひらが上へ伸びて、修の頭を優しく一撫でして去っていった。

「あなたはいつも笑顔でいらっしゃる。それだけで、私は十分です」
「あ」
「ね、大丈夫」
「有難う、御座います」

 太鼓判を押されてしまった。身が引き締まる思いだ。

 コトに「大丈夫」と言われたら、大丈夫な気がする。もちろん、誰に何を言われようとも、何が起ころうとも芽衣と離れるつもりはないけれども。

 何の頼りもない一介の学生で、就職活動すらしていない年齢の身分であるのに、両手を広げて歓迎してくれる様が、心うちをむず痒くさせた。

 続いて山口家の墓参りも済ませると、ちょうど太陽が真上にあったので、近くで昼食をとることになった。寺を出ようとしたところで、高齢の住職とすれ違う。

「これはこれは、お久しぶりです。コトさん」
「そちらもお元気そうで」

 二、三言話して、止めていた足を動かす。住職は歳の割に背筋がピンと伸びていて、思わず姿勢を改める。会釈をしたら、手を振られた。その仕草さえ、絵になる。

「お知り合いの住職さんなんですね」
「とっても落ち着いた方でしょう」
「はい」

 何故かコトはくすくす笑って、修の耳元へ顔を近づけた。

「あれでも、昔はやんちゃ小僧だったのよ。悪さが過ぎて、よく先代の住職さんに叱られてべそをかいていたわ」

「内緒ね」人差指を立てて、いたずらに口が弧を描く。なるほど、彼も、コトの幼馴染というわけか。

「家はまあ、引っ越してしまいましたけど、近所だから。昔からずっとここに住んでいると、みんなおじいちゃんおばあちゃんになって、お友だちが減ったり、またちょっとだけ増えたり。悲しいこともあるけれど、移り変わりが見えるから楽しいのです」

「素敵な考えですね」
「そういうの、いいなあ」

「旅行へ行ったり、仕事で引っ越したりするのも面白いと思うけれど、一つ、自分の町だと思える場所があると、ほっとするの」

 きっと、住む所、というより、心の拠り所であるのだろう。