こうして『青春』の輪郭に触れた俺は、少しずつ片桐に声をかけるようになった。
「おはよう」や「じゃーな」といった挨拶から「今日はどこ集合にする?」などの簡単な約束まで。友達にも不思議がられたけれど「家が近いんだ」で誤魔化した。いつもつるんでいる友達は「へー」と言って簡単に納得してくれた。
俺が声をかけると、片桐はいつも少しだけ驚いた顔をして必要最低限の返事をした。俺が声をかけなければ、片桐と学校の中で話をすることは一切なかった。それはそれで、俺達のあるべき姿だろうと思った。
だから片桐が、初めて学校で俺に声をかけてきたときには目ん玉が飛び出るほど驚いた。
「菅野、君」
「……あ? って、片桐?」
名前を呼ばれて振り返れば、眉を下げた片桐がいた。片桐は困ったように微笑みながら、俺に言った。
「ごめん、今日、行けそうにない」
今日は、月に2度の約束の日だった。俺たちは自然と、毎月10日と25日に船に乗るようになっていた。
7月10日、と朝のお天気おねえさんがテレビの中で言った時、ああ、今日も片桐と写真が撮れる、と思ったというのに。
「何で?」
ぽかん、と開いた俺の口から出てきたのは、小学生みたいな簡単な言葉。
「……ちょっと、もう、撮れなくなるかも、しれなくて」
「は?」
それは、どういう意味だろうか。片桐は「今日、いけそうにない」と言った。けれど、その後、片桐が零した言葉が示すのは、「この先」の話。
——この先、ずっと?
「どういうことだよ」
剣呑な声の輪郭になった俺を困ったように見つめた片桐は、途中でハッとしたように周りを見回し、何を思ったのか声を落として小さく言った。
「ちょっと、場所変えよ」
「え?」
その言葉に、俺も目だけを動かして周りを見れば、いつも独りでいる片桐と、その対極にいる俺が二人で何だか分からない話をしているのは、思ったよりも教室内で目立ってしまっていた。片桐はそわそわしながら、学ランを揺らして、教室を出ていく。
「ちょ、おい待てよ、片桐」
慌てて片桐の後を追った。後ろから「茜ーこのお菓子食べちゃうぞー」と言う声がしたけれど、今はそれどころじゃなかった。
片桐が、写真を撮りに来られない?
そんな馬鹿なことあるか、と思った。
すたすたと前を歩く片桐の足が止まったのは、俺が入ったことのない、空き教室の前だった。
カギがかかっているはずだけれど、と疑問に思ったのもつかの間、片桐はズボンのポケットから銀色の物体を取り出して鍵穴に射し込む。カチッと小さな音がして、扉がいとも簡単に開いた。
「何でお前ここのカギ持ってんの?」
「いいから入って?」
言われたとおりに足を踏み入れた古びた教室の中には、もう机も椅子も一つもなくて、あるのはただ、黒板とゴミ箱だけだった。カーテンもなくて、昼間の強い日光が教室の床に反射して酷く眩しい。
片桐はまるでいつもそうしているかのように床の上に膝を折り曲げて座った。いわゆる、体育座りとか三角座りとか言われているやつだ。俺は、座ればいいのかどうなのか分からずに、じっと立ち尽くしていた。
異世界のようで、むず痒い。ここは本当に俺たちの学校の教室なのか、と思うほど。
この教室の中では、半袖Yシャツの俺が異質だった。片桐は、学ランのズボンに包まれた自分の膝頭をじっと見ながら、黙って俯いていた。
きっかり60数えても片桐は黙り込んだままだった。沈黙に耐えかねた俺は、口を開いた。
「何で今日来れないんだ?」
「……写真、撮るのやめようかと……思って」
「はぁ? なんでだよ、お前写真撮るの大好きじゃねぇか」
意味が分からない。お前が、写真を撮るのを、やめる?
あんなに、世界を綺麗に切り取ることのできる、お前が?
「理由はいろいろあるけれど……ほら、僕らもう受験生だし、勉強もしなくちゃでしょ?」
ぽかんとしたまま片桐を見下ろした。片桐は、一度俺を見上げたけれど、すぐにぱっと目を伏せてしまった。彼の長い睫毛が頬に影をつくった。
「好きなだけじゃ、続けられないことだって、あるんだよ」
そう言った片桐は、全然嬉しくなさそうな顔で、大人みたいに笑った。
「……ふざけんなよ」
思わず、荒っぽい言葉が唇から転げ落ちた。驚いたように肩を揺らした片桐がこっちを見上げたけれど、濁流のように溢れ出した感情は、もう止まらなかった。
「んな理由で諦めてんじゃねぇよ。何があったかなんて全然知らないけどよ、好きなのにやめなきゃならないことなんてあってたまるかよ。俺たちは『高校生』なんだ。まだまだ、好きなことに大声上げて好きだって言ってていい年齢なんだよ!」
そこまで一気に口に出して漸く、俺は怒っているんだ、と気がついた。
何に?
『高校生』を諦めている、片桐に。
『高校生』を諦められない、俺に。
は、と上がった息が俺の言葉を遮った。瞬間、片桐がぼそっと呟く。
「菅野君には、……分からないよ」
初めて、そんな声を聴いた。ハッとして片桐の方を見れば、彼はその硝子みたいな瞳で俺のことをじっと睨みつけていた。
「小さいころから僕の所為で引っ越しばかり、親にも迷惑をかけっぱなし、できることと言ったら勉強だけ。引っ越しても友達なんて出来やしない。制服を変えたら近づけるかもしれないけど、親にお金を出して、なんて我儘言えない。せめて、と思ってネットで写真を売って、ちまちま貯めたお金でこの学校のスクールバッグを買ったけど、そんなのじゃ距離は全然近づかない。不憫に思った先生が、ここのカギを貸してくれた。だから僕は、この部屋で、いつも時間が経つのを待っている」
俺が口をはさむ間もないほど、淡々と感情を吐き出す片桐は、まるで捨てられた子猫が必死で自分自身を守っているみたいだった。心が痛くて、俺はぎゅうと胸のあたりを抑えつけた。そんなことで、納まる訳はないのに。
「そう思ってんだったら、声かければいいだろ」
「かけられる訳ないよ。だって僕は、『異質』だ」
その単語は、鋭く尖ってこの部屋の空気を無色に変える。
「菅野君とは違う。僕なんかが菅野君と話すなんて、そんなこと出来っこないだろ」
片桐は、じっと俺を睨みつけながら、言葉を紡ぐ。
「初めから、『普通』じゃない僕に『青春』を経験する権利なんて、ないんだ」
「……かた、ぎ、」
片桐の名前を呼ぼうとした俺の声さえも遮って、面倒くさそうに、酷く邪険に。
「だから、もう、写真は撮らない。ほっといて」
「……ああ、そうかよ」
ここまで言われて面倒を見る事ができるほど、俺は人間出来てない。ちょうど良いのか悪いのか、昼休みの終了を告げる予鈴が部屋に充満する。鐘の音が消え去る前に、黙ったままの片桐に背を向けて、俺は古びた教室を後にした。後ろ手に扉を閉めれば、大きな音がした。まるで悲鳴みたいだな、と思った。