◇
「また、雨……」
ザアザア、窓打つ豪雨は外の世界を白くかき消すほど強く降り注ぐ。襖の向こうにあるテレビからは、大型低気圧だとか線状降水帯だとか、天候のあれこれを読み上げるアナウンサーの声が漏れ聞こえていた。
僕は小さく息を吐き、雷が不気味に光る外の景色を見つめる。
「つまんないな……」
もう一度溜め息を吐いて呟き、勉強机に頬杖をついた。もう八月も最終週。来週からは学校が始まる。最後にもう一度くらい海に足を運びたいのに、それすら許されそうにない。
ふと一瞥した狭い六畳間の片隅には、埃が積もり始めていた。こういう時にぐらい掃除をするべきなのかもしれない。そう考えながらも、頭の中には一青くんの顔が浮かんでしまう。
(ラーメン屋さんに行けば、一青くんがバイトしてたりしないかな)
無意識にそんなことまで考えてしまって、僕はいやいやとかぶりを振った。
一青くんには一青くんの生活がある。もちろん他の友達と遊ぶ時間だって必要だろうし、僕がわがままを言ってはいけない。
そう自分に言い聞かせていると、不意に襖の向こうから「悠陽」と呼びかける声がした。
「あ……は、はい」
「今、紅茶を淹れたの。シュークリームもあるんだけど、一緒にどうかな」
顔も見ず、襖越しにやり取りする母との会話。この人と会話をする時はいまだに緊張してしまう。
彼女の求める〝悠陽〟でいなければならない──勝手にそう考えてしまって、肩に力が入るのだ。だが、そんな僕の緊張を和らげてくれるのも、少し前に一青くんがくれた言葉だった。
──あんたは今、ちゃんとあんただ。
(……僕は今、ちゃんと、僕)
ぐっと奥歯を噛み締めて、僕はリビングへ続く襖を開いた。母は一瞬すごく驚いたような顔をした。
「食べる……シュークリーム」
控えめに告げる。しばらく硬直していた母だが、程なくしてすぐに表情が綻んだ。
「す、すぐに用意するね! 座っててちょうだい!」
口角が上がり、声も明るく弾む。まさか僕が本当に部屋から出てくるとは思わなかったのだろう。
嬉しそうに台所へと駆けて行き、皿に取り分けたシュークリームとアイスティーを慌ただしく用意してくれた。
「さ、食べて。お砂糖もあるからね。牛乳もあるわよ」
「……ありがとう。いただきます」
「ふふ、今日初めて行ったお店で買ってみたの。口に合うといいんだけど」
母は頬を緩め、にこやかに僕の顔を見ている。
こうして向かい合ってご飯を食べるのが、前はとにかく気まずかった。だって、母は昔の僕の好きなものばかり用意するから。
だが、少しだけ心の余裕を取り戻したせいか、今は気まずいというよりも、小っ恥ずかしいという気持ちが勝っている。これも一青くんの言葉のおかげかもしれない。
「いつのまにか、日に焼けたのね、悠陽」
愛しむような視線をこちらに向け、母は呟く。
たしかに、以前よりも自分の肌は小麦色になってきていた。小さく頷けば、彼女は続ける。
「最近もまだ海に行ってるの?」
「……うん」
「そう。すっかりハマっちゃったのね。釣りは楽しい?」
「釣り、というか……友達が、できて」
「まあ、そうだったの! それはよかったわ!」
何気ない会話を繰り返し、砂糖を入れたアイスティーをストローでかき混ぜる。むず痒い気持ちになりながら俯いていると、母は薄く微笑んだ。
「……ごめんね、悠陽。私、反省したの」
「え……?」
「私、あなたに〝前みたいな息子に戻ること〟を、ずっと押し付けちゃってたのかなって」
伏目がちに呟き、母は棚に置かれた写真を見つめる。花の飾りがついた写真フレームの中では、幼い頃の〝悠陽〟が、泥だらけの手を見せつけながら笑っていた。
「前の悠陽は、あまり甘いものを食べなかった。紅茶はストレートしか飲まないし、夏でもホットしか飲まない」
「……」
「でも、あなたは逆よね。甘いものの方が好きで、熱いものは少し苦手。前とは違う……だけど、変わらないところもあるの。お箸の持ち方だったり、気まずい時にまばたきが多くなるところだったり、寝癖のつき方だったり。私はお母さんだから、よくわかる」
優しく語り、母は笑った。
「どんなに印象が変わっても、あなたはあなた。私の息子。そんな簡単なことすら、気づくのに時間がかかっちゃった」
「……」
「ずっと悩ませていたでしょう、ごめんなさい。悠陽は悠陽なのにね。……お母さんが悪かったわ」
頭を下げられ、息を飲んだ。
白髪混じりのつむじ。あかぎれの目立つ細い指。ずっと向き合うのが怖いと思っていた〝母親〟。それは、こんなにも小さく、か弱い生き物だっただろうか。
「……僕も、ごめんなさい」
しばしの間を置いて、自然と声がまろび出た。母は顔を上げ、僕を見つめる。
「僕、ずっと、今の僕のことしか考えてなかった。前の僕から逃げて、あなたから逃げて……色んな過去から、目を背けてた」
「……」
「ねえ、お母さん」
初めてちゃんと〝母〟と呼び、真正面から彼女と向き合う。
ずっと怖かった。失望されているのではないかと。以前と違う僕が、周りから期待されるすべてに、泥を塗っているのではないかと。
僕が〝悠陽〟でいていいのか、ずっと不安だったんだ。
「僕、あなたの、子どもでいいの? 〝悠陽〟って、名乗っていいの……?」
「……あははっ! 何言ってるのよ、バカね」
明るい声で笑い、母は自身の目尻に浮かぶ涙を拭う。まるで何かが吹っ切れたような、晴れやかな笑顔だった。
「何度あなたの記憶がなくなっても、私はずっと覚えてる。あなたはずっと、私の産んだ愛しい息子よ、悠陽」
くしゃり、頭を撫でられ、照れくささに視線が泳いだ。
生活感のある家の空気も、部屋干しされた洗濯物から香る柔軟剤の匂いも、前ほど居心地悪く感じない。むしろどこか懐かしいような、ふわふわした感情が迫り上がって、やっぱり少し恥ずかしい。
溶けていくアイスティーの氷。あまり調子がよくない換気扇の音。ガムテープで穴を隠した襖。立て付けの悪いベランダの網戸。
ここが、悠陽の育った家。
そして、今の僕の家なのだ。