とんとん、と軽快に包丁で何かを切る音で目を開けると、視界は真っ暗で何も見えなかった。
私の顔の上に乗っかっているものをどけると、それは、昨日ゲームセンターで取ったクマくんだった。
どうりで息が苦しかったわけだ、と考えながら起き上がってこぢんまりとした台所に行くとレイラさんがご機嫌そうに料理をしていた。
私たちのために朝ごはんを作ってくれているのだろう。
「おはよう。なに作ってるの?」
「ん? ああ、美波。おはよう。はちみつとブルーチーズのトーストとレタスとレモンのサラダ」
得意そうに胸を張って言うレイラさんに「美味しそう!」と言いながら鼻にはちみつと心地いいブルーチーズの香りが広がった。
すう、と息を吸い込んでいると、チン、とレンジの音がした。
ななめ後ろを振り返ると、途端に、ふわあ、とレモンの少し酸っぱい香りが鼻腔を(くすぶ)った。
「着替えてくるから、サラダとトーストが出来たら絶対に絶対に呼んでね」
そう言い残して私は着替えるために洗面所に行った。
昨日レイラさんに買ってもらった、白いTシャツにちょっと寒いのでふんわりと袖の膨らんだ青いカーディガンを着て、ジーンズという無難な服装に着替えたところで、「美波、できたよ」とレイラさんの呼ぶ声が聞こえてきて急いで食卓に向かう。
「わあ~! どれも美味しそう」
さっと瞬間移動のような速さで椅子に座り、いただきます、とまずはサラダを口に運んだ。
レモンが想像していたよりも酸っぱくて、ぴぎょっ、と変な声が出てしまう。
大盛りのサラダを五分ほどで食べ終えて、ついにメインのトーストをがぶりと食べた。
じゅわあ、とはちみつとブルーチーズの程よいくちどけが癖になり、あっという間にお皿に盛られたトースト二枚を平らげてしまった。
もちろんお腹はぱつぱつで、もっと食べたかったけれど、もう一口も入りそうになかった。
「ごひほうさまでひた」
軽く吐き気を感じながらソファに座ってもたれかかった。
ピンポン、ピンポーン。
二回連続でチャイムが鳴った。
レイラさんは台所にお皿を洗いに行ってくれていて、私が出ようかと思ったけれど、その前にレイラさんが台所から出てきて、玄関に向かってくれた。
「はい」
人間の姿になってガチャッと玄関のドアをレイラさんが開けると、チョガさんが立っていた。
私は驚きながらもソファに座ったままこっそりと覗く。
「やあ、兄さん」
にこっと威圧感のある笑顔で穏やかにチョガさんは言う。
「チョガ、何の用だ? なるべく早急に帰ってほしいんだが」
怒ったように眉を寄せているのが、レイラさんの横顔でわかった。
「ははっ、兄さんはこれで終わりだ。」
後ろに髪をかきあげて嬉しそうに眉を歪めて言ったチョガさんに向けてレイラさんはもっと眉を限界まで寄せる。
「どういうことだ? また何かくだらないことでも企んでいるなら、やめろ。もうどうにもならない」
「プラリツソントクキュウトリルートヨロイクロイシアジャ」
チョガさんが目をばちっと開き、謎の呪文のようなものを小さめの声で呟いた瞬間、レイラさんは苦しそうに胸を抑えてがくっと崩れ落ちた。
目を見開き「チョガ……、ねらって、たのか。いつか、とりかえして、やる」と苦しそうにレイラさんは途切れ途切れに言って、ぎゅっと胸を強く抑えた。
チョガさんはレイラさんを見下ろしながら、ふっと満足そうに微笑んだ。
私は怖くてチョガさんの前に出られなかったけれど、苦しむレイラさんを見つめるたびに胸が痛んで、我慢できずにレイラさんの元に行って、レイラさんに寄り添った。
私は「レイラさん、助けられなくてごめんね」と言ってチョガさんを、きっと強く強く睨みつけた。
チョガさんは理不尽そうにレイラさんによく似た綺麗な形の眉を寄せた。
「なんだ?」
冷たい凍り付いた鋭い瞳で睨み返されて、ひっと身体が(すく)む。
怖くないと自分に言い聞かせ、精一杯の一言をチョガさんになるべく怒りが伝わるように言った。
「今すぐ出て行って。あなたなんて怖くない」
「嘘つきのくせに偉そうに。『怖い』って顔に書いてあるんだよ。じゃあね」
興味もなさそうに踵を返してチョガさんは出て行った。
私はドアから目を逸らして、レイラさんを見た。
ベッドに運びたかったけれど、私にはそんな力はなくて、鳥さんの姿になって目を瞑っているレイラさんをぎゅっと抱きしめた。
あれ、と思う。
いつものような温もりはなくて、レイラさんはひんやりと冷たくなっていた。
レイラさんは息もしていなくて、ただ目を瞑っているだけだった。
「ねえ? レイラさん? レイラさんっ! 起きてよ……」
いくら呼んでもレイラさんはピクリともせずに冷たいままじっと動かない。
涙が次々と頬を伝って床に私の手の上で動かないままのレイラさんの頬に落ちる。
ふと後ろに温もりを感じた。
「美波、安心して。泣かないで。僕のせいで美波を泣かせたくない。『想いの硝子』をチョガにとられた。それを取り返してきて僕に授けてくれたら生き返るよ」
優しくて暖かいレイラさんの声が聞こえて振り返るけれど、後ろには誰もいなかった。
私は今の一言を反芻して、早速、出かける準備をした。
チョガさんを追いかけるのだ。
さっきチョガさんが、よしこれからあのスーパーに寄ってから行こう、と小さく呟いているのが聞こえたのだ。
だから、私はたぶん近くのスーパーにいると見て、スーパーに行くのだ。
レイラさんをそっとハンカチに包んでリュックに入れて、食料と水を入れ、背負った。
顔を隠すために黒いキャップを目深に被った。
走ってスーパーへ向かう。
スーパーに着いたら、ちょうどチョガさんがレジにいるところだった。
炭酸飲料を買ったようだ。
私はこっそり警戒心の全くないチョガさんから少し距離を置いて尾行する。
十分ほど歩いてから、人のいない道に出た。
チョガさんが周りをきょろきょろと見回し始めたので、私はすぐそこにある電柱にさっと隠れた。
なんとか気づかれずにすんだ。
ここからは聞こえないけれど、チョガさんは何やら呟くと、チョガさんの目の前に虹色の階段が現れた。
なんだこれ、とびっくりして声を出しそうになったけれど、なんとか口を抑えて間一髪。
足音を立てないように気を付けながら、そっと歩く。
かつかつ、と靴音を立てながらスキップに近い歩き方でずんずん歩いて行くチョガさんの後ろを歩きながら、どうなってるんだ、と戸惑っていた。
三メートルほど先には、ファンタジー小説にでも出てきそうな大きな王国が立ちはだかっている。
近づけば近づくほど王国は迫力を増す。
圧倒されるほどの大きさの「空孫国(そらそんこく)」と書かれた門をくぐり抜けると、地面は薄く水が張り巡らされていて、ぴちゃぴちゃと音がならないように本当にそっとそっと歩いた。
しばらく歩いたら、お城のような建物が現れた。
「空孫国」の門よりも大きいお城だ。
私は太い木に身を隠した。
お城の入り口だと思われるところに美しい若い女性が立っていたからだ。
女性は余裕の笑みで目を細めてから、すぐに普通の顔に戻った。
次の瞬間、目の前がぐらあと歪んで、目を閉じる。
少し目を瞑ってから、目を開けると見覚えのないさっき立っていたところとは違うきちんと整理整頓されたシンプルで豪華な部屋に、私はいた。
どういうことだ、と部屋を見回してみると、部屋のドアが開いてさっきお城の入り口の前に立っていた女性が入って来た。
「美波ちゃん、こんにちは。私はエリナ・ソラソンよ。チョガから私が頼んだ『想いの硝子』をいま受け取ったわ。強引な方法でごめんなさいね」
申し訳なさそうに眉を下げ、苦笑する。
急にいろいろなことが起きて、頭が混乱する。
なんとか物事を整理し、「エリナさん、その『想いの硝子』を返してくれませんか」とどうしてここに来たのか、わからないことはたくさんあるけれど、一秒でもはやくレイラさんを生き返らせたくて単刀直入に言った。
エリナさんは少し驚いたような顔をしてから「ええ、美波ちゃんと会いたくてチョガに頼んだだけだから」にこりと優しく笑って「想いの硝子」を潔く渡してくれた。
私はすぐにリュックからレイラさんを出して、ハンカチをめくる。
やっぱり冷たくて息をしていないレイラさんが眠っている。
私は「想いの硝子」をレイラさんに渡すことを思い浮かべながらレイラさんを両手で包み込んだ。
すると、ふわと「想いの硝子」が浮いて、あのときのようにレイラさんの胸に吸い込まれるように入っていった。
「ひとつ、いいかしら。この子は明日まで生き返らないわよ」
注意するようにそう教えてくれたエリナさんにお礼を言って帰ろうとすると、「また来てね」とエリナさんが言ってから、また目の前が歪んだ。
気付けば、レイラさんの家の前まで来ていた。
エリナさんの能力なのかな、と思いながら家に入ってレイラさん手に持ったままベッドに横になった。
すぐに眠気が襲ってくる。
起き上がる気力も起きずに、そのまま私は目を瞑って深い眠りについた。



「ねえねえ、起きてよー。ねーえー!」
お腹の上に重みを感じて目を開けると、目の前に小さくなったレイラさんが私のお腹に乗っかっていた。
え、なんでレイラさんが縮んでるの?
ていうか、幼い子供に戻ったみたい……
「レイラさん、ど、どうしたの?」
とりあえず軽いレイラさんを持ち上げて、起き上がる。
レイラさんはベッドにちょこんと座ると「れーくんね、おねえちゃんよりもずうっとはやくおきてたんだよ! すごいでしょ!」といつものレイラさんとは違う雰囲気で、にっと無邪気に笑って言った。
「う、うん。すごいね」
戸惑いながらも、少しぎこちないけれど笑顔で褒めるとレイラさんは「えへへ」と頬をわずかに紅潮させた。
「おねえちゃん、おなかすいたー」
レイラくんは自分のお腹を撫でながら言う。
「何が食べたいの?」
「えっとね、えっとね、オムライス!」
「じゃあ、スーパーに買い物に行こうか」
なんとか、これはレイラさんが小さくなっただけでそのうち戻るだろう、と冷静に受け止めて、オムライスを作るために買い物に行くことにする。
レイラくんお家で待ってられる、と訊いたらレイラさんは一緒に行くと言って靴を履きはじめる。
手こずりながらもすぽっといつものレイラさんの靴が、なぜか小さいレイラさんの足にぴったりに縮んだ靴を履いて、「はーやーくー!」と叫ぶように大きい声で言った。
私は慌てて昨日の着たままだった服は着替えずに、かばんと財布だけ持って靴を履いてレイラさんと迷子にならないように手を繋いで外に出た。
レイラさんは「わあ~。おねえちゃんみて! きらきらおひさま!」目を輝かせてにこっと笑い、太陽を指差した。
綺麗だね、と微笑み返すとレイラさんは「うんっ」と弾んだ声で答えた。
スーパーまでの道のりをレイラさんとゆっくり歩く。
小さい子供のレイラさんはいろんなものに目を輝かせては笑って、あれなあに、とか、あれしってる、などと言いながらはしゃいでいた。
スーパーについたら、まずオムライスのための卵とケチャップと玉ねぎと鶏肉を買い物かごに入れて、レイラさんが「あれ食べたい!」と言った星の形をしたチョコレート味で、国民的大人気のアニメキャラのシールが入っているというビスケットを入れて、買った。
家に着いたことにはもう十一時になっていて、一時間も経っていた。
スーパーから帰ってくるときに、レイラさんと帰り道にある公園で少し遊んだのだ。
すぐにオムライスを作る。
小さい子供の世話をするというのはどれほどに大変なのだろうか、とため息を堪えながら思う。
オムライスができあがったらテーブルに二人分を並べて、食べた。
結構美味しくできた。
レイラさんはオムライスが食べ終わると、さっき買ったビスケットを食べながらテレビを見ていた。
特に子供が見るような番組がやっているとは思わなくて、見てみると、驚いたことにグルメ番組を見ていた。
意味わかるのかな、と思いながら私は皿洗いをすることにした。
少ししか面倒を見ていないのに、疲労に襲われる。
「美波、ただいま」
最後のお皿を洗い終えたところで、後ろから穏やかなレイラさんの声が聞こえてきた。
お皿を置いて、すぐに振り返ると元に戻った人間の姿のレイラさんが微笑んでいた。
「おかえり! レイラさん」
私は手をタオルで拭いて、ぎゅっとレイラさんの手を握る。
ちゃんと暖かい温もりを感じて、安心する。
本当にレイラさんは帰ってきてくれた。
嬉しくて涙が出てきてしまう。
「本当に、よかった……」
微笑みながら窓から差し込む光を帯びて、きらきらと輝く宝石のような涙を流しながらレイラさんの手をもっと強く握った。
「そんなに言ってくれて、ありがとう」
レイラさんも涙を流しながら私の手を握り返して言う。
ふたりで手を握り合いながら、私たちは生きているという実感を得ながら、とても暖かい涙を流した。



「美波、家に帰れるか?」
さっき焼いたシフォンケーキを食べながら、レイラさんが想像もしていなかったことを言った。
どういうことか、と言葉を理解するのにずいぶんと時間を要した。
「突然、どうしたの? もしかして、私のことが、邪魔、なの?」
恐れていたことを口にすると、とても苦しくて息が詰まりそうな感覚を久しぶりに感じる。
「邪魔なんかじゃない。でも、僕はもう旅にいかなくちゃいけないときになってしまったんだ」
悲しそうにフォークを音もなく置いて、辛そうに言うレイラさんを信じられない目で見つめる。
「旅って?」
「僕は、空の主だ。空の主は、神だ。だから、『空孫国』のように空に『空主』という大きな僕の国を作らないといけないんだ。だから、そのために旅に出て、世界のことを知らないといけないんだ」
消え入りそうなほどに小さい声で教えてくれたレイラさんは、本当に泣きそうだった。
そうなんだ、となんとか返すけれど、どうしても信じたくなかった。
「じゃあ、帰るね」
必死に笑顔を作って、荷物をまとめたりと帰る準備をしはじめる。
リュックに入るものは全部詰めて、あとは他のかばんや袋にたくさん入れて、なんとか両手で全部持つ。
レイラさんは俯いたまま何も言わなかった。
私が靴を履いて出て行こうとしたときに、やっとレイラさんは一言、言ってくれた。
「いつか、また絶対に僕たちが再会したあのクスノキの前で会おう」
玄関までやってきて、レイラさんはそう言い、無理やりだとわかる笑顔を浮かべた。
「……うん。また、会おうね。絶対に約束だよ」
私は歯を食いしばりながら涙を堪えて、前を向いてレイラさんの家を出た。
家に帰ったら、お母さんとお父さんは私のことを心配してくれているだろうか。
なんてことを考えながら寂しさで心臓にナイフを突き刺されたようなずきずきとした痛みを感じた。
ねえ、レイラさん、私たちはきっと運命の糸で繋がってるよね。
空を悠々と飛んでいく自由そうなレイラさんを見つけて見つめながら、心の中でそう問いかけた。
私はスマートフォンの電源を入れて、マップアプリを開いた。
家の場所を確認してから、家に向かって苦しさを感じながら歩き出す。



ガチャ、と家のドアを開いて中に入るとやっぱり家は耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
リビングに行くと、お父さんもお母さんもいなくて、仕事に行っているようだった。
私は部屋に行ってレイラさんに買ってもらった大切な荷物を片付けた。
三十分で片付けてしまえば、あとはすることがなくてぎゅうっとクマくんに抱きついて息が詰まるほどの苦しさに堪えた。
レイラさんに会いたいな。
クマくんを手に抱えたまま、私は靴を履いて外に出た。
会えないことはわかっているけれど、レイラさんと再会したクスノキの前に行ってみる。
誰もいなくて、ひっそりとした空気が心地いい。
クスノキを囲むように設置されたベンチに、クマくんと座ってレイラさんと再会してからの記憶を辿ってみる。
どの記憶も色鮮やかで、楽しい記憶だった。
「まだ再会してからちょっとしか一緒にいれなかったじゃん」と泣きそうになりながら呟いてみた。
私の隣にぽつんと座っているクマくんの真っ黒のぴかぴかの瞳が哀れな私を繊細に映し出しているようだ。
ああ、本当に束の間の幸せだったな。
堪えきれずに涙が青いワンピースの膝の部分に落ちる。
生ぬるい風が吹いて、クマくんが私の方に倒れてきた。
私はクマくんのお腹に顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。
泣きたいだけ、泣いた。
そのとき、鳥が飛んでいくような音が聞こえた、気がして顔を上げる。
きょろきょろと辺りを見回してみても鳥も何もいなくて、空耳だったようだ。
レイラさんかと思ったのだけれど、違かった。
肩を落として、そろそろ帰ろうと泣きはらした目をごしごしとこすって、立ち上がった。
家までクマくんを連れて歩いていると、すれ違う人たちにじろじろと訝しげな目で見られたけれど、気にはならない。
今の私はただ、レイラさんに会いたい、という願望しか頭の中になかった。
でも、いつかまた会える。
絶対に、って約束したのだから。
私はレイラさんとの約束だけを心の支えに日々を過ごすことだろう。



朝起きたら、涙を流している。
という現象がレイラさんの家を出たあの日からもう十二日も経っているけれど、毎日のように続いた。
きっとレイラさんに会えない寂しさでだろう。
毎日毎日、レイラさんとの記憶が夢で出てくるのだ。
それほどに私にとってはレイラさんが真っ暗闇にいた私の前に光を灯してしてくれた。
でも、その光にあと少しで手が届く、というときに灯火は風が吹いて消えてしまったのだった。
のそりと起き上がって勉強机に置いていたコップ一杯分の水を一気に飲み干した。
汗と涙で水分を使い切ったのか、喉がからからだった。
あの日から二日後に、私はお父さんとお母さんに高校を辞めることを伝えた。
また幽霊扱いされるかと思ったけれど、高校に払うお金がなくなるのは嬉しいのか「わかった」と頷いてくれた。
それ以来、私は恵理とは連絡をたまに取り合ったりはしているものの、他の連絡を取り合ったりしていた子たちの連絡先は削除した。
それほど仲が良いというわけではなかったし、もう友達はいなくてもよくなった。
私は、毎日レイラさんと約束したあのクスノキの前に通っているが、まだ一度もレイラさんには会えていない。
一日中あのクスノキのところで読書をしていることもある。
まだ朝の六時だというのに、ぴろん、と恵理からスマートフォンにメールがきた。
確認すると、『美波、おはよー! 今日、顧問の先生が風邪で休んでて部活も休みだから、定番のファストフード店で会わない?』と相変わらず活気に溢れた文面に、ふっと笑みが零れる。
定番のファストフード店とは、私たちがお互いの状況を話すためによく一緒に行くお店のことだ。
『恵理、おはよう。いいよー。何時?』
私が返信をすると、一分ほどで返信が返ってきた。
『午後三時でいい?? 財布は置いてきてよ! 私が奢るからさ』
『OK! 自分の分は自分で払うから、いいよ』
『だめなの! あたしが奢るから! ねっ』
お願い、と手を合わせたうさぎのスタンプが送られてきて、圧を感じた。
『じゃあ、次に会うときは私が奢るね』
と返した。
よっしゃあ、と書かれて嬉しそうに両腕を上にあげているポーズをしているうさぎのスタンプが五個ほど連続で送られてきて、既読をつけてから、私はスマートフォンを閉じた。
着替えてから一階に降りて顔を洗うと、靴を履いて私は家を出た。
いつものようにクスノキの前に行ってみる。
今日もレイラさんはいなかった。
もしかしたら、レイラさんは今頃はまだ眠っていて、来ていないという可能性もゼロじゃない、と私は微かに希望を抱いて三〇分ほど空を見つめながら待ったけれど、なかなか来なくて、次はワイヤレスイヤホンを耳につけてスマートフォンで音楽を聴きながら一時間待った。
それでも、来なくて私はとうとう断念して、家に帰ることにする。
今日は恵理と会う予定もあるので、一応はやめに帰っておいた方がいいだろう。
もうすぐそこが家だというときに、ふと空を見たら、青いレイラさんのような鳥が身軽そうに飛んでいた。
絶対にレイラさんだ、と思い、追いかけようとしたけれど、すぐに大きな雲に隠れて見えなくなってしまった。
私は肩を落として家に入る。
手洗いうがいを済ませてから、部屋に行って、窓の前に立った。
レイラさんが見えるかと思ったのだけれど、雲からレイラさんが出てくることはなかった。
「空主」というらしい国を作っているのだろうか。
横に流れていく雲から、とんかんとんかん、と釘を金槌で打つ音が聞こえた気がした。
レイラさん、もう私のことなんか忘れちゃったかな。
ふいに頭をよぎった不安を急いで首を振ってかき消す。
スマートフォンの着信音がなって、見てみると、恵理から電話だった。
「もしもし。恵理?」
とすぐに出ると、『あっ、久しぶり! 元気してたー? 今日さあ、点検か何かで学校が午前中だけだったの忘れてて、会うの一時にしない?』と相変わらず陽気で少し抜けた声音で返事が返ってくる。
「久しぶりー。私は元気だよ。点検ってなんの?」
『わっかんない。スマホいじっててちゃんと聞いてなかったから』
へへ、と笑いながら言った恵理に私は呆れ声で「恵理は変わらないね」と言った。
『まあね。こんな状況で、もし変わろうと思ったとしても変われないっしょ。変わるひまもないし。まあそれ以前に、変わりたいとは思ってないし?』
突然かしこまったような雰囲気で言った恵理の言ったことに私は疑問を持った。
「こんな状況って?」
何か学校で起きているのだろうか。
『えっ、美波知らないの? ヘリが飛んでたときにたまたま雲の上になんか街みたいのがあるの見たっていうの今、テレビでめっちゃ話題になってんじゃん。ほとんどのニュースがそのことやってんだよ。でさあ、明々後日に取り壊すらしいよ。雲に街ができるなんて前代未聞だし。まあ、そんなことはどうでも――』
「ごめん。急用ができたから今日は会えない」
私は恵理の言葉を遮って言った。
絶対にレイラさんの「空主国」だと確信した。
私はレイラさんにこのことを伝えなければいけない。
レイラさんの苦労が台無しになってしまうのを想像すると、ずきずきと胸が痛んだ。
恵理の返事も聞かずに通話を切って、レイラさんの家に向かった。
スマートフォンと財布と洋服類をいちおう持って慌ただしく家を出た。
走って走って、信号のとき以外は一度も足を止めずにひたすら前に前にと地面を蹴った。
時折、すれ違う人にあたってしまうけれど、謝っているひまはなくて構わずに走り続けた。
けれど、レイラさんの家があったところはたくさんの葉っぱが散っているだけで、家はどこにもなかった。
きっとあの国にいるんだ。
私はチョガさんが「空孫国」に行ったときの階段が現れた場所に行ってみる。
階段はあり階段を上ってまっすぐな道になったとき、ちょうど五メートルほど先をチョガさんが歩いていた。
私は走ってチョガさんの元に行く。
「チョガさんっ!」
不機嫌そうに振り返ったチョガさんの瞳に一瞬怯みそうになったけれど、足を踏ん張って言った。
「お願いがあるんです! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「はあ? なんであんたがここにいるの。兄さんが今いるとこなんて何も知らないし」
あの学校でのときとは全く態度が違うチョガさんに私は眉をひそめそうになったけれどなんとかひそめずに「じゃあ、いいです。エリナさんに頼むので」と早口で言ってから、「エリナ様に? 会ったことでもあんのか」と思いっきり顔を顰めて言うチョガさんを無視してこの間の王国に向かう。
エリナさんは前のように入り口のところに立っていた。
チョガさんを待っているのだろう。
「エリナさん! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「あら、美波ちゃん? レイラのところに……。いいわよ」
目を丸めたエリナさんに言うと、レイラさんを知っているかのように頷いてくれた。
エリナさんに訊きたいことは色々とあったけれど、今はレイラさんのことが優先なので、「ありがとうございます」と言って頭を下げる。
「じゃあ行くわよ。迷子になりたくなければ、くれぐれも異空間でむやみに動かないでね」
さっそくエリナさんは子供に諭すようにゆっくりと注意を述べて、実行に移してくれる。
もう一度、お礼を伝えるとぐにゃりと視界が歪みすぐに深い青色の羽根に包まれた地面に立っていた。
「レイラさん、いる? 美波だけど……」
少し声を潜めて呼んでみると、「み、美波? なんでここにいるんだ?」と驚いたように目を大きく見開いた鳥さんの姿のレイラさんが奥の方から歩いてやってきた。
「エリナさんに連れてきてもらったんだけど、ねえ、レイラさん。この国はもうすぐ取り壊されちゃうんだよ! どうするのっ?」
落ち着いてきていたけれど、話しているうちにだんだん興奮してくる。
レイラさんは「待ってくれ。状況が理解できない」と頭をおさえて目を瞑って、頭を整理しているような仕草をした。
数分ほど静かな沈黙がこの異世界のような空間を支配した。
「美波、久しぶりだね。で、ここが取り壊される? どうしてそのようなことを言うのか、どうしてそのようなことになったのか、経緯を教えてもらえるか?」
鳥さんの青い羽根に埋め尽くされたふかふかそうな椅子を勧められて座ると、深刻な顔でそう問われる。
「うん。電話で友達の恵理と話しててね、ヘリコプターが飛んでてたまたま雲の上に街みたいなものがあるのが目撃されて、雲の上に街ができるなんて前代未聞だから明々後日に取り壊すってテレビのニュースでやってるんだって」
あまりにも気まずくてレイラさんから視線を逸らしたくなるけれど、強いこの国を愛する瞳に見つめられて、逸らそうにも逸らせない。
レイラさんはあり得ないという顔をしてから、真剣な表情になって「そうなのか。この国には僕以外は誰にも見えない魔術をかけたのだけれど。これは、なんとかしないといけないな。美波、魔術を使えるようにならないか? そうしたら、いつでも会いたいときに僕に会えるし、自分だけの空間を作ることもできる。そして、自分で自分を守ることも容易いことになる」と懇願するように少し上目遣いで言った。
私は少し考えてから「いいよ。じゃあ、魔術を教えて」とレイラさんに安心させるように笑いかけた。