耳障りなアラームの音が鳴ると同時に私は規則的に目を覚ました。
欠伸をしてから、ぎしぎしと音をたてるベッドから起き上がる。
学校の制服に着替えるためにクローゼットを開けた。
さっさと着替えて、りぼんを結ぶ。
初めて制服を着たときは、毎回、手こずっていたけれどさすがにもう慣れた。
すぐに乾燥してしまうので、唇にリップクリームをぬって、一階にあるリビングまで通学鞄を持って行く。
お父さんは無関心というような表情でソファに座ってブラックコーヒーを飲みながら険しい表情で新聞を読んでいた。
お母さんは私のことを一瞥してから気まずそうに視線を逸らし、自分の分のトーストだけ机に置いてテレビニュースを見ながら私なんていないかのように無言で食べはじめた。
私はリビングを出て、玄関で靴を履いて、静かに家を出た。
今日こそはせめて、挨拶でもしてもらえると思ったのだけれど、やはりだめだった。
きゅるるる、と小動物の鳴き声のようなお腹が鳴って、私は近くのコンビニに入った。
レジのすぐ横の棚から、塩むすびを二つ手に取る。
会計を済ませてから、コンビニの外に出て無理やり、胃に詰め込むようにおにぎりを口に入れた。
一分ほどで食べ終え、最寄りの駅に向かう。
学校なんて本当は行きたくない。
でも、行かないといけないのだ。
もうお母さんとお父さんに迷惑はかけられない。
お金だって、払ってもらっているんだ、休めるはずなどなかった。
もう誰にも嫌われたくない。
だから、学校に行ってみんなに好かれていないと私はこの世を生きていけない。
誰か、私を必要としてくれる人がいないと苦しくてたまらない。
はああ、とお腹の底に溜まっていた、ため息を吐き出しても、全く気持ちは晴れなかった。
がらり、と音をたてて教室の扉を開いて自分の席に座る。
「おはよー」
友達の恵理が笑顔で挨拶をしにきてくれた。
「恵理、おはよう」
私もにこりと笑顔で挨拶を返すと、恵理は「実は、あたし、彼氏できたんだ」と恥ずかしそうに微かに頬を紅潮させて、言った。
「え、彼氏っ⁉」
思わず大声を上げると、恵理は、しっ、と口に人差し指をあてて、周りをきょろきょろと見回した。
ごめん、と私は謝った。
恵理は「もう大声で言わないでよー」と少しだけ怒ったように膨れっ面になって言う。
怒ったような表情はしていても、顔が緩んでいて嬉しそうなのは隠せていない。
「で、彼氏って誰なの?」
私が訊くと、恵理は俯いて「琉唯くん」とぼそりと小さい声で言った。
琉唯くんとは、同じクラスのやんちゃなスポーツ系男子だ。
私にしてみれば、授業中もうるっさくて集中できない害悪だけれど。
へえ、と私が目を細めて相槌を打つと、私の思っていることを見透かしたのかのように恵理が「まさか琉唯のこと、害悪、とか思ってないよね?」と睨むようにじとりとした目で見てきた。
思ってない、と言いかけたところで、「なに話してんのー?」と笑顔の琉唯くんが私たちの元にやってきた。
噂をすれば、というやつだ。
恵理はその瞬間、ぱっと顔を輝かせて「琉唯くんっ!」と弾んだ声で、言った。
「もう恵理、僕のことは、呼び捨てで呼んでって言ったでしょ」
ぷくっと頬を膨らませて琉唯くんが言うと、恵理は「る、琉唯!」と言い、ふたりで楽しそうに笑い合っている。
いいな、と思う。
私にはこんなに大切にしてもらえたことがない。
お母さんとお父さんにだって数えるほどしか名前を呼ばれたことがない。
「ちょっとー、私もいるんですけど」
私は平然とした顔を作って言った。
ふたりは、そうだったー、と笑いながら言って仲睦まじく去っていった。
私はこっそり胸を撫で下ろして、読書でもすることにした。
全くもって興味もないのだけれど、暇つぶしにはちょうどよかった。
だから特に読む必要もなく、適当にぱらぱらとページをめくる。
ひっきりなしに文字がぎゅうぎゅうに並んでいて、読む気なんて起こってこない。
こんな本を読んでいる人の気が知れない、と思いながら飽き飽きしたような気持ちに襲われる。
毎日毎日同じことの繰り返し。
けれど、私はいつか恵理と琉唯くんのように誰かに必要とされたいから、すごく苦しくても我慢してきた。
誰も、美波、って愛情を込めて呼んでくれない。
鳥浦美波、なんて名前、大っ嫌いだ。
鳥浦っていう名字だったら、いつでもお母さんとお父さんと繋がっているということだから、私はこの「鳥浦」が嫌い。
はやくあの家を出て行きたい。
でも、お金がまだ足りないから、あの家を出て行ったとしても住むところがない。
今までにあの家のことで何度泣いただろうか。
毎年、誕生日だって祝ってもらったことなんてない。
お父さんとお母さんには幽霊扱いしかされていないのだ。
おまけに邪魔者だって思われている。
こんな日常、楽しくない。
ただ息苦しくて、喉にロープがぐるぐる巻きついたように感じるだけ。
「全員、席つけー」
どすどすと足音をたてて、偉そうに担任の佐藤先生が教室に入ってきて大声で言った。
はーい、と立っていた人たちがぞろぞろと自身の席に座る。
佐藤先生は怒ると怖いと評判で誰でも佐藤先生の言うことをきくのだ。
「よし、全員座ったな。今日は、このクラスに仲間が増えるぞー」
いつもむすっとした顔をしている佐藤先生にしては珍しく笑顔で言った。
「えっ、誰だろー」
「俺、転校生とか教室にくんの初めてだわ」
静かだった教室が一気に騒がしくなった。
先生は「静かに!」と大声で言うと同時に、ひとりの男の子が教室に入ってきた。
真っ黒の漆黒の髪と鋭い目が印象的だ。
「はじめまして。浅海悠里です。よろしく」
先生の隣に立って、素っ気なく挨拶をした転校生になんだか私はデジャブを感じた。
この声、なんかどこかで聞いたことのあるような気がする。
まあ、どうせ勘違いだとは思うけれど。
先生が何かを言う前に浅海悠里くんはすたすたと私の元まで歩いてきた。
席の前に立つと、軽く首を傾げて「ミリ……?」と驚いたような不思議な声音で恐る恐るというように落ち着いた声でそう言った。
え、だれ、私に言ってる、よね?
でも、名前が違う。
「すみません。浅海悠里くん、だよね。前に会ったことありましたっけ? 人間違いじゃないですか?」
謝りながらいちおう敬語でそう言うと、浅海くんは頷いて、「まあ、僕のことはわからないだろうね」とにこっと微笑んで淡々と言った。
意味がわからない。
いつ会ったことがあるのだろうか。
私の頭の中が疑問で埋め尽くされる前に先生から訊かれた。
「鳥浦、浅海とは知り合いなのか? なら、浅海は鳥浦にいろいろ教えてもらえ。じゃ、鳥浦よろしくな」
納得、というような顔をして先生は言うけれど、私には全く心当たりがない。
けれど、先生に言い返すなんてできるはずもなく、はい、と私は頷いた。
私の隣に座っている坂本紗理奈ちゃんという子が一番後ろの浅海くんの席になる予定であっただろう席に移動してしまい、私の隣には浅海くんが平然とした顔で座っている。
先生はにこにこと浅海くんに教科書などを渡している。
あ、そうだそうだ、と佐藤先生が声を上げた。
次は何を言い出すつもりなんだ、と見構えていると、絶対に頷きたくないことをさらりと言った。
「浅海に校舎を案内してやってくれ。知り合いなら浅海も喜ぶだろ」
ため息を吐きたくなるのを必死に堪え、先生が案内したらいいのに、と内心で毒づきながら頷いた。
なんで他人に任せるのだろうか。
私は知り合いでもないし、絶対に浅海くんの人間違いなのに。
だからって断れるはずもなく、私は潔ぎよく、はい、と頷いた。
「うんうん、ありがとな」
嬉しそうにしている先生から視線をはずし、窓の外を見つめた。
こういうときは本当に窓際の席でよかったと思う。
いつでも、現実逃避ができるから。
四角く切り取られた窓から見えるのは、大きな木々、グランドに入道雲と青空、そして青空を横切る鳥たち。
鳥は、自由でいいな。
ふとそう思った。
なにも気にしないで気軽に空を飛んでいればいいのだ、人間よりも楽しいに決まってる。
じりじりと学校を焦がそうとする勢いの暑さに参りながらも、私の口元は緩んでいる。
私は夏が好きだ。
こんな私でも太陽は暖かく照らしてくれるから。
夏は、私を必要としてくれている気がする。
まあ、ただの自惚れだとは思うけれど。
本当は夏も私なんて必要としていないかもしれない。
ずぶずぶとネガティブ思考に埋もれていくのを、止めたのは、浅海くんの一言だった。
「ねえ、本当は僕の存在に思い当たるものがあるんじゃないの」
がばっと浅海くんの方を向くと、意外にも真剣な表情をしていた。
別に、と素っ気なく返すと、はあ、と嫌な感じのため息を吐かれた。
私からも大きなため息を返してやりたかったけれど、ここは学校なので、黙っておく。
「へえ。こんなやつが本当に、あれを持ってんのか。意外だな。もっとしゃっきりしたやつかと思った。まあ、僕には関係ないけど」
残念そうな声と表情で息を吐きながら言う浅海くんから顔を逸らして、再び窓に目を向けた。
なにか言われるかと思ったけれど、意外になにも言われなかった。
ははっと自嘲気味に小さく笑う浅海くんの声が聞こえたけれど、私は聞こえていないふりをして外を自由に飛び回る鳥たちをぼんやりと眺めた。
先生がいろいろと話している声が右から左へと流れていく。
私は無になってただただ外ばかりを見つめる。
そうすれば、いつか心が安らいでくるのだ。
なにも考えなければ、ネガティブなことを考えなくてもすむし、なによりぼーっとしているだけなのだから、周りの声を聞かなくてもいい。
笑い声を聞くと、私のことを笑っているように聞こえてしまう。
ひそひそ話をしているのも、内容は聞こえてなくても私の悪口を言っているんじゃ、と不安になってしょうがない。
なんなら、人と話すのも苦手だ。
けれども、友達はほしい。
私のことをちゃんとわかってくれて、受け入れてくる友達。
ならこのことを恵理に言えばいいのだけれど、それは言えないのだ。
もし友達を辞められたら、私はもうやっていられない。
従姉妹にだって見下されるし、叔父さんにも叔母さんにも面倒がられている。
親族にさえも、必要としてもらえない。
ご近所さんだって遠くから私の噂話をするばかりで、気味が悪がられている。
これは違うの、誤解なの、と言いたくなる。
でもそんなこと言ったってどうせ信じてもらえない。
お母さんとお父さんのように、見放されるだけ。
私はある日、突然なぜだか一軍のリーダーの女の子のお金を盗ったといわれたのだ。
ただ床に落ちてたから、忘れものだと思って先生に届けるために手に持ったとき、たまたま女の子が通りかかって「それ、私の財布!」と叫ばれたのだ。
それから、大事になって先生に言われてしまい、もちろんお母さんとお父さんにも連絡が入った。
なんとか退学は免れたものの、殺されるんじゃないか、と思うほどにすごくすごく怒られた。
一時間くらいずっと説教をされて、へとへとで帰ったら次はお父さんとお母さんにもさらに怒られて本当に殺される覚悟を決めたくらいだった。
その挙句、その女の子の家まで菓子折り持っていって必死に頭を下げて下げまくって謝ったのだ。
女の子のお母さんは「いいのよ。怪我をさせたとかじゃないんだし。財布を落としたこの子にも責任がありますよ」と親切に優しく言ってくれたけれど、お母さんは昔から頭の固い人で「いえいえ! 人様のお金を盗るだなんて本当にどうお詫びしたらいいものか……」と泣きそうに言うのだ。
女の子はくすっとこっそり笑っていて、お母さんたちの前では「こちらこそ、ごめんなさい……」と泣いて見せていた。
その女の子よりも泣きたいのは私だったし、盗んでもないのに盗んだだなんて勝手に言われて自殺しようかと本当に病んだこともあったほどだ。
あのときの恐怖と怒りは私をきつく縛り付けた。
だからなにかが落ちていても絶対に拾わないことにしている。
またあのときのことのようなことがあるかも知れないから。
今でもあのときのことを考えると息が詰まり、とても苦しくなる。
ふうー、はあ、ふうー、はあ、と少し乱れた呼吸を静かに落ち着かせた。
苦しい。
なにもかもが息苦しくて、友達だってひとりしかいないし、誰にも必要とされていないし、私の生き甲斐は……あれ、私の生き甲斐って、なんだっけ?
夢なんてないし、生きていればいつかその苦労が報われる、とかあるけれどそんなことないし、いいことなんてひとつもない。
友達はひとりだけいるけれど、恵理にも最近は鬱陶しく思われているんじゃないか、思ってしまうことがたまにある。
「一限目をはじめます」
気付けば学級委員の一限目をはじめる声が聞こえてきた。
私は我に返り、次は数学だったなと思い出して教科書とノートと筆記用具を机に出した。
かりかりと板書を書きながらも、内容は全く頭に入ってこない。
またあのことを思い出してしまったからか、息が苦しくて授業に集中できない。
息が苦しくて苦しくて、ついに私は席を立った。
「先生。体調が悪いので保健室に行ってきてもいいですか」
そう訊ねると、先生は少しだけ心配そうな顔で「鳥浦が体調が悪いなんて珍しいな。熱でもあるのか?」と私の所まで歩いてきた。
「熱はないです。でも頭が痛くて」
こめかみの辺りを抑えながら言うと、先生は頷いて、ならいいぞ、と許してくれた。
私はささっと教室を出て保健室に向かった。
保健室に入ると、保健室の加藤美恵子先生がちょうどいて「おう、美波じゃん。授業中に来るなんて、どしたの」と同級生のように、にっとはにかんで迎えてくれた。
「ちょっと体調が悪くて、寝かせてください」
加藤先生は「そこのベッドなら空いてるぞ。とりあえずなんか飲むか? コーヒーならあるけど。あ、体調悪いときのカフェインはやめた方がいいか。まあでもどうする?」と頭のてっぺんのお団子をゆらゆらさせながら悩むように言った。
「コーヒー、もらってもいいですか」
遠慮がちに言うと、加藤先生は親指でグットマークをつくって下手なウインクをして、もう出来上がってたのかコーヒーを出してくれた。
私は加藤先生の前に置いてある椅子に座って、コーヒーをひとくち啜った。
「で、なにがあったの。美波がここに来るなんて珍しいから、あたしは、あのことを思い出したんじゃないかって思ってるけど」
なんでもお見通し、とでも言いそうな大きな瞳に吸い込まれるように私は加藤先生に話し出した。
「そうなんです。あの子の顔が忘れられないんです。それで、苦しくて……」
自然とぽろぽろ涙が出てくる。
悲しくて、苦しくて、いろんな感情が私の中を蠢いて、どうしても、あのときの女の子、斎藤莉愛ちゃんの嘲笑うような表情が忘れられない。
どんなことを言っても加藤先生は苦しかったね、などとも言わずにただ真剣に頷いてくれるだけ。
その扱いがとても心地良い。
変に気遣われるよりも、ただ黙って隣にいて私の話を聞いてくれているという方が私には嬉しかった。
なにか、苦しいね、悲しいね、大丈夫だよ、などと憐憫の目と言葉をかけられると、心から聞いてくれてないんだな、と感じてしまう。
だから加藤先生のただ黙って聞いてくれているという本当の優しさは泣きそうなほどに嬉しかった。
「少しすっきりしたので、寝てもいいですか」
しばらく泣いて、加藤先生に赤くなった目を向けてそう言うと、こくりと頷いて加藤先生は仕事があるから、と職員室に一旦戻っていった。
私はさっき加藤先生に言われたベッドにごろんと仰向けに寝っ転がった。
すうっ、と保健室の空気を吸い込むと少し楽になった。
私は保健委員で、加藤先生とは結構話したことがあるのだ。
ある日、苦しくなって休み時間にここに来たら、優しく背中をさすってくれて、自然とあのときの話が口をついて出た。
そのときも、加藤先生はなにも言わずにただ黙っていてくれた。
唯一、私が心の許せる先生だ。
今まで何度も先生に私の話を聞いてもらった。
本当に感謝している。
ぼーっと白い天井を見つめているとだんだんと睡魔に襲われてきて、私は重たい瞼を閉じた。
「おっ、起きた?」
ぱちっと目を開けると、目の前に加藤先生の綺麗な顔が飛び込んできた。
「は、はい」
起き上がって頷くと、加藤先生は「もう七時だから、帰った方がいいんじゃない? それか、親御さんが心配しないんなら、あたしん家に泊まってく?」といつものように子供のように無邪気な笑顔で言った。
「でも、先生の迷惑になるんじゃ……」
「迷惑なんかじゃないよ。まあでも、美波は帰った方がいいかもな。うちは三人も男がいるからうるさいし」
手をひらひらさせて言う加藤先生はもうお団子をとっていて、さらさらの髪をおろしていた。
「じゃあ、もう帰ります。ありがとうございました」
上履きを履いて、ぺこりと頭を下げると、加藤先生から私の鞄を渡された。
鞄を受け取ってもう一度お礼を言ってから、私は学校を出た。
家に着くと、やっぱりお母さんとお父さんの幽霊扱いは相変わらずで、今日もひとりで晩ご飯の具なしの味噌汁と真っ白の白米を部屋で食べた。
味はしないけれど、食べないとお腹がすくのでもぐもぐと咀嚼する。
食べ終わったら、台所まで持って行って、自分で洗う。
そしたら、お風呂を沸かして、歯を磨いて、お風呂に入ったら、寝る。
毎日毎日その繰り返しだ。
ぽちゃん、と湯船に浸かると溜まっていた疲れが少しだけ癒されたような気がした。
十分ほどで出ると、すぐに紺色のパジャマに着替えて、部屋に戻った。
ごろんとベッドに寝っ転がってみたものの、保健室で存分に寝たからか眠くならなくて、私は数学と英語の課題があるということを思い出して、課題をやることにした。
うーん、と伸びをして課題に目を通すと私のやる気が消えていくのがはっきりとわかった。
あまりにも夜にやるには多すぎる量なのだ。
まあ一応できるだけやってみよう、と自分を奮い立たせてぴんととんがった鉛筆を手に取った。
なかなか進まないので、水出し紅茶でも一旦飲んで落ち着こうと思い、台所の冷蔵庫からダージリンティーを出してきて、いつも紅茶を飲むときに愛用しているおしゃれなカップを持って部屋に戻る。
ダージリンティーをカップに注いで、こくりと飲んだ。
ほんのりと入れておいたメープルシロップの甘みが口いっぱいに広がった。
このまま寝たい衝動に駆られるけれど、せっかくやる気を出すために飲んだ紅茶はどうなるのだ、と思い課題にとりかかった。
かりかり、と鉛筆で数字を書く音が部屋に響いた。
この音が意外に好きだったりするのだ。
もう一口ダージリンティーを飲んでまた課題に戻る。
眠くなってきたところで、辞めて、残っているダージリンティーだけ飲み干して、ベッドに突っ伏した。
すぐに私は電気を消すのも忘れ、寝息を立てはじめた。
はっと目を開けると、頭が痛んだ。
起き上がると、ぐわんぐわんと揺れるたびに頭がずきずきと痛く感じる。
思わずベッドにもう一度寝っ転がる。
頭があまりにも痛すぎて動けそうになかったのだ。
なんとか学校に頭が痛くて学校を休むと連絡を入れ、毛布に包まって瞼を閉じた。
こめかみをぎゅうっと爪を立てて抑えて少しでも痛みが引いてほしくて、いろいろと試みる。
頭をがんがんと拳で殴ってみるけれど、ずきずきと痛いのは変わらない。
「誰か――」
そう小さく呟いてみても、誰も助けてくれないのは、わかっている。
でも、今は誰かに助けてほしくて何度も何度も呟くけれど、お母さんもお父さんも誰も助けに来てくれなかった。
そうだった、私は誰にも必要とされてないんだから、助けを求めてどうするんだ。
私は強く強く目を閉じる。
けれども、痛すぎて眠れそうにもなかった。
何分そうしていただろうか。
気付けば夢の中にいた。
ぱたぱた、と綺麗な青色のふくろうのような鳥が目の前を飛んでいて、五才のころの私はその鳥を笑顔で追いかけている。
どこかのひまわり畑で走るたびにさわさわと音がした。
夢にしては鮮明で、昔の記憶のようだった。
その鳥に五才の私が触れようとしたとき、はたと目が覚めた。
時計を見てみると、もう十一時で三時間ほど眠っていたようだ。
頭も先程と比べるとずいぶんと良くなって、歩けるくらいには回復していた。
私はお腹の空きを覚え、一階に下りてリビングに入った。
お父さんとお母さんは共働きだから、いなかった。
台所から昨日の夜食べた白米の残りをレンジで温めて食べた。
お腹が満足したら、部屋に戻ってしゃっとカーテンを開けると日の光の眩さが目に染みた。
ごろんと窓に背中を向けてベッドに再度横になると、どっと疲れが押し寄せてきた。
はあ、とため息を吐いて窓の方を向いた。
窓から見えるのは、雲一つない真っ青な空と緑の木々と立ち並ぶ同じような家々。
特にすることもなく、かといって学校には休むといったから家にいるしかない。
暇だ。
そうだ、と思い立って通学鞄から本を出してきた。
こういうときは読書が暇つぶしになってちょうどいい。
ぱらとページをめくって一ページ目からちゃんと読んでいく。
読み進めれば結構面白くて夢中になってしまい、私は次から次へとページをめくっていった。
本が読み終わったころにはもう夕方の四時だった。
本を通学鞄にしまい、着替えてから家を出た。
ただひたすら歩みを進め、やっと足を止めたのはある小さな公園だった。
疲れたり苦しかったことがあったときは必ずこの公園にくるのだ。
もう誰にも管理されていない放置状態で、草が私の膝のところらへんまで伸びていた。
ベンチが一つあるだけで遊具もなにもないので、誰もおらず私ひとりだけだった。
低くてほとんど草に埋もれているベンチに腰掛けて、空に目を向けた。
先程とは打って変わって、厚い雲が真っ青の空全体を覆っていて今にも雨が降り出しそうな空だ。
雨が降ってくる前に帰らないと傘もなにも持ってないので濡れてしまう。
ほんの微かに雨の匂いがしてきたところで私は家に帰ることにして、立ち上がった。
家に向かう道のりを歩いていると、通りすがりの家からカレーの香りがしてきた。
「ふふ。今日は拓ちゃんの好きなカレーよ」
「ほんと⁉ ぼくママのごはんのなかでカレーがいちばんすき!」
ふと楽しそうに話す家族の声が聞こえてきて、耳を塞ぎたくなった。
楽しそうで、いいな。
私もお母さんにこんなこと言ってみたい。
まあ、叶わない無謀な願いだけれど。
またため息が口から洩れた。
腕に水が落ちるような感覚があり、腕を見てみると、雨が降ってきたようだった。
ぽつぽつ、と勢いが強くなってくる。
私は小走りでもうすぐそこまで見えていた私の家に駆けこんだ。
少ししか濡れていないけれど、冷えたのでシャワーを浴びようと思い鍵を開けて家に入ったら、まずはお風呂に向かった。
じゃーっと温かいお湯を頭から浴びると、身体の芯からぽおっと温まってきた。
頭はシャンプーとリンスをしてから、お風呂を出ると一気に寒くなった。
すぐにタオルで全身を拭いて、すぐに部屋に行きもうパジャマを着てしまう。
暖房を入れて毛布に包まりながら、もう四年くらい使っている黒いドライヤーで髪を乾かしていると、そのうち暖まってきた。
窓を見てみると、外はもう雨が本降りになっていた。
髪が乾いたのを確認してから、台所に行って、ご飯を用意する。
今日はラーメンが食べたくて、ラーメンの具材を昨日のうちに買っておいたのだ。
作り方を見ながら、ラーメンを作って完成したら、どんぶりに入れた。
結構いい感じにできたと思う。
お箸で麺をつまんでふーふーと息を吹きかけて冷まして口に入れる。
美味しいけれど、あまり味はしなかった。
ああ、あと少し。
あと少しで百五十万貯まる。
そうしたら、この家を出て行くんだ。
出て行って東京とかでひとりで暮らすんだ。
アルバイトをしたりして必死に貯めた百万。
あと五十万で百五十万貯まるのだ。
そう思えば頑張れたけれど、この日々は本当に苦しくて唯一私の心を支えてくれるのは、加藤先生だった。
お母さんとお父さんにとってはどうでもいいことだろうから、私はこの家を出て行くときは、何も言わないつもりだ。
こっそり私の大きなリュックの中にお金を入れてバレないようになんとか今まで百五十万も貯めたのだ。
ずるる、とラーメンを機械的に啜りながらこの家を出て行くときのことを考えるけれど、それまであと一年はかかるだろうから、この家を出て行けるのはきっとまだ先なんだろうな。
ああ、もう苦しい。
辛い。
喉が締め付けられるように痛んだ。
でも、ラーメンを啜る手は止めない。
もう少しだよ、と自分で自分を励ます。
この世界から消え去りたい。
この世にいる人たちから私の存在が消えてほしい。
もう、何もかも嫌だ。