(……え……ちょっと、待ってよ)
背中が異様に冷えていく。最悪な疑惑にたどり着く。
よく考えたら、僕の家には父親の気配がひとつもなかった。僕の写真はあるのに、父の写真は一枚も見たことがない。あれほど僕の思い出が溢れて胸焼けするような家の中なのに、不自然なほど、父親の痕跡が残されていないのだ。
昔、色々あって、母との関係がギクシャクしていたという僕。
だが、喧嘩したわけでも、反抗期だったわけでもないと彼女は言っていた。
であれば、原因は──。
「もしかして……」
僕は嫌な予感を抱えたまま、オヤジさんにタオルと傘を返し、身をひるがえした。後ろから声が聞こえたけれど、構っている余裕などなかった。
ぬかるんだ土を踏み、泥水が跳ねる。サンダルの中に砂利が入って痛い。けれど足を止めない。
やがてアパートまで帰ってきた僕は、階段を駆け上がって玄関を開けた。息を荒らげ、ずぶ濡れで帰宅した僕。母は驚いた様子で立ち上がり、慌てて駆け寄ってきた。
「悠陽! 急に出ていくから心配したじゃない、こんな雨の中どこ行ってたの!? まさか、また一青くんと──」
「お母さん!」
濡れた手で肩に掴みかかる。母は言葉を詰まらせた。
僕はひとつ生唾を飲み、荒らぐ呼吸の隙間で声を絞り出す。
「僕の、お父さんって、どこにいるの……!」
その問いかけに、母は露骨に狼狽えた。ああ、やはりこの話題が、この家にずっと巣食っていた気まずさの種なのだと確信する。
やがて彼女は眉根を寄せ、深く息を吐き出した。
「……一青くんに、会いに行ったのね」
どこか諦めたような声だった。
母は一度僕から離れ、風呂場からバスタオルを持ってくる。
しばらく沈黙が続き、テレビから流れるニュースの音だけが耳に届いていた。
しかしやがて、雨に濡れた僕の体を拭き上げた母が、近くの柱に目を向ける。
「そこの柱、分かる?」
「……うん」
「よく見たら、低い位置に落書きがあるでしょう」
そっと指をさす母。彼女が示した柱には、子どもの書いたような落書きが残っている。
「あれはね、あなたと一青くんが小さい頃に落書きしたのよ」
「……」
「壁にあるシールの剥がし残しも、あなたたちが貼った跡」
「……一青くんって、昔、このアパートに住んでたの?」
「そうよ。同じアパートで、同じ棟。一青くんのところは母子家庭でね。あの子のお母さんの帰りが遅い日、一青くんはよくうちに来て遊んでたの」
そう語られて──ふと、僕の頭の中には覚えのない記憶がなだれ込んでくる。
脳裏には、一人の少年の姿があった。人懐っこい笑顔が特徴的で、やんちゃだった男の子。
ガチャガチャで取ったおもちゃを見せ合い、二人で交換したこと。
柱や壁に油性ペンで落書きして、お母さんに怒られたこと。
悪夢にうなされて昼寝からふと目覚める時、いつも隣にぴったりと、誰かが引っ付いて眠っていたこと。
あれは誰だった?
いつも僕の隣で、楽しそうに笑っていたのは。
「……悠陽のパパはね、すごく優しい人だった。優しい人だったから、女手一つで息子を育てる一青くんのお母さんに、少し情が湧いたのね。放っておけなかったみたい」
「……」
「それから、ちょっと、色々あって……。私とは、お別れしたのよ」
母はか細く過去を語り、視線を落とした。詳細はぼかされていたが、先ほどオヤジさんが言っていたことと、そう大差ないのだろう。全貌が何となく理解出来てしまう。
僕は濡れた髪からしたたる水滴を拭いながら、家の中を一望した。すると不思議なことに、それまでガラクタとしか思えなかった灰色の世界に、様々な色がついている。
『悠陽くん十歳の誕生日』
──これは一青くんが折ってくれたオリガミ。
『サッカークラブの優勝トロフィー』
──これは一青くんと同じチームで優勝した時にもらったもの。
『好きなバンドのライブTシャツ』
──これは一青くんといつか一緒にライブに行こうと約束した時に買った。
『写真が入ったアルバム』
──もちろん一青くんが写っている。
『卒業証書』
──これも、一青くんと……。
それら全部、過去の僕が残したものだ。とてもかけがえのないものだった。
今なら、僕にだって、昔の僕の思い出が分かる。
何を考えていたのか。何を悩んでいたのか。
ずっと、誰のことを、気にしていたのか。
『ええ〜ん、悠陽ぃ、かみなり怖いよお……』
小さい頃は泣き虫だったヤツのこと。
『なあ悠陽、何部に入る? 俺も同じの入る!』
意外と寂しがり屋だったヤツのこと。
『ああ〜っ、負けた! もう一回だ、悠陽!』
誰よりも負けず嫌いで、頑固だったアイツのこと。
いつも僕を呼んで、追いかけてきてた親友のこと。
『悠陽!』
『おい、悠陽』
『悠陽〜』
『……悠陽』
『……あの、さ……俺……』
『引っ越す、ことに、なって』
『……ごめん……』
『お前とは、もう、会えない……』
二人なら、何でもできると思っていた。
この友情は永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
水気を失い、ひび割れた泥が剥がれるように、僕らのそれがいつしかバラバラになっていたことに、ずっと僕らは気付けなかった。
私立高校に進学した僕。中卒で働き始めた一青。
住んでいる場所も遠くなり、進む道も交わらず、互いの親の面子や顔色を気にして、会うことすらもなくなった。
僕は高校に入って明るくなった。
けれど実際は無理していた。
無駄に明るく振る舞って、胸にぽっかり空いたままの喪失感を埋めようとしていただけだった。
そしてあの日、偶然僕は、君を見つけたんだ。