♢
朝日の光が部屋に差し込み、私はすぐに体を起こした。昨日の綱くんの様子が頭から離れなかった。不安要素が多すぎて、早く朝が来て欲しいとひたすら願った夜だった。
嫌な予感が背筋に流れて、ベッドの上で目を閉じても眠りにつくことは出来なかった。泣き腫らした目を化粧でなんとか誤魔化して、朝からお見舞いへと向かう。
不安と恐怖で、足取りは自然と早くなってしまう。早く、早く彼の顔を見て安心したい。
この胸の苦しさを無くしてくれるのは彼だけだ。
病室の前に着くと、さらに動悸が激しくなる。落ち着かせる為に深く深呼吸をして、病室のドアをノックした。
扉を開ける瞬間、ごくりと息を呑む。窓側のベットに座って外を眺めている綱くんの姿が視界に入った。
昨日の姿が脳裏に浮かんでたので、寝たきりの状態ではないことに、まず安堵した。安心すると共に、目の奥がツンと熱くなるのだった。
「……おはよう」
「おはよう。天気良いな」
昨日とは違い目も合わせられて会話も出来る。普通の人なら当たり前に出来ることも、今の私達にとっては奇跡なのだ。
「あれ? 隣のベッドの荷物無くなってるね」
「あー。隣の人は昨日の夜中に亡くなったみたい」
動悸が激しくなり心臓が痛い。返す言葉が見つからず、黙り込んでしまう。狭いと感じていた2人部屋は、隣の人がいなくなった途端に広く感じる。昨日まで顔を合わせていた隣のベッドの患者さんがもういない。死は前触れもなくやってくる。その怖さを改めて感じる。
2人だけの空間はシンと静まり返っていた。
「昨日、見たんだろ?……俺の姿」
「う、うん」
「これから、どんどん見られたくない姿になっていくと思う。もう、身体が自分の言うこと聞かねえんだ」
点滴の針が刺さった別人のように細くなった腕を高らかに天井に掲げた。
溢れてくる涙を抑える為に、唇をギッと噛み締めた。口の中に血の味が広がる。目に溜まる大粒の涙達は決壊寸前だ。
「今日で会うのは終わりにしたい」
「……そんな」
「花純の記憶に普通の俺で残りたいんだ。意識のない俺の姿は残したくないんだ。だから……もう会えない」
疲弊しきった顔で苦しそうに喋る彼を見て、嫌だとすがれるはずがなかった。
心は拒否している。これで終わりなんて、受け入れられるはずがない。目の前の弱り切っている彼に、独りよがりな気持ちを伝えることも出来なかった。
言葉の代わりに零れ落ちる涙が私の気持ちを代弁してくれる。
いやだ。本当はいやだ。
その言葉を声には出せない。心の中で叫び続ける。
「花純、泣くなよ……泣かせたくなかったのに……」
これは私が勝手に泣いているだけだ。
意識とは関係なく、零れ落ちてしまうんだ。
「花純と最初にあったころ、呪いを知ったうえでキスして。って言っただろ?」
「う、うん」
「あれ、本気だったんだ。あの頃の俺は生きることを諦めていた。今死んでもいいそう思ってたんだ。あの時無理やりキスしとけばよかったって後悔してるよ」
「な、なんで……」
「あの時は、死ぬのなんて怖くなかったのに。今は……怖い。花純と出会って、もっと生きたいと思うようになっちまった……」
「うん」
「笑えるよな。死にたがりの俺は、今は誰よりも生きたいと願っているなんて……どうしようもなく、死にたくないんだ……」
綱くんの瞳から涙が零れた。彼の涙を見るのは初めてだった。
「俺、死にたくないって思ったときに気づいたんだ。花純を好きになっていたことに……」
好きという二文字が私に向けられているモノだと頭が認識できない。
だって、私は嫌われ者の鬼の子。
「こっち来るな」「消えろ」「迷惑だ」今まで言われ続けた言葉が、頭の中でこだまする。
綱くんが告げた「好き」は私に向けられてるものなのだろうか。過去のトラウマが思考回路を邪魔する。
「ずっと言えなくてごめん。好きだったんだ、ずっと。でも、俺はどうせ死ぬ。こんな俺が誰かを好きになる権利なんてないから……言えなかった」
「……」
「だから、花純から好きと言われた時も、ごめんとしか言えなかった」
そしてまた、瞳から一粒の涙が零れ落ちる。その表情に信じがたい言葉が真実なのだと教えてくれた。
ずっと聞きたかった言葉は、嬉しいはずなのに、涙が止めどなく出てくる。
好きな人に「好きだよ」と言われたら、その先は幸せしか待ってないはずなのに。
なぜ、私たちはお互いにこんなに哀しい表情を浮かべているのだろう。
そして、私も思っていた。鬼の子の私は誰かを好きになる権利なんてない――と。
まさか、同じことを思っていたなんて……。
泣きながらも思わず笑ってしまう。
「なんで、泣きながら笑ってんだよ」
「同じこと思ってたから。私も誰かを好きになる権利なんてない、って」
「俺達は、同じ気持ちで、同じ事考えてたのか……。俺達にも人を好きになる権利あんのかな?」
答えを教えて欲しくて問いを投げかけたけど、私たちには正解が分からなかった。
「俺は初めて会った時から、惹かれてたのかもしれない」
「嘘だ。私、鬼の子なのに……」
「出た。花純はすぐ『鬼の子なのに』『鬼の子だから』って悲観的になるよな」
「だって……」
「じゃあ、俺は『鬼の子だから惹かれた』これで、もう『鬼の子なのに』って悲観的になるのやめろよ?」
綱くんはどうして私の欲しい言葉が分かるのだろう。
鬼の子だからと、虐げられる人生だった私には彼の言葉はたまらなく嬉しい。
綱くんの言葉は心のど真ん中に突き刺さる。
「――好き。私、綱くんが好き」
いつも自分の気持ちなんて消していた。言葉にしたところで私の気持ちなんて誰も聞いてはくれないからだ。
今はどうしても伝えたい。どうしたら伝わるのだろう。この気持ち。
胸の中を全部見せたい。この偽りのない好きを伝えたい。
「恋をする権利があるのか分からないけど、俺たちは両思いだったのか」
なんだか恥ずかしくて返事が出来なかった私に、優しい声で囁いた。彼の声に自然と体が引き寄せられる。ギシッと、ベッドの軋む音と共に、彼の胸に顔を埋める。埋めた胸元は痩せ細って骨骨しかった。彼の心臓の音が耳に届く。その音は心地よくて、ずっと聞いていたい。
「あったかい」
人に抱きしめられると、こんなにあたたかいのか。人肌の温もりが荒れた心も満たしてくれる。
「花純は、小さいな」
「もう少しだけ、こうしていたい」
「看護師か、母ちゃんに見られるかもよ」
「……見られてもいいや」
誰に見られてもいい。この温もりを離したくなかった。好きな人に抱きしめられることが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。
片思いで充分って思ってたけど、こんな幸福を知ってしまったら、欲が暴れ出してしまいそう。
抱きしめる腕の力が弱まったと思った、次の瞬間には、目の前に綱くんの綺麗な顔があった。鼻と鼻が触れそうな、唇は触れない距離。
少し動けば肌が触れてしまうギリギリの距離で、私の耳にそっと触れる。
耳に触れた右手で、耳に掛けられていたマスク紐が外された。口元を覆っていたマスクが口元から落ちていく。ここでようやく気付く。
――綱くんが私にキスをしようとしていることに。
慌てて剥き出しになった口元を慌てて両手で覆う。
「ちょ……と、待って」
動揺しながらも、急いで外されたマスク紐を両耳にかけて口元を覆う。
「びっくり、した。マスクは外しちゃダメだよ」
「キスしようとした……だけなんだけど?」
綱くんの瞳が儚げに揺れる。その瞳に思わず吸い込まれそうになる。
私にキスをするという意味をお互いに理解している。