誰かにも、ああして作ったりしているのだろうか。二十代であれば珍しくもなく、ごく自然なこと。自分の部屋と錯覚する程のんびり寛いでいると、時計が視界の隅を掠めてようやく大分遅い時間を刻んでいることに気が付いた。

「しまった。長居してすみません、そろそろ失礼しますね」
「それじゃあ、私も」

 濡れた手をタオルで拭きながら戻ってくる。コトは二人の会話を聞いて眉根を寄せた。修は何を言うでもなく会釈する。声をかけることは俊彦の権利であり義務であり、修がしていいことではないように思われた。玄関先まで送るコトの姿がやけに寂し気で、こちらへ振る手が心なしか震えていた。

「桃子さん、家はどちらですか。送ります」
「近いので大丈夫ですよ。それより、修さんの方こそ親御さんが心配されませんか」

「一人暮らしなんで」
「……私もです」

 ゆっくり桃子と話し合う機会が来るとは。女性に聞くのも失礼で遠慮していたのに向こうから修の年齢を尋ねられたことで機会を得て、彼女は五歳年上の二十五歳だと分かった。案外離れていたが、むしろ珍しい年上の友人に嬉しくなる。桃子も一気に距離を縮めてくれ、年下の修に対する敬語も自然と剥がれていった。

「それで、芥川は一高を新しく実施された無試験入試で合格したんですけど、入学後も怠けることなく一位の井川と切磋琢磨したからか優秀のまま二位の成績で卒業して」

「周りのお友だちも優秀だったり作家になられたりしてるんですね。すごいなぁ」

「物語を書くって、やっぱり知識が豊富でないと難しかったんでしょうね。今だったら、分からないことはすぐ調べる方法はいくらでもあるけど、昔は自分の中に溜めておかないといざ書きたい時に書けないですから。とは言っても、現在の作家が無知ということじゃなくて、昔の方がより大変だったということだと思います。リアリティを求めるならそれに伴う知識が必要ですし、あっと言わせる文章を書きたいならその倍以上驚く経験をしていないといけない。逆に、全く経験せず家に閉じ籠っている若者が世の中をねじ伏せる文章が書けるとしたら、それこそ天才なんでしょう」

「はあ……どちらにせよ私には遠い存在ね」

 思い付くことを次々に言葉にする修をないがしろにせず、一生懸命聞いてくれる桃子に嬉しくなる。それにしても、遠い存在は修も同じであるのだが、桃子の言う意味とずれている気がして首を傾げた。

「桃子さんだって本を読むじゃないですか。うちのレストランでもいつも読んでますし」
「ああ、あれは」

 桃子が赤くさせた頬を掻く。反応を見て初めて、バイト中じろじろ観察していたと言っているような科白を吐いてしまったことに修は慌てた。

「すみません、変なこと言って」

「大丈夫。それにあれは、コトさんや修君みたいな読書の真似事をしているだけで……。コトさんが好きな本を知られれば、少しは楽しい会話が出来るかなって。でも、私には無理。すぐ難しくなって飽きちゃう」

 寂しそうな横顔に言葉が詰まる。同時に、真剣な姿勢に心が打たれた。単なる触れ合いで済まさない、親身になる彼女の温かさを尊敬した。だからだろうか、修にとってはおかしな提案を初対面相手にしでかしてしまった。普段異性と絡むことのない人間が失敗も考えずに行動するとは。流れに身を任せることは、時として不可思議な出来事を引き込んでしまうらしい。

「では、とりあえず本屋巡りでもします? 図書館でもいいですし。別に話の真相を事細かく説明したら喜ぶわけでもないでしょう。桃子さんにとって大事な作品が、作家が一人でもいて、それだけでコトさんは嬉しいと思いますよ。迷惑でなければご一緒させてください。ちょうど僕もコトさんの本棚に感化されて、狭い我が家に本棚を迎え入れようと思ったところなんです」

 沈黙が五月蠅い。風が止んだと錯覚するくらいだ。じじ、街灯が泣き声を上げて時間が戻ってきた。

「それは是非! 私、コトさんともっと仲良くなりたいの。もちろん、修君とも」

 ウインク付で返された言葉に、月が穏やかに微笑む。年上の女性は皆一様に余裕を帯びた会話術を身に着けているのだろうか。甚だ己の言葉の稚拙さを痛感した夜だった。