「……あんまり、言いたく、ない」
「え」
「い、いや、違う! 別に君のことが信用できないとかじゃなくて! これは、その、僕自身の問題というか……!」
必死に弁明し、じっとこちらを見つめる黒い双眸に背筋を冷やす。ぎゅうっと自身のTシャツを握り込み、僕はか細く告白した。
「……僕、実は、記憶喪失なんだ」
「は?」
「少し前に、事故に遭ったらしくて。それまでの記憶、全部なくなっちゃって……」
「え、マジ? そんな映画みたいなことあんの?」
「僕も、よくわからない。目が覚めたら、僕は、今の僕だったんだ。親の顔も、友達の顔も、みんな覚えてない……みんなは、昔の僕を覚えてるのに」
小さな声で語り、スープに浮かぶ透明な脂を見つめる。
僕の友人だという人たちから教えてもらった情報によると、以前の僕は、明るく気さくなムードメーカーだったという。常に笑顔で、いつだって輪の中心にいて、悩みもない、太陽のような人。嫌われる要素なんて微塵もない人気者だったそうだ。
ところが、今は違う。
人の目もまともに見れず、明るさや積極性など皆無で、心の内側に閉じこもっている──それが〝僕〟である。
僕の友人だという人たちは、少しずつ、僕のそばを離れていった。
「……今日、一青くんが、疑似餌のこと教えてくれたでしょ。僕は、アレと一緒だよ」
苦笑いで口にした言葉に、一青くんは黙って耳を傾ける。
「今の僕は、本物そっくりなただの偽物。周りはみんな、僕が、本物の〝僕〟の動きを真似ることを求めてくる」
「……」
「僕にも、ちゃんと名前はあるよ。でも、その名前を持っていたのは、前の僕だ。今の僕の名前じゃない」
「だから、さっき名乗りたくないって言ったわけ?」
「……うん」
わがままでごめん、と謝りつつ、僕は残り少ない麺を箸で掴んだ。
「太陽なんかとは程遠い僕みたいなのが、太陽みたいだった前の僕の名前を使うのが、すごく申し訳ないんだ」
するり、掴んだ麺は箸の間をこぼれ落ちていく。
「……だって、僕は……昔の僕が積み上げてきた、僕自身の顔に、泥を塗ってばっかりだし……」
「へえー」
一青くんは興味なさげに相槌を打った。彼はズズズッと麺をすすり、咀嚼もほどほどに飲み込んで、箸を置く。そして、はっきりと告げた。
「ぜんっぜん分からん」
「……へ?」
「別によくね? だって、もうどこにもいないヤツの顔なんだろ? いなくなったヤツの顔に泥塗ろうが、ペンキ塗ろうが、そんなんあんたの勝手だし、別にそいつも文句言わねーだろ」
平然と言い放ち、彼はカウンターに軽く身を乗り出すと「オヤジー! 替え玉ー!」と堂々叫ぶ。一方、僕は想定外の返答に混乱していた。
「ぺ、ペンキって……」
「そもそもさ、前のあんたは、本当に太陽みたいにギラギラして、悩みなんてなーんもない、完全無欠の幸せ者だったわけ?」
「え……」
「そんなん分かんねーじゃん? 所詮は第三者が勝手に考えてるだけの、昔のあんたのイメージだ。実は泥ん中這ってたかもしれねーんだし、泥でも団子でも、遠慮なく投げつけてやれよ」
「……」
「言ったろ、人は見かけによらねーの。オヤジだってそうだし、俺だってそう。だから、昔のあんただって、それなりに悩みがあったと思うし……いや、誰からでも好かれる明るい人気者に、まだ悩むようなことがあるのか分かんねーけどさ……」
心做しか遠い目をして、一青くんは口にした。その横顔を見つめていると、なんとなくむず痒いような、不思議な感覚が胸に生まれた。
「まあ、とにかく、大丈夫だって」
彼はこちらを見て、柔らかく微笑む。
「あんたは今、ちゃんとあんただよ。前と色々変わったのかもしんないけど、少なくとも俺は、あんたの印象悪くない」
まっすぐ、素直に放たれた言葉。そのストレートな言葉で、ずっと肩に重くのしかかっていた何かが、徐々に軽くなって消えていくように思えた。
力が抜け、涙腺まで緩む。じわ、とぼやけて滲む視界の中。一青くんが笑ったことだけ、ちゃんと分かった。
「僕ちゃんも、替え玉する?」
「…………うん」
「オヤジー! 替え玉もう一丁!」
「大将って呼べ!」
あははは、と隣から聞こえる笑い声。日に焼けた横顔が、とても綺麗で、まっすぐで、眩しい。
──僕は、今、ちゃんと僕だ。
しょっぱい涙を飲み込んで、僕は箸を強く握り、残っていた麺とおにぎりを頬張った。