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スランプ、という言葉が一番正しいのだろうか。
春を表現するのは、こんなにも難しかったのか。
言葉にできない感情に掻き回されて、オレは深く息を吐いた。
筆を握って、じっとキャンバスを見つめる。真っ白なそれはゆきやの言葉のようで、なぜだか躊躇をしている自分がいた。今までなかった感情に、他でもないオレが驚いている。
誰かをなんて、考えた事もなかった。
だって、この世界はオレだけが見えている色だから。それをただ絵にしているだけで、誰かの影響になるなんて思った事もない。そのはずなのに、言葉は出てこなくてなにも思いつかない。
原因がわからない中で、オレはまた目を伏せてしまう。
「ハルト? どうしたんだ?」
「あぁえっと、いや、少し悩んだというか」
心配そうにオレを見るゆきやにごまかすように笑うと、ゆきやはふうん、と言うだけでそれ以上は聞いてこなかった。相変わらず腹の底はなにを考えているのかいまいちわからない。
「……春の、絵」
春は、どんな色だっただろうか。
それはわかっているはずなのに、筆へ色を乗せる事をためらってしまう。白を汚してしまうような、そんな気がしたから。そんな事、いつもと同じはずなのに。
「ところでハルト、今回の下描きはどんな」
「うわ、だめまだ見るな!」
覗き込んでこようとするゆきやから逃げるように、キャンバスを咄嗟に手で隠した。
「だめなのか」
「えっと、その、ちゃんと描いたら見せるからもう少し待ってくれ!」
少し声が上ずった気がしたけど、そんな事を気にしている余裕はない。
ついわざとらしく隠してしまったけど、ゆきやは気にしていないらしい。少しだけ首はかしげていたけど、すぐに興味をなくしたようにそうか、とだけ小さく呟いていた。
どうしよう、今までは感情のままに色を乗せる事ができていたのに、それができない。理由がわからなくて、ぐるぐると頭の中で意味を持たない言葉や思考が回っていくだけだ。
「……冬が終わったら、春がくる」
白い世界を溶かした先に、春がくる。
それはひどく喜ばしい事なのに、どうしてこうも苦しいのだろうか。
なにかを汚してしまうような言葉にできない感覚に、顔をしかめる。
「……ハルト、体調でも悪いのか」
「ちがっ……ちょっと、描きたい構図が多くて。だって春だし」
「そうか……春というのは、そんなにも鮮やかなのか」
なら楽しみだなと笑ったその言葉が、余計に胸を締め付けてきた。
この世界を見せて、ゆきやはどう思うのだろう。
元々感情や色を知りたいと言っていたこいつにとって、なにかを感じるのはきっと喜ばしい事なのかもしれない。けどそれで、オレがこの白い言葉を汚してしまうような事になったら。もう白に戻せないそれに、オレはどうやって責任を取るのだろうか。
考えれば考えるほど浅くなる呼吸の中で、オレはとうとう持ち上げていた筆を下ろしてしまう。
「……なぁゆきや、ちゃんと描くからやっぱり少し時間をくれないか?」
「あぁもちろん……とても楽しみにしている」
疑う事のない、真っ白な純粋な言葉が目の前に浮かんでいる。
それを見てしまうとチクリと、また胸が痛んだ。
気づかれないように笑顔を取り繕いながら、小さく頷く。けどごめんな、ゆきや。
嘘だよ、嘘なんだ。
本当はもう、なにを描くべきなのかわかっている。
わかっているはずなのに、この筆を進める事ができない。
情けないなと、自虐的に笑う事しかできないオレがひどく惨めでしかないんだ。