お前と俺の世界が交わったのは、高校2年生の時だった。
あれは4月だったのか、5月だったのか。そんなことはもう忘れてしまったけれど、良く晴れて太陽の光が強く射し込む日だったことだけは、憶えている。
登校した俺は、いつも通りに下駄箱のカギを外す。錆び付いた扉をこじ開ければ、ガチャンと金属同士がぶつかる音がする。人差し指と中指で上履きを引っかけて、そのまま下に落としたら、たまたま左右どっちの上履きもひっくり返って、裏面が俺に向かって挨拶をした。
ついてねーなー、と思いながら、足の指先で上履きを正しい向きに直す。同時に、履いてきたローファーを靴箱にしまおうと屈みこんだ。途端、ずる、と背負っているカバンの紐がブレザーごと肩から滑り落ちてしまう。小さな失敗の積み重ねに「チッ」と小さな舌打ちが零れ出る。
不機嫌な顔のまま、教室の扉に手をかけて開く。5分前の予鈴とともに教室に滑り込んだ俺に、いつもつるんでいるクラスメイトが寄ってきたのが目の端に映った。
「おはよー、茜」
「……はよ」
「あれー? なんか機嫌悪い?」
うるせぇなぁ、と思った気持ちをぐっと抑え込んで、俺は笑顔を張り付ける。
「別に?」
「ならいいけど。あ、そうだ、昨日のあの番組みたー?」
「あの番組ってどの番組だよ」
「あれだよあれ、あの……なんてったっけ、名前忘れちゃったけど、美魔女がやってるやつ」
「そんなんじゃわっかんねぇよ」
俺の右側にいた友達にバシンと背中を叩かれた目の前にいる友達は、大げさに「いってぇ骨折れた!」と言いながらゲラゲラと笑っている。
「仕返しだ、死んじゃえ、とうっ」
「ぐはぁ、死んだわ~」
「阿呆か。んな簡単に死なねぇよ」
二人と同じように笑ってみた。すると、さっき押し込めた感情が喉の奥に落ちていく気がした。これもいつものことだ。こうして俺たちは、平凡に生きている。
キーンコーンカーンコーン、と本鈴がふざけている俺たちの上に被さって、そうしてガラリと教室の扉が開く。隙間から、かったるそうな担任が入ってきた。これも、いつもと同じ。
けれど、あの日、一つだけいつもと違うことがあった。それは、担任の後ろから入ってきた人影があったことだった。
「号令ー」
「きりーつきょうつけーれー」
まるで呪文みたいになった号令に適当にお辞儀をする最中、伸びてきた前髪の隙間からちらりとその姿をもう一度窺えば、その人影が身に着けているのは、黒い学ランだった。
こんな時期に転入生か、と思いながら、俺は自分の着ているブレザーを見下ろした。日直が続けて「ちゃくせーき」という呪文を発して、俺達は魔法にかけられたみたいに次々と席に座る。赤みが強い臙脂色のネクタイが、俺の胸元で小さく揺れた。
黒板の前に佇んでいる学ラン姿の転入生にはその魔法が利かない。その胸の金ボタンが全部の魔法を跳ね返してしまっているみたいに思えた。
「せんせーそいつ転入生ですかー」
着席した途端に、俺の隣の席の奴が、担任に向かってでっかい声を放つ。驚いて肩を揺らしたのは、多分俺だけじゃないはずだ。そう思いながら頬杖をついて前を見やれば、学ラン野郎は微動だにせずただじっと床に目を落として突っ立っているだけだった。
「おう、そうだ。ほら、自己紹介しな」
「……片桐翡翠です」
せっかく担任が促してくれたというのに、彼はそれだけを名乗ってまた俯いた。茶色いリュックサックの紐が妙に目について、俺はじっと彼のことを見つめていた。
「もう2年だから、馴染むの大変だと思うがいろいろ教えてやってくれ。片桐の席はあそこな」
担任の声に頷きもせず、ただまっすぐに指さされた席へ移動する彼を、きっと俺達は「異質」であると認識していた。別に、意図していた訳ではない。勿論、異質だと指を差したり、陰口をたたいたりしていた訳でもない。
けれどたぶん、俺達は無意識のうちに、なにがしかの違和感を携えて彼に接していた。
彼と俺たちの隙間、それはきっと、はたから見たら、同じ高校生が身に着ける「学ラン」と「ブレザー」くらいの違いでしかなく、けれど、当事者の俺達から見たら「転入生の学ラン」と「俺たちが1年間着てきたブレザー」くらいの違いで在るのだった。
それが伝わっていたのか、そうでないのかは分からないのだけれども、彼はいつ見ても、独りでいた。どれだけ席替えをしても、誰かの場所に集まってはふざける俺達とは真逆で、彼はどの場所に居ても独りだった。
「最近流行ってるあれ見た?」
「あー、見た見た、流行ってるから見た」
その台詞に、少しだけイラっとした。
流行っているものを取り入れることは大事だ。現に俺も、話に置いて行かれないようにと流行っているものを取り入れる努力は惜しまない。だけれども、好きだという根底に流れる理由が「流行っているから」というものであって欲しくなかったし、そうだと言いたくもなかった。
だってそれは、流行らなくなったら好きじゃなくなるってことだろう?
それって、高校を卒業したら、俺達のこの関係が終わるって言ってるのと同義じゃないか?
俺は俺の感性があって、好きなものがあった。たとえ自分が損をしても、好きなものを好きだと言える自分で在りたいと思っていた。
けれども、そんなことは綺麗事でしかないと知った。好きなものだけで生きていけるのは、夢の中だけだ。ある日、夢だけじゃ生きていけないと悟る。夢から醒める。
何が原因かなんて分からない。だけどいきなり、夢の世界から切り離されたように世界の彩度が下がる。そうして、気がつけば、世界に翻弄されて好きなものを好きだと言えないことが当たり前になっている。
俺は、写真を撮ることが好きだった。けれど、それを打ち明けることはどうしてもできなかった。
俺の周りが好むのは、スポーツ、ゲーム、アイドルなどであり、写真などは酷く地味で、男子高校生にとってはマイノリティでしかなかった。だからひっそりと、誰にも言わずに生きてきた。
口の中が苦くなる。俺も、こいつらと一緒にいることで男子高校生という自分の平凡さを取り繕って、充実した高校生活というものを身に纏っている。きっとこの場所を巣立って、この面倒くさい関係が要らなくなったら、集まることもしないんだろう。
「やっべー、次英語じゃん、俺単語テストの勉強してねぇ」
「それよりさ、お前机の上きったねぇの、少しは片付けたら」
「うるせぇな他の奴らも見てみろよ、前の授業の教科書出てる奴らもいるじゃねぇか」
「はぁ? お前は椅子もしまえてないけど?」
苦味を誤魔化す為にゲラゲラと笑いながらそんなことを言っていたら、友達の間から、彼が見えた。相変わらず独りきりで、スマートフォンをいじっていた。
ハッとした。その背中越しに見える机の上は、真っ新だった。まるでここは借り物、自分のものではないとでも言うほどに。それはいっそ、清々しいほどで。
なぁ、何でお前はそんなにも、堂々と孤独でいられるんだ?
時々、片桐翡翠が羨ましくなることがあった。彼は俺の目に、威風堂々として見えた。
あれほどにまっすぐ孤独を貫けたなら、どんなに楽だろう、と思った。きっと彼は、好きなものだけに好きだと言えるんだろうな、と思って、俺は独りでいることが怖い癖に、取り繕うことを面倒くさがるなんて我儘が過ぎると苦笑が零れそうになった。
「茜ー? 聞いてる?」
「あ、……悪い、なんだっけ」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる友達に、零れ出そうになった苦笑を飲み込んだ。
平凡で、普通で、ありふれた毎日を失わないために。
それを、この灰色の世界の中で、青春、と呼ぶ為に。