「まずは、僕の魔術を少し分けるから、とりあえず魔術の基本を覚えるんだ。そしたら、それを自分流にアレンジしたり、すごい魔術にしたり、強くしたり、とかしたいように加工とかもできるようになる」
レイラさんは手にのっている小さい青い火の玉のようなものを私に渡してきた。
私は戸惑いながら受け取ってレイラさんに言われた通り胸にすっと入れた。
そのままフィットするような感覚があって、念じると手から炎が出た。
「うわっ! ちょ、もえてる! 熱い!」
ひいひい、言いながら手をぶんぶんと振って火を消そうとするけれど、消えない。
でも、熱くないことにしばらくして気付いた。
パニックになって熱いと感じただけだったようだ。
これは私が出した炎だから、熱くないのか。
「あはは、美波は面白いなあ」
笑いながらも、レイラさんはきちんと丁寧に教えてくれる。
基本の魔術ができるようになったら、さっきレイラさんが言っていたこと実践してみる。
自分流にアレンジ、とは?
まあとにかくやってみよう。
私は氷を手から出して、びゅんっと横に振ってみると、氷の剣ができた。
こういうことか、と私は感覚を掴んできていろいろと試してみる。
自分の行きたいところに行く、というのもやってみる。
「行きたいところに行くときのコツは、その行きたいところをよーく思い浮かべること」
レイラさんはゆったりと椅子に座りながら、言った。
私は「はいっ」と答えて、レイラさんの後ろを思い浮かべた。
ぱっと気付けば、レイラさんの後ろに立っていた。
レイラさんは気付いていないようで、きょろきょろと辺りを見回している。
「わっ」
と驚かそうと思い、言うと、レイラさんの肩が飛び跳ねて「うわわわっ!」と変な言葉を話した。
笑い合いながら、楽しく魔術を覚えたあとは、お菓子と紅茶で休憩をした。
甘い砂糖が入った紅茶をそそりながら、ふう、と息を吐いた。
決して嫌な時間ではなかったのだけれど、あまりにもたくさんの体力を消耗し、疲れ果ててしまった。
今日はよく眠れそうだ。
最近はレイラさんに会えない寂しさで睡眠が疎かになっていたけれど、今日のことがあっておかげでぐっすりと眠ることができると考えると嬉しい気持ちになった。
「美波、ありがとう。今日はもうやめるか。美波も疲れてるだろうし」
私に労いの言葉をかけてくれるレイラさんの表情は穏やかでもあり、焦っているようでもあった。
「おやすみ」
ベッドでクマくんにしか聞こえないように言って、私は目を瞑った。
すぐに私は毛布に包まって眠気に襲われてきて、眠りについた。
静かな朝だった。
鳥も小さい声で鳴いているだけで、下からもなにも聞こえてこない。
今日はお父さんもお母さんも仕事は休みで家にいるはずだ。
私は疑問に思いながらも、一階におりて、リビングに行ってみた。
「美波、私たち離婚することになったから、どっちについてくるのか決めてちょうだい」
がちゃ、とリビングのドアを開けると同時に、お母さんがなんてことのないことのように言った。
私は驚きながら、頭の中を整理する。
「聞いてんのっ?」
お母さんが眉を極限まで寄せて急かしてきて、私は「ご、ごめん。私は、家を出て行くよ」と苦笑いをして言った。
お母さんは不服そうに、ふん、と鼻を鳴らして、「なに言ってんのよ。あんたなんかが自立なんてできるわけないでしょ。あんたはお母さんの方に来るわよね。ほら、はやく準備しなさい」と強引に決める。
「嫌だ! 私は出てくの」
初めてお母さんに我儘を言ったかもしれない。
お母さんは叫びに近い金切り声で否定する。
「だめって言ってるじゃない! なんで私の言うことを聞いてくんないの? あんたなんかがひとりで暮らせるはずないわ! お母さんに引っ越すお金だって払わせるんでしょ! この親不孝者! お母さんの子供なんだからお母さんについてくるのは当たり前でしょっ!」
顔を真っ赤にしてクッションを投げつけてきた。
さっきまで小さい声で鳴いていた鳥の声ももう聞こえない。
『親不孝者』
という一言だけが私の頭を支配して、私の同時に脳からぶちっと音がした。
ついに私の堪忍袋の緒が切れたのだ。
そうだ、今まで私は寂しかったんじゃなくて、この理不尽なことに怒っていたんだ。
なんでもっと早く気づけなかったのだろう。
「私は自立できる! 親不孝者にしたのは誰なのよ! あんな事件を信じて、娘を信じてくれないの? あんなの嘘だし、私はお金なんて盗んでない。私はただ落ちてたあの子の財布をたまたま拾っただけ! なのになんで私の言うことを信じてくれないの? こういう都合のいいときだけ、親なんだからとか、私の親ぶらないでよ! 全部全部、あの子がでっち上げた嘘なのに、私の言うことよりも他人の言うことしか信じてくれないなんて、私の親じゃない!」
私はそれだけ叫んで、リビングを飛び出して荷物をまとめはじめた。
こんな家、出て行くのだ。
前から貯めておいた、この家を出て行くためのお金を持って、必要な荷物だけ手にいっぱい持って、「空主国」に行くことを、目を閉じて強く念じた。
ただただ、「空主国」だけを必死に頭に思い浮かべた。
どすどすどす、と怒ったように「美波! 親に向かってなんてこというのよ! あれはお金を盗んだあんたが悪いのよ」と言いながら音をたてて、階段を上ってくるお母さんの足音を聞きながら私はさらに焦る。
そして、やっと目を開けたらもうそこは「空主国」だった。
ふう、と私は安堵の息を吐いて、レイラさんがいないかと周りを見回した。
「美波、おはよう。そんな大荷物でどうしたんだ?」
本当に平和な笑顔を浮かべたレイラさんが目の前に現れて、涙が出てきそうになった。
なんとか涙を必死に堪えて「離婚して、お母さんに親不孝者って言われた。私、ここでレイラさんと暮らしたい。あんな人、私のお母さんじゃない」と泣かないように目をごしごしこすりながら言って、荷物を青い羽根でふかふかの地面に置いた。
ふわりと風で宙に舞った青い羽根が踊るように私の握りしめた拳に、ぽす、と当たって、落ちた。
レイラさんは「ここで暮らすのは構わないが、まだこの国は未完成だから不便なこともいろいろとある。この国ができるまで空孫国に暮らしたらどうだ? エリナもいるし、安心だろう。チョガもいざというときは頼りになることもあるしな」とリュックサックに入りきらずにクマくんの飛び出している頭を優しく撫でながら言う。
「この国が完成したら、この国で暮らしていい?」
少し上目遣いで訊くと、レイラさんは頷いて、もちろんだ、と眉を穏やかに下げて人懐っこく微笑んだ。
私は「じゃあ、それまで空孫国で暮らす」ともう一度、荷物を手に持った。
レイラさんは申し訳なさそうに「ごめん。この国が完成したら、ちゃんと迎えに行く」と言ってくれた。
私は、うん、と弾むように頷いてレイラさんに空孫国まで送ってもらうことになった。
突然行ってもいいのだろうか、と疑問に思いレイラさんに訊いてみたところ、大丈夫だ、ということだった。
エリナさんはきっと住まわせてくれる、とレイラさんは安心させるように優しく言ってくれて、私はとても心強くなれた。
やっぱりレイラさんはすごいな、と感心しながら他愛もない話をしながら歩く透明の道。
下は、もちろん透明という言葉通り透けていて、街が見えた。
ぞっと鳥肌が立つほどの高さにある道なため、背筋が凍るような恐怖を感じるけれど、レイラさんは気にせずにゆったりと私に合わせてくれて歩いてくれて、慣れているのだとは思うが余裕そうだ。
高所恐怖症ではないものの、この高さは足が竦みそうになるほどに怖い。
でもレイラさんにそんなことは恥ずかしくて知られたくないので澄ましたような顔で余裕そうに歩くけれど、足はどうしてもぶるぶると震えてしまう。
「ははっ。美波、怖いの?」
意地悪そうに笑って私の足を見ながら言ったレイラさんを私は余裕な笑みを浮かべて見せて「こ、怖くなんか、ないし」と意地を張る。
素直にはなれない。
どうも私はレイラさんに惚れているようだ。
意識しはじめたころからどうしても、私の弱いところを見られたくない、知られたくない、ということを考えるようになった。
「もう、強がらなくていいんだよ。バレバレなんだから。ほら、ついたぞ」
呆れたように笑ってレイラさんは門を指差した。
「ここからはひとりで行けるか?」
レイラさんはそう訊いてきて、私は、行けるよ、と頷いてレイラさんにぶんぶんと思い切り手を振りながら王国へと歩き出した。
「またねー! 絶対に絶対に迎えに来てね」
そう約束をして私は王国に入った。
今日は入り口のところにエリナさんはいなくて、王国の中に入ってみる。
中は外から見るよりももっと広くて、きらきらでぴかぴかだった。
「え、エリナさん。いますかー?」
声を少しだけ張り上げて言うと、たったった、とエリナさんが青いドレスすそを持ち上げながら小走りでやって来た。
「美波ちゃん、待ってたわよ! レイラから事情は聞いたわ、どうぞ私の隣の部屋が空いているから、そこの部屋を使ってちょうだい。なにか欲しいものとか行きたいところとかなにかあればすぐに言ってね。なんでもしてあげるわよ。私だってぴっちぴちの三十代なんだから」
エリナさんは張り切ったように美しいウインクをして三十代とは思えない頬の肌を撫でた。
「お、お美しい……」
と思わず私が呟くとエリナさんは、ふふ、と得意そうに優雅で落ち着いた笑顔で「さあ、お部屋はこっちよ。好きなようにくつろいでちょうだいね」と私の背中を押して部屋に案内してくれた。
本当に親切で優しい人だな、と感謝の気持ちを噛み締めながらエリナさんの言われる通りの部屋に入った。
ベッドに座ってみると、ふっかふかで机にはおしゃれなアンティークっぽいランプが置かれていて、本棚にはたくさんの面白そうな本が立ち並んでいた。
「うっわあ~! すごいですね! 本当にどれも自由に使っていいんですか?」
エリナさんの方を向いて訊くと、エリナさんはもちろん、というように頷いて「あったりまえじゃない」と言った。
とても居心地のいい空間でリラックスできた。
でも、いちばん居心地のよかったのは、エリナさんが家のことを何も訊いてこないことだった。
きっと私が「親不孝者」と言われたことも知っているとは思うけれど、理由もその話すらもしてこない。
気を遣ってくれているのだ、とこんな私でもさすがにわかるほどその話が出てくることがない。
本当にありがとうございます、と深々と頭を下げるとエリナさんはなんのことだかわからないようだった。
この気遣いもきっと無意識なのだろう。
とても心優しい方だ、と初対面のときの怒りはもうすっかり忘れてしまっていた。
荷物をまとめ終わると、このお城を探検してみることにした。
エリナさんによると、このお城の名前は「エリソン城」というらしい。
「エリソン城」の名前の由来は、エリナさんのご先祖様のエリソン・ソラソンという人が建てたお城だからだそうだ。
どこにも電気はなくて、その代わりに蠟燭のついたシャンデリアが至るところの天井についていた。
なんと豪華なのだろう。
私は圧倒されながらも、ずんずんと足を進めた。
黒猫やサビ猫がいたりして、にゃあ、と鳴きながら足にすり寄ってきてくれることもあった。
撫でてあげると、黒猫のほうは人懐っこく、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らしてくれた。
あとでエリナさんに名前を訊くと、黒猫はオスのミモザで、サビ猫はメスのちょこだそうだ。
「ちょこちゃんもミモザくんも可愛いですね」
私についてきてくれるミモザくんを撫でながら笑顔でエリナさんに言うと、「ふふ、美波ちゃん、ありがとう。ちょこの名前はチョガがつけてくれたのよ。ミモザは人懐っこい性格なのだけれど、ちょこはチョガに似て、ツンデレなのよね。だからあまり寄ってこなかったでしょう」エリナさんは苦笑いしながらミモザくんを一度だけ撫でた。
ミモザくんはエリナさんの方にすり寄っていって、「にゃあー」とごろごろ言いながら鳴いた。
エリナさんのことが好きなのだろう。
ミモザくんにとってエリナさんはお母さん的な存在なのだろう。
「なんでお前がここにいる。エリナ様、なぜこいつがここにいるのですか?」
声が聞こえて、振り返ると、チョガさんが立っていた。
「あ、チョガさん! これからお世話になります。今日からレイラさんの国ができるまでここで暮らさせてもらうんです」
私はにこっと愛想よく笑いかけて、言うとチョガさんは顔を顰めて、「帰れ。ここは馬鹿庶民がいるとこじゃない。エリナ様に失礼じゃないか? よくもそんな服でこれたもんだ」となんとも失礼なことを言ってきた。
なにか言い返そうとしたとき、エリナさんが代わりに言ってくれた。
「こら。チョガ、馬鹿庶民はないでしょう? 美波ちゃん、着替えましょう。チョガをあっと言わせてやろうじゃないの」
可愛らしい瞳でチョガさんを睨んで、エリナさんは私を服や靴にメイク道具などしかない部屋に連れて来てくれた。
「さあ、これを着ましょう。こういう服はチョガの好みなのよね。で、メイクは青色をベースにして、靴も青」
突然しゃきっとしたエリナさんに戸惑いながらも「はい」と着替える。
服は青色のドレスで、ふんわりとしていて柔らかい生地だ。
靴を履いて、エリナさんにメイクをしてもらう。
鏡で自分の姿を見ると、私じゃないみたいに綺麗だった。
「さっ、一瞬でしょう。チョガに見せに行きましょう」
自信満々のエリナさんについていってさっきの場所に戻った。
チョガさんがちょこちゃんを撫でていて、そのときのチョガさんはとても柔らかい物腰だった。
チョガさんは足音でこちらを向いて目を丸くした。
「ミリ! 大きくなったなあ。またあのときみたいに、一緒に遊ぶか?」
私の手をとって、見たこともないほど穏やかで温もりに溢れた笑顔で言ったチョガさんを私は凝視する。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、私ですよ? 美波、ですけど? どうしたんですか?」
人間違いかと思って言うと、「み、美波? ミリじゃないのかよ。せっかく会えたと思ったのに。エリナ様もやめてくださいよ。本当に悲しいんですから」と本当に悲しそうに、残念そうに、頭に手をやりながらどこかにちょこちゃんと一緒に去っていった。
「まだ気にしてたのね。まあでも弱気になったでしょう。ミリはね、私が昔に産んだ子供なの。お父さんはもういなくなってしまったのだけれど、その子をチョガはとても可愛がっていたの。でも私がここに国を作ることになったから、人間の姿にして人間の両親に親になってもらうことにしたの。その両親には元から子供がいたと思いこませる魔術をかけてね」
エリナさんは懐かしそうに微笑んで教えてくれた。
なんだか悲しい話だな。
それにしてもまさか、チョガさんがこんなふうになるなんて。
よっぽど大切な存在だったんだな。
羨ましい、と思う。
私はお父さんにもお母さんにも大切にされたことはほんの数年だけしかない。
だめだめ、せっかく家を出てきたんだから、もうネガティブなことは考えないの。
私は首を振って、ネガティブ思考を撃退しようとする。
「ごめんなさい、急にこんなこと言われたって返答に困るわよね。さあ、なにする?」
エリナさんは気を取り直したように言った。
「部屋の本を読んでもいいですか? 面白そうな本がたくさんあって」
と言うと、エリナさんは「もちろん! 欲しい本があれば買うし、持って行ってくれていいわよ。もう私もチョガも読まなくて放置状態だから。読みたい人に読んでもらった方が本も喜ぶと思うわ」と頷いてくれた。
ありがとうございます、とエリナさんにお礼を言って部屋に入って「世界の守り神」というフィクション小説を手にとった。
あらすじを読んでみると、私と少し似ている子が主人公で親近感がわいた。
一から読んでみると、面白くて次々とページをめくってしまう。
ふう、と一息吐いたころにはもう本は読了済みだった。
本を少しだけ名残惜しさを感じながらも、本棚に本をしまい、部屋についている壁掛け時計で時間を確認する。
一時五十八分。
まだ意外に平気そうだな、と思い私はもう一冊気になっていた本を本棚から抜きとった。
「霧が晴れるまで」
というこの本もまた、フィクション小説だ。
霧に包まれている街はなぜ霧に覆われいるのか名探偵が真相を探る、というあらすじが書かれていた。
ぺら、と一ページめくってみると、この感覚が妙にヒットし、内容を頭に入れながらどんどん読み進めた。
きゅううう、とお腹が鳴って、やっと五百二十八ページもある長編小説を三百五十ページで紐のしおりを挟んで、一旦閉じた。
リビングのようなところに行くと、エリナさんがお裁縫をしていた。
「あ、あの」
となんといえばいいか迷いながら声をかけると、「美波ちゃん、お腹すいたんじゃない? なにか食べる? もしお腹がすいたら、あっちの部屋にシェフがいるから食べたいものを言ってね」と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
私はエリナさんの差した先にある部屋に入って、「シェフさんいますか? ホットケーキをお願いしたいのですが……」と声を張り上げて言うと、「あはは、きみは礼儀正しいなあ。シェフは僕たちだよ。ホットケーキだね、何枚作る?」と気さくに話してくれた。
私は笑われたことが恥ずかしくて、頬を紅潮させながら「三枚で……」と言ってすぐに部屋を出た。
「ふふ、美波ちゃんはいい子ね。もっと自分の家のようにくつろいでちょうだいね。本当に何かあればすぐに言ってね」
はい、ありがとうございます、とお礼を言ってエリナさんの向かいの席を勧められて座った。
ここが食べる机だと教えてくれて私は姿勢がぴしっとのびた。
「はい、どうぞ。シロップとバターもかけてあるよ。嫌だったら作り直すけど」
にこっとさっきの人とは違うほうの人がホットケーキを持ってきて、丁寧に机に置いてくれた。
「わあ、ありがとうございます! 大丈夫です! 美味しそう。いただきます」
ナイフとフォークを両手に持って、こういうときってかちゃかちゃとか音を立てちゃだめなんだよね、と思い出して丁寧に丁寧に口に運んだ。
ホットケーキを歯で噛んだ瞬間、じゅわああ、と口の中でシロップとバターが同時に溶けて味が広がる。
感激した。
こんなに美味しいホットケーキを食べたのは初めてだ。
ホットケーキを食べたのは何年ぶりだろう。
しみじみとした気持ちになって、涙が出そうになる。
あまりにも美味しくて、言葉も出てこない。
なんとか言葉を絞り出してシェフさんに感想を伝える。
「すごく美味しいです。初めて食べるホットケーキです!」
語彙力のなさに自分で言ったのだけれど、驚愕する。
でも、そんな私でもシェフさんは「ははは! ありがとう。そんなに言われたことないから嬉しいなあ。シェフをやっててよかった」と少し涙ぐんで言った。
こんな私でも、相手をこれほどまでに喜ばせることが出来るだなんて。
「こちらこそっ! 私も『よかった』だなんて言われたことないです。ずっと両親に蔑まれてて、生きててよかった」
涙が出てきそうで歯を食いしばって我慢する。
今まで向けられてきた視線、表情、罵声。
全部が蘇ってきて、苦しさに苛まれるけれど、もう私は弱くないのだ。
もう、強くなった。
だから泣かない。
このとき、私はもう二度と泣かないと心に決めた。
「ありがとうございます」
私はシェフさんにしっかりとお礼を言って、マナーも気にせずに一気にホットケーキを口に運んだ。
スマホの電源を久しぶりに入れてみると、一件のメールがきていた。
誰かというと、お母さんから。
いちおう家族なんだから連絡先は入れておいたけれど、まさか連絡がくるとは思ってもいなかった。
まだなにもやり取りの後なんてなくて、まっさらの背景に一言、文章が表示されていた。
『帰ってきなさい』
たったの一言なのに、途轍もない吐き気がした。
嫌だ、やめて、もう私は帰らない。
私は連絡先からお父さんとお母さんを消した。
残っているのは、恵理だけ。
恵理からは気遣ってくれているのか、何もきていなかった。
とりあえず持ってきたノートに挟まっていたお手紙セットのようなものに誰に渡すでもないけれど、思ったことを書き綴る。
『レイラさん。私はどうすればいいんだろう? いつまでもこのままお母さんに自立できないって言われ続けないといけないの? もう嫌だ。レイラさん以外、もう何もいらないから、お願いだから幸せになりたい。もうひとりは嫌だ。なんで、世界はこんなにも残酷なんだろう。なんで、私の味方をしてくれないんだろう。苦しいよ。なにを失ったっていい。だから、一度だけ幸せにさせて。心から幸せを感じてみたい。私だって、もう少し頑張ってね、じゃなくて、よくできたね、って言ってほしい。褒めてほしい。優しくしてほしい。愛してほしい。許してほしい。認めてほしい。もう苦しくてどうにかなりそうだよ……』
がりがりと私の書き殴った文字が並んだぐしゃぐしゃの便箋。
こんな便箋を読んだら、誰もが「そんなに世界は甘くない」とでも言うだろう。
「もう世界に邪魔だから、見捨てられたんだ」とでも言ってくれたらいい。
むしろ言ってくれた方がせいせいする。
もう自分は、だめなんだ、って自分を認められる。
私はもうだめだからこの世界に飽きられちゃったから、この世界にいなくてよくて、消えた方がよくて、なにも願っちゃだめで、生きていくことさえ許されない。
生きていても、軽蔑されるだけ。
なにもいいことなんて起こりやしない。
生きてればいつかはいいことがある、努力はいつか報われる、だなんて嘘だ。
そんなことない。
だから、今の私に残された選択肢はただひとつだけ。
死ぬ。
ただこれだけ。
死ねば、もうこんな苦しい思いはしなくていいのだ。
なら、死んじゃえば、天国という名の楽園で自由気ままに走り回って、いつまでも気軽で身軽で誰にも軽蔑されない。
ひとり死ぬのはここまでしてくれた、エリナさんたちに申し訳ないから、遺書でも書いておこう。
私はもう一枚、便箋を取り出した。
『遺書。誰かが気付いてくれることはあるかな。エリナさん、勝手にひとりで死んでごめんなさい。今までありがとう。レイラさん、大好きでした。死んでごめんね。私はもうこの世界に必要ないから、天国に先に行ってるね。私はどこで間違ったんだろう。あのときに間違ったんだ。私、幸せになりたかった。私のことを大切にしてくれてた、エリナさんとレイラさんが大好きだったよ。私は天国で自由に生きます。先に天国で待ってるね。恵理も、ごめんね。天国からずっとずっと見守ってます。またね。鳥浦美波より』
短い文章だけれど、遺書にこってる暇はなかった。
はやく死にたい。
楽になれる。
気付けばそんな思いに支配されていた。
私は部屋の窓を開け放った。
風が意外に強く吹いていて、窓を開けるのは大変だったけれど、なんとか開けられた。
下はびゅうびゅうと風が吹いていて、これから飛び降りるのかと思うとぞくりと肌が一瞬だけ粟立ったけれどすぐに平気になった。
そこで、ふと思う。
天国のある上に行きたいのに、下に行くなんて、と。
だからってどうってことはないのだけれど、不思議と疑問を持っただけだ。
私は窓のふちに立って、「エリナさん、レイラさん、今までありがとう。またね」と言い残して、ぴょんと身軽に飛び降りた。
けれど、びゅんと風に煽られる感覚とともに、私は浮いていた。
強い風で浮いているのだ。
なんで、私は下に落ちたいのに。
私は下に行こうとするが、行けない。
「チョガ! 美波ちゃんを今すぐ助けなさい。なにやってるの、はやく!」
大声が聞こえて見ると、エリナさんが窓のところにいた。
しまった、見つかってしまった。
私はびゅんびゅんと風に振り回されながら、必死に目を開けると目の前に黒い翼が見えた。
気付いたときは、チョガさんに抱きかかえられていた。
「ちょ、助けないでっ」
叫ぶとチョガさんに、ぎろりと睨まれる。
「は? エリナ様の命令に断れってのか? ふざけんなよ、悲劇のヒロインぶってんなよ。お前にはちゃんと温もりがあるだろ、贅沢してんじゃねえ」
なんてことない言葉のように言って私をエリナさんに物のように投げ渡した。
「美波ちゃん、何しようとしてたのっ? 自殺なんて考えてたの? 何があったのか話しなさい!」
はじめて怒ったような表情と声音でエリナさんは叫ぶように言った。
「ごめんなさい。お母さんからスマホに『帰ってきなさい』ってメールがきてて、苦しくなって自殺しようって思って……」
と正直に俯きながら私が話すと、エリナさんは思い切り顔を顰めた。
「だめでしょう!」
涙を流しながらまで言うエリナさんにぎゅうっと抱きしめられる。
「なんで泣いてくれるんですか? 私なんかいらな――」
「泣くに決まってるでしょう! 大切な大切な相手なのに!」
ぽろり、とずっと我慢していた涙が零れ落ちた。
「なんでっ、こんな私なんかを……」
「私なんか、なんて絶対に言わないで! あなたは私にとって世界でいちばん大切な存在なの!」
そう言われて私の両目からさらに大粒の涙が零れ落ちる。
「世界でいちばん、たいせつ……?」
「ええ。もちろんでしょう。もう、私は美波ちゃんの家族、ママなの。だから、絶対にこんなこと、二度としないで!」
最後の方は、穏やかになって微笑んで言ったエリナさんをぎゅっと私も抱きしめ返した。
「わかった。もうこんなこと、絶対にしないよ。ママ」