いつも通りに授業が始まってからも、俺の心は荒れ狂ったままだった。
少なくとも俺は、片桐と『青春』していると思っていた。俺は『青春』に固執して、そして漸くほんとうの『青春』を見つけたばかりだというのに。
なのにアイツはこんなにも簡単にそれを手放せる。何よりもそれが酷く悔しい。
ご丁寧に受験生なんて言葉付け加えやがって、受験だからやめなきゃいけないだなんてお前は一切思ってねぇ癖に。
引っ越しばっか? 金がねぇ? んなこと、知る訳ねえだろ。言われなきゃ気づけないに決まってる。仲間に入れて欲しいならそう言えよ。俺はちゃんと話しかけてただろうが。
けれど、そう思う自分に向かって心の中の小さな俺が「本当に?」と耳打ちする。それが酷く耳障りでチッと大きな舌打ちをした。
イライラが募る。俺の心のコップから溢れ出した感情は、貧乏ゆすりとなって現れる。授業なんて、全然集中できない。さっさと終われ、と思うときに限って、時計の針は蜂蜜に浸されたみたいにゆっくり動く。それにもイライラする。
心待ちにしていたチャイムが耳を掠めて、号令がかかる。無意識のまま立ち上がって、流れるようにお辞儀をして、ふと日直の方を見た。日直の前の席は空席だった。
あれ、今日は全員出席だったはずだ。あの席は、誰だ?
きちんと片付けられた机の上。左側のフックに、この学校のスクールバッグがかかっていた。両方の持ち手を、ちゃんと揃えてかけてある。そこで漸く、俺は片桐が教室に戻って来ていないことに気がついた。
「あっかね~」
「うお」
片桐の席をじっと見つめていた俺の背中に誰かが飛びついてきた。首だけ回して後ろを見ればそれはいつもつるんでいる友達。
「かたぎりーぬと何があったの?」
残りの二人も、口々に俺に向かって言う。
「どうせ茜がぶちぎれたんじゃない」
「お前すぐイラつくもんな」
その台詞に「んなわけあるかよ」と答えようとして、ん? と思った。
「お前今なんてった?」
「え? 茜は、すぐイラつくって言った」
おかしい。イラついているときは、いつも誤魔化してきたはずだ。なのに何で、こいつらがそれを知ってるんだ?
「隠してるつもりなのかもしれないけどさ、バレバレだよ?」
俺の背中にくっついたまま、面白そうに笑って見せる。その声は、いつもと何ら変わりがなくて。お菓子がおいしいとか、あの女優が可愛いとか、そう言うのと同じ。
心臓が、ドクン、と大きく音を立てた。震えそうになる声に、喉に力を込めて、俺は口を開く。
俺の背にくっついてる友達を、呼んだ。
「祐樹」
「んー?」
俺の右側の席で頬杖をついている友達を、呼んだ。
「智也」
「何?」
俺の前の席に後ろ向きに腰かけている友達を、呼んだ。
「馨」
「……何お前、片桐と喧嘩して、気でも狂った?」
3人は、こんなにもちゃんと。
ちゃんと俺の『青春』だった。
俺は馬鹿だ。平凡な男子高校生を身に纏う為に、我慢してこいつらと一緒にいるだって?
2年のときから一緒なのに、今まで何も言わなかったのは、俺じゃないか。
写真を撮ることが好きなことも、流行りに乗ることがあまり好きじゃないことも。俺の本当を、何も言わずに、ただ薄っぺらな関係だと決めつけて。
なのに、こいつらは、ちゃんと俺の本当を見つけようとしてくれている。今日みたいに何かあったら、こうしてすぐさま話を聞こうとしてくれる。うるさくて、騒がしくて、それほどに俺と一緒に、いてくれる。
だから、俺は、この場所にいられる。
「茜?」
「具合でも悪いのか?」
「保健室、いく?」
ああ、もう。こいつらは、何処まで。
……ごめん、祐樹、智也、馨。
「俺さ、カメラ、好きなんだ」
ぽつりと吐き出したら、もう、止まらなかった。
写真を撮ることが好きなこと。片桐と一緒に写真を撮っていること。それが本当に楽しくて仕方がないこと。片桐に写真撮るのをやめると言われたこと。置いて行かれたようで、それが悔しいこと。
一気にぶちまけた。3人は、支離滅裂な俺の話を、いつも通りにちゃんと聞いてくれた。
「へぇ、そういうこと」
祐樹は俺の背中から離れて、俺の顔を覗き込んだ。茶色の大きな丸い瞳が、俺を見据える。
「てかさー、何で今まで言ってくれなかったの」
「うっ、それは……」
「コラ祐樹。お前だろカメラ古いとか言ったの。そんなん言われたら、茜だって言いづらいだろ」
「……そうだった。茜、ごめんね」
「いいよ別に、俺も言わなかったのが悪いんだし」
こんなに、簡単なことだったんだ。打ち明けてしまえば、今まで俺が我慢してきたことが阿呆らしく思えてくるくらい、3人はあっけなく受け入れてくれて。
どこを見ていいかわからなくなっている俺に、智也は「ん」とカバンを差し出してきた。そのスクールバッグは、片桐のものだった。
「片桐んとこ、行って来たら?」
「でも」
「先生にはてきとーに言っとく」
「馨」
「任せなって、何のために俺らがいると思ってんの?」
「……祐樹」
「ほら、茜。片桐を救ってきなよ。これはきっと茜にしかできないよ」
俺にしか、できない。智也のその言葉に目から鱗が落っこちた気分だった。
片桐は、俺と同じかもしれない。俺もいろいろなことを我慢していた。言っても無駄だと自分で勝手に決め付けていた。けれどそれは間違いだった。
話してみたら、こんなにも簡単に『青春』は広がっていく。
それをこいつらが、教えてくれた。だから、今度は、俺が片桐に教える番だ。
「悪い。頼む」
チャイムの初めの音が耳を掠める最中、俺は智也から片桐のカバンを受け取って、自分のカバンをつかんで、教室を飛び出した。
授業が始まってしまったので、できるだけ音を立てないように、だけど、できるだけ急いで片桐のもとへ向かった。二人分のカバンが俺の右肩に重力をかける。
アイツは、いつからこのカバンだった? 全然思い出せない。
俺は、アイツのことは全然知らない。何故引っ越したのかも、何故引っ越しばかりしているのかも、いつ写真を好きになったのかも、いつからカメラを持っているのかも、全部知らない。
だけど。
片桐が切り取る世界が酷く美しいことは、知っている。片桐も、俺と同じで、写真が大好きだということも、知っている。
やめさせて、たまるか。
空き教室の扉に手をかけた。カギはかかっていなかった。片桐は、昼休みから時間が止まっているみたいに同じ格好のまま、床に座り込んでいた。後ろ手に扉を閉めながら、俺は片桐の名を呼んだ。
「片桐」
「……菅野、君? なんで、」
今は授業中でしょ? とでも言うように俺を見上げた片桐は、ぎゅっと唇を噛み締めて、顔を逸らす。
「早く、戻りなよ」
「嫌だ」
だって、俺は知ってしまった。『青春』というものが、こんなにも世界を煌めかせることを。そうして、勇気を出して伝えることで、その世界が広がっていくことを。
きっと、何処にだって『青春』はあるんだ。
ただ、俺達がそれをそうと見つけられていないだけなんだ。
「嫌だって……子どもじゃないんだから」
「翡翠」
名を、呼んだ。ハッとしたように肩を揺らして、翡翠は頭を上げた。翡翠——その名の通りの緑青色の瞳を瞬いて、俺を見つめた。その瞳を、見つめ返す。伝われ、そう思いながら口を開く。
「お前は、言ったよな。自分が『異質』だって、そう言ったよな」
「言った、けどそれが何?」
「俺は、お前の世界が好きだ。お前が切り取る世界が、好きだ。それはお前が『異質』だろうが『普通』だろうが、関係ねぇ。俺は、片桐翡翠が撮る世界に惚れてんだ」
「……ッ」
「受験がなんだ。お前が写真やめるくらいなら、俺は一生受験しないで大人にもならずに、子どものままで構わねえ」
「すがの、くん」
「あと、俺と話せる訳ないって? 自分なんかが話しかけたら俺が困るからとか思ってんだろうが、俺は困ったりなんかしねぇ。俺のしあわせ、勝手に決めんな」
だって俺には、アイツらがいる。俺を受け入れてちゃんと笑ってくれる、アイツらが。だからこうして、俺は安心してお前を迎えに来れる。アイツらが俺の背中を推したと知ったら、翡翠はなんて言うだろうか。
「翡翠」
もう一度、名前を、呼んだ。大きく見開かれた瞳には、うっすらと涙の幕が張っていた。
「俺の『青春』には翡翠が必要なんだ」
俺が、お前の居場所になってやる。
もう、独りぼっちになんてさせるもんか。
だから。
翡翠のカバンの中から、白い無機物を取り出す。ずっしりと、重くて、でもその重さが心地よい。俺達の、煌めきの、重さ。
右手に乗せて、翡翠に向かって差し出した。
「一緒に『青春』しよう」
まっすぐに、そう言った。どんな言葉が正解なのか、わからなかった。だから、ただそれだけを言った。
途端、翡翠の瞳から、ぼろ、と涙が零れ落ちた。
綺麗な雫は、ぱたと音を立てて、翡翠の膝頭に落ちていく。それが答えだと思った。
エアコンもない小さな教室で、翡翠は、小さく小さく、泣いていた。俺はただそれを見ているだけだった。何をしたらいいのかも分からなかったし、何をしても正解ではないと思った。
どのくらい時間が経ったのか分からないけれど、多分30分くらい翡翠は泣いていたのだと思う。そうして、小さな嗚咽の隙間で、ぽつりと弱音が飛び出した。
「僕、写真、撮ってもいいのかなぁ」
「いいに決まってんだろ、何馬鹿な事言ってんだ」
「でも、菅野君を困らせちゃうかも、しれない」
ここに至ってまで、翡翠はそんなことを言う。きっと、多分、翡翠が悪いわけじゃない。ただ生きてきた環境とか、今まで出逢った人とか、経験したこととかが翡翠を翡翠にしたのだから。
誰が、何が、お前をそんな風にしたかなんて関係ない。これからは俺がいる。俺にとってのアイツらみたいに俺もお前の大切な人になりたい。
「だから言ったろ、俺はお前と写真が撮りたいの! あとな、俺の名前は菅野だけじゃない」
「え」
「茜。ほら、言ってみ」
「……あか、ね?」
「おう」
「あかね……茜」
「んな何度も呼ぶなよ、恥ずかしい」
ぎゅう、とカメラを抱き締めて、何度も俺の名前を呼ぶ翡翠は、普通のちょっと頼りない少年だった。異質でもなく、不思議でもなく、ただカメラを抱いた高校3年生。
それを見て、翡翠のことを異質だと思っていたのは、やっぱり俺らだったのかもしれない、なんて思った。それが翡翠に伝わって、翡翠は真面目だから、それを壊すことができなかったのかもしれない、とも。
キーンコーンカーンコーン、と授業終了のチャイムが遠くで鳴った。上の階の喧騒が、この小さな部屋を満たす。
「あーあ、授業さぼっちまったじゃねえか」
完全にいつものノリでそう言ってしまってから、あ、やっちまったか? と思った。口が悪いのは小学生からだ。気を付けなければと思っているのだ、これでも一応。
けれど、翡翠は、にやりと笑って、言い返してきた。
「いいんじゃない、これも『青春』ぽいし」
「お前がゆーな」
片桐翡翠は、まっすぐに俺を見て、そうして、笑った。
友達の距離でのその笑顔は、とても美しかった。